
白紙の国の帳簿係 第三話 三十人
谷の向こうの煙は、二十七人だった。名を持たない者ばかりで、全員が痩せていて、全員が何かを隠している。芋は八つ、井戸は一つ。遼は紙を一枚使って、この土地で最初の決まりを書いた。盗まない、数を偽らない、出て行くときは言う。名は書けない。書けないから、印を書いてもらう。三十人めの男は、鍋の前で泣いた。
お使いのブラウザの音声合成を使います。本文が外部へ送信されることはありません。
収入 人、二十七。 支出 紙、一枚。 備考 井戸、一。足りない。
二十七人が、谷を上がってきた。
先頭は、四十くらいの女だった。裸足で、足の甲が黒い。後ろに男が九人、女が十一人、あとは年齢の見当がつかない者が六人。全員が痩せていて、全員が何かを抱えていた。鍋、毛布、木の皿、紐で縛った布の塊。
遼は、入口の石の手前に立って、数えた。
一、二、三。
数え終わるまでに、三回やり直した。列がまっすぐでないと、人は数えにくい。
「二十七」
そう言うと、隣のガルが短く答えた。
「二十七だ」
ガルは立っていた。座っていない。遼はそれに気づいて、少し、背筋が冷えた。
この二日、日のあるうちのガルは入口の石にいた。座って、村に背を向けて、外を見ていた。いま、立っている。
「ガル」
「なんだ」
「立っているな」
「座っていると、遅い」
それだけ言って、ガルは動かなかった。
列が、石の十歩手前で止まった。
先頭の女が、遼を見た。それから、ガルを見た。ガルを見たとき、女の肩が上がった。後ろの何人かが、半歩下がる音がした。
「――ここに、」
女が言いかけて、咳をした。喉が渇いている声だった。
「ここに、数を数える男がいると聞いた」
遼は、桶を持つ手を止めた。
「どこで」
「川下の、炭焼きの小屋で。三日前に、獣人が芋を持って通ったと」
遼はガルを見た。ガルは外を見ていた。
「芋を配ったのか」
「余っていた」
「余っていない」
「余らせた」
遼は、それ以上訊かなかった。
ガルは二日で薪を四本にし、梁を裂き、井戸の縁の石を積み直した。そのあいだに川下まで下りていたということだ。獣人の足は速い。
女に向き直る。
「井原遼です」
「名を名乗るのか」
「名乗ります」
女の目が、少し動いた。
「……こっちは、名が無い」
「知っています」
「知っていて、名乗るのか」
「名乗らないと、話が長くなるので」
女は、返事をしなかった。それから、後ろを振り返らずに言った。
「二十七人だ。食えるものは無い。水も無い。置いてくれとは言わない。ただ、井戸を一晩貸してくれ」
遼は、井戸を見た。
石の縁が欠けた、古い井戸だ。この村で唯一、水の出る場所だった。深さは測っていない。二日前、ミレイと二人で縄を下ろして、三十二回で水に触れた。縄の結び目が三十二。数えられるものが、また一つ増えた。
一晩貸す。
貸す、という言い方をした。
「三十人になります」
「なんだって」
「あなたがたが二十七人。こちらが三人。合わせて三十人です。井戸は一つです」
女の顔が、硬くなった。
「だから、一晩だけと」
「一晩でも三十人です」
遼は、帳面を開いた。
「順番を決めないと、二十七人が一度に縄を下ろします。縄は一本です。桶も一つです。押し合って、誰かが落ちます」
女は、口を開けて、閉じた。
「……順番」
「はい。それと、汲む人を決めます。二十七人が自分の分を自分で汲むと、縄が持ちません。この縄は古い」
遼は、ボールペンを出した。
「三人にします。一人が汲む、一人が受ける、一人が数える。交代は日に三度」
「誰が決める」
「今日は私が決めます。明日からは、決め方を決めます」
女は、遼を見た。
それから、初めて、一歩前に出た。
「あんた、役人か」
「経理です」
「けいり」
「数える係です」
女は、ふん、と鼻から息を出した。
「ちょうどいい。うちは、数えられるものが何もない」
芋は、八つだった。
大が三、小が五。減った三つは、ガルに大きいのを一つ、こちらで小さいのを二つ。
遼は穀倉の床に芋を並べて、それを二十七人に見せた。
見せる、というのが大事だった。
隠すと、人は多いと思うか、少ないと思う。どちらでも、疑いが残る。並べて見せると、八つは八つになる。
