
追放された毒見料理人、辺境で屋台を始めたら国が動いた件 第二話 黒パン
朝、衛兵隊長ダンとともに東の製粉所へ。主のゲルトは「袋の数は合っている」と言う。数は合っている。中身が違うだけだ。四十年石臼を回してきた老ハンスが、初めて主に逆らって麦だけを挽き、リゼは混ぜ物の無い粉で黒パンを焼く。街の人が、皿の底ではなく、パンの味で嘘を知る日。夜、月に一度の荷馬車は、来なかった。
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夜明け前に、リゼは起きた。
宿の厨房は、まだ暗い。竈の灰をかき分けると、昨夜の火種が赤く残っていた。薪を一本。息を吹く。火が立つ。骨の鍋を火にかけて、リゼは、粉袋の口を開けた。
土入りの粉だ。昨日、マーサが製粉所から買ってきた袋。指に取って、舐める。
麦。皮。土。
三つを、舌の上で分ける。麦は甘い。皮は苦い。土は――味というより、舌の上に残る。飲み込んでも、残る。ざらつきではなく、重さとして残る。リゼは、それを覚えた。忘れないために、もう一度舐めた。
「朝から粉を舐めるやつを、あたしは初めて見たよ」
マーサが、帳場から言った。もう起きていた。灯りの下で、昨日の銅貨を数え直している。
「覚えておく」
「何を」
「土の味。製粉所で、同じ味がするかどうか」
マーサは、数える手を止めなかった。止めないまま、言った。
「ゲルトは、領主の館に粉を納めてる。領主の台所とも、顔が通る。衛兵隊長が乗り込んだところで、粉袋一つ、動かないかもしれないよ」
「動かなくていい」
「じゃあ、何しに行くんだい」
「見せに」
リゼは、竈の火を見た。骨の鍋が、煮え始めている。
「皿の底を。製粉所の中で。粉を挽いてる人の前で」
マーサは、しばらく黙っていた。それから、帳場の下から、桶と、皿を二枚、出してきた。
「持っていきな。うちの皿だ。割るんじゃないよ」
*
製粉所は、街の東の端にあった。
川から引いた水路が石の水車を回し、その音が、朝の通りの奥までゆっくり響いてくる。粉のにおいは、水車の音より先に届いた。麦の粉のにおい。そして、その下に、雨のあとの道のような、土のにおい。
リゼは、歩きながら、そのにおいを分けていた。麦。皮。水。そして土。四つ目は、鼻で分かるほど強くはない。だが、昨日、粉袋の粉を舐めた。舌が覚えた味は、鼻でも探せる。
「においで分かるのか」
隣を歩くダンが、前を向いたまま言った。
「分かる。舐めたから」
「……そうか」
ダンは、それ以上訊かなかった。昨日と同じ時間に、同じ道を来て、屋台の前で「行くぞ」とだけ言った。リゼは鍋を火から下ろし、マーサに「昼まで」と言って、ついてきた。桶と皿は、手に提げている。
製粉所の門は、開いていた。
*
主のゲルトは、太った男だった。
太っている、というより、体の全部が粉をかぶって膨らんで見えた。眉も、髭も、白い。目だけが、黒く小さく、ダンとリゼを順に見た。
「隊長。朝からなんだ」
「粉のことで」
「粉なら、いつも通りだ。袋の数は合ってる。帳面を見るか」
ゲルトは、そう言って、帳場の台に置いた厚い帳面を叩いた。叩くと、粉が舞った。
ダンは、帳面を見た。開いて、二枚めくって、閉じた。
「袋の数しか、書いてない」
「粉は袋で数える。当たり前だ」
「中身は」
「中身は粉だ。何を言ってる」
リゼは、その会話を聞きながら、製粉所の中を見ていた。
水車の軸が壁を貫いて、石臼を回している。石臼は二つ。大きいほうの前に、小柄な老人が立っていた。ハンスだ。昨日の夕方と同じ、粉で白い手。リゼを見て、何も言わず、小さく頷いた。
もう一つの石臼のそばに、若い男がいた。二十歳をいくつか過ぎたくらい。ゲルトと同じ小さな目。腕には、麦の袋を担いだ跡が、粉で白く残っている。甥だ、とリゼは思った。混ぜるのは、甥。ハンスはそう言った。
男は、リゼを見なかった。リゼの手にある桶と皿を、見ていた。
「この娘は誰だ」
ゲルトが言った。
「屋台の料理人だ。舌がいい」
「舌?」
「粉の味が分かる」
ゲルトは、笑った。粉が舞った。
