追放された毒見料理人、辺境で屋台を始めたら国が動いた件 第一話 スープ

王の食卓に盛られた毒を防いだのに、毒を盛ったと濡れ衣を着せられ、王宮の試膳官リゼは辺境へ追放された。持ち物は包丁一本と塩の小袋、銅貨が八枚。銅貨三枚でたどり着いた街道の街グレンモアで、宿の女主人から鍋を借りて始めた屋台の一杯目が、この街の黒パンに混ざった「嘘」を見抜く。舌で嘘が分かる料理人の、成り上がりが始まる。

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異世界ファンタジー7,906字約16分で読めます

 王宮の裏門は、朝の五時に開く。

 厨房に納める野菜と魚が通る門で、王族も貴族も通らない。リゼ・アルデンは、その門から出された。

「二度と、王都の土を踏むな」

 門番はそう言って、リゼの背中を軽く押した。突き飛ばすほどの力ではなかった。門番は昨日まで、リゼの作った賄いを食べていた人間だった。

 持ち物は、包丁が一本。それと、塩の小袋。布に包んだ銅貨が、八枚。

 どれも、追放の前夜に、厨房の下働きの若い男がこっそり持ってきたものだ。男は何も言わなかった。リゼも何も言わなかった。言うと、男が罰を受ける。

 門が閉まった。

 リゼは振り返らなかった。振り返っても、見えるのは壁だ。壁を見ても腹は膨れない。

 ――東へ。

 王都の東、街道を五日歩いたところに、グレンモアという街がある。国境に近い、宿と市場の街。追放者の多くはそこへ流れると聞いていた。理由は簡単で、それより先に街が無いからだ。

 リゼは、歩き出した。

 *

 街道の五日は、食べることの五日だった。

 銅貨は八枚。一日に一枚。五日目に三枚残る。そう決めて歩いた。宿には泊まらない。納屋の軒下か、街道沿いの祠。食べるのは、道端の茶屋で出す、いちばん安いもの。

 三日目の茶屋で出た黒パンが、じゃりじゃりした。

 リゼは、噛みながら、それを麦の皮だと思った。街道の粉は粗い。王宮の白い粉とは違う。そう思って、飲み込んだ。茶屋の女主人に、粉はどこのものかと訊くと、東の製粉所だと言った。この先の街の粉は、みんなそうだと。

 四日目の茶屋のパンも、じゃりじゃりした。

 リゼは、今度は飲み込む前に、少し長く噛んだ。皮なら潰れる。これは潰れない。奥歯に残る。

 ――粗い、のではない。

 そう思ったが、それ以上は考えなかった。考えても、銅貨は増えない。腹は膨れない。分からないことは、分かる場所に着いてから分ければいい。

 五日目の夕方、グレンモアの門をくぐった。

 街道の街というのは、どこもだいたい同じ顔をしている。門の内側に馬をつなぐ場所があって、その周りに宿が固まっている。宿の看板は大きく、字が読めなくても絵で分かる。牛、鹿、酒樽、鍵。

 リゼは、いちばん古そうな宿の前で足を止めた。看板には、牛が二頭。

 選んだ理由は、においだった。宿の裏手から、骨を煮るにおいがしていた。長いこと煮ている、いい骨のにおいだ。だが、その奥に、少しだけ嫌なにおいが混じっている。野菜が古い。芯のところが、そろそろ苦くなり始めている。

 ――もったいない。

 リゼは、それだけを思って、宿の扉を押した。

 女主人は、五十を過ぎたくらいの大柄な女で、帳場の奥から顔も上げずに言った。

「一晩、銅貨六枚。飯は別。馬は裏」

「銅貨は、三枚しかない」

「じゃあ半晩だね」

 女主人は、そこで初めて顔を上げた。リゼの顔を見て、次に手を見た。指の、包丁だこと、火傷の跡。それから、腰に差した包丁の柄を見た。

「……料理人かい」

「そう」

「王都の」

「元」

 女主人は、しばらくリゼを眺めていた。値踏みではない。もっと実務的な目だった。荷物の重さを見積もる商人の目だ。

「うちの厨房、見るかい」

「見る」

 *

 厨房は、広かった。石の竈が二つ、鍋が大小七つ、天井から干した香草。壁際の桶には、リゼが外で嗅ぎ当てた古い野菜が入っていた。蕪が四つ、人参が六本、玉葱が山ほど。蕪は芯が透けはじめている。

