
偽聖女として追放されたので、隣国で薬屋を始めました 第三話 しろ苔
石臼ができた日、街道の行商サシャが荷車を引いてやってくる。口が回る。値段に細かい。しろ苔、一袋三十。ミアは「はい」と言いかけて、ネイの顔を思い出す。仕入れ値を考えろ、とサシャは笑った。値切られる側に回ったら、最初の値に何を入れておくか。咳の止まらない行商人に、ミアは新しい臼で最初の薬を挽く。
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石臼は、三日目の朝にできていた。
鍛冶場の丸太の上に、灰色の器が一つ、置いてある。両手で包めるくらいの大きさ。深さは指四本。縁は丸く落としてあって、内側は、指でなぞると細かくざらつく。
「つるつるにするな、だったろ」
ネイが、炉の前から言った。
「はい。ちょうどいいです」
「杵は、樫。持ち手を太くしといた。あんた、握りが弱そうだから」
ネイは、右手で鉄を返した。金槌を取り直す。眉のあいだは、狭くならなかった。
「……巻いてますか」
「毎晩、炉の湯で温め直して、自分で巻いてる。片手で巻ける巻き方、覚えた。でも、二晩目で、においが薄い。また煮てくれ」
「はい」
「三枚だろ。煮てから払う」
杵を握った。太い。手のひらに、ちょうど収まる。
ミアは、石臼を膝に載せて、しばらく撫でていた。
王国に置いてきた臼は、祖母のものだった。重くて、持って出られなかった。あれより小さくて、あれより新しい。削った石のにおいがまだする。
「銀貨二枚」
ネイが言った。
ミアは、袋から銀貨を出しかけて、手を止めた。
「……一枚と、半分」
ネイが、金槌を置いた。
振り返って、ミアの顔を見た。
「言ったね」
「言いました。言えって言われたので」
「三日前に言え、それは」
「三日前は、言えませんでした」
ネイは、しばらくミアを見ていた。それから、腹を抱えて笑った。
「二枚だ。できてから値切るやつがあるか。値切るのは、頼む前だ」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。できたあとで値切ったら、職人は次から手を抜く」
ミアは、銀貨を二枚、鉄床の上に置いた。
「覚えました」
「覚えな」
ネイは銀貨を拾って、前掛けの革袋に入れた。
「……でも、言えたのは、悪くない」
*
昼過ぎに、車輪の音がした。
街道の東から、荷車が一台、ゆっくり下ってくる。引いているのは驢馬で、横を男が歩いている。荷台には、布をかけた箱と、縄で縛った袋が山になっている。
男は、枯れ井戸亭の前で驢馬を止めて、大きな声を出した。
「ボルグ! 生きてるか! 熱で死にかけたって、峠で聞いたぞ!」
宿の戸が開いて、ボルグが顔を出した。
「生きてる」
「なんで生きてる」
「薬を飲んだ」
「薬?」
男が、通りを見回した。ボルグが、顎で向かいの店を指した。
ミアは、店の戸口で石臼を両手で持っていた。
男と、目が合った。
三十半ば。日に焼けて、口のまわりの皺が深い。よく笑う人の皺だ。帽子を脱いで、胸に当てた。
「これはどうも。サシャといいます。行商を」
「ミアです。薬を」
「薬屋さん。この街に」
サシャは、店の窓を見た。棚の、いちばん手の届く段。袋が五つと、縁に並べた葉。
「ボルグの熱を下げたのは、あんたか」
「はい」
「あのボルグが、人から薬をもらって飲んだ。街道じゅうに話が広がるね」
そう言って、咳をした。
乾いた咳だった。喉の奥で、小さく二度。口を押さえて、笑ってごまかした。
「失礼。峠の埃でね」
ミアは、その咳を聞いていた。
聞いただけだった。まだ、頼まれていない。
*
「で、薬屋さん。草は要る?」
サシャは荷台の縄を解いた。袋が、次々に下ろされる。口を開けると、乾いた草のにおいが、通りに広がった。
ミアは、袋の前にしゃがんだ。
知っている草がある。知らない草もある。南の草は、手帳に名前と絵しかないものが多い。
