西洋風の屋敷の一室、春の朝。栗色の髪を結い、白い襟の付いた濃紺のドレスを着た若い女性が、木の机に向かって羽ペンを持ち、広げた大きな紙に箇条書きのような行を書き込んでいる。机にはインク壺、紅茶の器、積まれた本。左に暖炉、右の開いた窓から藤の花と庭、遠くに塔が見える。
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転生したら滅びる家の三女でした ~十年後の処刑を回避します~ 第三話 階段で転ぶ

北の湿地に、渡りの鳥が下りてきた。秋の狩りの朝、兄ギルベルトは賭けのとおり、黒馬グラウを厩に残し、遅くて動じない鹿毛のロートで出ていく。馬に乗れないセラは、屋敷で一日、帰りを待つしかない。兄は、馬から落ちずに、この秋を越せるのか。日程表の一行目に打った丸を見ながら、セラは雁の声を数えるのをやめた。

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一年目 秋 兄、落馬。〇 十年目 夏 一族、処刑。

 渡りは、九月の終わりに下りてきた。

 夜、寝台の中で、その声を聞いた。北の空から、雁が鳴きながら来る。屋根の上を過ぎて、湿地のほうへ落ちていく。一つの列が過ぎると、また次の列が来る。

 わたしは、天井を見ながら、数えようとして、やめた。

 数えても、終わらない。

 翌日の夕方、厩の裏の囲いへ行った。

 夏のあいだ、わたしは毎晩、厩へ通った。前脚で床を掻くのはグラウだけで、ロートは掻かない。それくらいは、見分けがつくようになった。

 バーレの慣らし方も、夏のうちに変わった。

 鳩を出すのを、やめたのだ。蓋を閉めたままの籠を、毎日、囲いの隅に置いた。グラウが籠を見ても跳ねなくなるまで、二十日かかった。それから、蓋を開けて、鳩を出さずに閉めた。それにまた、二十日。

「怖くない回数を、積んでおります」

 バーレは、そう言った。

「一度覚えた怖さは、消えません。上から、別のことを覚えさせるしかございません」

 その日、囲いの中に、グラウが立っていた。バーレは、籠を持って、三十歩離れたところにいる。

「よろしゅうございますか」

「お願いします」

 バーレが籠の蓋を開けた。鳩が一羽、飛んだ。

 グラウの耳が、ぴんと立った。それから、後ろへ二歩下がった。

 跳ねなかった。短く二度、鼻を鳴らしただけだった。

 わたしは、柵を握っていた手を、少しだけ緩めた。

 バーレが、こちらへ歩いてきた。

「三十歩で、鳩一羽なら、ここまで参りました」

「湿地では」

「湿地の百羽は、三十歩先ではございません。足もとの葦の中から、いきなり立ちます」

 老騎士は、囲いの中の黒い馬を見た。

「五分と五分は、まだ、五分と五分でございます」

「では」

「ロートで」

 バーレは、それだけ言って、籠を拾いに戻った。

    *

 狩りは、十月の初めの朝だった。

 まだ暗いうちに、中庭に松明が立った。馬に乗るのは、兄ギルベルトと、バーレと、供の者が二人。ほかに、犬を三頭連れた勢子が二人、歩きでついていく。獲物を吊るす縄と、兄の弓。