「うちの料理番が、昨日辞めた。あんたの前の追放者だよ。王都で何をやらかしたのか知らないが、包丁の扱いは荒かった」

「骨は」

「裏で煮てる。もう三日目。捨てようと思ってた」

「捨てないで」

 リゼは、包丁を抜いた。

 女主人――マーサと名乗った――は、腕を組んで壁に寄りかかった。何も言わない。止めもしない。料理人が厨房で包丁を抜いたら、口を出さない。それがこの女主人の流儀らしかった。

 骨の鍋を裏から運んだ。三日煮た牛の骨は、もう出汁を出し切っている。出し切っているが、出し切った骨には、出し切った骨の使い道がある。鍋の上に浮いた脂を、木の匙で丁寧にすくった。脂は捨てない。別の鍋に取る。

 蕪を切る。芯の透けた部分は薄く削いで、削いだほうを先に鍋に入れた。苦みは、火を通して脂と合わせれば、甘みの裏側に隠れる。人参は皮ごと、薄く。玉葱は半分に割って、竈の火に直接押し当てた。焦げ目が付く。においが変わる。

 塩の小袋を開けた。

 指で一つまみ。鍋の縁から、円を描くように落とす。

 味を見た。

 舌の上で、味が分かれていく。骨の出汁、蕪の甘み、蕪の苦み、玉葱の焦げ、脂、塩。それぞれの重さが、それぞれの場所に落ち着いていく。足りないものは、一つ。

「酢は」

「棚の上」

 酢を、匙の先に一滴。鍋に落とす。もう一度、味を見る。

 落ち着いた。

「できた」

 マーサが、壁から背を離した。椀を一つ取って、自分でよそった。

 一口、飲んだ。

 二口目を飲む前に、マーサは椀を置いて、リゼを見た。

「……あんた、王都の人間だね」

「言った」

「王宮の、だろ」

 リゼは、答えなかった。マーサも、答えを待たなかった。三口目を飲んで、四口目を飲んで、椀の底を見た。

「捨てようと思ってた骨と、腐りかけの蕪で、これか」

「腐ってはいない。腐りかけている野菜と、腐った野菜は、別のもの」

「……一晩、泊まりな。銅貨はいらない」

 マーサはそう言って、椀をもう一杯よそった。

「代わりに、明日の朝、これをもう一鍋作りな。うちの前で売る。鍋は貸す。場所も貸す。場所代は――」

 マーサは、椀を掲げた。

「皿で払いな」

 *

 翌朝、まだ暗いうちに、リゼは厨房の火を起こした。

 マーサは、もう起きていた。帳場の灯りの下で、昨日の売上を数えている。リゼが厨房に入ると、顔も上げずに、「鶏の首が二つ、桶の中」とだけ言った。

 鶏の首は、市場でいちばん安い部位だ。肉はほとんど無い。だが、骨と皮と、首の付け根の脂がある。四日目の牛の骨と一緒に煮れば、鍋はまだ一日、持つ。

 首を洗い、竈の火で皮を軽く炙った。焦げたにおいが、厨房に広がる。マーサが、帳場から鼻を鳴らした。

「うちの前の料理番は、鶏の首を捨ててたよ」

「捨てる前に、炙ればよかった」

「あんたの前の料理番に言っとくれ」

 鍋が煮立つまで、蕪の残りを刻んだ。昨日、薄く削いだ芯の部分は、今朝はもう使えない。桶の底に、二つ残っていた。それは、捨てた。

 空が白み始めるころ、鍋の味が決まった。

 宿の前に屋台を出した。

 屋台といっても、樽の上に板を渡して、その上に鍋を置いただけだ。椀は五つ。匙は五本。全部、マーサの宿のもの。鍋の中は、昨日と同じ骨で作ったスープ。骨は四日目になって、さすがにもう何も出なかったので、鶏の首を二つ、マーサが市場で買ってきて足した。

 黒パンは、マーサが宿の分から分けてくれた。硬い、粗い、街道の街の黒パンだ。これをスープに浸して食べる。それがこの街の朝飯だと、マーサは言った。

 客は、来なかった。

 朝の街道は、人通りは多い。荷馬車、旅の商人、街の女たち。だが、誰も、宿の前の樽の上の鍋には目を向けない。見知らぬ女が立って、湯気の立つ鍋の前で、黙って待っている。それだけの光景だ。

