中世風の石壁の部屋。黒髪を結い上げ、白いレースの婚礼衣装を着た若い女性が正面を向いて立っている。足元の石床に銀の杯が横倒しになり、赤い酒が広がっている。左手前の木の台に火の灯った燭台、背後の壁に紋章の織物、右奥のアーチ窓から満月が見える。
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死に戻り花嫁は、三度目の初夜で毒杯を割る 第三話 香炉を出す

六周目。香炉は、消すのではなく、出す。杯は卓に置き、花は捨て、窓は閉める。三つの毒を、鐘が十になる前に全部潰した。まだ生きている。だから私は、知らないことを一つ、知りに行った。兄が夜、私の部屋を出たあと、どこへ行くのか。狭い階段の上で、背中に何かが触れた。

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六周目。 毒 杯(回避)/花(回避)/香(未回避・灰)/庭(回避) 生存 ――

 鐘が六つ鳴った。

 目を開けずに数えた。六つ。

 天蓋。蔦は十四本。七本目が途切れている。

 六周目です。

 五度死んだ。五度目は、灰だった。水をかけて消した香炉の灰が、閉めきった部屋に甘さを溜めた。

 覚えておくことは、五つある。一つ目から順に、頭の中で並べ直した。

 香炉は、消すのではなく、出す。

 今日は、それだけを変える。ほかは、五周目と同じに進める。

 同じに進めれば、同じ場所に着く。同じ場所に着けば、違うのは一つだけになる。一つだけなら、何が効いたのか分かる。

 いつ変えるか、も決めておく。

 朝のうちに香を断れば、イネスには一日ある。一日あれば、誰かに話す。話された誰かが、夜までに何かを変える。変えられたら、私の知っている夜ではなくなる。

 だから、夕方の少し前。花を活けに来たとき。香に火が入る前で、夜まで一番短いところ。

 *

「よくお休みになれました?」

「ええ」

 イネスの袖。桶。北、東、南。

 鏡。銀の髪飾り。落ちる音。

 九時。車輪。扇の骨が一本、引っかかる。

「では、夜に」

「夜に」

 扇の上で、目が止まる。五周目と同じところで、同じだけ。

 ドルンが車輪を回す。鍵束が鳴る。二十七本。

 昼餉。塩と、乾いた香草。

 広間。兄の右の袖口。

「じゃあ、夜にな」

 ユリウス。犬が三匹。

「北の女もですよ」

 ここまで、五周目と一語も違わない。

 同じ一日を、六度、生きている。台詞の間合いまで、体が先に覚えた。覚えたぶん、周りを見る目が空く。

 今日、空いた目で見たのは、兄の袖口だった。

 右。金の話のあとで、いじる。関所の通行税の話を切ったあと、今日もいじった。四周目、証文の話をしたとき、手は袖口から離れた。

 袖口の内側に、何か入っている。紙の角が、布を押している。

 見ただけだ。触らない。

 *

 午後。部屋に戻ったところで、イネスが花を活けに来た。

 窓辺、寝台の脇、扉の横。三つ。

 隅の香炉には、まだ火が入っていない。火を入れるのは、夜、式のあとだ。三周目も五周目も、私が部屋に戻ったときには、もう焚かれていた。

「イネス」

「はい、お嬢さま」

「香は、焚かないでいただけますか」

 イネスの手が、花の茎の上で止まった。

 止まり方を見た。杯のことを訊いたときと、似ている。疑われた人の止まり方ではない。言われると思っていなかった人の止まり方だ。

「……お香は、お嫌いでいらっしゃいますか」

「強い香りを嗅ぐと、頭が痛くなるのです。南にいたころから」

 嘘ではない。三周目、あの香で、頭は割れるように痛かった。そのあとで死んだ。

「婚礼の夜の香は、このお部屋のしきたりでございまして」

「しきたりなら、焚いてください。ただ、この部屋の外で」

 イネスは、少しのあいだ私を見ていた。

 それから、うなずいた。

「では、お下げいたします。廊下の突き当たりの、小卓に」

 イネスは香炉を二つ、両手に一つずつ持って、出ていった。

 戸口で、一度だけ振り返った。

「……お嬢さまは、南でも、そう仰っていたのでございますか」

「母が、香を焚かない人でしたから」

 これも、嘘ではない。

 イネスは、それ以上訊かなかった。

 持ち上げたとき、中の灰が、さらさらと鳴った。まだ乾いている。

 廊下の突き当たりには、開かない扉がある。十四年閉めたままの、先代夫人の部屋。その前の小卓に、香炉が二つ並んだ。

 花嫁の部屋の扉から、十歩。

 しきたりは、守られた。場所が十歩ずれただけだ。

