
転生したら滅びる家の三女でした ~十年後の処刑を回避します~ 第三話 階段で転ぶ
北の湿地に、渡りの鳥が下りてきた。秋の狩りの朝、兄ギルベルトは賭けのとおり、黒馬グラウを厩に残し、遅くて動じない鹿毛のロートで出ていく。馬に乗れないセラは、屋敷で一日、帰りを待つしかない。兄は、馬から落ちずに、この秋を越せるのか。日程表の一行目に打った丸を見ながら、セラは雁の声を数えるのをやめた。
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一年目 秋 兄、落馬。〇 十年目 夏 一族、処刑。
渡りは、九月の終わりに下りてきた。
夜、寝台の中で、その声を聞いた。北の空から、雁が鳴きながら来る。屋根の上を過ぎて、湿地のほうへ落ちていく。一つの列が過ぎると、また次の列が来る。
わたしは、天井を見ながら、数えようとして、やめた。
数えても、終わらない。
翌日の夕方、厩の裏の囲いへ行った。
夏のあいだ、わたしは毎晩、厩へ通った。前脚で床を掻くのはグラウだけで、ロートは掻かない。それくらいは、見分けがつくようになった。
バーレの慣らし方も、夏のうちに変わった。
鳩を出すのを、やめたのだ。蓋を閉めたままの籠を、毎日、囲いの隅に置いた。グラウが籠を見ても跳ねなくなるまで、二十日かかった。それから、蓋を開けて、鳩を出さずに閉めた。それにまた、二十日。
「怖くない回数を、積んでおります」
バーレは、そう言った。
「一度覚えた怖さは、消えません。上から、別のことを覚えさせるしかございません」
その日、囲いの中に、グラウが立っていた。バーレは、籠を持って、三十歩離れたところにいる。
「よろしゅうございますか」
「お願いします」
バーレが籠の蓋を開けた。鳩が一羽、飛んだ。
グラウの耳が、ぴんと立った。それから、後ろへ二歩下がった。
跳ねなかった。短く二度、鼻を鳴らしただけだった。
わたしは、柵を握っていた手を、少しだけ緩めた。
バーレが、こちらへ歩いてきた。
「三十歩で、鳩一羽なら、ここまで参りました」
「湿地では」
「湿地の百羽は、三十歩先ではございません。足もとの葦の中から、いきなり立ちます」
老騎士は、囲いの中の黒い馬を見た。
「五分と五分は、まだ、五分と五分でございます」
「では」
「ロートで」
バーレは、それだけ言って、籠を拾いに戻った。
*
狩りは、十月の初めの朝だった。
まだ暗いうちに、中庭に松明が立った。馬に乗るのは、兄ギルベルトと、バーレと、供の者が二人。ほかに、犬を三頭連れた勢子が二人、歩きでついていく。獲物を吊るす縄と、兄の弓。
兄は、ロートの上にいた。
「遅い」
まだ一歩も出ていないのに、兄はそう言った。
「門を出る前から遅いと分かる馬だ。セラ、見ろ、この首の振り方を。急ぐ気が、どこにも無い」
「父上を一度も落とさなかった馬です」
「父上は、急がない人だからな」
厩のいちばん奥から、蹄で板を蹴る音がした。一度、二度、三度。
グラウだ。
兄は、厩のほうを振り返って、少し顔をしかめた。それから、前を向いた。
「行ってくる。獲物の数は、母上の帳面で確かめろ。俺は数えん」
門が開いて、松明の列が出ていった。
わたしは、門のところで、最後の灯りが見えなくなるまで立っていた。
ついていくことは、できない。わたしは馬に乗れない。乗れたとしても、湿地まで保たない。
その日は、長かった。
書庫へ行って、正史の五巻目を開いた。一頁も進まなかった。
「朝から同じ頁だな」
ルーカスが、向かいの席で、自分の本から目を上げずに言った。
「はい」
「湿地は、ここから見えんぞ」
「知っています」
「そうか」
