夕暮れの中世風の街角。木の屋台の奥で、赤茶色の髪をまとめた前掛け姿の女性が、火にかけた鍋からおたまでスープを器によそっている。屋台の板には黒パンの籠と野菜、手前にランプ。背後に石造りの家並みと行き交う人影。
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追放された毒見料理人、辺境で屋台を始めたら国が動いた件 第四話 塩

雪の前に、塩の値が三倍に跳ねた。南の湖から荷車が来ない、と街でただ一軒の塩屋は言う。隣の棚には、元の値のままの真っ白な塩。屋台の塩壺が空になり、リゼは干し肉を拭った塩を煎って汁をつなぐ。二日目、籠の女が割れた手を見せに来た。白い塩で漬けた蕪は、舌の先で苦かった。にがりの苦さではない。ダンと二人で、市場の真ん中に皿を二枚並べる。

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 屋台の塩壺が、空になった。

 リゼは、壺を逆さにして、底を指で叩いた。灰色の粒が三つ、板の上に落ちた。それで終わりだった。

「樽からは、もう出せないよ」

 マーサが、帳場の窓から言った。

「分かっています」

「干し肉で三分の一使った。残りは冬の汁の分だ。あれで春まで持つかどうかだね」

「はい」

「屋台の分は、屋台で買いな」

 いつからか、そういうことになっていた。場所代は皿で払う。材料は、屋台の銅貨で買う。宿の樽に手を突っ込んでいいのは、宿の飯を作るときだけだ。

 王宮から持ってきた塩の小袋は、とうに空だった。

 ピートが街を出て、五日が経っていた。

 物置の干し肉は、陰干しを終えて、横木から下ろしてある。二十六本。宿の冬の汁の出汁になる。一本で四人ぶん。

 朝の空気は、また一段冷えていた。

    *

 市場の塩屋は、一軒しかない。

 コンラートの店だ。間口は狭いが、奥が深い。棚に麻袋が並び、袋の口が折り返してあって、中の塩が見えるようになっている。

 灰色の塩の袋の前に、木の札が立っていた。

 札には、絵が描いてある。この街の看板と同じで、字の読めない客のための絵だ。袋の絵が一つ、その横に、銅貨の絵が十八。

「……十八枚」

 リゼは、札の絵を数えた。

「先月は六枚だったよ」

 横にいた女が言った。籠を提げている。屋台に毎日来る、あの籠の女だった。

「三倍です」

「湖の荷車が来ないんだとさ」

 女は、顎で店の奥を指した。

「毎年、雪の十日前には来るのに。今年は冷えが早くて、峠で止まってるって」

 奥から、男が出てきた。

 背は低く、腹が出ている。前掛けは白い。指が太く、爪の間まで白い。塩を毎日触っている手だ。

「湖の塩はね、もう、この袋で最後なんですよ」

 コンラートは、困ったような顔で言った。困った顔が、よく似合う顔だった。

「来るか来ないか分からない荷を待って、冬に塩が無いって言われるのは、こっちですからね。値を上げて、長く持たせる。そういうことです」

「では、あちらは」

 リゼは、隣の棚を指した。

 白い塩の袋が並んでいた。

 真っ白だった。粒が細かく、さらさらしている。灰色の湖の塩とは、見た目からして違う。王宮の厨房で使っていた塩に、少し似ていた。

 札には、銅貨の絵が六つ。

「ああ、そっちは西の塩です」

 コンラートは、にこやかに言った。

「湖の荷が来ないんで、よそから回してもらいました。王都のほうで使われてる塩ですよ。きれいでしょう。値は、前の湖の塩と同じにしてあります。困ってる人から、取れませんからね」