「八つです」
誰も何も言わなかった。
「三十人で八つを割ると、一人あたり四分の一より少しだけ多い。今日は、これを煮て、汁にします」
「汁」
後ろのほうで、若い男の声がした。
「汁にすると、増えるのか」
「増えません。増えませんが、行き渡ります」
遼は、芋の一つを持ち上げた。
「芋のまま八つに分けると、もらえるのは八人です。残り二十二人がゼロになる。汁にすると三十人が一杯ずつになります。総量は同じですが、ゼロの人がいなくなる」
男は、まだ納得しない顔をしていた。
「腹は膨れねえ」
「膨れません」
遼は、認めた。
「今日は膨れません。明日、川に行きます。ガルが魚を見ています」
ガルが、入口のほうから言った。
「二尾。たぶん、もっといる」
「二尾」
「深い。取れるかは分からん」
「分からないものは、まだ数に入れません」
遼は帳面を開いて、書いた。
『収入 人、二十七。 支出 芋、八。』
書いてから、少し考えて、その下に足した。
『見込 魚、二尾(未確定)。』
未確定、と書く欄を作ったのは、この世界に来て初めてだった。
前の会社では、見込みを台帳に書くと叱られた。見込みは見込みで別の紙に書け、と。理由は分かる。見込みを収入の欄に混ぜると、あるはずのない金を数えることになる。
だが、ここには別の紙が無い。頁は貴重だ。
だから、同じ頁に、欄を分けて書く。
書いた瞬間、ふいに、自分が何をしているのかが分かった。
規則を、作っている。
芋を並べたあと、遼は、もう一つやった。
「持っているものを、教えてください」
二十七人が、顔を見合わせた。
「教える、とは」
「食べられるもの、容れもの、刃物、火を熾せるもの、寝るもの。その五つです」
先頭の女が、腕を組んだ。
「取り上げるのかい」
「取り上げません」
「じゃあ、なんで訊く」
「無いものを、無いと知るためです」
遼は、帳面の新しい行を開いた。
「いま、ここに火はありません。火打ち石が無いからです。もし二十七人のうちの誰かが火打ち石を持っていたら、今夜、火が熾きます。持っていなければ、今夜は火が無い。どちらなのかを、先に知りたい」
「持ってる者が、出すとは限らんよ」
「出さなくて構いません」
女の眉が動いた。
「出さなくていいのかい」
「持っている、とだけ言ってもらえれば。出すかどうかは、その人が決めます」
女は、しばらく遼を見ていた。
それから、後ろを向いて、大きな声で言った。
「聞いたね。持ってるもんを言いな。渡せとは言われてない」
二十七人が、順に言った。
遼は、書いた。
干した豆、両手にひと掬い。 塩、ひとつまみ。 水袋、四つ。うち二つは穴。 小刀、三本。 鉈、一本。 火打ち石、無し。 鍋、三つ。 木の皿、十四枚。 毛布、九枚。 縄、二尋ほど。
書き終えて、遼は数えた。
「火打ち石は、無しですね」
「無しだ」
ガルが、入口のほうから言った。
「石はある」
全員が、振り返った。
「打つ石なら、川の上に転がっている。俺が取ってくる」
「熾きるのか」
「枯れ草が乾いていれば」
遼は、穀倉の壁際を見た。昨日から干してある枯れ草の束が、少し色を変えている。
「夕方までに、乾きます」
その夜、火が熾きることになった。
書き上げた一覧を、遼はもう一度読み返した。
塩、ひとつまみ。
その行で、指が止まった。
塩を持っていると言ったのは、四十過ぎの男だった。鍋を持っていた男だ。
遼はその男を見た。男は、目を合わせなかった。
遼は、何も言わなかった。
ひとつまみ、という単位は、人によって大きく違う。この男のひとつまみが、実は袋ひとつぶんだったとしても、遼には確かめようがない。
確かめる方法は、二つある。
一つは、全員の荷を開けさせることだ。それをやれば、たぶん塩は出てくる。そして、二十七人はもう二度と、持っているものを正直には言わなくなる。
もう一つは、書いておくことだ。
書いておいて、あとで数が合わなくなったときに、この行を指す。
遼は、二つ目を選んだ。
選んで、帳面の余白に、小さく書き足した。
『塩 ひとつまみ(自己申告)。』
自己申告、という言葉を書くのは、前の職場で何度もやった。