「粉の味なんぞ、誰でも分かる。麦の味だ」
「なら、食べてから言って」
リゼは、それだけ言って、桶を床に置いた。
*
水は、水路から汲んだ。
皿を二枚、並べる。片方に、帳場の隅に積んであった粉袋から、一握り。もう片方は、空けておく。
「もう一枚には、何を入れる」
ダンが訊いた。
「麦」
リゼは、製粉所の奥を見た。麦の袋が、石臼にかける前の麦が、壁際に積んである。ゲルトが、何か言おうとした。ハンスが、先に動いた。
老人は、壁際の袋を一つ、口を開けて、麦を一握り、リゼに差し出した。粒のままの麦だ。まだ挽いていない。まだ、何も混ぜていない。
「……ハンス」
ゲルトの声が、低くなった。
ハンスは、答えなかった。麦をリゼの皿に落として、石臼の前に戻った。
リゼは、麦の粒を、指で潰した。潰しきれない。石で挽かなければ粉にならない。だから、もう一つの皿には、粒のまま水を張った。
粉の皿。麦の皿。
水を注ぐ。粉は、白く濁って散った。麦は、粒のまま、水の底に転がった。
「四半刻」
リゼは、そう言って、待った。
誰も、何も言わなかった。水車の音だけがしていた。ゲルトは腕を組んで、皿と甥を交互に見た。甥は、皿を見なかった。壁を見ていた。
四半刻。
粉の皿は、昨日と同じだった。上澄みが澄み、麦の皮が浮き、粉が薄く散り、そして底に、白い、細かい、粘土のような層。
麦の皿には、麦の粒しか無かった。水は、澄んだままだった。
リゼは、二枚の皿を、ゲルトの前に並べた。
「麦には、土は入っていない。粉には、入っている。麦と粉のあいだにあるのは、石臼だけ」
ゲルトの小さな目が、皿を見た。
「……粉挽きの、石の粉だ。石臼が削れる」
「石の粉は、こんなに白くない。それに、四十年削れて、こんな量になるなら、石臼はもう無い」
リゼは、皿の底の白を、指ですくった。ゲルトの目の前で、指の腹でこすった。粘土のように、まとまった。
「食べてから言って」
リゼは、その指を、ゲルトに向けた。
ゲルトは、動かなかった。
代わりに、ダンが動いた。帳場の台の上に、黒パンを一つ置いた。今朝、マーサの宿から持ってきた、土入りの粉のパンだ。それを割って、半分を、ゲルトの前に置いた。
「あんたの粉で焼いたパンだ。食え」
「隊長、俺は――」
「食え。土が入ってないなら、なんともないだろう」
ゲルトは、パンを見た。長いこと見た。手が、伸びなかった。
その手が伸びないことを、製粉所の中の全員が見ていた。ハンスも、甥も、ダンも、リゼも。
沈黙が、水車の音より長く続いた。
「……わしが、挽く」
言ったのは、ハンスだった。
老人は、壁際の麦の袋を一つ、両手で引きずって、石臼の前に置いた。四十年、石臼を回した背中は曲がっていたが、袋を引きずる腕は、まだ動いた。
「麦だけを、挽く。混ぜんで、挽く。それを、この娘に持たせる。……ゲルト。わしは四十年、あんたの親父の代から、ここで石を回した。一度も、逆らわんかった。今日が、一度目だ」
ゲルトは、何も言わなかった。
甥が、初めて、壁から目を離した。ハンスを見た。それから、ゲルトを見た。ゲルトが何も言わないのを見て、また、壁を見た。
石臼が、回り始めた。
*
挽きたての粉は、あたたかい。
リゼは、それを知っていた。王宮の厨房には製粉所が無かったが、試膳官は粉の来歴を確かめるために、年に一度、王都の製粉所へ行く。挽きたての粉を掌に載せると、石の熱が残っていて、麦のにおいが立つ。
桶に受けた粉を、リゼは掌に載せた。
あたたかい。麦のにおい。皮のにおい。それだけだった。
舌に載せる。麦。皮。石臼の、ごくかすかな石の味。そして――何も無い。土が、無い。
「無い」
リゼは、言った。
ダンが、掌の粉を、自分の指ですくって、舐めた。顔をしかめた。
「……分からん」
「分からなくていい。パンにすれば、分かる」
*
パンは、マーサの宿の窯で焼いた。
窯は、宿の裏にある。石を積んだ古い窯で、マーサの母の代から使っているという。マーサは薪を足しながら、リゼの手元を見ていた。見ているが、口は出さなかった。
