
死に戻り花嫁は、三度目の初夜で毒杯を割る 第三話 香炉を出す
六周目。香炉は、消すのではなく、出す。杯は卓に置き、花は捨て、窓は閉める。三つの毒を、鐘が十になる前に全部潰した。まだ生きている。だから私は、知らないことを一つ、知りに行った。兄が夜、私の部屋を出たあと、どこへ行くのか。狭い階段の上で、背中に何かが触れた。
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六周目。 毒 杯(回避)/花(回避)/香(未回避・灰)/庭(回避) 生存 ――
鐘が六つ鳴った。
目を開けずに数えた。六つ。
天蓋。蔦は十四本。七本目が途切れている。
六周目です。
五度死んだ。五度目は、灰だった。水をかけて消した香炉の灰が、閉めきった部屋に甘さを溜めた。
覚えておくことは、五つある。一つ目から順に、頭の中で並べ直した。
香炉は、消すのではなく、出す。
今日は、それだけを変える。ほかは、五周目と同じに進める。
同じに進めれば、同じ場所に着く。同じ場所に着けば、違うのは一つだけになる。一つだけなら、何が効いたのか分かる。
いつ変えるか、も決めておく。
朝のうちに香を断れば、イネスには一日ある。一日あれば、誰かに話す。話された誰かが、夜までに何かを変える。変えられたら、私の知っている夜ではなくなる。
だから、夕方の少し前。花を活けに来たとき。香に火が入る前で、夜まで一番短いところ。
*
「よくお休みになれました?」
「ええ」
イネスの袖。桶。北、東、南。
鏡。銀の髪飾り。落ちる音。
九時。車輪。扇の骨が一本、引っかかる。
「では、夜に」
「夜に」
扇の上で、目が止まる。五周目と同じところで、同じだけ。
ドルンが車輪を回す。鍵束が鳴る。二十七本。
昼餉。塩と、乾いた香草。
広間。兄の右の袖口。
「じゃあ、夜にな」
ユリウス。犬が三匹。
「北の女もですよ」
ここまで、五周目と一語も違わない。
同じ一日を、六度、生きている。台詞の間合いまで、体が先に覚えた。覚えたぶん、周りを見る目が空く。
今日、空いた目で見たのは、兄の袖口だった。
右。金の話のあとで、いじる。関所の通行税の話を切ったあと、今日もいじった。四周目、証文の話をしたとき、手は袖口から離れた。
袖口の内側に、何か入っている。紙の角が、布を押している。
見ただけだ。触らない。
*
午後。部屋に戻ったところで、イネスが花を活けに来た。
窓辺、寝台の脇、扉の横。三つ。
隅の香炉には、まだ火が入っていない。火を入れるのは、夜、式のあとだ。三周目も五周目も、私が部屋に戻ったときには、もう焚かれていた。
「イネス」
「はい、お嬢さま」
「香は、焚かないでいただけますか」
イネスの手が、花の茎の上で止まった。
止まり方を見た。杯のことを訊いたときと、似ている。疑われた人の止まり方ではない。言われると思っていなかった人の止まり方だ。
「……お香は、お嫌いでいらっしゃいますか」
「強い香りを嗅ぐと、頭が痛くなるのです。南にいたころから」
嘘ではない。三周目、あの香で、頭は割れるように痛かった。そのあとで死んだ。
「婚礼の夜の香は、このお部屋のしきたりでございまして」
「しきたりなら、焚いてください。ただ、この部屋の外で」
イネスは、少しのあいだ私を見ていた。
それから、うなずいた。
「では、お下げいたします。廊下の突き当たりの、小卓に」
イネスは香炉を二つ、両手に一つずつ持って、出ていった。
戸口で、一度だけ振り返った。
「……お嬢さまは、南でも、そう仰っていたのでございますか」
「母が、香を焚かない人でしたから」
これも、嘘ではない。
イネスは、それ以上訊かなかった。
持ち上げたとき、中の灰が、さらさらと鳴った。まだ乾いている。
廊下の突き当たりには、開かない扉がある。十四年閉めたままの、先代夫人の部屋。その前の小卓に、香炉が二つ並んだ。
花嫁の部屋の扉から、十歩。
しきたりは、守られた。場所が十歩ずれただけだ。
イネスが出ていったあと、部屋の隅を見た。香炉のあった場所に、床の石が二つ、丸く白く残っていた。
長いあいだ、同じところに置かれていた跡だ。
衣装箱を開けて、母の肩掛けを出した。房の長い、南の織り。五周のあいだ、一度も出さなかった。香炉のない部屋は、夜、少し冷えるかもしれない。
これは、順番の外だ。変えるのは香炉だけと決めた。けれど、寒さは、誰の順番にも入っていない。
*
鐘が七つ。式。
一言一句。四十人。本家が十二。
兄は、付き添いの列にいる。袖口。