「西の、どこの」

「さあ、そこまでは。袋で買ったんで」

 籠の女が、白い塩の袋を一つ取った。銅貨を六枚、台に置いた。

「……それ、いつから買っていますか」

 リゼが訊くと、女は振り返った。

「十日くらい前から。蕪を漬けるのに、いるからね。きれいな塩だよ」

 女は、袋を籠に入れて、行ってしまった。

 リゼは、白い塩の袋に手を伸ばした。指先に、ひとつまみ。

「売り物を舐めるなら、買ってからにしてください」

 コンラートが、にこやかなまま言った。

「うちは、味見はさせない決まりでしてね。塩は塩ですから」

 リゼは、指を戻した。

 六枚。屋台の半日の売上だ。怪しいと思うだけで払う額ではない。そして、灰色の湖の塩を十八枚で買う気にも、なれなかった。十八枚で一度買えば、次も十八枚になる。

 どちらも、買わなかった。

 理由は、まだ無かった。ただ、同じ店で、同じ時期に、灰色の塩が三倍になり、白い塩が元の値で並んでいる。それが、何かの形に見えた。

 粉の袋の数だけが合っていた製粉所と、同じ形に。

    *

 塩が無くても、汁は作らなければならない。

 リゼは、物置の隅から、蓋をした壺を一つ出してきた。

「それ、なんだい」

 マーサが覗き込んだ。

「干し肉を吊るす前に、肉から拭った塩です」

「捨てなかったのかい」

「捨てません。肉の汁を吸っています」

 壺の中の塩は、灰色が少し茶色くなって、固まっていた。においは、脂と、血と、塩。その奥に、かすかに酸いもの。傷みの手前のにおいだ。

「そのままじゃ、使えないだろ」

「煎ります」

 リゼは、鉄の平鍋を火にかけた。鍋が温まったところに、固まった塩を砕いて入れる。木べらで、焦がさないように、ずっと動かす。

 しばらくすると、塩から湯気が立った。肉の汁が抜けていく。においが変わる。生の脂のにおいが消えて、焼いた脂の、香ばしいにおいになる。

 さらに煎る。

 湯気が立たなくなった。塩の粒が、さらさらと鍋の上を転がるようになった。色は、薄い茶色のまま残った。酸いにおいは、消えていた。

 リゼは、ひとつまみ取って、舌に乗せた。

 しょっぱい。そのあとに、焼いた肉の味。にがりの苦みは、舌の奥にいる。いつもの場所だ。

「……いけます」

 マーサも、ひとつまみ取った。

「肉の味がする塩だね」

「汁に入れると、出汁が一つ増えます」

 鍋の底から掻き出して、屋台の塩壺に入れた。壺の半分にもならなかった。

「これで、何日」

「三日です」

 マーサは、壺を見て、それから市場のほうを見た。

「三日のうちに、湖の荷が来るといいけどね」

 リゼは、答えなかった。

 その夕方、煎り塩で汁を作った。骨と豆。煎り塩を、ひとつまみ。いつもより、ほんの少し控えた。焼いた脂の香りがあるぶん、塩が少なくても、舌は足りないと言わない。

 最初の客は、荷馬車の男だった。この街で生まれて三十年の、あの男だ。

 一口飲んで、首をかしげた。

「今日の汁、肉の味がするな」

「塩が、肉の味です」

「塩が?」

「肉を漬けた塩を、煎りました」

 男は、分かったような分からないような顔で、もう一口飲んだ。

「……高くなったって聞いたぞ、塩」

「はい。だから、使い回しです」

「使い回しで、これか」

 男は、椀を空けて、銅貨を置いた。

 籠の女も来た。椀を受け取って、鼻を近づけた。

「いいにおいだね。うちも今夜は汁にするよ。白い塩で」

 リゼは、何か言いかけて、やめた。まだ、言うことが無かった。

 十三杯、出た。

    *

 二日目の夕方、籠の女が来た。

 いつもの時間より早かった。籠は提げていなかった。

 女は、樽の前に立って、両手を板の上に出した。

「これ、見てくれるかい」

 手の甲が、赤かった。指の間が割れて、ところどころ皮が剥けている。爪の付け根が白く粉を吹いていた。

「蕪を漬けたんだよ。昨日の晩。白い塩で。手で揉み込んで」

「痛みますか」

「ひりひりする。水に触ると、しみる。塩でこうなったことなんか、ないんだよ。四十年、蕪を漬けてるけどね」

 リゼは、女の指先に、顔を近づけた。

 嗅ぐ。

 塩のにおいはしない。代わりに、乾いたにおい。壁の漆喰を削ったときのような、粉っぽい、喉の奥に引っかかるにおい。

「漬けた蕪は」

「持ってきた」

 女は、前掛けの隠しから、布に包んだものを出した。蕪を薄く切ったものが、三切れ。

 リゼは、一切れを取って、端を噛んだ。

 しょっぱい。

 その次に来るはずの、蕪の甘みが来ない。代わりに、舌の先が、きゅっと縮んだ。

 苦い。

 にがりの苦みではない。にがりは、舌の奥に、あとから来る。これは、舌の先に、最初から張りつく。張りついたところが、乾く。水気を持っていかれるような、渋い、えぐい苦み。