棚卸で数が合わないとき、責めると、次から数字が上がってくるのが遅くなる。遅くなるほうが、合わないより困る。だから責めずに、申告と実測を分けて書いておく。分けておけば、いつか合わなくなったときに、どちらがずれたのかが分かる。
遼は、その欄を作りながら、少しだけ息を吐いた。
自分がこの世界でやれることは、結局これだけだ。
剣は持てない。約定は結べない。名も書けない。
書けるのは、欄だけだ。
夕方までに、揉めごとが三つ起きた。
一つ目は、水の順番だった。
遼は最初、来た順に並べた。列の後ろのほうにいた老人が、二十六番目になった。老人は文句を言わなかったが、前のほうにいた若い男が、老人を前に入れた。入れられた老人が、そのまた前の女に譲った。譲られた女が断った。
列が崩れた。
遼は、崩れたところをしばらく見ていた。
それから、言った。
「並び直します」
「また来た順か」
「いいえ」
遼は、井戸の脇に立った。
「歩ける人から、順に」
「は?」
「歩ける人が先に汲みます。歩けない人は、最後です」
列がざわついた。老人の隣にいた女が、声を上げた。
「あんた、それは逆じゃないか。弱い者を先にするもんだろう」
「弱い人を先にすると、汲むのに時間がかかります」
「だから何だ」
「後ろが長くなります。長くなると、押されます。押されると、いちばん弱い人が押されます」
遼は、老人のほうを見た。
「最後にすると、誰も後ろにいません。押されません。それと、今日の汲み手は私とガルです。明日から交代します」
「……最後にされて、水が無くなったら」
「無くなりません」
「なぜ言い切れる」
「井戸の水位を測っているからです」
遼は、縄を持ち上げて見せた。結び目が三十二。
「今朝、三十二でした。三人で使ったいまが、三十三です。深くなったぶん、結び目が一つ増えました。三十人で汲めば、もっと増えます。一晩で戻るかは、明日の朝に分かります」
女は、縄を見ていた。
「……戻らなかったら」
「そのときは、そう書きます」
二つ目は、鍋だった。
二十七人のうち、鍋を持っていたのは三人だった。大きい鍋が一つ、小さいのが二つ。
汁を作るなら、大きい鍋がいる。持ち主は、四十過ぎの男だった。
「貸さねえ」
男は、そう言った。
「これは、俺の女房のだ」
遼は、頷いた。
「分かりました」
「分かった、で済むのか」
「済みます。鍋はあなたのものです」
遼は、小さい鍋の持ち主のほうを見た。
「では、小さいので二回に分けて――」
「待て」
男が言った。
遼は、待った。
「……使ったあと、返るのか」
「返ります」
「誰が洗う」
「使った人が洗います。三十人で使うので、三十人のうちの誰かです。今日は私が洗います」
「あんたが」
「はい」
男は、鍋を見た。それから、遼を見た。
「割れたら」
「割れたら、割れたと書きます。それから、代わりを探します」
「探して、無かったら」
「無かったと書きます」
男は、返事をしなかった。
それから、鍋を地面に置いて、足で少しだけ遼のほうへ押した。
三つ目は、いちばん面倒だった。
芋を煮ているあいだに、若い男が二人、穀倉の裏で殴り合った。
理由は、片方が布の塊を隠していたからだった。中身は干した豆で、両手にひと掬いくらい。
ガルが二人を引き剥がした。片手ずつ、首の後ろを掴んで。
遼は、豆を見た。
「これは、あなたのですか」
「……」
「訊いているだけです。あなたのなら、あなたのものです」
男は、地面を見ていた。二十歳そこそこに見える。唇が切れて、血が出ていた。
「……途中の畑で、拾った」
「落ちていた?」
「畑にあった」
「畑にあったものを、取った」
男は、答えなかった。
周りの二十六人が、静かになった。
この静かさを、遼は知っている。会議で、誰かの数字が合わないと分かった瞬間の静かさだ。
遼は、豆を男に返した。
「どうぞ」
男が、顔を上げた。
「……返すのか」
「私のものではありませんから」
「盗んだんだぞ」
「盗んだかどうかは、私には分かりません。畑の持ち主に訊かないと分かりません。持ち主はここにいません」
遼は、周りを見回した。
「ただ、一つだけ決めます」
全員が、遼を見た。
「この村の中では、盗みません」
誰も何も言わなかった。
