
偽聖女として追放されたので、隣国で薬屋を始めました 第二話 鉄葉の湿布
借りた釘抜きを返しに、朝のうちに鍛冶場へ行く。片腕の鍛冶屋ネイは、動かない左腕を「痛くない」と言う。嘘だ。金槌を持ち替えるとき、顔が動く。ミアは初めて「治りません」と口にする。動くようにはならない。でも、痛みは引く。鉄葉を砕いて、煮出して、熱いうちに布に広げる。そして宿の主ボルグが、約束どおり、値段の付け方を教え始める。
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朝のうちにおいで、とネイは言った。昼は暑い。
だからミアは、鐘が鳴る前に通りを南へ歩いた。右手に、借りた釘抜き。左手に、布の袋を一つ。袋の中身は、乾かした鉄葉だ。
動かない腕は、たいてい痛む。祖母の手帳に、そう書いてある。昨日、袖の中で動いていない左腕を見たときから、持っていくつもりだった。
鍛冶場は、低い煙突のある建物だった。戸は開いていて、中から、鉄を叩く音が一定の間隔で聞こえてくる。
かん。かん。かん。
ミアは戸口で止まって、中を見た。
ネイは、炉の前に立っていた。右手に金槌。鉄床の上に、赤くなった鉄の棒。左腕は、袖の中で、体の横に垂れている。
叩く。返す。叩く。
返すときが、問題だった。
鉄を返すには、普通、両手を使う。片手で挟み、片手で叩く。ネイは、挟む手が無い。だから、金槌を置いて、右手で鉄鋏を取って、返して、鉄鋏を置いて、金槌を取る。
その、金槌を取り直すときに、ネイの顔が動いた。
ほんの少し。眉のあいだが、狭くなる。それだけだ。叩き始めると、戻る。
ミアは、それを三度見た。
三度目で、ネイがこちらに気づいた。
「早いね」
「朝のうちに、と伺ったので」
「言ったね」
ネイは金槌を鉄床に置いて、前掛けで右手を拭いた。
「釘抜き、返します。ありがとうございました」
「折れてないね」
「折れてません」
「なら、いい」
ネイは釘抜きを受け取って、腰の前掛けに差した。右手だけで、慣れた動きだった。
「石臼の話だったね」
「はい」
「大きさは」
ミアは両手で、器の形を作った。
「これくらい。深さは、指四本」
「草を挽くんだろ。目は細かくていい?」
「細かいほうが。でも、内側は、あまりつるつるでないほうが」
「なんで」
「つるつるだと、草が滑って、砕けずに逃げます」
ネイは、片眉を上げた。昨日と同じ上げ方だった。
「……ふうん。銀貨二枚」
「はい」
「はい?」
「はい。お願いします」
ネイは、しばらくミアの顔を見てから、声を上げて笑った。
「あんた、値切れよ」
「値切るんですか」
「値切るんだよ。二枚って言われたら、一枚半って言うんだ。そこから始まるんだ」
「そこから始まるんですか」
「そこから始まるんだよ」
ネイは笑いながら、炉に戻った。
「三日。三日でできる。金は、できてからでいい」
ミアは頷いた。それから、袋を持ち直した。
「ネイさん」
「なに」
「左の腕、痛いですよね」
ネイの右手が、止まった。
止まってから、ゆっくり、こちらを向いた。笑っていない。
「動かないだけだ。痛くはない」
「嘘です」
言ってしまってから、ミアは、少し言い方を考えた。考えたが、他の言い方が思いつかなかった。
「金槌を持ち替えるとき、顔が動きます。三回、見ました」
ネイは、何も言わなかった。
炉の火が、ぱちりと鳴った。
「……あんた、見てたのか」
「戸口で。すみません」
「謝るな。見てたなら、見てたでいい」
ネイは金槌を置いて、鉄床に右手をついた。
「三年前だ。理由は聞くな」
「聞きません」