 リゼは、噛んだものを、布の上に吐き出した。

「――食べないでください。残りも」

 女が、目を丸くした。

「毒かい」

「毒ではないです」

 リゼは、口の中を水で漱いだ。舌の先に、まだざらついたものが残っていた。

「石灰です。たぶん」

「石灰って、壁の」

「壁に塗るものを焼いて、粉にしたもの。水に触ると熱くなって、肌を荒らします。手が荒れたのは、それです」

 女は、自分の手を見た。

「……塩に、壁が混ざってたってのかい」

「混ぜた人がいます」

 リゼは、そう言ってから、自分の言葉に気づいた。

 毒は、入れた人がいる。腐りは、誰も入れていない。

 この前、ダンに、そう言った。

    *

 もう一つ、あった。

 石灰の乾いた苦みが舌から引いていくとき、そのあとに、ごく薄く、別のものが残った。

 苦い。けれど、石灰とも、にがりとも、場所が違う。舌の真ん中あたりに、針の先ほどの点で、一瞬だけ触れて、消えた。

 リゼは、もう一度漱いでから、蕪をもう一切れ、舌の先で舐めた。

 石灰の苦み。乾き。えぐみ。

 その向こうに、針の先ほどのもの。

 分けようとした。石灰を外して、塩を外して、蕪を外して。それでも残るものがあったら、それが――。

 分けられなかった。石灰が強すぎる。強い味の下に、弱い味は隠れる。物置の煙のときに、マーサに言ったことだった。

 リゼは、布を畳んだ。

 今は、分けられない。分けられないものを、分かったとは言わない。

    *

 その夜、ダンが来た。

 ダンは、夜も見回る。屋台が畳んであっても、宿の厨房の灯りが点いていれば、戸を叩く。

「塩が高い」

 入ってくるなり、ダンは言った。

「隊の飯番が、白い塩を買ってきた。安かったと」

 リゼは、鍋をかき回す手を止めた。

「隊の飯に、使いましたか」

「今夜からだ」

「止めてください」

 ダンは、リゼを見た。

 訊き返さなかった。

 ダンは、踵を返して、戸の外に出た。外で、誰かに短く何か言った。走っていく足音がした。

 戻ってきて、樽の横に腰を下ろした。

「理由は」

 リゼは、籠の女の手のことを話した。蕪の味のことを話した。石灰のことを話した。

 舌の真ん中に残った、もう一つの苦みのことは、話さなかった。分けられないものは、言わない。

 ダンは、黙って聞いていた。

 聞き終えてから、言った。

「証拠が要る」

「舌では、駄目ですか」

「俺は信じる」

 表情は変わらなかった。

「市場は、信じない。混ぜ物は、取り上げていい。決まりだ。ただし、誰が見ても分かる形で」

「皿の底です」

「粉のときと同じか」

「同じです。塩は水に溶けます。石灰は、溶けきりません。溶け残りが、濁って、沈みます」

 ダンは、頷いた。

「粉のときは、取り上げませんでしたね」

「粉は、領主の館の納め物だ。市場の品じゃない。塩は、市場の棚にある」

 それから、少し間を置いて、言った。

「もう一つ」

「はい」

「湖の荷車は、来ている」

 リゼは、顔を上げた。

 ダンは、上着の内から、折った紙を一枚出した。

「南の門の番所で、番兵に写させた。通る荷は全部、番所の帳面に付く。税を取るからな。十二日前だ」

 紙には、番兵の汚い字で、一行だけ写してあった。

 南の湖。塩。樽、八つ。宛て、コンラート。

「……来ていたんですね」

「来ている。峠で止まってなどいない」

 八樽。

