西洋風の屋敷の一室、春の朝。栗色の髪を結い、白い襟の付いた濃紺のドレスを着た若い女性が、木の机に向かって羽ペンを持ち、広げた大きな紙に箇条書きのような行を書き込んでいる。机にはインク壺、紅茶の器、積まれた本。左に暖炉、右の開いた窓から藤の花と庭、遠くに塔が見える。
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転生したら滅びる家の三女でした ~十年後の処刑を回避します~ 第二話 馬を替える

夏の初め、老騎士バーレが黒馬グラウに鳥の音を教え始める。だが最初の一度で、馬は慣れるより先に、怖さを覚えてしまった。秋まで三か月。セラは兄に本当のことを言わずに、馬を替えさせる方法を探す。使ったのは、嘘ではなく、賭けだった。同じころ、姉のもとに王都から一通の手紙が届く。母は、その手紙を、姉より先に読んでいた。

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一年目 秋 兄、落馬。〇 十年目 夏 一族、処刑。

 書庫は、北向きだった。

 北の辺境の屋敷で、北向きの部屋は、いちばん寒い。冬は誰も入らない。だから本が傷まない、と次兄ルーカスは言う。本のために人が寒がる部屋だ。

 わたしは、その部屋で、二か月、正史を読んでいた。

 十二巻ある。一巻目は建国。十二巻目は、いまの王の即位まで。わたしが前世で読んだのは、この続きだ。十三巻か、十四巻か。この家が滅んだあとに書かれた巻。

 その巻は、まだ、無い。

 書かれていないものを校正することはできない。だから、書かれているほうを読んだ。どういう出来事が見出しになるのか。どういう出来事が、見出しにならないのか。

 二か月で分かったことが一つある。

 正史は、結果しか書かない。

 王が死んだ、と書く。なぜ死んだかは書かない。家が滅んだ、と書く。誰が滅ぼしたかは、次の見出しに勝った側の名で書く。

 わたしの日程表は、この正史の続きから作った。

 だから、わたしの日程表にも、原因は書いていない。

「まだ読んでるのか」

 ルーカスが、扉のところに立っていた。

「まだ読んでいます」

「四巻目から進んでないだろう。三日前もそこだった」

「同じところを、三度、読んでいます」

「なぜ」

「見出しの付け方が、途中で変わるので」

 ルーカスは、少しの間、黙った。

 それから、部屋に入ってきて、わたしの向かいに座った。

「……四巻目の、どこだ」

「北辺の平定、の章です。ここから、見出しに人の名前が出なくなります。それまでは『誰それが何をした』だったのが、『何が起きた』になる」

 ルーカスは、わたしの手元の頁を、逆さまから読んだ。

「編纂した者が替わった。四巻目の途中で。前の男は、王家の縁者だ。後の男は、そうじゃない」

「詳しいですね」

「本しか読んでいないからな」

 ルーカスは立ち上がって、扉のところで、振り返らずに言った。

「熱は、まだ残ってるのか」

「残っています」

「そうか」

 それだけ言って、出ていった。

    *

 夏の初めに、バーレが始めた。

 厩の裏の、囲いの中だ。グラウを引き出して、囲いの真ん中に立たせる。バーレが、籠を持って、十歩離れたところに立つ。

 籠の中は、鳩だった。二羽。

 わたしは、囲いの外の柵に、両手をかけて見ていた。

「よろしゅうございますか」

「お願いします」

 バーレは、籠の蓋を開けた。

 鳩が二羽、ばたばたと飛び立った。

 グラウが、跳ねた。

 跳ねて、後ろ脚で立って、前脚を空に蹴った。手綱を持っていた厩番が、引きずられて転んだ。グラウはそのまま囲いの端まで走って、柵に肩をぶつけて、止まった。

 止まってから、震えていた。

 バーレが、ゆっくり近づいて、首を撫でた。撫でながら、わたしのほうを見た。

 何も言わなかった。