「動かない。動かないのは、もういい。慣れた」
ネイは、そこで少し息を吸った。
「痛いのは、慣れない」
ミアは、袋を開けた。
中は、乾いた葉だった。細長く、硬く、乾くと灰色を帯びる。指で持つと、葉脈が鉄の筋のように浮いている。
「鉄葉です」
「鉄の葉」
「腹を下したときに、粉にして飲みます。それとは別に、湿布にします」
「湿布」
「熱くして、布に広げて、巻きます」
ネイは、袋の中を覗いた。
「それで、動くようになるのか」
ミアは、首を振った。
「治りません。動くようには」
はっきり言った。言ってから、自分でも少し驚いた。神殿では、こういうとき、祈ればきっと、と言うことになっていた。言えば、相手の顔が明るくなった。
言わなかった。
「動くようには、なりません。三年前のことは、私には分かりません。でも――」
ミアは、ネイの左腕を見た。
「痛みは、引くと思います。夜、眠れるくらいには」
ネイは、長いあいだ黙っていた。
それから、鉄床の上の、冷めかけた鉄の棒を見た。
「……眠れるなら、それでいい」
*
臼は、まだ無い。
だから、砕くのは、平たい石でやった。鍛冶場の隅に、鉄を冷ますための平石があった。ネイに断って借りた。
鉄葉を、一掴み、石の上に広げる。
その上から、別の石で押す。叩かない。押して、転がす。叩くと飛ぶ。転がすと、葉脈のところで折れて、細かくなる。
乾いた葉は、押されるたびに、かさかさと音を立てた。においが立つ。青い草のにおいの奥に、錆びた鉄を舐めたような、金気のにおい。
「変なにおいだね」
ネイが、後ろから言った。
「鉄葉なので」
「名前どおりか」
「はい。祖母は、名前どおりのものは信用できると言っていました。名前と違うものは、たいてい誰かが盛っているって」
「盛る」
「値段を」
ネイが、鼻で笑った。
細かくなった葉を、布で集めて、宿へ持って帰った。厨房を借りる。ボルグは、カウンターの奥で帳面を広げていて、顔を上げただけだった。
「また煮るのか」
「はい。今日は短いです」
鍋に、水を指二本ぶん。少ない。湿布は、飲まない。だから、濃くていい。
沸かして、火から少し離して、砕いた鉄葉を入れる。
しゅ、と音がして、湯が、緑がかった黒になった。
これは、ゆっくり百。
灰根は三百だった。鉄葉は、長く煮ると渋みが抜けて、効きが薄くなる。手帳にそう書いてある。祖母は「百で下ろす。惜しんで二百にするな」と、わざわざ太い字で書いていた。惜しんだことがあるのだろう。
百。
鍋を下ろす。漉さない。葉ごと、布に広げる。
――鉄葉の渋みは、熱で葉から出て、皮から入る。だから漉さない。冷めると入らない。だから熱いうちに。
手帳のその行の横に、祖母の字で、小さく「急げ」と足してある。
布は、ボルグに借りた。「布、ありますか」「使え」で済んだ。ミアはそれを二枚に裂き、一枚に葉を広げて包み、もう一枚と一緒に懐に入れて、鍛冶場まで急いだ。
*
鍛冶場に戻ると、ネイは炉の火を落として、丸太に腰かけていた。
「巻きます。左腕、出せますか」
ネイは、右手で左の袖をまくった。
腕は、細かった。右腕の半分ほどしかない。三年、使っていない腕の細さだ。肘のところに、古い跡があった。火傷の跡に似ている。
ミアは、それを見た。見て、何も言わなかった。理由は聞くな、と言われている。
ミアは懐から包みを出して、開く前に、自分の左手首の内側に当てた。一つ、二つ、三つ。熱い。だが、離せないほどではない。
開いて、肘から手首まで巻いた。熱い葉が、皮膚に当たる。ネイが、息を吸った。
「熱っ」
「熱いです。火傷はしません。我慢できないほどなら、言ってください」
