朝日の昇る丘の上。茶髪で麻の作業着に革帯を締めた若い男性が、木と真鍮の三脚に据えた測量器のそばに立ち、眼下を見ている。足元の草地に木の杭が数本と、巻いた縄、広げた地図。丘の下には深く裂けた谷が走り、その向こうに平原と遠い山並み、朝の雲。
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十八の朝に前世を思い出した測量士は、動く大地に百年の線を引く 第二話 地図は嘘をつく

十八の誕生日の翌朝、ノアと師匠オルドは岩壁の裾に三本の杭を打つ。答えが出るのは一年後だ。待てないノアは、前世で毎日使っていた三角で、谷を歩かずに測ろうとする。だが基線の両端から見た向きは、方位盤の同じ目に出た。三角が、描けない。同じ日の午後、岩壁沿いの畑で、境の石をめぐって二人の百姓が言い争う。地図では、境はもっと北のはずだ、と。オルドは、正しい線を引かなかった。

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測量日誌 ノア・ヴェスト エルダ暦三百十二年、麦の月、十四日。十八の夜。 谷の北端、去年の杭から三歩半。鎖は二十三環目が伸びている。 半歩の誤差。理由、未確認。

 日誌は、十八の夜から、つけ始めた。

 見習いは日誌をつけない。日誌は測量士のものだ。だから、オルドの帳面とは別に、自分の紙に、自分のために書く。

 前世では、野帳と呼んでいた。

 書いたことは消さない。間違えたら線を引いて、横に書き直す。線を引いた字も、読めるように残す。なぜ間違えたのかが、あとで分かるように。

 それだけは、六十年、守った。

    *

 翌朝の鎖検めで、オルドは二十三環目を指で押して、言った。

「これは鍛冶に出す。冬までに打ち直させる」

「はい」

「伸びた長さを、帳面に書いておけ。昨日までの数字は、あとで直す。鍛冶から戻るまで、予備の鎖を使う」

 ノアは、日誌に書いた。二十三環目、髪一本ぶん。この鎖で測った数字は、二百四十鎖につき足の指ひとつぶん、少なく出る。

 予備の鎖は、小屋の梁に掛けてある六十環の古い鎖だ。伸びは、去年の冬に測ってある。

 書きながら、昨日のことを思い出した。

「師匠」

「なんだ」

「昨日、伸びた鎖のまま測れとおっしゃったのは、なぜですか」

 オルドは、鎖を巻く手を止めなかった。

「小さく出るところを、見せるつもりだった」

「……はい」

「多く出た」

 オルドは、巻き終えた鎖を肩にかけた。

「鎖より大きい狂いが、よそにあった。俺の見立てが外れた」

 ノアは、何と言えばいいか分からなかった。

 四年、この人が自分の見立てを外れたと言うのを、聞いたことがなかった。

「歩け」

 オルドは、それだけ言った。

    *

 谷の北端に戻って、岩壁の裾に、杭を三本打った。

 一本は、岩に。岩には石の杭が刺さらないので、オルドが鑿で穴を穿ち、鉄の楔を打ち込んだ。先の欠けた二本の指で鑿を支え、左手で槌を振る。楔の頭は、岩の面と同じ高さまで沈んだ。

「浅いと、一年で抜ける」

「はい」

 一本は、土に。石の杭で、頭に今日の日付とオルドの印を刻んだ。

 一本は、その間の、岩が土に崩れかけているところに。これはノアが打った。崩れた岩の隙間に斜めに差し込んで、石で叩いて締めた。

「曲がっている」

「はい」

「直せ」

 直した。二度目も曲がっていた。三度目で、オルドは何も言わなかった。

 少し離れた谷の底に、四本目の杭を打った。これを基準にして、三本それぞれへの距離と向きを、予備の鎖で測る。帳面に書き、ノアの日誌にも書いた。

「一年後に、ここから測る」

 オルドは、鑿を布に包んだ。

「三本の差が出なければ、お前が間違っている」

「はい」

「それまでは、何も分からん」

 ノアは、三本の杭を振り返った。

 一年。

 前世なら、一日で分かった。三脚を立てて、器械を覗いて、数字を読んで、事務所に戻れば答えが出た。

 ここには、器械がない。あるのは鎖と、方位盤と、水準器と、去年の地図だけだ。

 来年でいい、とは、もう言わない。昨夜、そう決めた。

 一年待つのは、来年でいい、とは違う。違うはずだ。

    *

 昼前、村から使いが来て、オルドを寄り合いに呼んでいった。岩壁沿いの畑で、境の石のことでもめている、という話だった。

 ノアは、谷の底に残された。

 予備の鎖と、方位盤と、帳面がある。

 方位盤は、手のひらより少し大きい木の円盤だ。真ん中に細い棒が立っていて、棒の影で北を合わせる。縁の上には、覗き穴のついた小さな棒が二本、向かい合わせに立っていて、これで遠くを狙う。