*
夜。三階。
扉を開けると、部屋の空気が軽かった。香炉のない部屋の空気だ。六周目で、初めて吸う。
花は、まだ捨てない。鎧戸も、まだ下ろさない。五周目と同じに、兄が帰ってからだ。
イネスが銀の盆を持って入る。アルヴィスが入ってきて、窓辺へ行き、外を見る。
盆の前に立って、杯を一つ取り、私に差し出す。
受け取る。蜜と、果実と、奥に、苔。
小卓に置く。一滴もこぼさない。
「無理に飲まなくていい。慣れない酒だ」
同じだった。
扉が二回鳴る。兄。素焼きの瓶。
「南のだ。北のは口に合わんだろう」
「置いていってください」
「飲まんのか、それ」
「あとで」
「じゃあ、な。……いい家だぞ、ここは」
袖口をいじって、行った。足音は大階段のほうへ下りていった。
瓶を小卓に置く。杯の隣。
花を三つ、窓から捨てた。鎧戸を下ろし、掛け金をかけた。北、東、南。
杯は卓の上。花は窓の外。香炉は廊下の突き当たり。庭の香は鎧戸の外。
三つとも、潰した。
*
鐘が八つ。九つ。
寝台の端に座って、これまでを並べた。帳面に書くように。
一周目。杯。十一時間。 二周目。花。十時間。 三周目。香。九時間。 四周目。庭。十三時間。 五周目。灰。十四時間。
一周目から三周目まで、一時間ずつ縮んだ。三周目は、厨房に下り、庭を歩き、館じゅうを探して回った。
四周目から、延びはじめた。知っている順に一日を進めて、余計なことをしないと決めてからだ。
動けば、縮むのかもしれない。黙っていれば、延びるのかもしれない。
そう見える。まだ、五つしか並んでいないのに。
*
鐘が十。
生きている。
五周目は、ここからまだ長かった。今日は、どれだけあるのか分からない。
長椅子で、アルヴィスは目を閉じている。
三つとも潰した。残っているのは、知らないことだけだ。
大叔母が、夜、どこにいるのか。ユリウスが、何をしに厨房へ下りたのか。兄が、私の部屋を出たあと、どこへ行くのか。
知らないことは、順番の中に置いておく。五周のあいだ、そうしてきた。
廊下で、足音がした。
大階段のほうから上がってきて、私の扉の前を、通り過ぎていく。
重い靴。右の踵を、少し引きずる。昼、広間で聞いた。三周目も、五周目も、この足音のあとで、扉が二回鳴った。
兄だ。
私の扉の前で、足音が一度、止まった。
叩かなかった。
とうに帰ったはずの兄が、もう一度、三階に上がってきて、私の扉の前に立ち、叩かずに、大階段とは反対の、突き当たりのほうへ遠ざかっていく。
突き当たりには、香炉と、開かない扉しかない。
今夜は、毒がない。
夜の順番の中に、初めて、私の空いた時間がある。
動けば、縮むのかもしれない。
けれど、黙って座っていれば、私は毎周、同じ夜の同じ部屋で、知っていることだけを知っている。三つの毒を潰したあとに何が来るのかを、知らないまま死ぬ。
動くなら、毒のない夜だ。
燭台を取った。夕方に出しておいた肩掛けを羽織った。房が、腰のあたりで揺れた。
「兄に、言い忘れたことがあります」
長椅子に、そう言った。
あの人は、目を開けた。私を見た。燭台を見て、肩掛けを見た。
何も言わなかった。
*
廊下は冷えていた。
扉を数えた。三階の扉は九つ。昼に数えた九つが、夜も九つある。どれも閉まっている。夜、毒のない三階の廊下を突き当たりまで歩くのは、六周で初めてだった。
兄の足音は、もう聞こえない。
突き当たり。小卓の上に、香炉が二つ。火が入っている。細い煙が二本、天井の暗がりへ上っていく。
煙の横を通るとき、息を止めた。
香炉の小卓の手前、北の壁に、低い木の戸があった。
使用人用の、狭い階段の戸。
戸は、半分開いていた。
押すと、重い。蝶番の上に、錘が吊ってある。手を離せば、ひとりでに閉まる戸だ。それが、半分のところで止まっている。見ると、戸の下の角が、すり減った敷居の窪みに噛んでいた。
戸の内側、肘の高さに、閂を受ける鉄の鉤が突き出ている。
体を横にして、戸と枠のあいだを抜けた。肩掛けの房が、鉤に一度触れて、外れた。
戸の内側は、狭い石の床だった。開いた戸板は、戸口の脇の壁に沿って寝ている。
石の床の右手、北の壁の中を少し行ったところに、扉がもう一つあった。見覚えのある鉄の金具。閂が、こちら側から、かかったままになっている。
私の部屋の、もう一つの扉だ。部屋の内からは出られない。廊下の端のこの戸からなら、ここまで入れる。
石の床の左手が、下りの段だった。
下から、声がした。
兄の声だ。低い。
燭台の火を手で覆って、一段、下りた。