「……できる」
上から、もう一枚の乾いた布を巻いて、押さえた。
「冷めるまで、このままで。だいたい一刻です。それと」
「それと」
「赤くなって、痒くなったら、すぐ外してください。合わない人がいます。合わない人には、効きません」
「効かない人がいるのか」
「います。効いた人と、効かなかった人と、どちらも祖母の手帳に書いてあります。効かなかった人のほうが、多く書いてあります」
「なんで効かないほうを多く書くんだ」
「効いたほうは、書かなくても覚えているので」
ネイは、少し黙った。
「……それは、そうだな」
ネイは、巻かれた左腕を見下ろした。
「……変な手帳だな」
「よく言われます。祖母が」
ネイは、鼻で笑った。
「効かなかったら、言ってくださいね」
「言う」
ネイは、巻かれた腕を膝に載せたまま、右足で床の石を蹴って、こちらへ転がした。
丸い、灰色の石だ。膝ほどの大きさ。床に、二本の杭が打ち込んである。
「見てな」
ネイは石を杭のあいだに挟んで、右手の鑿を当て、右足で木槌を蹴った。
こん。
石の面が、少し欠けた。
挟む手が無いなら、杭で挟む。叩く手が一本なら、足で叩く。三年かけて、自分で作ったやり方なのだろう。
「これが、私の臼ですか」
「まだ石だ。三日で臼になる」
「杭で挟むんですね」
「他にどうする」
「どうもしません。いいやり方だと思って」
ネイは、鑿を持ったまま、少しだけこちらを見た。
「……ふうん」
*
宿に戻ると、ボルグがカウンターの上に、銅貨を並べていた。
十枚。一列に。
「座れ」
ミアは座った。
「一昨日、俺の熱を下げた。今日、ネイの腕に何かした」
「湿布です」
「いくら取った」
「取ってません」
「取ってねえだろうな」
ボルグは、銅貨を一枚、指で押して、ミアの前へ滑らせた。
「これが一枚だ。銀貨一枚は、これが百枚だ」
「百枚」
「うちの一泊が六枚。朝の粥が二枚。今朝あんたが食った粥だ」
「あれ、二枚なんですか」
「二枚だ。取ってねえけどな」
「取ってください」
「取らねえよ。話を聞け」
ボルグは、指で銅貨を揃えた。
「家賃は月に銀貨一枚。つまり、月に銅貨で百、稼がなきゃ、あの店は続かない。粥で言えば、五十杯ぶんだ」
ミアは、銅貨を見た。
「材料はいくらだ」
「ただです。裏の空き地で掘りました」
「掘る時間は」
「……半刻くらい」
「煮る時間は」
「三百、数えました」
「その三百のあいだ、他のことができたか」
「できません。数えていたので」
ボルグは、二枚目の銅貨を滑らせた。
「その半刻と、三百が、金だ」
ミアは、二枚の銅貨を見た。
「材料がただでも、あんたの半刻はただじゃない。ただで配ると、どうなるか分かるか」
「……分かりません」
「二つある。一つ。あんたが飢える。二つ。誰も、あんたの薬を信じなくなる」
「信じなく」
「ただのものは、効かねえと思われる。この街だけじゃねえ。どこでもだ」
ミアは、それを、少し考えた。
神殿では、祈りはただだった。ただで、みんなが信じていた。
ただし、神殿は、寄進を受けていた。ただではなかったのだ、と、いま気づいた。
「一椀、銅貨二枚」
ボルグが言った。
「湿布は、三枚。布ぶんだ」
「高くないですか」
「安い」
「そうですか」
「相場を知らんだろ」
「知りません」
昨日と同じやり取りだった。ボルグも、それに気づいたらしく、少しだけ、口の端を動かした。
「値切られたら、一枚だけ引け。二枚は引くな」
「一枚」
「それ以上引くと、最初の値が嘘だったことになる」
ミアは、頷いた。頷いてから、訊いた。
「ネイさんには、もう巻いてしまいました」