 リゼは、待った。

 王宮の厨房で、毒見の順番を待つのと同じだった。何も起きない時間は、何も起きないことを確かめる時間だ。焦っても、鍋は速く煮えない。

 一刻ほど経って、最初の客が来た。

 背の高い男だった。革の胴着に、腰に剣。街の衛兵の格好だ。年は三十半ば。無精髭。目の下に、寝不足の色。男は樽の前で足を止め、鍋を見て、リゼを見て、また鍋を見た。

「……なんだ、これは」

「スープ」

「いくらだ」

「銅貨、一枚。パン付き」

 男は、銅貨を一枚、板の上に置いた。リゼは椀によそい、黒パンを一切れ添えて出した。

 男は、その場で立ったまま、飲んだ。

 一口。

 男の眉が、動いた。二口目。三口目。男は何も言わず、椀を傾けて、最後まで飲んだ。それから、黒パンを噛んだ。

 噛んで、顔をしかめた。

「……うまい」

 男は、そう言った。顔をしかめたまま。

 リゼは、その顔を見ていた。うまい、と言った顔ではなかった。うまい、と言いながら、口の中で何かが引っかかっている顔だ。

「パンが」

「え」

「パンが、硬い」

 男は、黒パンを見下ろした。

「硬いのは、いつものことだ。この街のパンは硬い。じゃりじゃりする。粉が粗いんだと言われてる」

 リゼは、黒パンを一切れ取って、口に入れた。

 噛む。

 舌の上で、味が分かれていく。麦。麦の皮。塩。焼いた小麦の香ばしさ。それから――。

 噛みしめる。奥歯に、細かく、鈍いものが当たる。麦の皮とは違う。皮なら、噛めば潰れる。これは、潰れない。ざらりと残る。味は、ない。においも、ない。だが、口の中の水分を、少しだけ吸う。

 リゼは、飲み込んだ。

「粉が粗いんじゃない」

「……なに」

「混ぜ物がある。白い土。焼き物に使う、粘土に近いもの。麦の粉に、一割か、二割」

 男は、リゼを見た。しばらく、黙っていた。それから、低い声で言った。

「あんた、誰だ」

「リゼ。昨日、来た。料理人」

「料理人が、噛んだだけで、粉の中身が分かるのか」

「食べてから言って」

 リゼは、黒パンをもう一切れ、男に差し出した。

「舌の上で、麦と皮と塩を分けて。それでも残るものがあったら、それが土」

 男は、パンを受け取った。噛んだ。ゆっくり噛んだ。噛みながら、目を閉じた。

 長いこと、噛んでいた。

 目を開けた男の顔は、さっきより険しかった。

「……分からん」

「そう」

「だが、あんたが嘘をついてる顔にも見えん」

 男は、板の上に、銅貨をもう一枚置いた。

「ダン・ヴェルナー。衛兵隊長だ」

 それから、黒パンを見た。

「この街のパンは、全部、東の製粉所の粉だ」

「なる」

「証拠は」

 リゼは、少し考えた。

「水と、器がいる」

 *

 マーサが、宿から桶と、深い皿を二枚持ってきた。

 リゼは、黒パンを一切れ、皿の水の中で丁寧にほぐした。指で、ゆっくり、パンの繊維をほどいていく。水が白く濁る。麦の粉が溶けて、皮のかけらが浮く。

 そのまま、置いた。

「待つの」

「どのくらい」

「四半刻」

 ダンは、腕を組んで、皿を見下ろしていた。マーサは、腕を組んで、ダンを見ていた。通りを行く人が、何人か、足を止めた。衛兵隊長と宿の女主人が、樽の前で皿を睨んでいる。それは、スープの鍋よりは、目を引く光景だった。