「村の中で、誰かのものを、言わずに取らない。それだけです。外のことは、外の話です」
殴った側の男が、口を開いた。
「決めるって、あんたが決めるのか」
「私が決めても、守られません」
遼は、帳面を閉じた。
「決めるのは、全員です」
その夜、火が熾きた。
二日乾かした枯れ草に、ガルが石を打って火花を落とした。三度目で、煙が上がった。
火が上がったとき、二十七人のうち何人かが、声を上げた。低い、短い声だった。喜ぶ声というより、息を吐く声に近かった。
鍋が火にかかった。芋が八つ入って、水が張られて、塩が無いまま煮えた。
遼は、その脇に座って、紙を広げていた。
台帳の白い頁ではない。台帳の白い頁は、あと五枚しかない。これは、役場の抽斗にあった反故紙で、裏が白かった。
ボールペンで、書いていく。
書きながら、ミレイに読ませた。
「これ、何」
「決まりだ」
「約定?」
「違う」
遼は、首を振った。
「約定は、名を書いて、印を押さないと成立しない。ここには印を押す立会人がいない。だから、これは約定ではない」
「じゃあ、ただの紙じゃない」
「ただの紙だ」
ミレイは、紙から目を上げて、遼を見た。それきり何も言わずに足を投げ出し、膝を抱えた。右の足首は、まだ腫れている。
「ただの紙に、何の意味があるの」
「読めるからだ」
「読める?」
「書いてあると、あとで読める。言っただけだと、言った言わないになる」
遼は、紙を火の明かりに寄せた。
『この地に住む者の決まり。
一、村の中で、人のものを、言わずに取らない。 二、数を偽らない。 三、出て行くときは、出て行くと言う。』
三行だった。
ミレイは、三行を何度か読んだ。
「……少なくない?」
「少ない」
「もっとあるでしょ。喧嘩しないとか、働くとか」
「喧嘩は、する」
遼は、さっき殴り合った二人のほうを見た。二人は鍋の反対側に、離れて座っている。
「人が三十人いれば、喧嘩はする。しないと決めても、する。守れない決まりを書くと、他の決まりまで守られなくなる」
「……」
「働け、も書かない。誰がどれだけ働いたかを数える仕組みが、まだ無い。数えられないことを決まりにすると、決めた側の気分で罰することになる」
ミレイは、膝に顎を乗せた。
「三つだけ」
「三つだけだ。増やすときは、増やすと言ってから増やす」
「なんで、その三つなの」
遼は、少し考えた。
「一つ目は、これが無いと、誰も荷物を置いて寝られないからだ」
「二つ目は」
「二つ目は、私の仕事のためだ」
ミレイが、顔を上げた。
「あんたの?」
「数が合わないと、何もできません。芋が八つだと思って三十人に分けたら、実は六つだった、ということが起きると、二度と数字が信じられなくなる」
「三つ目は」
「三つ目は」
遼は、火を見た。
「出て行く人を、追わないためだ」
ミレイが、黙った。
「出て行くと言えば、追わない。言わずに消えると、こちらは探す。探すと、あの人はどこだ、何を持って行った、という話になる。それが始まると、村は人を疑う場所になる」
火が、はぜた。
「……あんた、変な人」
「よく言われる」
「言われてないでしょ」
「言われています。前の職場で」
二十七人に、紙を回した。
読める者は、三人だけだった。先頭にいた女と、老人と、殴られたほうの若い男。あとは、字を見たことはあっても読めない。
だから、遼は読み上げた。
三行を、二度、声に出して読んだ。
読み終えて、言った。
「守れる人は、ここに印を書いてください」
紙の下半分は、空けてある。
「名前じゃなくていいんですか」
先頭の女が訊いた。
「名前は書けません」
「……そうだね」
「印で構いません。丸でも、線でも、自分で分かるものなら何でも」
「それ、何の意味があるんだい」
遼は、ボールペンを女に渡した。
「あとで、あなたが書いたと、あなたが分かります」
女は、ペンを握った。持ち方が分からないらしく、拳で握った。
しばらく紙を見て、それから、短い横線を三本引いた。
三本の線。
「これでいいかい」
「はい」
「意味はあるのかい」
「私の家の、屋根の形だ」
女は、そう言った。
「無くなったけどね」
二十七人が、順に書いた。
丸を描く者。点を三つ打つ者。爪で紙を引っ掻いて、それを印にした者。手が震えて、線が波打った者。
