夕暮れの中世風の街角。木の屋台の奥で、赤茶色の髪をまとめた前掛け姿の女性が、火にかけた鍋からおたまでスープを器によそっている。屋台の板には黒パンの籠と野菜、手前にランプ。背後に石造りの家並みと行き交う人影。
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追放された毒見料理人、辺境で屋台を始めたら国が動いた件 第三話 干し肉

冬支度の季節に、宿が傷んだ肉を掴まされた。マーサは五十二年この街にいて、肉の目利きには自信がある。それでも掴まされた。軽薄な行商人ピートが荷を担いで現れ、仕入れの筋を割ってみせる。リゼは塩と煙で肉を立て直す。そしてピートが、王都で聞いた噂を一つ落としていく。舌の利く女を探している奴がいる、と。

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 朝の空気が、変わった。

 リゼが鍋の前に立って最初に気づいたのは、湯気の立ち方だった。昨日まで、湯気はすぐに散った。今朝は、板の上に少しのあいだ残って、それから流れていく。

 冷えている。

「冬が来るね」

 マーサが、宿の戸口から言った。腰に手を当てて、街道のほうを見ている。

「早いです」

「早いよ。去年より十日は早い」

 マーサは、指を折った。

「街道が閉まるのが、雪の十日あと。そこから春まで、荷が来ない」

「どのくらい」

「四月くらい」

 リゼは、手を止めた。

「四か月、荷が来ないんですか」

「来る年もある。来ない年もある。来ないと思って支度するのが、こっちの決まりだよ」

 マーサは、指を三本立てた。

「塩、薪、肉。この三つを、雪の前に積む。積めなかった宿は、春に潰れる」

 その日の昼過ぎに、肉が来た。

 荷車を引いてきたのは、麓の村の男だった。荷台に、麻布をかぶせた塊がいくつか。

「ちょうど今朝、絞めたやつだ」

 マーサは、荷台に上がって、麻布をめくった。

 豚が三頭ぶん。半身に割ってある。

 マーサは、指で肉を押した。押して、離した。それから、鼻を近づけた。

「悪くないね」

「だろ。去年より安くしとくよ」

「安い理由は」

「今年は豚が多い。どこも絞めてる」

 マーサは、少し考えて、銅貨を数えた。

 リゼは、樽の向こうから見ていた。

 鍋の火を落として、手を拭いて、荷車に近づいた。

「マーサさん」

「なんだい」

 リゼは、荷台の肉に顔を近づけた。

 嗅ぐ。

 脂と、血と、朝の冷えたにおい。それは、いい。

 その下に、もう一つある。

 甘い。

 わずかに甘い。熟れすぎた果実に近い、けれど果実ではない甘さ。

 リゼは、その甘さを、口の中で置き換えた。舌に乗せたわけではない。においを、味に置き換える。試膳官の癖だった。

「この一頭は、今朝じゃないです」

 荷車の男の顔が、止まった。

「なに言ってんだ」

「三頭のうち、この半身だけ、においが違います」

 マーサが、リゼの指した肉に顔を寄せた。

「……あたしには、同じに思えるけどね」

「マーサさんの鼻が悪いんじゃなくて、隠してあるんです」

 リゼは、肉の表面を指した。

「ここ、水で洗ってあります。血が薄い。洗うと、においは落ちます。落ちるのは表面だけです」

「洗って何が悪い」

 男が、荷台から下りた。

「肉は洗うもんだろうが」

「洗います」

 リゼは頷いた。

「ただ、今朝絞めた肉は、洗う必要がありません」

 男が、黙った。

「三日、経ってますね。冷えたところに置いてあったから、まだ持っています。今日中に食べるなら、たぶん大丈夫です。明日は分かりません」

「――ふざけんな」

 男が、声を上げた。

「どこの誰だ、あんた。うちは十年、この宿に肉を入れてるんだぞ」

「十年入れてるなら、なおさら困るんじゃないですか」

 リゼは、淡々と言った。

「明日、宿の客が腹を壊したら、次の年から誰も買いません」

 男は、言い返そうとして、言葉を探した。

 探しているあいだに、マーサが動いた。

 マーサは、荷台に手をかけて、問題の半身を掴み、力任せに引きずり下ろした。地面に落ちた肉が、鈍い音を立てた。

「これは買わない」

「マーサさん――」

「これは置いていきな。そのぶんを引いて、二頭ぶんの銅貨で買う」

 男は、地面の肉を見て、それからマーサを見た。

「……分かった」

「それと、来年から、絞めた日を言いな」

「言ってるだろ」

「今日、言ってないのと同じだろ」

 男は、荷車を引いて、行った。

 肉が、地面に残った。

 マーサは、腰に手を当てて、それを見下ろした。

「五十二年、この街にいるんだけどね」

「はい」

「肉の目利きには、自信があったんだけどね」

「ありますよ」

「あんたに言われる前に気づかなかった」

 リゼは、しゃがんで、肉に手を当てた。

「マーサさんが押したとき、戻りが遅かったです」

「……戻り」

「指で押して、離したとき、へこみが戻る速さ。今朝の肉は速い。これは、遅かった」

 マーサは、自分の指を見た。

「そんなもん、見てなかったよ」

「見ていたと思います。速いか遅いかを言葉にしていなかっただけで」

 マーサは、ふん、と鼻を鳴らした。

 鳴らしてから、言った。

「で、これ、どうすんの。捨てるのは、もったいないね」

「捨てません」

 リゼは、立ち上がった。

「塩と、薪をください」

 肉を吊るす場所を作るのに、午後がまるごとかかった。

 宿の裏の物置を空けて、梁に横木を渡した。横木は、ハンスが製粉所から持ってきた。

「余りだ」

 ハンスは、それだけ言って、置いていった。必要なものが必要な日に届く人だ、とリゼは思った。

「ゲルトさんのところは」

 リゼが訊くと、ハンスは横木を撫でていた手を止めた。

「甥が王都から戻らん。粉は、わしが挽いとる」

 それきり、何も言わなかった。

 リゼは、肉を切った。

 半身を、厚さ指二本ぶんの帯に切り分けていく。包丁は一本しかない。王宮から持ってきた、刃の薄いやつだ。骨を落とすのには向いていないが、肉を薄く長く切るのには向いている。