 四半刻。

 水の濁りが、上から順に澄んでいった。麦の皮は浮いている。麦の粉は、水に散って、薄く白い。そして、皿の底に――。

 白い、細かい層が、沈んでいた。

 麦の粉の白とは違う。もっと重く、もっと目が細かく、指でなぞると、粘土のようにまとまる白だった。

 ダンが、指でそれをすくった。指の腹で、こすった。

「……土だ」

「そう」

「パンの中に、土が入ってる」

「粉の中に。パンは、粉の通りに焼けるだけ」

 ダンは、指の白を見ていた。それから、皿を見て、鍋を見て、リゼを見た。

「製粉所の粉袋を、一つ買ってくる」

 言ったのは、マーサだった。マーサはもう歩き出していた。振り返りもしなかった。

 *

 粉袋の粉を、水に溶いた。

 結果は、同じだった。皿の底に、白い層。パンの時より、はっきりと。

 ダンは、長いこと、それを見ていた。通りに足を止めた人は、もう十人を超えていた。誰も、何も言わない。皿の底の白を、ただ見ている。

「……二割、と言ったな」

「一割か、二割。皿の底を見た限りでは、二割に近い」

「土を、毎朝、この街の全員が食ってる。何年も」

 ダンは、そこで初めて、椀を置いた。スープの、二杯目の椀だった。いつの間にか、飲み干していた。

「製粉所の主は、ゲルトという男だ。領主とも顔が通る。……俺が言っても、誰が信じる」

「信じなくていい」

「なに」

「皿を持っていけばいい。食べてから言って、と言えばいい。土は、噛めば分かる。分からなければ、水に溶かせば分かる。誰でも」

 ダンは、リゼを見た。

「あんたは、王都で何をやってた」

「料理人」

「それだけじゃないだろう」

 リゼは、鍋の火を見た。火は、小さくなっていた。薪を一本、足した。

「王の食事を作って、先に食べる仕事。試膳官という」

「……毒見か」

「毒見と、料理番と、両方。王宮に、二人しかいない職」

「なんで、ここにいる」

「追放された」

「何をした」

「毒を、盛った。ということになっている」

 ダンは、それ以上、訊かなかった。訊かない代わりに、板の上に銅貨を三枚、置いた。

「明日も、来る」

 *

 スープは、昼過ぎに売り切れた。

 皿の底の白を見た人の何人かが、そのまま椀を手に取った。

 最初は、荷馬車の男だった。皿の底を見て、鍋を見て、銅貨を一枚置いた。立ったまま飲んで、飲み終わってから、「明日もあるか」と訊いた。リゼは「骨があれば」と答えた。男は、「骨なら市場の裏で捨ててる」と言って、荷馬車に戻った。

 次は、籠を提げた女だった。女は椀を受け取って、一口飲んで、しばらく黙っていた。それから、小さな声で、「うちの子が、パンを食べると腹を下すんだ」と言った。リゼは答えなかった。答えられることが、まだ無かった。女は、椀を返すとき、「パンはいらない」と言った。

 三人目は、粉だらけの前掛けをした若い男だった。パン屋の息子だと、マーサが小声で教えた。男は椀を受け取らず、皿の底だけを、長いこと見ていた。それから、リゼに訊いた。

「……俺が焼いてるパンに、これが入ってるのか」

「粉に入ってる。焼き方は、関係ない」

 男は、皿の底の白を、もう一度見た。何か言いかけて、やめた。椀は取らずに、銅貨を一枚置いて、帰った。リゼは、その銅貨を、板の端に別に置いた。何の代金かは、まだ分からなかった。

 籠の女が、通りで話した。話を聞いた人が、来た。鍋一つぶんのスープは、十一杯で終わった。

 マーサは、帳場から、それを見ていた。十一杯目の椀が返ってきたとき、初めて口を開いた。

「ダンは、毎朝、同じ時間に見回る。同じ道を、同じ順で。あの男が明日もここに来たら、この街の朝は、少し変わるよ」

「変わる、というのは」

「衛兵隊長が毎朝立ち寄る屋台には、誰も因縁を付けない。それだけの話さ」

 マーサは、そう言って、帳場に戻った。

 黒パンは、最後まで余った。誰も、食べたがらなかった。

 夕方、リゼが鍋を洗っていると、老人が一人、樽の前に立った。

 小柄で、背の曲がった男だった。手も、顔も、粉で白かった。粉のにおいが、遠くからでも分かる。麦の粉と――土のにおい。

「もう、無いかね」

「スープは、無い。骨なら、少し」

「……骨で、いい」

 リゼは、鍋の底に残った出汁を温め直し、骨の周りの肉を削いで、椀に入れた。塩を一つまみ。老人は、それを、ゆっくり飲んだ。

 飲み終わって、老人は言った。

「知ってた」

 リゼは、待った。

「土のことだ。わしは製粉所で、四十年、石臼を回してる。粉に何を混ぜたか、手が知ってる。目をつぶってても分かる。……三年前からだ。三年前から、袋の数が変わらんのに、麦の量が減った」

「誰が」

「王都から、男が来た。粉の納め先が変わると言った。街の分と、王都へ納める分。王都の分は軍の粉だと。……その男が、ゲルトに言ったんだ。袋の数だけ合えばいい、とな」

 老人は、白い指を組んだ。

「白土は、月に一度、夜に来る。荷馬車で。麦の袋と同じ袋に入って。石臼にかける前に、麦と一緒に混ぜる。混ぜるのは、ゲルトの甥だ。わしには、混ぜろとは言わん。ただ、混ぜたものを挽けと言う。……挽けば、手が知る。だが、手は喋らん」