ガルは、書かなかった。
「俺は入口だ」
そう言って、石に戻った。
遼は、追わなかった。
最後に、ミレイが書いた。ミレイは名前を書けたが、書かなかった。井戸の絵を描いた。下手だった。
遼は、自分の欄に、丸を一つ描いた。
印章は、押さなかった。
石の印章は、懐に入れたままだ。役場の机で拾ってから、一度も出していない。
押せば何が起きるのか、起きないのかを、遼は知らない。知らないものを、人前で試さない。
押して何も起きなかったとき、二十七人がそれを見る。
だから、まだ押さない。
汁ができた。
鍋から、湯気と一緒に、薄い芋のにおいが立った。塩が無いので、においも薄い。
木の皿は十四枚しかなかったので、三回に分けた。
最初の十四人が飲み、洗って、次の十三人が飲んだ。遼とミレイとガルは、三回目だった。
遼が皿を口に運ぼうとしたとき、鍋の前で、音がした。
誰かが、泣いていた。
二十七人めの男だった。
二十歳そこそこに見える。背が高く、肩が薄い。列のいちばん後ろにいて、遼が数えたとき、二十七の最後だった男だ。
男は、鍋の前にしゃがんで、木の柄杓を持ったまま、肩を震わせていた。
「どうしました」
遼が近づくと、男は柄杓を落とした。
「……すまん。すまん」
「何がですか」
「数が、分からん」
男は、鍋を指した。
「あんた、三回に分けると言った。十四と、十三と、三だと。俺は、十三のほうだ」
「はい」
「そのあと、あと何人残ってるか、分からんようになった」
男は、両手で顔を覆った。
「俺は、数が分からん。三つまでしか分からん。四つになると、もう分からん」
周りが、静かになった。
「軍にいたときも、そうだった。荷を数えろと言われて、数えられんかった。嘘を言った。数えたふりをして、適当を言った。それで、荷が足りんことになって」
男の声が、途切れた。
「それで、逃げた」
脱走兵だ、と遼は理解した。
二十七人の何人かが、視線を外した。知っていたのだろう。
遼は、しゃがんだ。
男の目の高さに合わせて、しゃがんだ。
「名前は」
「……トビ」
「トビさん」
「さん、はやめてくれ」
「トビ」
遼は、落ちた柄杓を拾った。
「三つまで分かりますか」
「……分かる」
「では、三つずつ数えてください」
トビが、顔を上げた。
「三つずつ?」
「はい」
遼は、地面に指で線を引いた。
「十四人なら、三、三、三、三、二です。三が四回と、二が一回。三までしか分からないなら、三で区切れば数えられます」
「……」
「三が何回あったかは、指を折ってください。折った指は、目で見れば分かります。指は五本ですから、五回までは数えなくていい」
トビは、自分の手を見た。
「……四回、折れば」
「はい。三が四回で十二。残りが二。合わせて十四です」
トビは、指を折った。一、二、三、四。
それから、もう一度折り直した。
「……十四」
「そうです」
「……十四」
トビは、その数を二度言った。
そして、また泣いた。
さっきとは、泣き方が違った。
遼は、立ち上がって、帳面を開いた。
新しい行に書いた。
『人、三十。』
書いてから、その下に、もう一行足した。
『料理番 トビ。数は三つずつ。』
鍋の火が、小さくなっていた。
ガルが薪をくべた。火が、また上がった。
その明かりが、紙の上を照らして、二十九の印を浮かび上がらせた。丸、線、点、爪の跡。似た形はあっても、同じ形は二つと無い。
三十人めの欄だけが、白いままだった。
遼は、その紙を丸めて、懐に入れた。
入れてから、ふと思った。
この紙は、約定ではない。名も無く、印章も無い。破っても、誰の名も落ちない。
破られたら、どうするのか。
答えは、まだ無かった。
ただ、破られたときにどうするかを決めるのが、たぶん、次の仕事だ。
朝、井戸の縄を下ろした。
結び目が、三十二だった。
戻っている。
遼は、帳面に書いた。
『井戸 昨夜三十四。今朝三十二。戻る。』
書いていると、入口のほうから、ガルの声がした。
「来る」
遼は顔を上げた。
谷を上がってくる道に、土埃が立っていた。
人ではない。四角い。
荷馬車だった。
縦書きでは右から左へ読み進みます。キーボードの ← → でもめくれます。