 イネスが出ていったあと、部屋の隅を見た。香炉のあった場所に、床の石が二つ、丸く白く残っていた。

 長いあいだ、同じところに置かれていた跡だ。

 衣装箱を開けて、母の肩掛けを出した。房の長い、南の織り。五周のあいだ、一度も出さなかった。香炉のない部屋は、夜、少し冷えるかもしれない。

 これは、順番の外だ。変えるのは香炉だけと決めた。けれど、寒さは、誰の順番にも入っていない。

 *

 鐘が七つ。式。

 一言一句。四十人。本家が十二。

 兄は、付き添いの列にいる。袖口。

 *

 夜。三階。

 扉を開けると、部屋の空気が軽かった。香炉のない部屋の空気だ。六周目で、初めて吸う。

 花は、まだ捨てない。鎧戸も、まだ下ろさない。五周目と同じに、兄が帰ってからだ。

 イネスが銀の盆を持って入る。アルヴィスが入ってきて、窓辺へ行き、外を見る。

 盆の前に立って、杯を一つ取り、私に差し出す。

 受け取る。蜜と、果実と、奥に、苔。

 小卓に置く。一滴もこぼさない。

「無理に飲まなくていい。慣れない酒だ」

 同じだった。

 扉が二回鳴る。兄。素焼きの瓶。

「南のだ。北のは口に合わんだろう」

「置いていってください」

「飲まんのか、それ」

「あとで」

「じゃあ、な。……いい家だぞ、ここは」

 袖口をいじって、行った。足音は大階段のほうへ下りていった。

 瓶を小卓に置く。杯の隣。

 花を三つ、窓から捨てた。鎧戸を下ろし、掛け金をかけた。北、東、南。

 杯は卓の上。花は窓の外。香炉は廊下の突き当たり。庭の香は鎧戸の外。

 三つとも、潰した。

 *

 鐘が八つ。九つ。

 寝台の端に座って、これまでを並べた。帳面に書くように。

 一周目。杯。十一時間。  二周目。花。十時間。  三周目。香。九時間。  四周目。庭。十三時間。  五周目。灰。十四時間。

 一周目から三周目まで、一時間ずつ縮んだ。三周目は、厨房に下り、庭を歩き、館じゅうを探して回った。

 四周目から、延びはじめた。知っている順に一日を進めて、余計なことをしないと決めてからだ。

 動けば、縮むのかもしれない。黙っていれば、延びるのかもしれない。

 そう見える。まだ、五つしか並んでいないのに。

 *

 鐘が十。

 生きている。

 五周目は、ここからまだ長かった。今日は、どれだけあるのか分からない。

 長椅子で、アルヴィスは目を閉じている。

 三つとも潰した。残っているのは、知らないことだけだ。

 大叔母が、夜、どこにいるのか。ユリウスが、何をしに厨房へ下りたのか。兄が、私の部屋を出たあと、どこへ行くのか。

 知らないことは、順番の中に置いておく。五周のあいだ、そうしてきた。

 廊下で、足音がした。

 大階段のほうから上がってきて、私の扉の前を、通り過ぎていく。

 重い靴。右の踵を、少し引きずる。昼、広間で聞いた。三周目も、五周目も、この足音のあとで、扉が二回鳴った。

 兄だ。

 私の扉の前で、足音が一度、止まった。

 叩かなかった。

 とうに帰ったはずの兄が、もう一度、三階に上がってきて、私の扉の前に立ち、叩かずに、大階段とは反対の、突き当たりのほうへ遠ざかっていく。

 突き当たりには、香炉と、開かない扉しかない。

 今夜は、毒がない。

 夜の順番の中に、初めて、私の空いた時間がある。

 動けば、縮むのかもしれない。

 けれど、黙って座っていれば、私は毎周、同じ夜の同じ部屋で、知っていることだけを知っている。三つの毒を潰したあとに何が来るのかを、知らないまま死ぬ。

 動くなら、毒のない夜だ。

 燭台を取った。夕方に出しておいた肩掛けを羽織った。房が、腰のあたりで揺れた。

「兄に、言い忘れたことがあります」

 長椅子に、そう言った。

 あの人は、目を開けた。私を見た。燭台を見て、肩掛けを見た。

 何も言わなかった。

 *

 廊下は冷えていた。

 扉を数えた。三階の扉は九つ。昼に数えた九つが、夜も九つある。どれも閉まっている。夜、毒のない三階の廊下を突き当たりまで歩くのは、六周で初めてだった。

 兄の足音は、もう聞こえない。

 突き当たり。小卓の上に、香炉が二つ。火が入っている。細い煙が二本、天井の暗がりへ上っていく。

 煙の横を通るとき、息を止めた。

 香炉の小卓の手前、北の壁に、低い木の戸があった。

 使用人用の、狭い階段の戸。

 戸は、半分開いていた。

 押すと、重い。蝶番の上に、錘が吊ってある。手を離せば、ひとりでに閉まる戸だ。それが、半分のところで止まっている。見ると、戸の下の角が、すり減った敷居の窪みに噛んでいた。