 兄は、ロートの上にいた。

「遅い」

 まだ一歩も出ていないのに、兄はそう言った。

「門を出る前から遅いと分かる馬だ。セラ、見ろ、この首の振り方を。急ぐ気が、どこにも無い」

「父上を一度も落とさなかった馬です」

「父上は、急がない人だからな」

 厩のいちばん奥から、蹄で板を蹴る音がした。一度、二度、三度。

 グラウだ。

 兄は、厩のほうを振り返って、少し顔をしかめた。それから、前を向いた。

「行ってくる。獲物の数は、母上の帳面で確かめろ。俺は数えん」

 門が開いて、松明の列が出ていった。

 わたしは、門のところで、最後の灯りが見えなくなるまで立っていた。

 ついていくことは、できない。わたしは馬に乗れない。乗れたとしても、湿地まで保たない。

 その日は、長かった。

 書庫へ行って、正史の五巻目を開いた。一頁も進まなかった。

「朝から同じ頁だな」

 ルーカスが、向かいの席で、自分の本から目を上げずに言った。

「はい」

「湿地は、ここから見えんぞ」

「知っています」

「そうか」

 次兄は、頁をめくった。めくる音が、いつもより静かだった。

    *

 松明が戻ってきたのは、日が落ちてからだった。

 わたしは、また門のところにいた。列の先頭がロートで、兄はその上にいた。

 落ちていない。

 怪我もしていない。顔に泥がはねているだけだ。鞍の両脇に、雁が吊るされて揺れていた。

「セラ」

 兄は、ロートの上から、大声で言った。

「百羽だ。葦の中から、いっぺんに立った。百羽はいた。ロートは、耳を動かしただけだ」

 耳を動かすだけ。

 春に、バーレがグラウについて言った言葉だった。秋には、鳥が百羽飛んでも、この馬は耳を動かすだけになっております、と。

 それをやったのは、別の馬だった。

 台所の土間に、獲物が並べられた。料理番が数え、母が帳面を開いた。

「去年は、雁が十二、鴨が七」

 母は、帳面の一行を指で押さえて読んだ。

「今年は」

「雁が十三。鴨が八」料理番が言った。

 兄は、土間の端に腰を下ろして、長靴を脱ぎながら笑った。

「動かん馬の上だと、弓がぶれん。……俺の負けだ。減ってない」

「はい」

「来年の秋まで、狩りのときはバーレの馬だ。約束は守る」

 兄はそう言って、長靴を土間に放った。

「ただし、狩りのときは、だ」

 わたしは、顔を上げた。

「明日の朝は、グラウで出る。湿地じゃない。南の丘を一回りするだけだ。あいつ、一日じゅう板を蹴ってたそうじゃないか。狩りじゃないから、賭けには入ってない」

 狩りのたびに。

 賭けの言葉を選んだのは、わたしだった。

「兄上」

「なんだ」

「グラウは、まだ、鳥を怖がっています」

 兄は、長靴を拾いかけた手を止めた。

「知ってる。バーレに聞いた。だから乗るんだ」

「……だから」

「今日、あいつだけ置いていった。置いていかれたことも、あいつは覚える。そういう馬だ。明日乗ってやらなかったら、次は鞍を見ただけで拗ねる」

 慣れるより先に、覚える。

 南の丘には、湿地がない。葦も無い。鳥が百羽、足もとから立つことはない。

 わたしは、土間の入口で縄を巻いていたバーレのほうを向いた。

「バーレ。明日の朝、兄上についていってください」

 老騎士は、縄を巻く手を止めずに、頷いた。

「はじめから、そのつもりでございます」

「おい。丘を一回りするだけだぞ」

「存じております」

 兄は、天井を仰いで、笑った。

「お前ら、二人がかりか。……好きにしろ」

 夜、部屋で日程表を開いた。

 一年目 秋 兄、落馬。〇

 その脇に、書き足した。

 ――狩り、ロート。落馬せず。雁十三、鴨八。去年は雁十二、鴨七(母の帳面)。

 丸を、見た。

 消そうとして、ペンが止まった。

 明日の朝は、バーレがつく。それでも、狩りは一日だが、秋は三か月ある。

 消さなかった。

    *

 音がしたのは、その夜、遅くだった。

 重いものが、何度も、石に当たる音。最後に、金物が鳴った。高い音だった。

 わたしは、寝台から出た。

 廊下は暗い。この屋敷は、廊下にも階段にも、燭台を置かない。油がもったいないからだ。二十二年、わたしはこの暗がりを手探りで歩いてきた。だから、走れない。壁に手をつけて、足で床を探して、一歩ずつ行くしかない。

 階段の上に着いたとき、下にはもう灯りがあった。

 父が、寝間着のまま、階段の上の手すりを両手で握っていた。下では、母が手燭を持って立っていた。侍女が二人。下の段に、姉がしゃがんでいた。廊下の奥から、ルーカスが、書庫の手燭を持って走ってくるのが見えた。