 この街の冬に足りるのかどうかは、リゼには分からない。ただ、峠で止まっている塩ではない。蔵で寝ている塩だ。

「値を上げたのは、塩が無いからではない」

「雪の前に、高く売るためです」

「それは、決まりには無い」

 ダンは、紙を畳んだ。

「値は、売る者が決める。高いだけなら、罪ではない。取り上げられるのは、混ぜ物だけだ」

 リゼは、鍋の中を見た。

 骨と豆の汁が、静かに煮えている。塩壺の煎り塩は、明日で尽きる。

「それで、いいです」

「いいのか」

「混ぜ物を取り上げれば、安い塩が無くなります。残るのは、十八枚の湖の塩だけです」

「売れた分もある。隊の飯番のように」

「集めてください。使わせないでください」

「集める」

「なおさら、値は下がらんぞ」

「下がります」

 リゼは、木べらを鍋の縁に置いた。

「たぶん。マーサさんに、一つ訊いてからですけど」

    *

 翌朝、市場の真ん中に、樽を二つ置いた。

 樽の上に板を渡し、板の上に、木の皿を二枚並べた。水差しと、匙。

 ダンが、その横に立った。衛兵の上着を着ている。それだけで、人が寄ってきた。

 リゼは、二つの袋を板に置いた。

 一つは、宿の樽から、マーサに頼んでひとつかみだけ分けてもらった、南の湖の灰色の塩。

 もう一つは、コンラートの店で、今朝、銅貨六枚で買った、白い塩。

「何の騒ぎですか」

 コンラートが、店から出てきた。前掛けで手を拭きながら、人を掻き分けてくる。

「商売の邪魔ですよ、隊長さん」

「見ていろ」

 ダンは、それだけ言った。

 リゼは、左の皿に灰色の塩を、右の皿に白い塩を、同じ匙で、一杯ずつ入れた。

 水を注いだ。

 匙で、かき混ぜた。

 人の輪が、少し狭くなった。

「四半刻、待ちます」

 リゼは、それだけ言って、手を膝に置いた。粉のときも、そうした。待つあいだに、人は増える。増えた人が、みんな皿の底を見る。

 左の皿の水は、はじめ少し灰色に濁った。かき混ぜるうちに、濁りが引いていった。底に、小さな黒い粒が、五つ六つ残った。

「湖の塩には、小石が混ざっています」

 リゼは、左の皿を傾けて見せた。

「小石は、指で拾えます。この前、十四粒拾いました」

 右の皿は、白く濁ったまま、引かなかった。

 四半刻のあいだに、濁りが、ゆっくりと下りていった。下りきると、皿の底に、白いものが、薄く、平らに溜まった。

 指で拾える粒ではなかった。

 粉だった。

「塩は、溶けます。溶けないものは、塩ではありません」

 リゼは、それだけ言った。

 人の輪の中で、誰かが、あっ、と言った。

 屋台の最初の日にいた顔が、いくつかあった。パンを水に溶いて、皿の底に白い層が沈むのを見た人たちだ。あのときは、土だった。

「……同じじゃねえか」

 誰かが言った。

「粉のときと、同じじゃねえか」

「同じではありません」

 リゼは、首を振った。

「あのときは、土でした。これは、石灰です。土は、腹に溜まります。石灰は、肌を荒らします。漬物を手で揉んだ人の手が、割れています」

 人の輪の後ろで、籠の女が、両手を前掛けの下に隠した。

「そんなもん、うちは知らない」

 コンラートが、声を上げた。

「西の塩は、袋で買ったんだ。袋の中に何が入ってるかなんて、いちいち見ませんよ。騙されたのは、こっちです」

「そうかもしれない」

 ダンが言った。

 コンラートが、ダンを見た。

「誰から買ったかは、番所で訊く。今日は、棚だ」

 コンラートの目が、一瞬、横に逸れた。