「なら、明日取れ。効いてからでいい」
「効かなかったら」
「取るな」
ボルグは、十枚の銅貨を集めて、自分の手の中に戻した。
「効かなかったら金を取らない、ってのは、効いたら取るって意味だ。分かるな」
「……はい」
「それが、薬屋だ」
*
翌朝、ミアは鐘が鳴る前に、また鍛冶場へ行った。
音がしていた。
かん。かん。かん。
戸口で止まって、見る。
叩く。金槌を置く。鉄鋏。返す。鉄鋏を置く。金槌。
眉のあいだが、狭くなった。
一度目。
二度目は、ならなかった。三度目も。
三度のうち、一度。
「入ってくれば」
ネイが、叩きながら言った。
「見てました」
「知ってる」
ネイは鉄の棒を水に沈めた。じゅう、と音がして、白い湯気が上がった。
「眠れた」
「そうですか」
「三年で、いちばん眠った。朝は、また少し痛い」
「毎晩、巻けば減ります。無くなるかは、分かりません」
「分からない、か」
「分かりません」
ネイは、左腕を見た。細いままだ。動かないままだ。
「動かない」
「はい」
「動かないって、あんた、最初に言ったな」
「言いました」
「前のやつは、言わなかった」
ミアは、それを聞いた。聞いて、それ以上は訊かなかった。聞かない、と決めている。
ネイは、前掛けの腰から、小さな革の袋を出した。
「いくらだ」
ミアは、口を開けた。開けて、閉じて、もう一度開けた。
「……三枚、です。銅貨で」
言えた。
ネイは、右手で袋の口を緩めて、中から銅貨を三枚、鉄床の上に置いた。
かち、かち、かち。
「値切らないのか、って顔だね」
「……少し」
「一枚引けって言われてるんだろ。ボルグに」
「言われてます」
「なら、値切ったら二枚になる。二枚じゃ、布代が出ない」
ミアは、鉄床の上の三枚を見た。
それから、手を伸ばして、取った。
銅貨は、鉄床の熱で、少し温かかった。
「効かなかったら、言ってくださいね」
「効いた」
ネイは、金槌を取った。
「明後日、街道の行商が来る。草が要るなら、あいつだ。サシャっていう。口が回る。値段は、あんたより百倍うまい」
「百倍」
「気をつけな」
かん。
ミアは、三枚の銅貨を握って、通りへ出た。
通りの向こうから、ボルグが歩いてくるのが見えた。朝の買い出しの籠を提げている。すれ違うとき、ボルグはミアの握った手を見て、それから顔を見て、何も言わずに通り過ぎた。
何も言わなかった。顔も、変わらなかった。籠の中の、朝の粥の材料だけが見えた。
朝の光が、閉じた店の板に当たっている。自分の店の窓には、板が無い。一昨日、自分で剥がした。
握った手を開いて、三枚を数えた。
一、二、三。
値段が、ついた。
その夜、店の棚に、袋を並べた。
十二段のうち、いちばん手の届く段に、五つ。灰根、しろ苔、鉄葉、まだ使っていない一袋、そして月花の半袋。名前は書かなかった。書いても、この街で読める人がどれだけいるか分からない。代わりに、袋の口から葉を一枚ずつ出して、棚の縁に置いた。見れば分かる。嗅げば、もっと分かる。
残りの十一段は、空だ。
空の段を、ミアはしばらく見ていた。埋まる日が来るのかどうかは、分からない。分からないことは、手帳に書かない。
書けることだけ、書く。
ミアは手帳を開いて、空いている行に書いた。
――鉄葉、湿布。平石で転がして砕く。水は指二本。ゆっくり百。漉さず、葉ごと布に。二十代、女、左腕。動かない(三年)。痛みは翌朝に引いた。動かない。銅貨三枚。
書いてから、最後の四文字を、しばらく見ていた。
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