 わたしも、言わなかった。

 四日後に、もう一度やった。

 こんどは、二十歩離れて、鳩は一羽。

 グラウは、籠の蓋が開く前に、跳ねた。

 バーレが籠に手をかけた瞬間だった。鳩はまだ飛んでいない。籠の音だけで、跳ねた。

 わたしは、柵を握った。木が鳴った。

 バーレが、厩番に手綱を渡して、こちらへ歩いてきた。

「セラさま」

「はい」

「この馬は、慣れるより先に、覚えます」

「……覚える」

「一度目に怖かったことを、忘れません。二度目は、一度目より早く怖がる。三度目は、もっと早い。慣らすつもりが、教えてしまいました。怖い、ということを」

 バーレは、囲いの中の黒い馬を見た。

「賢い馬でございます。賢い馬は、こうなります」

「秋までに、間に合いますか」

「三か月ございます。……正直に申し上げれば、五分と五分」

 五分と五分。

 わたしは、懐の紙を、布の上から押さえた。

 一年目、秋、兄、落馬。丸印。

 丸は、あやしい、という印だ。落馬は起きないかもしれない。だが、起きるかもしれない。五分と五分の馬で、五分と五分の秋に、兄が湿地へ入る。

 校正者は、五分と五分の箇所を、そのまま通さない。

 確かめるか、直すか。どちらかをする。

「バーレ」

「はい」

「兄上に、秋の狩りで、別の馬に乗っていただくことはできますか」

 バーレは、首を横に振った。

「若さまは、グラウ以外にお乗りになりません。生まれたときから、ご自分で育てられた馬でございます」

「理由を言えば」

「夢の話は、なりません。前に申し上げたとおりで」

「では、どうすれば」

 バーレは、腕を組んだ。老騎士の顔に、四十年ぶんの皺が寄った。

「……若さまは、負けるのがお嫌いでございます」

    *

 夕食のあと、わたしは兄の部屋を訪ねた。

 長兄の部屋は、屋敷でいちばん散らかっている。

 部屋には、鞍が三つ置いてあった。壁には弓。机の上には、地図。北の湿地の地図だ。

「セラか。珍しいな」

「兄上、お話があります」

「座れ。……なんだ、まさか縁談か」

「違います」

「そうだろうな」

 ギルベルトは、笑った。悪気のない笑いだ。嫁ぎ遅れという言葉を、悪口だと思っていない。

 わたしは、鞍の一つに腰を下ろした。

「兄上。賭けをしませんか」

「賭け?」

「秋の狩りで」

 ギルベルトの目が、光った。

 この人は、こういう目をする。前世のわたしの職場に、似た人がいた。締切の前になると、目が光る営業がいた。あの人も、人を信じすぎた。

「聞こう」

「秋の狩りで、兄上は、バーレの選んだ馬にお乗りください。グラウではなく」

「なぜ」

「賭けだからです」

「……続けろ」

「それで、去年より獲物が減ったら、わたしの負けです。一年間、兄上の書き物を、全部わたしが引き受けます。手紙も、帳面も、領民への布告も」

 ギルベルトの顔が、真剣になった。

 兄は、書き物が嫌いだ。武門の跡取りで、剣と弓は誰にも負けないが、手紙を一通書くのに三日かかる。

「……減らなかったら」

「わたしの勝ちです。兄上は、来年の秋まで、狩りのたびにバーレの選んだ馬に乗ります」

「なんだそれは。俺に何の得がある」

「兄上に得はありません」

 わたしは、そう言った。

「でも、兄上は、負けるのがお嫌いです」

 ギルベルトは、口を開けて、閉じた。

 それから、机の地図を見て、壁の弓を見て、最後にわたしを見た。

「……お前、熱が残ってるんじゃないのか」

「残っています」

「変わったな」

「二十二になりました」

 ギルベルトは、大きく息を吐いた。

「グラウでなくて、獲物が減らないわけがない。あれは湿地を知ってる。去年、初めてあそこで走らせた。一度で道を覚えた」

「では、兄上の勝ちです。わたしは一年、書き物をします」

「……」

「兄上」