 切りながら、リゼは、切り口を見た。

 中は、まだ赤い。傷んでいるのは表面に近いところだけだ。表面から指一本ぶんを削ぎ落とすと、下はきれいだった。

 削いだ分を、脇の桶に入れた。

「それ、捨てるのかい」

 マーサが覗き込んだ。

「煮ます。煮て、犬に」

「犬なんかいないよ」

「ダンさんが、たぶん飼ってます」

「飼ってないよ、あの男」

 リゼは、手を止めなかった。

「じゃあ、畑に埋めます」

 塩を出した。

 マーサの宿の塩は、粗い。灰色がかっていて、小石が混じっている。王宮のものとは別物だ。

 リゼは、塩をひとつかみ取って、舌に乗せた。

 しょっぱい。そのあとに、苦い。苦さのあとに、かすかに鉄。

「これ、どこの」

「南の湖だよ。いつもこれ」

「いい塩です」

「いい? 石が入ってるけどね」

「石は取れます。この苦みは取れません。にがりの苦みです。舌の奥に残るほうの苦みなら、肉には合います」

 リゼは、塩を木の板に広げて、指で石を弾き出した。十四粒あった。

 それから、肉の帯を一本ずつ、塩の上で転がした。

 転がして、手のひらで押しつけて、また転がす。塩が肉の表面に貼りつく。貼りついたところから、水が浮いてくる。

「……水が出るね」

「出ます。出た水を、また塩が吸います」

「なんで水を出すんだい」

「水があると、腐ります」

 リゼは、次の一本を取った。

「傷んだのは、水があったからです。水を抜けば、止まります」

「止まる」

「止まるだけです。元には戻りません。戻らないので、味を足します」

 肉を塩に埋め終えたのは、日が落ちてからだった。そのまま、翌朝まで置いた。

 翌朝、塩に埋まったままの肉を見ているところへ、ダンが来た。

 ダンは、毎朝同じ時間に同じ道を通る。屋台が開いていれば、必ず寄る。

「まだか」

「まだです。肉に手がかかるので、今日は夕方から」

 ダンは、宿の裏を見た。

「においがする」

「肉です」

「傷んでいたと聞いた」

「早いですね」

「麓から来た荷車が、街道の入口で愚痴を言っていた」

 ダンは、物置の戸口まで来て、中を覗いた。塩に埋まった肉の帯が、板の上に並んでいる。

「食えるのか」

「表面は削ぎました。中は大丈夫です」

「大丈夫、というのは」

「今日なら煮て食べられます。三日後は、このままだと無理です。だから干します」

 ダンは、しばらく板を見ていた。

「毒ではないのか」

 リゼは、塩をまぶす指が遅くなった。

 遠回しに訊かない人だ、とリゼは思った。

「毒ではないです。腐りかけているだけです。毒と腐りは違います」

「どう違う」

「毒は、入れた人がいます。腐りは、誰も入れていません」

 ダンは、それを聞いて、少し黙った。

「……なるほど」

「衛兵隊としては、どちらが問題ですか」

「入れた人がいるほうだ」

「では、今回は関係ないです」

「そうか」

 ダンは、うなずいて、それだけで帰ろうとした。

 三歩行って、止まった。

「リゼ」

「はい」

「リカルドを、しょっ引くか」

 リゼは、塩をまぶす手を止めなかった。

「何の罪でですか」

「傷んだ肉を売った」

「マーサさんは買いませんでした。売れていません」

「売ろうとした」

「売ろうとしただけで捕まるなら、この街の市場は半分空きます」

 ダンは、腕を組んだ。

「甘いな」

「損得です」

 リゼは、肉の帯を裏返した。

「捕まえると、麓の村は、来年からこの街に肉を持ってきません。持ってこないと、冬に肉が無い。困るのは、この街です」