粉に、水。塩を、ひとつまみ。それから、種。マーサが厨房の奥の壺から出してきた、宿のパン種だ。前の料理番が残していった生地の残りに、マーサが毎日、粉と水を足して生かしてきたもの。酸いにおいがする。土入りの粉で継いできた種だが、種は生きていればいい。粉の善し悪しとは、別の話だ。
こねる。
粉が、水を吸って、まとまっていく。手に、生地の重さが伝わる。粘る。伸びる。土入りの粉の生地は、こねるとざらつく。砂を混ぜた粘土のように、手のひらに引っかかる。この生地は、引っかからなかった。なめらかに、手の中で丸まった。
「……違うもんだね」
マーサが、言った。
「粉が、違う」
「粉だけかい」
「粉だけ」
寝かせる。窯を熱くする。生地を入れる。
焼ける音がした。
パンが焼ける音は、小さい。皮が張って、ひび割れる、乾いた音。リゼは、その音を聞いていた。王宮の厨房で、毎朝聞いていた音だ。同じ音だった。どこで焼いても、いい粉のパンは、同じ音で焼ける。
窯から出した黒パンは、皮が黒く、中は褐色で、割ると湯気が立った。
においが、裏庭に広がった。
*
最初に食べたのは、ダンだった。
割ったパンの片方を、そのまま噛んだ。噛んで、止まった。
「……うまい」
それだけ言った。二口目を噛んだ。三口目は、噛みながら、何かを言おうとして、やめた。言葉より、パンを選んだ。
二人目は、マーサだった。マーサは、パンを口に入れる前に、割った断面を、長いこと見ていた。
「じゃりじゃり、しないね」
「しない」
「あたしは、五十二年、この街のパンを食ってきた。じゃりじゃりするのがパンだと思ってた」
マーサは、そう言って、パンを噛んだ。噛んで、何も言わなかった。何も言わないマーサを、リゼは初めて見た。
三人目は、パン屋の息子だった。
いつの間にか、裏庭の入口に立っていた。粉だらけの前掛け。昨日と同じ。においで来たのだと、リゼは思った。パンを焼く者は、パンのにおいに、誰よりも早く気づく。
「……それ、どこの粉だ」
「東の製粉所。ハンスが、麦だけを挽いた」
男は、割ったパンを受け取って、断面を見た。においを嗅いだ。それから、噛んだ。
噛んで、目を閉じた。
「俺のパンは」
男は、目を閉じたまま言った。
「俺が焼き方を間違えてるんだと、思ってた。親父のパンは、じゃりじゃりしなかった。俺が焼くようになってから、じゃりじゃりし始めた。だから、俺のせいだと」
「三年前から?」
「……三年前からだ」
「焼き方は、間違ってない」
男は、目を開けた。リゼを見た。
「粉が、間違ってた」
「そう」
男は、パンの残りを、ゆっくり食べた。食べ終わってから、リゼに訊いた。
「その粉、俺にも、分けてもらえるか」
「ハンスに言って。挽くのは、あの人」
「……ハンスに」
男は、何度か頷いて、裏庭を出ていった。前掛けの粉が、風で少し舞った。
男は、半刻もしないうちに、戻ってきた。
今度は、自分の店の粉袋を、肩に担いでいた。裏庭の入口で下ろして、リゼの前に置いた。
「これも、見てくれ」
同じことをした。粉。水。四半刻。
男は、その四半刻を、皿の前にしゃがんで過ごした。動かなかった。リゼは、その横で、次の生地をこねていた。マーサは、窯に薪を足していた。誰も、男に声をかけなかった。
底に、白い層が沈んだ。
男は、それを、指ですくった。こすった。
「……同じだ」
「同じ。粉は、全部、東の製粉所から来てる」
指の白は、指に張り付いて、離れなかった。
「俺は、これを、三年、焼いてた」
「焼いていた。知らずに」
「知らずに、って言えるのか。俺は、パン屋だ。粉の味が分からないパン屋が、あるか」
男の声は、震えていた。怒っているのか、それとも別のものか、リゼには分からなかった。分からないことを、分かるとは言わない。だから、分かることだけを言った。
「土の味は、慣れる。毎日食べていれば、それが麦の味になる。あなたの舌は、間違ってない。三年、毎日、土入りの粉を食べていただけ」
「……あんたは、慣れなかったのか」
「王都から来た。この街に来て、まだ三日。この街の粉は、三日しか食べてない」