「なんだ」

「バーレが選ぶ馬は、たぶん、ロートです」

 ロート。十二歳の鹿毛。父が、腰を痛めるまで乗っていた馬で、いまは厩のいちばん手前にいる。鳥にも、雷にも、鍛冶場の音にも、動じない。動じない代わりに、遅い。

「ロートか」ギルベルトは、笑った。「あれで湿地に入るのか。獲物が逃げるぞ」

「逃げたら、わたしの負けです」

「……いいだろう」

 ギルベルトは、手を出した。

 わたしは、その手を握った。大きくて、硬くて、乾いていた。

「賭けだ。負けたら、一年、俺の代わりに手紙を書け」

「はい」

「お前が勝ったら、来年の秋まで、バーレの馬に乗ってやる」

「はい」

 握った手を離してから、ギルベルトは言った。

「セラ」

「はい」

「お前、何か隠してるだろう」

 わたしの背中が、冷えた。

「……何をですか」

「分からん。だが、お前は昔から、隠しごとが下手だ」

 ギルベルトは、地図を丸めながら、笑った。

「まあいい。賭けは賭けだ。隠しごとがあっても、賭けは賭けだ」

    *

 兄の部屋を出て、わたしは厩へ向かった。

 中庭を横切るだけで、息が切れた。二十二年、この屋敷で走ったことがほとんど無い。前世でも、走るのは終電のときだけだった。

 厩の灯りは、まだついていた。

 バーレは、グラウの馬房の前にいた。黒い馬は、老騎士の手のひらに鼻をつけて、じっとしていた。昼間とは別の馬のようだった。

「バーレ」

「セラさま。こんな刻限に、また」

「秋の狩りで、兄上が乗る馬を、あなたが選んでください」

 バーレの手が、止まった。

「……若さまが、承知なさったのですか」

「承知しました。賭けです。兄上は、負けるのがお嫌いなので」

 バーレは、しばらく黙っていた。それから、厩のいちばん手前の馬房を、顎で指した。

「ロートでございましょうな」

「はい」

「セラさま」

「はい」

「若さまに、嘘は」

「言っていません」

 わたしは、そう答えた。

 嘘は下手だ。兄にも見抜かれた。だから、兄には嘘をつかなかった。賭けは本当だ。負けたら、一年、書き物を引き受ける。全部、本当のことしか言っていない。

 言っていないことがあるだけだ。

 バーレは、それ以上訊かなかった。

「グラウは、続けます」老騎士は言った。「五分と五分のまま。ロートは、その保険でございます」

「お願いします」

 屋敷へ戻る渡り廊下で、母の部屋に灯りがついていた。

 扉が少し開いている。母は、机に向かって、帳面をつけていた。この家の帳面は、全部、母がつける。父は数字を見ない。

「セラ」

 顔を上げずに、母が言った。

「はい」

「ギルベルトと、賭けをしたそうね」

 わたしは、廊下に立ったまま、答えた。

「もう、ご存じですか」

「あの子は声が大きいのよ。さっき、ここまで来て自慢していきました。妹が変わった、俺に賭けを挑んできた、と。……嬉しそうでしたよ」

 母は、ペンを置いた。

「ロートは、あなたのお父様が、一度も落ちなかった馬です」

 それだけ言って、また帳面に戻った。

 止めるとも、続けろとも言わなかった。

 母は、決断が早い。早い人は、決めたことを、言わない。

 わたしは、頭を下げて、廊下を歩いた。歩きながら、思った。母は、いつから、この家の帳面をつけているのだろう。

    *

 部屋に戻って、わたしは日程表を開いた。

 一年目 秋 兄、落馬。〇

 その脇に、細かい字で書き足す。

 ――グラウ、鳥の音に慣れず。五分と五分(バーレ)。  ――秋の狩り、ロートに替える。賭け。兄、承知。

 書いてから、丸印を見た。

 まだ消さない。

 馬を替えても、落馬は起きるかもしれない。史書は結果しか書かない。「兄、落馬」の四文字の裏に、何があったかは、書いていない。馬が違えば起きないのか、馬が違っても起きるのか、分からない。