 兄は、階段のいちばん下の石の上に、仰向けになっていた。

 横に、鞍が落ちていた。兄の部屋にあった三つのうちの一つ。グラウの鞍だ。鐙の革が、兄の左の足首に、二重に巻きついていた。鉄の鐙が、石の上に転がっていた。

「踏み外した」

 兄は、天井を見たまま言った。

「暗くてな。鞍を担いでたら、足もとが見えなかった。踊り場で、鐙が段に引っかかって……」

 笑おうとして、兄は息を詰めた。

 母と姉より、ずっと遅れて着いた。父の横で、手すりを掴んだまま、動けなかった。

 明日の朝の供を、わたしは頼んだ。朝は、まだ来ていなかった。

 厩から、バーレが走ってきた。誰かが呼びに行ったのだ。老騎士は、灯りの下で、兄の左脚を見た。それから、腰の小刀で、鐙の革を切った。

「若さま、動かれますな」

「動けん」

「なら、よろしゅうございます」

 バーレは、侍女に板と布を持ってこさせた。板を脚の両脇に当てて、布で縛った。手つきに迷いがなかった。

「医者を」

 母が言った。短かった。

「もう、人を出しました」

 北の辺境の、一人しかいない医者だ。来るのは、明日の昼になる。

    *

 医者が着いたのは、翌日の昼だった。

 兄は、自分の部屋の寝台に移されていた。部屋はいつもどおり散らかっていた。鞍が二つ。壁に弓。机の上に、北の湿地の地図。三つ目の鞍は、まだ階段の下にある。

 医者は、バーレの縛った布をほどいて、脚を見た。指で押さえて、兄が声を殺すのを聞いた。

「馬から落ちましたか」

「階段です」母が答えた。

 医者は、少しのあいだ、黙った。それから、兄の足首に残った、革の擦れた痕を見た。

「……左の脛です。鐙に足を取られた折れ方ですな」

 わたしは、扉の脇の壁に、背中をつけた。

「歩けるようになりますか」

 訊いたのは、わたしだった。

 医者は、少し驚いたようにわたしを見た。それから、頷いた。

「骨はきれいに折れています。添え木がよかった。春までは歩けません。馬は、夏までお控えなさい」

 歩けなくなって、三年で亡くなられました。

 春に、厩で聞いた声が、頭の中で鳴った。先代さまの馬の話だ。

 兄は、歩けるようになる。

 わたしは、壁から背中を離した。膝が、少し笑った。

 医者が帰ったあと、父が来た。

 父は、寝台の脇の椅子に座って、兄の脚を長いこと見ていた。それから、話し始めた。

「わしが若いころにも、この階段で転んだ者がおった。厩番の若いのでな、夜に桶を運んでおって。あのときは手首で済んだ。この屋敷は、建てたときから階段が急でな。攻めてくる者が駆け上がれぬように、わざと急に造ったと聞いておる。お前の書き物は、しばらく誰かが代わりにやる。それで、だ」