男は、皿の底を見たまま、長いこと黙っていた。それから、立ち上がった。粉袋を、担ぎ直した。
「この袋は、どうしたらいい」
「捨てなくていい。土は、分けられる。手間はかかる。……今夜、やってみる。分けられたら、教える」
男は、頷いた。名前を、言わなかった。リゼも、訊かなかった。パン屋の息子、で足りた。まだ。
*
午後、屋台の前には、パンを買いに来た人が並んだ。
スープは無い。鍋は、朝、火から下ろしたままだ。だがマーサが、窯で焼いた黒パンを、板の上に並べた。一つ、銅貨一枚。昨日のスープと同じ値段だ。
「高い」と、誰かが言った。
「食べてから言って」と、リゼが言った。
その人は食べて、二つ目を買った。
皮を割る音が、通りに響いた。乾いた、小さな音。その音を聞いた人が、また一人、板の前に立った。においは、音より遠くまで届く。パンのにおいは、宿の裏の窯から通りへ、通りから市場の角へ、風に乗って流れていった。市場の角で骨を捨てていた荷馬車の男が、においを嗅いで、荷を置いたまま歩いてきた。
「昨日のスープは」
「今日は、パン」
「……パンか」
男は、銅貨を一枚置いて、パンを一つ取った。立ったまま、割った。湯気は、もう出ない。だが、割った断面を見て、男は、少しのあいだ、動かなかった。
「じゃりじゃり、しねえ」
「しない」
「……俺は、この街で生まれた。三十年、パンを食ってる。じゃりじゃりしねえパンは、子どものとき以来だ」
男は、二つ目を買って、荷馬車に戻った。戻ってから、荷台の上で、もう一度割って、噛んでいた。
籠の女が来た。昨日、「うちの子がパンを食べると腹を下す」と言った女だ。女はパンを一つ買って、その場では食べなかった。布に包んで、籠に入れて、リゼに、「明日、また来ていいか」と訊いた。リゼは、「粉があれば」と答えた。
通りの向こうの、パン屋の店は、その日、昼で戸を閉めた。理由を訊く人はいなかった。閉めた戸の前を通る人は、みな、こちらの板の上のパンを見て、それから、閉まった戸を見た。それだけで、足りた。
鍋が無い屋台に、鍋があった日より多くの人が来た。マーサは帳場から出てきて、板の脇に立ち、銅貨を受け取る役を勝手に始めた。リゼは、パンを割る役だった。割って、断面を見せる。見せてから、渡す。それを、二十三回やった。
夕方までに、二十三個が売れた。
板の上の銅貨を、リゼは数えた。二十三枚。半分に近い数、十一枚を、別に分けた。余りは十二枚。
「何だい、それは」
「ハンスの分。粉の代金」
「ハンスは、そんなもの受け取らないよ」
「受け取らなくても、分ける。分けたものを、帳面に書く。中身を、書く」
マーサは、腕を組んだ。組んだまま、少し笑った。
「あんた、製粉所の帳面を見たのかい」
「ダンが見た。袋の数しか書いてなかった」
「それで、中身を書く、と」
「数は、合わせられる。中身は、合わせられない。……王宮の厨房の帳面は、中身を書く。何を、どこから、いくつ、誰が量ったか。そうしないと、毒が入る」
マーサは、笑うのをやめた。
*
日暮れに、ハンスが来た。
背中に、麦の袋を一つ、担いでいた。挽いた粉ではなく、麦の粒のままの袋だ。老人は、それを屋台の樽の脇に下ろして、腰を叩いた。
「挽いとらん分だ。明日、宿の石臼で挽け。……あるだろう、古いのが」
「裏に、小さいのが」
マーサが答えた。
「なら、それで足りる。一日分は」
リゼは、鍋の底に残った出汁を、椀に注いだ。今日は骨の出汁しか無い。それでも、温めて、塩を一つまみ。ハンスは、受け取って、飲んだ。昨日と同じ、ゆっくりした飲み方だった。
「ゲルトは」
「何も言わん。朝から、一言も。わしが麦の袋を担いで出るのも、止めんかった。……隊長の前で止めたら、認めることになる。それに、あの男は、わしより、王都の男が怖い。甥が馬で出た。どこへとは言わんかった」
「あなたは、明日も、製粉所に」
「行く。石臼は、わしが回さんと止まる。あの甥は、袋を担ぐことしか知らん」
ハンスは、椀を置いた。粉で白い手で、樽の縁を撫でた。
「四十年で、初めてだ」
「何が」