次兄は、頁をめくった。めくる音が、いつもより静かだった。
*
松明が戻ってきたのは、日が落ちてからだった。
わたしは、また門のところにいた。列の先頭がロートで、兄はその上にいた。
落ちていない。
怪我もしていない。顔に泥がはねているだけだ。鞍の両脇に、雁が吊るされて揺れていた。
「セラ」
兄は、ロートの上から、大声で言った。
「百羽だ。葦の中から、いっぺんに立った。百羽はいた。ロートは、耳を動かしただけだ」
耳を動かすだけ。
春に、バーレがグラウについて言った言葉だった。秋には、鳥が百羽飛んでも、この馬は耳を動かすだけになっております、と。
それをやったのは、別の馬だった。
台所の土間に、獲物が並べられた。料理番が数え、母が帳面を開いた。
「去年は、雁が十二、鴨が七」
母は、帳面の一行を指で押さえて読んだ。
「今年は」
「雁が十三。鴨が八」料理番が言った。
兄は、土間の端に腰を下ろして、長靴を脱ぎながら笑った。
「動かん馬の上だと、弓がぶれん。……俺の負けだ。減ってない」
「はい」
「来年の秋まで、狩りのときはバーレの馬だ。約束は守る」
兄はそう言って、長靴を土間に放った。
「ただし、狩りのときは、だ」
わたしは、顔を上げた。
「明日の朝は、グラウで出る。湿地じゃない。南の丘を一回りするだけだ。あいつ、一日じゅう板を蹴ってたそうじゃないか。狩りじゃないから、賭けには入ってない」
狩りのたびに。
賭けの言葉を選んだのは、わたしだった。
「兄上」
「なんだ」
「グラウは、まだ、鳥を怖がっています」
兄は、長靴を拾いかけた手を止めた。
「知ってる。バーレに聞いた。だから乗るんだ」
「……だから」
「今日、あいつだけ置いていった。置いていかれたことも、あいつは覚える。そういう馬だ。明日乗ってやらなかったら、次は鞍を見ただけで拗ねる」
慣れるより先に、覚える。
南の丘には、湿地がない。葦も無い。鳥が百羽、足もとから立つことはない。
わたしは、土間の入口で縄を巻いていたバーレのほうを向いた。
「バーレ。明日の朝、兄上についていってください」
老騎士は、縄を巻く手を止めずに、頷いた。
「はじめから、そのつもりでございます」
「おい。丘を一回りするだけだぞ」
「存じております」
兄は、天井を仰いで、笑った。
「お前ら、二人がかりか。……好きにしろ」
夜、部屋で日程表を開いた。
一年目 秋 兄、落馬。〇
その脇に、書き足した。
――狩り、ロート。落馬せず。雁十三、鴨八。去年は雁十二、鴨七(母の帳面)。
丸を、見た。
消そうとして、ペンが止まった。
明日の朝は、バーレがつく。それでも、狩りは一日だが、秋は三か月ある。
消さなかった。
*
音がしたのは、その夜、遅くだった。
重いものが、何度も、石に当たる音。最後に、金物が鳴った。高い音だった。
わたしは、寝台から出た。
廊下は暗い。この屋敷は、廊下にも階段にも、燭台を置かない。油がもったいないからだ。二十二年、わたしはこの暗がりを手探りで歩いてきた。だから、走れない。壁に手をつけて、足で床を探して、一歩ずつ行くしかない。
階段の上に着いたとき、下にはもう灯りがあった。
父が、寝間着のまま、階段の上の手すりを両手で握っていた。下では、母が手燭を持って立っていた。侍女が二人。下の段に、姉がしゃがんでいた。廊下の奥から、ルーカスが、書庫の手燭を持って走ってくるのが見えた。
兄は、階段のいちばん下の石の上に、仰向けになっていた。
横に、鞍が落ちていた。兄の部屋にあった三つのうちの一つ。グラウの鞍だ。鐙の革が、兄の左の足首に、二重に巻きついていた。鉄の鐙が、石の上に転がっていた。
「踏み外した」
兄は、天井を見たまま言った。