 ダンは、衛兵を二人呼んだ。

「白い塩の袋を、全部、番所へ」

「ちょっと、待ってください。こっちが銅貨を出して仕入れた品ですよ――」

「市場の決まりだ」

 衛兵が、店に入っていった。一袋ずつ、担いで出てくる。リゼは、数えた。九袋。

 ダンは、人の輪に向き直った。

「白い塩を買った者は、番所へ持ってこい。使うな。代金は、コンラートが返す」

 コンラートが、口を開けて、閉じた。

 それから、ダンではなく、リゼを見た。

「……じゃあ、何ですか。この街の人間に、湖の塩を十八枚で買えって言うんですか。湖の荷は、峠で止まってるんですよ。白い塩が無くなったら、困るのは、安いのを買ってた連中ですよ」

 ダンが、上着の内から、折った紙を出した。

「十三日前。南の門。湖の塩、八樽。宛て、コンラート」

 読み上げる声は、いつもの短さだった。

「峠で止まっている、と言ったな」

 人の輪が、ざわめいた。

 コンラートの顔から、困った顔が落ちた。

「隊の冬の塩は、お前からは買わない」

 ダンは、それだけ言って、紙を畳んだ。

 その後ろから、もう一つ、声がした。

「困らないよ」

 マーサだった。

 腕を組んで、立っていた。いつから見ていたのか、リゼにも分からなかった。

「ピートが、雪の前に来る」

 マーサは、コンラートに向かって言った。

「あの行商、塩を持ってるんだよ。この前、宿の前で、自分でそう言ってた。どこの塩か知らないけど、あの男は、売る前に、舐めさせる」

「麓の村の荷車を回すってさ」

 コンラートの顔が、少し変わった。

「二頭の牛亭と、鹿と、酒樽。宿の組合で、冬の塩はピートからまとめて買う。そう決めたところだ」

「……組合で」

「決めたのは、今朝だけどね」

 マーサは、肩をすくめた。

「あんたの蔵には、湖の樽が八つあるんだろ。隊長さんが、いま読んだ。雪が降って、街道が閉まって、宿はよそから塩を買って、隊はあんたから買わなくて、あんたの八樽は、春まで蔵で寝てる」

 マーサは、指を三本立てた。

「塩と、薪と、肉。雪の前に売れなかったものは、春に値が落ちる。春には街道が開いて、湖の荷がまた来るからね。そのとき、あんたの八樽は、六枚でも売れないよ」

 その上、この十日で売った白い塩の代金を、一袋ずつ返さなければならない。人の輪の中に、白い塩を買った顔が、いくつもあった。籠の女は、割れた手を、もう前掛けの下に隠していなかった。

 コンラートは、長いこと、黙っていた。

 市場の輪は、崩れなかった。誰も帰らなかった。

 やがて、コンラートは、自分の店の札を見た。袋の絵と、銅貨の絵が十八。

「……八枚」

 コンラートが、低く言った。

「湖の荷車の、峠越えの手間賃が入ってる。八枚」

 マーサは、首を振った。

「手間賃ってのは、峠を越えてきた荷に付くもんだろ。その荷は、とっくに越えてる」

 コンラートは、目を閉じた。

「……六枚」

「それで、買うよ」

 マーサが言った。

 市場の輪が、ほどけていった。ほどけながら、何人かが、コンラートの店の前に並んだ。

    *

「組合なんて、あったんですか」

 帰り道、リゼは訊いた。

「無いよ」

 マーサは、あっさり言った。

「宿は四軒ある。四軒とも、冬の塩で毎年揉める。今朝、鹿と酒樽に、ピートから一緒に買わないかって言いに行った。二軒とも、乗った。鍵のとこは、コンラートの縁続きだから、行ってない。三軒を組合って呼んだだけさ」