「これ、しろ苔ですね」
白っぽい、縮れた苔が、袋いっぱいに詰まっている。
「お目が高い。東の峠の、北向きの岩場で採れる。一袋、三十」
銅貨で三十。
ミアは、「はい」と言いかけた。
口が、半分開いた。
そこで、ネイの顔を思い出した。値切るのは、頼む前だ。二枚と言われたら、一枚半。
「……二十二」
言ってみた。
サシャが、眉を上げた。それから、にやりと笑った。
「四分の三から始めたね。誰に習った」
「ネイさんに」
「だろうね」
サシャは、袋の口を少し広げた。
「じゃあ、訊くよ。二十二って、どこから出てきた」
「……二枚なら一枚半、って、ネイさんが」
「それは、始め方だ。値段じゃない」
サシャは、袋の横にしゃがんで、ミアと目の高さを合わせた。
「値切るのは、相手の儲けを削ることだ。削りすぎたら、相手は来なくなる。削らなすぎたら、あんたが飢える。だから、相手がいくらで仕入れたかを考える。考えたか?」
「考えていません」
「正直だね」
サシャは、指を一本立てた。
「このしろ苔は、東の峠の手前の村で、婆さんたちが岩から剥がして干したものだ。俺は、それを一袋いくらで買ったと思う」
ミアは、袋を見た。
剥がすのに、半日。干すのに、晴れて三日。婆さんたちの手間。
ボルグが言っていた。あんたの半刻は、ただじゃない。
「……十二、くらい」
「十だ」
サシャは、あっさり言った。
「いい線だよ。で、十で買ったものを、三十で売る。高いと思う?」
「思います」
「俺は三日、峠を越える。驢馬が食う。宿に泊まる。それと――」
サシャは、別の袋を持ち上げた。同じ、しろ苔の袋だ。
「十袋仕入れると、一袋か二袋は、ここに着くまでに駄目になる。湿気でね。その分も、残りの袋に乗せてる」
ミアは、サシャが持ち上げた袋に、顔を近づけた。
嗅いだ。
しろ苔のにおいは、乾いた土と、ほんの少しの甘さ。その下に、もう一つある。
湿った布を、何日も置いたときのにおい。
「その袋、もう駄目になりかけています」
サシャの手が止まった。
「……分かるのか」
「においで。袋の底のほうです。干しきらないうちに詰めたんだと思います。上は乾いていても、底に湿りが残ると、そこから黴びます」
サシャは、袋を逆さにして、底のほうを手で探った。
出てきた苔は、白ではなく、灰色がかって、しっとりしていた。
サシャは、長く息を吐いた。
「……峠の村のどこで仕入れたやつか、分かる。雨の翌日に持ってきた家だ」
「干すとき、雨の翌日は、三日じゃなくて五日です。祖母の手帳に書いてあります。薄く広げて、朝と昼に返す。握って、きしきし鳴るまで」
「音」
「乾いた苔は、握ると、きしきし鳴ります。鳴らなくなったら、まだです」
サシャは、上の乾いた苔を一つまみ取って、耳の横で握った。
きし、と鳴った。
底の苔を握った。鳴らなかった。
サシャは、しばらく黙っていた。
それから、帽子をかぶり直した。
「……それを峠の村で言ったら、俺の駄目になる袋が減る」
「減ると思います」
「減ったら、残りの袋に乗せる分が減る」
「……減ると思います」
サシャは、笑った。さっきまでの笑いとは、少し違った。
「二十五」
「え」
「一袋、二十五。今日の講義代で、五引く。二十二じゃ、峠と驢馬と、駄目になる袋の分が出ない。二十五なら出る」
ミアは、袋を見た。二十五。十で仕入れて、峠を越えて、駄目になる袋の分を乗せて、二十五。
「……はい。二十五で。一袋ください」
「毎度」
ミアは、銀貨を一枚出した。サシャは腰の袋から銅貨を数えて、七十五枚、石の段の上に十枚ずつ積んだ。
ミアは、それを数えた。七つと、五枚。
「数えるんだね」
「ボルグさんが、銅貨を一枚ずつ並べる人なので」
「ボルグは正しい」
*
サシャは、また咳をした。
今度は、止まらなかった。三度、四度。喉の奥で、乾いた音が続く。背中を丸めて、荷台の縁を掴んだ。