「では、どうする」

「来年、絞めた日を言わせます。マーサさんがもう言いました」

 ダンは、しばらく立っていた。

「……お前は、王都で何をしていた」

 リゼは、答えなかった。

 ダンも、それ以上訊かなかった。

「明日も、来る」

 そう言って、行った。

 夕方、リゼは屋台に立った。

 骨と豆のスープ。蕪は冬に取っておくとマーサが言ったので、豆に替えた。黒パンは、ハンスが二日に一度、挽きたてを袋で置いていくようになった麦で焼いている。混ぜ物の無い粉のパンは、三日目には硬くなったが、噛むと麦の味が残った。

 十四杯、出た。銅貨十四枚。そのうち二枚は、籠を提げた女のぶんだった。昨日また来ると言って、本当に来た。今日は籠に、蕪が三つ入っていた。置いていった。

 最後の一杯が出たとき、街道のほうから、声が聞こえた。

「――姐さん!」

 リゼは、顔を上げた。

 背負子を担いだ男が、こちらへ歩いてくる。二十歳そこそこに見えるが、もう少し上かもしれない。背負子には、布の包みと、鍋と、丸めた毛皮と、なぜか鳥籠が一つくくりつけてある。鳥は入っていない。

「その鍋! 何入ってんの!」

 男は、まだ十歩先から叫んでいた。

「今日は骨と豆です」

「骨と豆! いいね! いくら!」

「銅貨一枚です」

「高い!」

「じゃあ結構です」

「買う!」

 男は、樽の前に立って、背負子を下ろした。下ろす音が、思ったより重かった。

 椀を受け取って、一口飲んで、目を丸くした。

「……うわ」

「どうぞ」

「いや、待って。これ、なんで骨だけでこんな出るの」

「叩いて割ってから煮ています」

「割る?」

「中の髄が出ます」

 男は、二口目を飲んだ。三口目で、椀を傾けた。

「姐さん」

「はい」

「これ、王都で売ったら十倍だよ」

 リゼは、鍋を混ぜながら答えた。

「王都には、これより上手い人が何人もいます」

「いないって」

「います。二人知っています」

 男は、椀を置いて、リゼの顔をまじまじと見た。

「……姐さん、王都にいたの」

 リゼは、答えなかった。

 男は、それ以上訊かなかった。訊かないことにしたらしい。そういう線を体で覚えている人なのだろう、とリゼは思った。

「俺、ピート。行商」

「リゼです」

「知ってる」

「え」

「街道で聞いた。二頭の牛亭の前に、うまいスープの女がいるって。三日前から言われてる」

 リゼは、少し手を止めた。

「三日前」

「そう。だから来た」

 ピートは、椀の底に残った豆を指ですくった。

「で、姐さん。何を買いたい」

「まだ何も言っていません」

「言わなくても分かるよ。冬前にこの街に来る行商に、みんな同じことを訊く。塩と、薪と、肉」

 ピートは、指を三本立てた。マーサとまったく同じ順番だった。

「うちは、塩は持ってる。薪は持ってない。肉は――」

 ピートは、そこで宿の裏のほうを見た。

「肉、あるでしょ。においがする」

「あります。傷んだやつです」

「うわ、正直」

「隠しても、あなたには分かるでしょう」

 ピートは、笑った。

「分かる。麓の村の、リカルドんとこのだろ」

 リゼは、布を板の上に置いた。

「名前まで分かるんですか」

「分かるよ。今年、あそこは早く絞めすぎた」

 ピートは、椀を板に置いて、背負子に寄りかかった。

「豚の値が去年の秋に上がってさ。麓の三つの村が、今年はいけると思って一斉に増やした。増やしたはいいけど、餌が足りなくなって、秋を待たずに絞めた。絞めた肉が余ってる」