 分からないものには、丸をつけたままにする。

 それが、校正の決まりだ。

 扉が、叩かれた。

「セラ、起きてる?」

 姉だった。

 イーリスは、部屋に入ってくると、寝台の端に座った。今夜は、少し、顔が赤かった。

「どうしました」

「手紙が、来たの」

 イーリスは、封の開いた手紙を、膝の上に置いた。

「王都の、お友達から。……あのね、王都のさる家が、わたしのことを、訊いてきたんですって」

 わたしは、机の上の紙を、手のひらで隠した。

「訊いてきた、というのは」

「まだ、正式ではないの。お友達が、たまたま、その家の奥様とお茶をしたら、アーデンハイトの長女はどんな方かって。それだけ」

「それだけ」

「それだけよ。でも」

 イーリスは、手紙を、指で撫でた。

「お母様が、先に読んだの。わたしが開ける前に」

 この家では、手紙は母の机を通る。宛名が誰であっても。十四年、そうだった。

「お母様は、何と」

「何も。読んで、開いたまま渡して、それだけ。お母様、なんにも言わないの。いつもそう」

 わたしは、答えなかった。

 三年目、姉、王都の家へ嫁ぐ。

 日程表では、三年目だ。丸はついていない。この行は、覚えている。見出しにあったのは、この家の名と、姉の名だけ。嫁ぎ先の名は、無かった。あったのかもしれないが、覚えていない。

 いまは、一年目の夏だ。

「セラ?」

「……姉上」

「なあに」

「その家の名前は、書いてありますか」

 イーリスは、首を横に振った。

「書いてないの。お友達も、奥様から聞いただけで。北の家に興味があるんですって、って」

 北の家に、興味がある。

 わたしは、その言葉を、頭の中で二度読んだ。

「姉上」

「なあに」

「王都へ、行きたいですか」

 イーリスは、少し考えて、それから、正直に頷いた。

「行きたい。……ここは、冬が長いから」

 だから、言わない。

「姉上、その手紙、しばらく預かってもいいですか」

「え? いいけど……どうして」

「書き取りの練習に」

 イーリスは、笑った。

「セラ、最近、変よ」

「二十二になりました」

「それ、お兄様にも言ったでしょう」

「言いました」

 姉が出ていってから、わたしは手紙を、灯りに近づけた。

 王都の紙だ。北の紙より白くて、薄い。インクは黒。字は、女性のもの。封蝋は、友人の家の印。

 どこにも、おかしいところはない。

 おかしくないことが、少し、おかしかった。

 わたしは、日程表の三年目の行の脇に、書き足した。

 ――一年目 夏 姉に王都から手紙。「さる家」が興味。家の名、無し。△

 丸はつけなかった。

 訊いてきただけだ。話ではない。縁組は、二年かけて進むものもある。三年目は、三年目だ。

 それでも、何もつけずに置くことはできなかった。だから、三角をつけた。覚え違いの印ではないから、別の印にする。見たこと、の印だ。

 わたしは、紙を、最初から読み直した。

 九行と、書き足しが五つ。

 二か月で、この表は、少しだけ、わたしのものになってきた。

 史書の見出しではなく、わたしが見たことが、書き込まれ始めている。

「もう一度、読みます」

 口に出して、読んだ。

 窓の外で、夏の夜の虫が鳴いていた。北の夏は短い。秋まで、三か月。

 厩のほうで、馬が一頭、鼻を鳴らす音がした。

 グラウか、ロートか、暗くて分からなかった。