止まってから、サシャは顔を上げて、笑おうとした。
「……峠の、埃で」
「いつからですか」
「十日。いや、半月か。峠を越えるたびに、ひどくなる」
「夜は」
「夜のほうが出る。寝返りを打つと」
「痰は」
「出ない。空咳だ」
ミアは、サシャの喉のあたりを見た。それから、手のひらを見せてもらった。乾いている。唇も、ひび割れている。
「熱はありませんね」
「ない。咳だけだ」
ミアは、少し考えた。
手帳の、しろ苔の頁。咳にはしろ苔。祖母は、その下に、細かい字で何行も書き足している。どの行も、「ただし」で始まる。
ミアは、その「ただし」を、一つずつ頭の中でたどった。熱がない。痰がない。乾いている。埃のある道を行き来している。
この咳なら、しろ苔が効く。
「作ります。いま、ここで」
「売り物か」
「薬です。売り物です」
言えた。
サシャが、また眉を上げた。
*
石臼を、店の床に置いた。
初めて使う。
しろ苔を一つかみ、臼に入れる。いま買った袋から。
自分の袋のしろ苔は、王国の岩場で、去年摘んだものだ。二年目の苔は、効きが落ちる。手帳にそうある。だから、今日の一さじは、新しい袋から。
杵で、押して、回す。叩かない。しろ苔は、叩くと粉が舞って、吸った人のほうが咳き込む。
押して、回す。
臼の内側のざらつきが、苔を噛む。つるつるだと、苔は滑って逃げる。ネイの臼は、逃がさなかった。
ざり、ざり、と音がする。白い苔が、灰色がかった粉になっていく。においが立つ。乾いた土と、ほんの少しの甘さ。
「いい臼だ」
サシャが、戸口から覗き込んで言った。
「いい臼です」
粉を、小鍋に一さじ。水を椀一杯ぶん。
沸かさない。沸く手前まで温めて、火から下ろす。しろ苔は、煮立てると苦みだけが出て、効くところが逃げる。手帳には「湯気が立ったら下ろせ。泡が立ったら遅い」とある。
湯気が立った。下ろした。
蓋をして、ゆっくり百五十。
数えながら、ミアは布を用意した。乾かすのは峠の村の婆さんたち、砕くのはネイの臼、それから湯と、布。この街の、この店で、四つの手順が初めて全部そろう。
百五十。
布で漉した。薄い黄色の、濁りのない湯になった。
「どうぞ。熱いうちに、少しずつ。一度に飲まないで、湯気を吸いながら」
サシャは、椀を両手で持った。湯気に顔を近づけて、息を吸った。
「……苔くさい」
「しろ苔なので」
「名前どおりか」
「名前どおりです」
サシャは、一口すすった。顔をしかめた。もう一口。
椀が空になるまで、少し時間がかかった。そのあいだ、咳は出なかった。
出なかったのは、飲んでいるあいだだけかもしれない。ミアはそれを知っている。
「今夜、寝返りのときに出るかどうか、です。出たら、明日も飲んでください。出なかったら――」
「出なかったら?」
「それでも、次に峠を越える前に、もう一度」
*
「で、いくらだ」
サシャは、椀を返しながら言った。
ミアは、口を開けて、閉じた。
一椀、銅貨二枚。ボルグが決めた値段だ。
でも、いまのは、ただの一椀ではない。
「……峠に持っていく分も、要りますよね」
「要るね。峠を越えるたびにひどくなるって言ったろ」
「なら、粉を包みます。三回分。自分で温めて、漉して、飲めるように」
ミアは、考えた。
しろ苔は、一袋二十五で買った。一袋で、粉が、たぶん三十回分は取れる。一回分は、一枚にもならない。
臼で挽いた時間。数えた百五十。包む紙。
ボルグなら、いくらと言うだろう。一椀は二枚。持ち帰りの粉は、一回分が一枚。苔の値と、挽く手間と、紙で。
「……五枚です。今の一椀で二枚、持ち帰りの三回分で三枚」
「四枚」
サシャが、即座に言った。
値切られた。
ミアは、ボルグの声を思い出した。値切られたら、一枚だけ引け。
「……四枚、です」
「三枚」
「引きません」
自分で、少し驚くくらい、はっきり言えた。
「一枚は、引きました。二枚は引きません。二枚引いたら、最初の五枚が嘘だったことになります」