 リゼの手が、止まった。

「王都の、誰」

「知らん。名は聞いとらん。だが、紋は見た」

 老人は、粉で白い指で、板の上に、ゆっくりと形を描いた。

 三つの環が、鎖のように連なった形。

 リゼは、その形を知っていた。王宮の食料調達を握る、宰相府の紋だ。追放の朝、リゼの前で「毒を盛った」と読み上げた男の、襟にあった紋。

「……ハンス、と呼んでくれ」

 老人は、椀を置いた。

「四十年、黙ってた。石臼を回してるだけの老いぼれが、何を言ったところで、粉袋一つ動かん。そう思ってた。……だが、今日、皿の底を見た。街の連中が、皿の底を見て、椀を取った。あれを見て、思った。もう、黙ってなくてもいいのかもしれん、と」

 ハンスは、板の上に、銅貨を一枚置いた。

「明日、製粉所に来るんなら、わしが石臼の前に立つ。そこで、粉を溶かせ。皿の底を、ゲルトに見せろ」

 ハンスが去ったあと、マーサが帳場から出てきた。ハンスの背中が、通りの角を曲がるまで見送ってから、言った。

「あのじいさんが、人前で三言以上しゃべったのを、あたしは初めて見たよ」

「そう」

「あんた、明日、製粉所に行くのかい」

「ダンが来るなら」

 マーサは、腕を組んだ。

「行くのはいい。だが、粉に土が混ざってると分かったところで、明日の朝、この街の連中が食うパンは、その粉で焼くしかない。他に粉が無いんだ。うちにも、二日分の蓄えがある。土入りのが」

 リゼは、伏せた鍋を見た。それから、厨房の棚を見た。

「土は、粉より重い」

「それで」

「重さで、分けられるかもしれない。箕で扇ぐか、水を使うか。……まだ分からない」

 分からないことを、分かるとは言わない。試膳官の、最初の作法だ。

「明日の夜、やってみる。粉を、少し分けて」

「皿で払う分は、まだ溜まってるよ」

「分かってる」

 *

 日が落ちた。

 樽の上の鍋は洗って伏せてあり、椀は五つ、重ねて宿の厨房に戻してある。板の上には、銅貨が十六枚。マーサに椀の代金として六枚を返して、残りが十枚。

 リゼは、それを数えて、宿の帳場に置いた。

「場所代」

「皿で払えと言ったろ」

「皿は、明日」

 マーサは、銅貨を見て、鼻を鳴らした。

「取っときな。明日の鶏の分だ」

 厨房の隅で、リゼは包丁を研いだ。砥石は、マーサのものだ。刃を当てる角度を、指が覚えている。王宮の厨房で、毎晩、同じ角度で研いでいた。

 研ぎながら、考えた。

 三つの環の紋。王都の軍用粉。袋の数だけ合えばいい。

 自分を追放した一派が、この辺境の街の、朝のパンに、土を混ぜている。

 追放の朝のことを、少しだけ思い出した。

 王の食卓に出す前の、鶉の煮込み。匙で一口。舌の上で、味が分かれた。鶉、香草、葡萄酒、塩――そして、その奥に、苦い杏の種のような、細い線。ほんの一筋。リゼは匙を置き、皿を下げさせた。王は、その皿を食べなかった。

 半刻後、リゼは「毒を盛った者」として、厨房から連れ出された。

 誰が皿に何を入れたのか、リゼは知らない。知っているのは、あの苦い一筋の味と、読み上げた男の襟の紋だけだ。三つの環。

 ――追放されて、六日。

 その先に、あの連中の手が伸びているとは、思わなかった。いや、伸びているのは当然だ。粉は、王都で食べるだけではない。国中で食べる。国中の粉を握れば、国中の口を握れる。

 リゼは、研ぎ終えた包丁を布で拭いて、鞘に収めた。

 宿の扉が、開いた。

 ダンだった。夜の見回りの途中らしく、松明を持っている。厨房の入口に立ったまま、中には入ってこない。

「明日の朝」

「うん」

「製粉所に行く。ゲルトに、皿を見せる。……あんたも来い」

「なぜ」

「舌が要る」

 ダンは、それだけ言って、扉を閉めた。

 リゼは、伏せた鍋を見た。明日は、この鍋で、もう一杯作る。その前に、製粉所へ行く。粉を溶かす。皿の底を見せる。

 王宮の裏門を出て、六日。

 一皿目は、スープだった。十一杯。

 二皿目は、まだ決めていない。だが、粉は、混ぜ物の無い粉でなければならない。それだけは、決まっている。

 寝る前に、マーサが買ってきた粉袋の口を開け、指先に粉を付けて、舐めた。

 麦。麦の皮。それから、味のない、水を吸う、細かいもの。

 舌の上で、それを分けた。分けて、覚えた。王宮で、毒の味を一つずつ覚えたのと同じやり方で。

 ――もう、見逃さない。

 粉袋の口を縛り、灯りを消した。