 戸の内側、肘の高さに、閂を受ける鉄の鉤が突き出ている。

 体を横にして、戸と枠のあいだを抜けた。肩掛けの房が、鉤に一度触れて、外れた。

 戸の内側は、狭い石の床だった。開いた戸板は、戸口の脇の壁に沿って寝ている。

 石の床の右手、北の壁の中を少し行ったところに、扉がもう一つあった。見覚えのある鉄の金具。閂が、こちら側から、かかったままになっている。

 私の部屋の、もう一つの扉だ。部屋の内からは出られない。廊下の端のこの戸からなら、ここまで入れる。

 石の床の左手が、下りの段だった。

 下から、声がした。

 兄の声だ。低い。

 燭台の火を手で覆って、一段、下りた。

 壁に手をついた。石が湿っている。北の壁の中は、日が当たらない。

 石の段は狭く、真ん中がすり減って窪んでいる。使用人たちが、毎日、燭台を持って上り下りする階段だ。段の端に、蝋が白く垂れて固まっている。

 二段。三段。

 階段は、途中で一度折れていた。折り返しの小さな踊り場。そこまで下りると、下の段の先に、もう一つ踊り場が見えた。二階の踊り場。燭台が一つ、壁の窪みに置いてある。

 私は、折り返しの踊り場の暗がりに立った。

 兄と、もう一人。

 旅装の男。式のとき、客の列のいちばん後ろにいた。私と同じ、南の言葉を話す。名前は、知らない。

「……年明けまでに、千二百」

 男の声だった。帳面を読むような声だ。

「分かってる」

 兄が言った。袖口をいじっている。紙の角が、布の中で動いている。

「当ては」

「ある」

「どこに」

 兄は、答えなかった。

 笑わなかった。

 五周のあいだ、兄は、私の前では必ず笑った。

 私は、息を止めていた。煙のためではなく。

 千二百。年明け。

 三周目に、書庫の抽斗で見た証文。父の名と、兄の名と、南の家の印。あの紙の中身を、私は読み切っていなかった。読む前に、夜が来た。

 兄は、借りている。

 男が帳面を閉じた。

「では、年明けに」

「ああ」

 男の足音が、下へ遠ざかった。

 ずっと下で、外へ出る戸が開いて、閉まる音がした。

 兄は、踊り場に残った。壁の燭台の前で、袖口から紙を半分引き出し、また押し込んだ。

 それから、こちらを見上げた。

 見上げただけだ。燭台の火の外の暗がりは、下からは見えない。けれど兄は、上がってくる。足が、一段目にかかった。

 私は、踵を返した。

 上れば、戸がある。戸の向こうは三階の廊下だ。兄より先に、廊下へ出ればいい。知らないはずのことを知っている顔で、階段の途中に立っているところを、見られてはいけない。

 燭台を覆った手を離した。足元を照らす。折り返しから、上へ。

 いちばん上の段まで来た。背中の半歩上が、戸口の狭い石の床だ。開いた戸板の鉤が、私の背中の高さで、階段のほうを向いている。

 下で、兄の足音が止まった。

 私は、振り返った。階段の下を見た。兄が、折り返しまで上がってくるのかどうか。

 上から、風が下りてきた。香炉の煙の、甘さを乗せた風。息を止めた。

 背中で、戸が動いた。敷居の窪みから、角が外れる音がした。

 背中を、何かが引いた。

 肩の後ろ。強くはない。けれど、確かに、後ろへ。

 引かれるまま倒れまいとして、体を前へ戻した。前へ戻した足が、いちばん上の段の端に乗った。白く固まった、蝋の上に。

 滑った。

 背中で、何かが千切れる音がした。引いていたものが、急に無くなった。

 燭台が手から離れる。火が、石の壁を一度だけ照らして、消えた。

 誰の顔も、映らなかった。

 落ちた。段の角。窪み。また角。

 折り返しの踊り場の石が、冷たかった。

 上のほうで、戸が閉まる音がした。重い、木の音。

 鐘が鳴った。

 数えた。十一。

 暗がりの下のほうで、兄の息が、一度だけ止まった気がした。

 足音は、止まったままだった。上がっては、こなかった。

 落とされた。

 そう思った。背中を、後ろへ、引かれた。それから、落ちた。

 誰に。

 顔を上げようとして、上がらなかった。石の冷たさが、頬から広がっていく。

 毒ではない。

 毒を三つとも潰して、私は、毒ではないもので死ぬ。

 覚えておくことを、整えた。整えるだけの時間は、灰蜜のときより短かった。

 白くなる前に、一つだけ、掴んだ。

 背中。

六周目。 毒 杯(回避)/花(回避)/香(回避・廊下へ)/庭(回避) 死因 狭い階段。三階の戸から、折り返しの踊り場まで。 生存 九時間。五周目の十四時間から、五時間、縮んだ。三周目と同じ。

覚えておくこと。 一、香炉は、部屋の外へ出せば、部屋には溜まらない。「しきたり」は、場所を変えれば守れる。 二、三つを潰しても、死ぬ。毒でなくても、死ぬ。 三、兄は、夜更けにもう一度三階へ上がってきて、私の扉を叩かずに、狭い階段を下りる。二階の踊り場で、南の言葉を話す旅装の男と会う。年明けまでに、千二百。当ては「ある」。どこにかは、言わない。 四、兄は、私のいないところでは、笑わない。 五、背中を、引かれた。それから、落ちた。誰の顔も、見えなかった。 六、あの人は、燭台と肩掛けを見て、何も言わなかった。

 鐘が六つ鳴った。

 目を開けずに数えた。

 背中に、まだ、何かが触れている気がした。