「挽きながら、粉のにおいがした。麦の、粉のにおいだ。……三年、しとらんかった。しとらんことにも、気づいとらんかった」
リゼは、何も言わなかった。言うことが無かった。代わりに、板の上に分けておいた銅貨を、十一枚、ハンスの前に押した。
「粉の代金」
「いらん」
「いらなくても、置く。帳面に書く。粉、ハンス、十一枚。中身を、書く」
ハンスは、銅貨を見た。それから、リゼを見た。小さく、鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。銅貨は、取らなかった。取らずに、麦の袋だけ置いて、帰った。
リゼは、銅貨を、樽の下の壺に入れた。ハンスの分、と、壺の口に書いた。
*
夜、リゼは、宿の厨房で、粉を分けてみた。
土入りの粉を、一握り。箕に載せて、扇ぐ。軽い粉が飛び、重いものが残る、はずだった。だが、粉と土は、どちらも細かすぎた。扇げば、両方飛ぶ。残るのは、麦の皮だけだった。
次は、水。
粉を水に溶いて、四半刻待つ。土は沈む。それは、分かっている。だが、沈んだ土の上には、粉が溶けた白い水があるだけだ。粉は、水に溶けたら、粉に戻らない。水を捨てれば、粉も捨てる。
「分けられる。でも、パンにはできない」
リゼは、皿の底の白を見ながら、言った。
「なら、意味が無いね」
マーサが、厨房の入口から言った。
「意味はある。分けられることは、分かった。ただ、手間がかかる。手間がかかるから、誰もやらない。……混ぜた側は、それを知ってて混ぜてる」
「知ってて」
「土は、粉より重い。だから、水に沈む。沈むから、皿の底で分かる。それだけのことを、三年、誰もやらなかった。やらないと、思われてた」
マーサは、何も言わずに、厨房の灯りを一つ、落とした。
*
ダンが来たのは、夜半だった。
屋台は畳んである。リゼは宿の厨房で、明日のスープの骨を煮ていた。鶏の首が三つ。市場の裏で拾った牛の骨が一本。マーサが昨夜、「鶏の分」と言って預かった銅貨十枚は、まだ手つかずで帳場にある。
ダンは、厨房の入口に立った。入ってこなかった。
「荷馬車は」
リゼは、鍋を見たまま訊いた。
「来なかった」
「月に一度、夜に。ハンスは、そう言った」
「今日が、その夜だった。……三年、同じ夜だったそうだ。ハンスが数えてた。俺は、街道の入口で、日暮れから、今まで立ってた」
「来なかった」
「来なかった」
ダンは、そこで、少しだけ言葉を足した。
「ゲルトは、今日、誰かに使いを出した。昼過ぎに、甥が馬で出た。西へ。王都の方角だ」
リゼは、鍋の火を見た。火は、小さい。薪を足す。骨から、脂が浮いてくる。すくう。捨てない。明日、パンにつける。
「王都の男の名は」
「言わない。……俺より、その男が怖いらしい」
リゼは、それを聞いて、思った。粉屋の主が、衛兵隊長より怖がる男。三つの環の紋を、襟につけた男。追放の朝、リゼの前で紙を読み上げた、あの声。
鍋が、煮えた。
「明日は、スープに、パン」
リゼは、言った。
「混ぜ物の無い粉で焼いたパンを、混ぜ物の無いスープに浸して。それを、この街の人に食べさせる。それだけ」
「……それだけか」
「それだけ。食べたら、分かる。分かった人は、もう、じゃりじゃりするパンを、パンだとは思わない」
ダンは、しばらく、鍋の湯気を見ていた。
それから、板の上に、銅貨を三枚置いた。今日は、屋台に来なかった分だと、リゼは思った。ダンは、そういうことを言わない。言わないが、置いていく。
「明日も、来る」
ダンが、去った。
リゼは、銅貨を三枚、別に分けた。分けたものを、帳面に書く。マーサの宿の古い帳面の、いちばん後ろの頁を借りて、リゼは、自分の字で書いた。
黒パン、二十三。粉、ハンス。銅貨、二十三枚。うち、ハンスの分、十一枚。別に、ダン、三枚。
書き終えて、リゼは、粉袋の口を開けた。土入りの粉だ。指に取って、舐めた。
麦。皮。土。
昨日と、同じ味だった。忘れないために、もう一度、舐めた。
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