「ピートが、麓の村の荷車を回すというのは」

「知らないよ」

 マーサは、前を向いたまま言った。

「あの背負子で、宿三軒の冬の塩が運べるもんかね。麓の荷車が本当に回るかなんて、コンラートには確かめようがないだろ」

「……来なかったら、どうするんですか」

「コンラートの湖の塩を、六枚で買う。どっちに転んでも、六枚だ」

 リゼは、歩きながら、昨夜のことを思い出した。

 マーサさんに、一つ訊いてから。

 訊いたのは、一つだけだった。宿の冬の塩を、よそから買う当てはありますか、と。

 マーサは、答える代わりに、翌朝、二軒を回った。

「……私が舐めて、これは偽物だと言って回ったほうが、早かったかもしれません」

 マーサは、鼻で笑った。

「あんたが舐めて、何になるんだい。あんたの舌は、あんたにしか分からない」

 リゼは、足を止めかけた。

「皿の底は、誰にでも見える。値は、誰にでも数えられる。だから、コンラートは折れたんだ」

 マーサは、振り返らずに歩いていった。

「あんたの舌は、最初の一口だけでいい。そのあとは、皿の底と、銅貨の絵に任せな」

    *

 その夕方の屋台は、湖の塩で汁を作った。

 コンラートの店で、ひと袋、銅貨六枚で買った。屋台の銅貨で払った。決まりだ。

 骨と豆に、干し肉を四本。宿の冬の分から、マーサが出した。一本で四人ぶん。四本で、十六人ぶん。

「今日だけだよ」

「はい」

「市場で、あんたが立ったからね。その分だ」

 干し肉を刻んで鍋に沈めると、硬い帯がゆっくりほどけて、脂が浮いてきた。煙のにおいが、湯気に乗った。

 湖の塩を、ひとつまみ。

 舌に乗せて、確かめる。しょっぱい。そのあと、にがりの苦み。舌の奥。いつもの場所。

 いつもの場所にあるものは、安心できる。

 十六杯、出た。

 籠の女が、最後に来た。手に布を巻いていた。

「蕪は、漬け直すよ。湖の塩で」

「手が治ってからにしてください」

「治るまで待ったら、冬が来ちまう」

 女は、椀を受け取って、一口飲んだ。

 目を閉じた。

「……肉の味がする」

「干し肉です。この前の」

「傷んでた肉かい」

「傷んでいたのを、立て直した肉です」

 女は、目を開けて、椀の中を見た。

「立て直すと、こんな味になるのかい」

「なります」

 リゼは、鍋をかき回した。

「食べてから言って、と言おうと思っていました」

「もう食べたよ」

「はい。だから、言いません」

 女は、笑った。割れた手で椀を抱えて、しばらく笑っていた。

    *

 夜、宿の厨房で、リゼは、布の包みを開いた。

 市場で、皿の底から掬っておいた、白い沈みの残り。もう乾いて、固まっている。

 舐めはしなかった。石灰を、もう一度舌に乗せる理由は無い。

 ただ、鼻を近づけた。

 漆喰の、乾いたにおい。

 その奥に、何も無い。においでは、分からない。

 あれは、舌の真ん中にいた。石灰の苦みが引いていく、そのあとに、針の先ほど、一瞬。

 王宮の厨房で、毒見の皿で、何百と舌に乗せてきた苦みの、どれとも重ならない。

 重ならないものは、覚えておく。分けられないものを、分かったとは言わない。

 リゼは、包みを畳んで、紐で縛った。縛った包みを、樽の下の壺の横に置いた。ハンスの分、と書いた壺の隣だ。

 それから、帳面を開いた。マーサの宿の古い帳面の、いちばん後ろの頁。

 書いた。

 昨日までの分は、昨日までに書いてある。煎り塩の汁、十三杯と、十五杯。

 今日の分を書いた。

 白い塩、ひと袋、六枚。皿の底の分。

 湖の塩、ひと袋、六枚。屋台の銅貨から。

 干し肉、四本。宿から。残り、二十二本。

 屋台、十六杯。十六枚。

 白い塩。石灰。番所に、九袋。

 そこまで書いて、手を止めた。

 少し考えてから、その下に、もう一行、書いた。

 苦み、もう一つ。舌の真ん中。まだ、分けられない。