 縁の刻みは、六十四ある。

 東西南北の間を半分に、また半分に、また半分に、また半分にする。それで六十四。この土地の方位盤は、みなそうだ。

 ノアは、方位盤を手に取って、谷の向こうの岩壁を見た。

 谷の幅は、二百四十鎖。去年の地図に、そう書いてある。オルドとノアが、四年、毎年、鎖で歩いて測ってきた数字だ。

 歩けば、丸一日かかる。

 三角なら、歩かなくていい。

 谷の底に、まっすぐな線を一本引く。長さを鎖で正確に測る。これが基線だ。基線の両端から、向こうの岩壁の同じ一点を狙う。狙った向きを、両端で読む。

 基線の長さと、二つの向き。三つ分かれば、三角形は一つに決まる。決まれば、向こうの岩壁までの距離が出る。

 前世で、数えきれないほどやった。

 ノアは、予備の鎖を伸ばした。

 十鎖。六百歩。これを基線にする。両端に杭を刺した。

 向こうの岩壁に、目印を探した。白い筋の入った岩。鷹が巣をかけていると、村の猟師が言っていた岩だ。遠いが、筋ははっきり見える。

 基線の南の端に立って、方位盤を水平に構え、影で北を合わせてから、覗き穴で白い筋を狙った。

 刻みを読む。

 北から東へ、十六目。

 北の端に移って、同じ岩を狙う。

 十六目。

 ノアは、方位盤を下ろして、もう一度構えた。

 十六目。

 南の端に戻った。十六目。

 同じだった。

 二つの向きが、同じ目に出る。

 同じ向きの線を二本引いても、交わらない。三角形が、描けない。

 ノアは、地面にしゃがんで、帳面の裏に図を描こうとして、手を止めた。

 描くものが、なかった。

 ――道具と、手順と、前提。この順で疑う。

 道具は、方位盤だ。

 六十四の刻み。一目は、円を六十四に分けた一つ。前世の数え方なら、五度と少し。

 十鎖の基線を、二百四十鎖先から見ると、どのくらいの向きの違いになるか。

 ノアは、頭の中で計算した。十を二百四十で割る。小さい。前世の数え方で、二度半に足りない。

 一目の、半分にもならない。

 同じ目に出るのは、当たり前だった。

 しかも、両端を行き来している間に、日は動いている。影で北を合わせるたびに、北が少しずれる。前世の器械は、一度の三千六百分の一まで読めた。この方位盤は、影で北を合わせて、五度と少しまでしか読めない。

 ノアは、しゃがんだまま、方位盤の縁を指でなぞった。六十四の刻みが、指の腹に当たって、一つずつ過ぎていく。

 基線を長くすれば、向きの違いは大きくなる。五十鎖ほど取れば、二目くらいは開くかもしれない。

 だが、それでも、半目読み違えたら、向こうまでの距離は何十鎖も変わる。

 三角が悪いのではない。

 三角を使うには、この方位盤では、目が粗すぎる。

「……五度か」

 前世の知識は、ある。

 知識を使う道具が、ない。

    *

「何をしている」

 声がして、振り返ると、オルドが立っていた。

「寄り合いでは、決まらなかった」オルドは言った。「石の前で決める。……何をしている」

 ノアは、帳面を閉じかけて、やめた。

「谷を、歩かずに測れないかと思って」

「歩かずに」

「基線を引いて、両端から向こうを狙えば、三角ができて、長さが出ます。……出るはずでした」

 ノアは、帳面を見せた。十六目、十六目、十六目。

「両端で、同じ目に出ました。基線が短すぎて、向きの違いが、一目に届きません」

 オルドは、しばらく数字を見ていた。

 それから、帳面をノアに返した。

「歩かずに測った線は、歩いた者に信じてもらえん」

「……はい」

「百姓は、測量士が歩くのを見ている。鎖を伸ばして、杭を刺して、また伸ばすのを、一日かけて見ている。見ているから、その線を信じる。お前が谷の底にしゃがんで、紙に絵を描いて出した線を、誰が信じる」