「余ると、どうなりますか」

「値が落ちる。落ちた値でも売れないと、古くなる。古くなったやつを、遠い街に持っていく」

「遠い街」

「ここだよ、姐さん」

 リゼは、樽の板を拭いた。

「毎年ですか」

「いや、今年だけ。去年のリカルドは真面目だった」

 ピートは、指で鍋を指した。

「来年は、また真面目になると思うよ。今年は、たまたま追い詰められただけ」

「追い詰められると、人は嘘をつきますか」

「つくねえ」

 ピートは、あっさり言った。

「俺もつくよ」

「いま、ついていますか」

「ついてない。今日は本当のことしか言ってない。本当のことしか言わない日のほうが、あとで高く売れるから」

 リゼは、椀に汁を注ぎ足した。

 その日の夜、物置で、肉の塩を拭った。

 洗い流さない。塩を流すと、せっかく入ったものが抜ける。布で拭って、横木に吊るす。

 火は、床に穴を掘って熾した。薪ではなく、生木の削りくずと、樫の葉と、ハンスが持ってきた麦の殻を混ぜた。

 燃えすぎないように、上に灰をかぶせる。

 炎が立つと、肉が焼ける。焼けてはいけない。

 欲しいのは煙だ。

 物置の戸を、指三本ぶん開けた。全部閉めると煙がこもりすぎて、苦くなる。全部開けると、逃げる。

 リゼは、床に座って、煙の流れを見ていた。

 煙は、戸の隙間へ向かって、ゆっくり傾いている。

「それ、一晩やんの」

 戸口に、ピートが立っていた。

「三晩です。そのあと、陰干しに四日」

「七日!」

「昼は火を落とします。夜だけ」

「なんで夜」

「昼は日が当たるので、表だけ乾いて、中が残ります」

 ピートは、物置に入ってきて、吊るした肉を見上げた。

「……姐さん、これ、売り物になるよ」

「宿の冬の飯です」

「もったいない」

「冬に食べるものが無いほうが、もったいないです」

 ピートは、肉の一本に手を伸ばしかけて、やめた。

「触ると、そこから傷むよね」

「分かってるじゃないですか」

「これでも行商だからね」

 ピートは、床の火を覗き込んだ。

「これ、いくらで作った」

「塩が樽の三分の一と、薪が三本と、削りくず」

「肉は」

「ただです。捨てるはずのものだったので」

 ピートは、しばらく黙っていた。

 黙ってから、言った。

「姐さん、俺と組まない?」

「組む」

「麓の村から、こういうのを買い集めてくる。傷みかけたやつ。安い。それを姐さんが立て直す。俺が王都へ持っていく」

 リゼは、火に灰を足した。

「傷みかけた肉を、王都に売るんですか」

「立て直したあとのを」

「立て直しても、元には戻りません」

「戻らなくていいんだよ。干し肉は干し肉だ。誰も元の肉と比べない」

 リゼは、柄杓を鍋の縁に当てたまま動かなかった。

 王宮で、似たことを言われたことがある。

 宰相府の男だった。傷んだ材料を出してきて、これを使えるようにしろと言った。リゼは断った。断った理由は、味ではなかった。

「一つ、条件があります」

「言って」

「傷んでいたと、買う人に言います」

 ピートが、目を丸くした。

「言うの?」

「言います。『傷みかけた肉を塩と煙で立て直したもの』と書いて売ります」

「売れないよ、そんなの」

「売れます」

 リゼは、吊るした肉を見上げた。

「その代わり、安いです。安いと分かっていて買う人が買います。高い肉だと思って買った人が、あとで傷んでいたと知るより、ずっといい」

「……」

「隠すと、一度は売れます。二度目が無い」

 ピートは、腕を組んだ。

 組んで、しばらく考えて、それから、ひゅう、と口笛を吹いた。

「姐さん、商売人だね」

「料理人です」

「同じだよ、そこまでいくと」

 二晩目の夜、煙が苦くなった。

 リゼは、物置に入った瞬間に気づいた。目に染みる。鼻の奥が痛い。

 床の火を見ると、削りくずが燃え尽きて、樫の葉だけが赤くなっていた。

「戸が」

 背後で、マーサの声がした。

「あたしが閉めたよ。風が強かったから」

「開けます」

 リゼは、戸を指三本ぶん開けた。煙が、ゆっくり傾いて、隙間へ流れはじめた。

「閉めちゃ駄目なのかい」