サシャは、しばらくミアを見ていた。
それから、声を上げて笑った。咳は、出なかった。
「ボルグだな。一字一句、ボルグだ」
サシャは、腰の袋から銅貨を四枚出して、ミアの手のひらに置いた。
「一つだけ、教えとく。値切られる側に回ったら、最初の値に、引かれる一枚を入れておけ」
「入れて」
「あんたは今、四枚が本当の値だと思って、五枚って言ったか?」
ミアは、少し考えた。
「……いいえ。五枚が本当の値だと思って、五枚と言いました」
「だろ。だから、一枚引かれて、あんたは一枚損をした。本当の値が五枚なら、最初に六枚って言うんだ。引かれて五枚。それで、お互いに顔が立つ」
「それは、嘘になりませんか」
「嘘じゃない。始め方だ」
サシャは、帽子のつばを指で弾いた。
「ネイもボルグも、半分ずつ正しい。ネイは、値切れって言う。ボルグは、一枚しか引くなって言う。両方やるには、最初の一言に、一枚ぶん余白を置くんだよ」
ミアは、手のひらの四枚を見た。
余白。
祖母の手帳の、どの頁にも、端に余白がある。書き足すための余白だ。祖母は、そこに「ただし」を書いた。
「覚えました」
「覚えな」
ネイと、同じ言い方だった。
*
日が傾くころ、サシャは荷車の縄を締め直していた。
「そういえば、薬屋さん」
縄を引きながら、サシャが言った。
「その棚の端の、青いにおいの葉。月花だろ」
「はい。来る途中で摘みました」
「余ってたら、俺が買う。南の相場の、三倍出す」
ミアは、手を止めた。
「三倍」
「三倍」
「……どうして」
サシャは、縄の結び目を確かめた。
「峠を越えて、ぐるっと回った先で、欲しがる人がいる。それ以上は、商売の話だ」
ミアは、首をかしげた。
月花は、南ではどこにでも咲いている。来る途中の道端にもあった。どこにでもあるものを、三倍で欲しがる人がいる。
どこでだろう。
ミアは、棚の月花を見た。半袋。来る途中で、根を残して、葉だけ摘んだもの。
「……半袋しか、ありません。私が使う分です」
「なら、いい。気が変わったら、次に来たとき言ってくれ」
サシャは、驢馬の首を叩いた。
「次は、十日後。明日は南の村へ回る。しろ苔の干し方、帰りに峠の村で言っとくよ。雨の翌日は五日。握って、きしきし鳴るまで」
「朝と昼に、返してください」
「朝と昼に返す」
サシャは、手を上げて、宿のほうへ歩いていった。ボルグの宿に泊まるのだろう。一泊、銅貨六枚。
*
その夜、ミアは棚の前に立った。
十二段のうち、いちばん手の届く段に、袋が五つ。その隣に、六つ目を置いた。しろ苔の、新しい袋。
石臼は、棚のいちばん下の段に置いた。重いものは、下に。
それから、袋の中の銭を数えた。
銀貨が一枚。銅貨が、ネイの三枚と、サシャのお釣りの七十五枚と、今日の四枚。八十二枚。
国境の門の前で、銀貨は四枚あった。いまは、一枚と、銅貨が八十二枚。
減った。でも、臼がある。しろ苔が一袋ある。棚がある。
ミアは、手帳を開いた。
しろ苔の頁の、いちばん下の余白に書いた。
――しろ苔。臼で押して回す(叩かない、粉が舞う)。一さじに椀一杯。沸かさず、湯気で下ろす。蓋をして百五十。漉す。湯気を吸いながら、少しずつ。三十代、男、行商。空咳、半月。熱なし、痰なし、埃の峠。飲むあいだ、出ず。夜は、まだ分からない。
書いてから、少し考えて、もう一行、足した。
――仕入れ、一袋二十五(十で買って、峠と、湿気の分)。売り、一椀二枚と持ち帰り三回で五枚、一枚引いて四枚。最初に六枚と言うのは、嘘か、始め方か。ボルグさんに訊く。
夜、向かいの宿の二階から、咳が聞こえた。
ミアは、手帳から顔を上げて、耳を澄ませた。
一度。
それきり、静かになった。
ミアは、手帳の「夜は、まだ分からない」の横に、小さく書き足した。
――一度。
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