 父は、ようやく顔を上げた。

「今夜から、階段に灯りを置く。踊り場と、上と、下に。一晩じゅうだ」

「油は、出します」

 扉のところで、母が言った。父は、頷いた。それで話は終わった。

 お前の書き物は、しばらく誰かが代わりにやる。

 わたしは、その一行を、頭の中で読み直した。

「父上」

「ん」

「兄上の書き物は、わたしがやります」

 兄が、寝台の上で顔をしかめた。

「おい。賭けはお前の勝ちだぞ」

「知っています」

「勝ったほうが書くのか」

「負けたのは、わたしのほうなので」

 兄は、何のことだ、という顔をした。わたしは、それ以上は言わなかった。

 父は、何か言いかけて、やめた。母は、わたしを一度だけ見た。

「ギルベルト宛ての手紙は、わたしの机を通してから、あなたに回します」

 それだけ言って、母は廊下へ出ていった。

 姉が、兄の手を握ったまま、小さな声で言った。

「階段なんて」

 ルーカスは、扉の外に立っていた。中には入らなかった。

「湿地では落ちずに、家の階段で落ちる。器用な兄だ」

 それから、少し間を置いて、言った。

「……脚は、つくんだな」

「つく、と医者が」

「そうか」

 次兄は、それだけ言って、廊下を書庫のほうへ歩いていった。

    *

 夕方、兄の手紙を三通、預かりに行った。

 兄は、枕を背中に当てて、寝台の上に起きていた。左脚は、新しい添え木で、毛布の上に投げ出されていた。

「そこだ。机の、地図の下」

 地図の下に、書きかけの手紙があった。三通とも、一行目で止まっている。

「三日かかる、と言っただろう」

「一行で止まっています」

「一行目で三日だ」

 わたしは、手紙を胸に抱えて、鞍の一つに腰を下ろした。

「セラ」

「はい」

「昨日、お前、止めようとしたな。土間で」

「はい」

「グラウは、悪くないぞ」

「知っています」

 兄は、天井を見た。

「謝りに行くところだったんだ。一日、置いていったからな。夜のうちに鞍を見せて、明日は乗るぞ、と言ってやるつもりだった」

 兄は、顔をこちらに向けた。

「あいつ、今日も、待ってるだろう。見てきてくれ。俺の代わりに」

    *

 夜、厩へ行った。

 階段には、灯りがあった。踊り場と、上と、下に、一つずつ。手すりに触らずに、下りられた。

 階段の下の石には、もう何も落ちていなかった。

 厩では、バーレが、グラウの鞍を膝に載せて、切った鐙の革を繕っていた。

「セラさま」

「兄上の代わりに、来ました」

 バーレは、針を止めて、いちばん奥の馬房を見た。

「今朝から、ずっと掻いております」

 黒い馬が、前脚で、床を掻いていた。掻いては止まり、止まっては掻いた。扉のほうに顔を向けたまま。

 わたしは、馬房に近づいた。

 グラウは、春のように後ろへ下がらなかった。ただ、わたしの後ろの、誰もいない戸口を見ていた。

「兄上は、来られません」

 わたしは、馬に言った。

「春までは、来られません。でも、来ます」

 グラウが、鼻を鳴らした。

 短く、二度。

 夏の初めの夜、窓の外で聞いた音を、わたしは思い出した。あのときは、グラウかロートか、暗くて分からなかった。

 いまなら、聞き分けられる気がした。

 厩のいちばん手前の馬房で、ロートが、藁の上で目を閉じていた。

    *

 部屋に戻って、日程表を開いた。

 一年目 秋 兄、落馬。〇

 わたしは、「落馬」の二文字に、細い線を一本引いた。元の字が読めるように。何を直したのか、あとで誰が見ても分かるように。校正の決まりだ。

 線の脇に、小さく直しを入れた。

 階段。

 丸は、消さなかった。

 兄は、落ちた。見出しのとおりだ。馬からではなかった。見出しのとおりではない。どちらなのか、わたしにはまだ決められない。決められないものには、丸をつけたままにする。

 その下に、書き足した。

 ――同じ夜、階段。グラウの鞍を担いで。鐙に左足。左の脛。医者「鐙に足を取られた折れ方」。春まで歩けず。馬は夏まで。

 ペンを置いて、表を最初から読んだ。

 馬を替えた。兄は、湿地では落ちなかった。

 置いていかれた馬のために、兄は、夜に鞍を担いだ。

 替えたことが、階段まで続いていたのか。替えなくても、どこかで落ちたのか。

 分からない。

 九行と、書き足しが七つ。直しが一つ。

 わたしは、三年目の行で、目を止めた。

 三年目 姉、王都の家へ嫁ぐ。

 その脇に、夏に書いた三角がある。

 ――一年目 夏 姉に王都から手紙。「さる家」が興味。家の名、無し。△

 机の引き出しに、姉から預かった手紙が入っている。白くて薄い王都の紙。おかしいところの無い字。

 わたしは、懐から、春に一行だけ書き写した紙を出した。

 一年目 秋 兄、落馬。〇

 半年、持ち歩いた紙だ。折り目が、すり切れかけている。

 その行の「落馬」にも、細い線を引いた。

 それから、余白に、三年目の行と、その脇の三角を書き写した。

 紙を折って、懐に戻した。

「もう一度、読みます」

 扉の下の隙間から、細い光が入っていた。階段の灯りだ。夜の廊下に光が届くのを、わたしは、この部屋で初めて見た。

 馬を替えても、兄は落ちた。

 では、姉の縁組を止めたら。

 姉は、どの階段から落ちるのだろう。