「駄目です。こもると、煙が濃くなって、苦みが肉に入ります」

「苦いと、まずいのかい」

「まずいです。それと、苦い煙が入った肉は、傷んでいるのが分からなくなります」

 マーサが、眉を寄せた。

「分からなくなる?」

「苦みが強いと、その下の味が隠れます」

 リゼは、床にしゃがんで、灰を足した。

「隠れると、私にも分からなくなります」

「あんたにも」

「私は、味を分けて見ているだけです。分けられないくらい強い味を足されると、分けられません」

 マーサは、火を見ていた。

「それ、王宮でもあったのかい」

 リゼは、灰をならす手を止めた。

 止めて、少し考えてから、答えた。

「香りの強い料理は、毒見役が嫌がります」

「嫌がる」

「はい」

「……そういう仕事なんだね」

「そういう仕事でした」

 煙が、戸の隙間へ流れていく。

 リゼは、その流れを、しばらく見ていた。

 三晩目の朝、干し肉ができた。

 リゼは、一本を下ろして、端を薄く切った。

 噛む。

 硬い。硬くて、最初は塩しかしない。噛んでいるうちに、塩が溶けて、その下から脂と、煙と、わずかな甘みが出てくる。

 傷んでいた甘さではない。乾いた甘さだ。

「……いける」

 マーサが横から手を出して、一切れ取った。

 噛んで、目を閉じた。

 しばらく噛んでいた。

 それから、目を開けて言った。

「あんた、うちの宿を乗っ取る気だろ」

「そんな気は無いです」

「あるね」

 マーサは、もう一切れ取った。

「これ、幾つできた」

「三十二本です。一本で、四人ぶんの汁の出汁が取れます。そのままかじるには硬すぎるので、煮出して使います」

「……冬の汁は、これで足りるね」

「塩と薪を、もう少し積めば」

 マーサは、干し肉を噛みながら、宿の裏の壁を見た。

 しばらく、何も言わなかった。

 それから、ぼそりと言った。

「五十二年、この宿で冬を越してきたけどね」

「はい」

「毎年、春に、樽の底を見て、あと十日足りなかったって思ってたんだよ」

 リゼは、包丁を拭いた。

「今年は、十日多いです」

 ピートが街を出たのは、その日の昼だった。

 背負子には、リゼの干し肉が六本入っていた。一本三枚、締めて十八枚。値切りに応じたのはマーサで、二枚引いて十六枚になった。

「王都で、二十枚にはなるよ」

「六枚で売ってください」

「なんで!」

「高いと、次が無いので」

「姐さん、ほんと商売人」

 ピートは背負子を背負い直して、街道のほうを向いた。

 向いてから、思い出したように振り返った。

「あ、そうだ」

「はい」

「王都でさ、変な話を聞いたんだけど」

 リゼは、樽を拭く手を止めなかった。

「どんな」

「舌の利く女を探してる奴がいるって」

 布が、板の上で止まった。

「……舌の利く」

「そう。味で混ぜ物が分かる女。王都の酒場で、そういうのを探してる男がいるって、三軒で聞いた」

「探して、どうすると」

「そこまでは知らない。雇いたいのかもな」

 ピートは、肩をすくめた。

「まあ、そんな女、いるわけないと思ってたんだけどさ」

 ピートは、リゼの手元を見た。

 布が、止まったままだった。

「……姐さん」

「なんですか」

「いや。なんでもない」

 風が、街道の埃を運んだ。

 ピートは、その埃を手で払って、屈託なく笑った。

「じゃ、また来るよ。次は雪の前だ」

 行った。

 リゼは、樽の板を拭き終えた。

 拭き終えてから、宿の裏へ行って、物置の戸を開けた。

 残った二十六本の干し肉が、横木から下がっている。

 リゼは、その一本に手を触れた。乾いて、硬い。

 十日前の、あの日の皿を思い出した。

 鶉の煮込み。苦い杏の種のような、細い一筋。皿を下げさせた。王は食べなかった。

 半刻後に、連行された。

 リゼは、手を離した。

 厨房に戻って、帳面を開いた。マーサの宿の古い帳面の、いちばん後ろの頁。

 書いた。

 干し肉、三十二本。うち、六本、ピート。十六枚。残り、二十六本。

 屋台、十四杯。十四枚。

 書いてから、少し間を置いて、その下に、もう一行書いた。

 王都で、舌の利く女を探している者がいる。