壁に手をついた。石が湿っている。北の壁の中は、日が当たらない。
石の段は狭く、真ん中がすり減って窪んでいる。使用人たちが、毎日、燭台を持って上り下りする階段だ。段の端に、蝋が白く垂れて固まっている。
二段。三段。
階段は、途中で一度折れていた。折り返しの小さな踊り場。そこまで下りると、下の段の先に、もう一つ踊り場が見えた。二階の踊り場。燭台が一つ、壁の窪みに置いてある。
私は、折り返しの踊り場の暗がりに立った。
兄と、もう一人。
旅装の男。式のとき、客の列のいちばん後ろにいた。私と同じ、南の言葉を話す。名前は、知らない。
「……年明けまでに、千二百」
男の声だった。帳面を読むような声だ。
「分かってる」
兄が言った。袖口をいじっている。紙の角が、布の中で動いている。
「当ては」
「ある」
「どこに」
兄は、答えなかった。
笑わなかった。
五周のあいだ、兄は、私の前では必ず笑った。
私は、息を止めていた。煙のためではなく。
千二百。年明け。
三周目に、書庫の抽斗で見た証文。父の名と、兄の名と、南の家の印。あの紙の中身を、私は読み切っていなかった。読む前に、夜が来た。
兄は、借りている。
男が帳面を閉じた。
「では、年明けに」
「ああ」
男の足音が、下へ遠ざかった。
ずっと下で、外へ出る戸が開いて、閉まる音がした。
兄は、踊り場に残った。壁の燭台の前で、袖口から紙を半分引き出し、また押し込んだ。
それから、こちらを見上げた。
見上げただけだ。燭台の火の外の暗がりは、下からは見えない。けれど兄は、上がってくる。足が、一段目にかかった。
私は、踵を返した。
上れば、戸がある。戸の向こうは三階の廊下だ。兄より先に、廊下へ出ればいい。知らないはずのことを知っている顔で、階段の途中に立っているところを、見られてはいけない。
燭台を覆った手を離した。足元を照らす。折り返しから、上へ。
いちばん上の段まで来た。背中の半歩上が、戸口の狭い石の床だ。開いた戸板の鉤が、私の背中の高さで、階段のほうを向いている。
下で、兄の足音が止まった。
私は、振り返った。階段の下を見た。兄が、折り返しまで上がってくるのかどうか。
上から、風が下りてきた。香炉の煙の、甘さを乗せた風。息を止めた。
背中で、戸が動いた。敷居の窪みから、角が外れる音がした。
背中を、何かが引いた。
肩の後ろ。強くはない。けれど、確かに、後ろへ。
引かれるまま倒れまいとして、体を前へ戻した。前へ戻した足が、いちばん上の段の端に乗った。白く固まった、蝋の上に。
滑った。
背中で、何かが千切れる音がした。引いていたものが、急に無くなった。
燭台が手から離れる。火が、石の壁を一度だけ照らして、消えた。
誰の顔も、映らなかった。
落ちた。段の角。窪み。また角。
折り返しの踊り場の石が、冷たかった。
上のほうで、戸が閉まる音がした。重い、木の音。
鐘が鳴った。
数えた。十一。
暗がりの下のほうで、兄の息が、一度だけ止まった気がした。
足音は、止まったままだった。上がっては、こなかった。
落とされた。
そう思った。背中を、後ろへ、引かれた。それから、落ちた。
誰に。
顔を上げようとして、上がらなかった。石の冷たさが、頬から広がっていく。
毒ではない。
毒を三つとも潰して、私は、毒ではないもので死ぬ。
覚えておくことを、整えた。整えるだけの時間は、灰蜜のときより短かった。
白くなる前に、一つだけ、掴んだ。
背中。
六周目。 毒 杯(回避)/花(回避)/香(回避・廊下へ)/庭(回避) 死因 狭い階段。三階の戸から、折り返しの踊り場まで。 生存 九時間。五周目の十四時間から、五時間、縮んだ。三周目と同じ。
覚えておくこと。 一、香炉は、部屋の外へ出せば、部屋には溜まらない。「しきたり」は、場所を変えれば守れる。 二、三つを潰しても、死ぬ。毒でなくても、死ぬ。 三、兄は、夜更けにもう一度三階へ上がってきて、私の扉を叩かずに、狭い階段を下りる。二階の踊り場で、南の言葉を話す旅装の男と会う。年明けまでに、千二百。当ては「ある」。どこにかは、言わない。 四、兄は、私のいないところでは、笑わない。 五、背中を、引かれた。それから、落ちた。誰の顔も、見えなかった。 六、あの人は、燭台と肩掛けを見て、何も言わなかった。
鐘が六つ鳴った。
目を開けずに数えた。
背中に、まだ、何かが触れている気がした。
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