 ノアは、答えられなかった。

 前世では、誰も測量士が歩くのを見ていなかった。器械が出した数字に、役所が判を押して、それで線になった。

「ついてこい」

 オルドは、背を向けた。

「地図を持ってこい。去年のと、今年の下書きの両方だ」

    *

 岩壁沿いの畑は、谷の東の壁にへばりつくように、南北に細長く並んでいた。

 二枚の畑の間を、境の線が、岩壁の際から谷の底へ、東から西へ走っている。線の両端に、石が一つずつ。膝の高さの、丸い石だ。

 岩壁の際の石の前に、男が二人立っていた。

 一人は、南の畑の持ち主で、ブラムという。六十を越えている。もう一人は、北の畑の持ち主で、ブラムより二十若い。

「オルドさん」

 ブラムが、石を指さした。

「見てくれ。谷の底の石から見て、境がまっすぐ東を向いてない。岩壁の側が、半歩、南に曲がってる。畝と合わん。うちの畑が、岩壁の側だけ細い」

「石は動いてない」若いほうが言った。「去年と同じ、この地面に埋まってる。石が境だ」

「畝は去年、まっすぐ引いた。石に合わせて引いた」

「なら、畝が曲がったんだろう」

「畝が勝手に曲がるか」

 オルドは、何も言わずに、ノアに手を出した。

 ノアは、地図を二枚渡した。

 オルドは、畑の脇の平たい岩の上に、二枚を並べて広げた。去年の地図と、今年の下書きだ。

 今年の下書きは、去年の地図を、谷全体で北へ三歩ずらして描いてある。谷は年に三歩、北へ動く。だから、去年の線を三歩ずらせば、今年の線になる。

 ノアは、二枚を見比べた。

 谷の底の側の石は、下書きの位置と合っている。

 岩壁の際の石だけが、合わない。下書きより、半歩、南にある。

 ――半歩。

 腹の底が、重くなった。

 昨日、自分がオルドに言ったことだ。岩壁の裾は、谷の底より遅く動く。谷の底が三歩動く間に、岩壁の裾は二歩半しか動かないなら、岩壁の際の石は、三歩ずらした線から、半歩遅れる。

 石が間違っているのではない。

 三歩ずらした地図のほうが、岩壁の際では、間違っているのかもしれない。

 答えは、一年後に出る。三本の杭を測れば。

 ノアは、口を開きかけた。

 その腕を、オルドが掴んだ。

 右手だった。先の欠けた二本の指にまで、力がこもっていた。

 オルドは、ノアを見ずに、二人の百姓に言った。

「半歩だな」

「半歩だ」ブラムが言った。

「石は動いてない」若いほうが言った。

 オルドは、岩壁の際の石の前に屈んだ。石を両手で抱えて、持ち上げた。重い石だ。オルドの首に、筋が浮いた。

 石を、北へ、四分の一歩ぶん、動かした。

 下ろした。

「半歩の、半分だ」

 二人の百姓が、黙った。

「今年は、これで線を引く。地図にも、そう書く」

「オルドさん、それは」若いほうが言いかけた。

「税の帳面は、今月締める。一年は待てん」

 オルドは、立ち上がって、膝の土を払った。

「分からんものは、分ける。昔から、そうしている」

 ブラムは、石を見下ろした。

 若いほうも、石を見下ろした。

 しばらくして、若いほうが、先に頷いた。ブラムは、頷かなかったが、何も言わなかった。

 それで、決まった。

    *

 帰り道、ノアは黙っていた。

 オルドも、黙っていた。

 谷の底を、北から南へ歩く。夕方で、村の煙が真っ直ぐ上がっていた。

「師匠」

「なんだ」

「さっきの石は、正しい位置ではありません」

「そうだ」

「地図に、正しくない位置を書くんですか」

「そうだ」

 オルドは、足を止めなかった。

「地図は嘘をつく」

 それだけ言って、歩き続けた。

 ノアは、腰の予備の鎖に触れた。環が、指の腹を一つずつ過ぎていく。

 地図は、書いた瞬間に古くなる。昨夜、師匠がそう言った。

 今日の地図は、書く前から、半歩古かった。

    *

 その夜、ノアは日誌を開いた。

 今日の数字を書く。三本の杭と、四本目からの距離と向き。三角の読み。十六目、十六目、十六目。横に、「基線、短すぎる。向きの違い、一目に届かず。方位盤の目、一目で前世の五度余」と書き足した。

 岩壁の際の石の、四分の一歩。

 これは、何と書けばいいのか分からなかった。

 正しくない位置だ。だが、間違いではない。

 ノアは、少し考えて、こう書いた。

 ――ブラムの畑、岩壁の際の境の石、四分の一歩、北へ。師匠の判断。正しい位置ではない。一年後、三本の杭で確かめる。

 書いてから、筆を置いた。

 眠れなかった。

 数字が合わない日は、眠れない。前世から、そうだった。

 ノアは、小屋の外に出た。

 小屋の脇に、薪割りの台がある。そばに、割り損ねた板が一枚、立てかけてあった。

 ノアは、板を手に取った。

 手のひらを二つ並べたくらいの大きさ。乾いていて、節が少ない。

 六十四の刻みでは、目が粗すぎる。

 では、刻みを増やせばいい。

 六十四を、さらに半分にして、百二十八。もう一度半分にして、二百五十六。そうすれば一目は、いまの四分の一になる。新しい四目で、いまの一目。数字を四で割れば、オルドの帳面とそのまま並べられる。

 円を正確に半分にしていく手順は、前世の事務所の壁に、紙に書いて貼ってあった。新人が来るたびに、誰かが指で叩いて見せた。

 紐と釘で円を描く。弧と弧が交わる点を結んで、角を二つに割る。割った角を、また割る。

 手順は、覚えている。

 刻みが正確でなければ、意味がない。二百五十六の刻みを、一つもずらさずに入れるのに、何日かかるか分からない。

 小屋の扉が開いて、オルドが出てきた。手に、何か持っている。

 小さな、刃の薄い小刀だった。

 オルドは、それを薪割りの台の上に置いた。

 置いて、何も言わずに、小屋へ戻っていった。

 ノアは、小刀を手に取った。

 柄が、すり減っていた。先の欠けた指で握った形に。

 ノアは、板を膝に置いて、月の明かりで、最初の円を描いた。