「暗くてな。鞍を担いでたら、足もとが見えなかった。踊り場で、鐙が段に引っかかって……」
笑おうとして、兄は息を詰めた。
母と姉より、ずっと遅れて着いた。父の横で、手すりを掴んだまま、動けなかった。
明日の朝の供を、わたしは頼んだ。朝は、まだ来ていなかった。
厩から、バーレが走ってきた。誰かが呼びに行ったのだ。老騎士は、灯りの下で、兄の左脚を見た。それから、腰の小刀で、鐙の革を切った。
「若さま、動かれますな」
「動けん」
「なら、よろしゅうございます」
バーレは、侍女に板と布を持ってこさせた。板を脚の両脇に当てて、布で縛った。手つきに迷いがなかった。
「医者を」
母が言った。短かった。
「もう、人を出しました」
北の辺境の、一人しかいない医者だ。来るのは、明日の昼になる。
*
医者が着いたのは、翌日の昼だった。
兄は、自分の部屋の寝台に移されていた。部屋はいつもどおり散らかっていた。鞍が二つ。壁に弓。机の上に、北の湿地の地図。三つ目の鞍は、まだ階段の下にある。
医者は、バーレの縛った布をほどいて、脚を見た。指で押さえて、兄が声を殺すのを聞いた。
「馬から落ちましたか」
「階段です」母が答えた。
医者は、少しのあいだ、黙った。それから、兄の足首に残った、革の擦れた痕を見た。
「……左の脛です。鐙に足を取られた折れ方ですな」
わたしは、扉の脇の壁に、背中をつけた。
「歩けるようになりますか」
訊いたのは、わたしだった。
医者は、少し驚いたようにわたしを見た。それから、頷いた。
「骨はきれいに折れています。添え木がよかった。春までは歩けません。馬は、夏までお控えなさい」
歩けなくなって、三年で亡くなられました。
春に、厩で聞いた声が、頭の中で鳴った。先代さまの馬の話だ。
兄は、歩けるようになる。
わたしは、壁から背中を離した。膝が、少し笑った。
医者が帰ったあと、父が来た。
父は、寝台の脇の椅子に座って、兄の脚を長いこと見ていた。それから、話し始めた。
「わしが若いころにも、この階段で転んだ者がおった。厩番の若いのでな、夜に桶を運んでおって。あのときは手首で済んだ。この屋敷は、建てたときから階段が急でな。攻めてくる者が駆け上がれぬように、わざと急に造ったと聞いておる。お前の書き物は、しばらく誰かが代わりにやる。それで、だ」
父は、ようやく顔を上げた。
「今夜から、階段に灯りを置く。踊り場と、上と、下に。一晩じゅうだ」
「油は、出します」
扉のところで、母が言った。父は、頷いた。それで話は終わった。
お前の書き物は、しばらく誰かが代わりにやる。
わたしは、その一行を、頭の中で読み直した。
「父上」
「ん」
「兄上の書き物は、わたしがやります」
兄が、寝台の上で顔をしかめた。
「おい。賭けはお前の勝ちだぞ」
「知っています」
「勝ったほうが書くのか」
「負けたのは、わたしのほうなので」
兄は、何のことだ、という顔をした。わたしは、それ以上は言わなかった。
父は、何か言いかけて、やめた。母は、わたしを一度だけ見た。
「ギルベルト宛ての手紙は、わたしの机を通してから、あなたに回します」
それだけ言って、母は廊下へ出ていった。
姉が、兄の手を握ったまま、小さな声で言った。
「階段なんて」
ルーカスは、扉の外に立っていた。中には入らなかった。
「湿地では落ちずに、家の階段で落ちる。器用な兄だ」
それから、少し間を置いて、言った。
「……脚は、つくんだな」
「つく、と医者が」
「そうか」
次兄は、それだけ言って、廊下を書庫のほうへ歩いていった。
*
夕方、兄の手紙を三通、預かりに行った。
兄は、枕を背中に当てて、寝台の上に起きていた。左脚は、新しい添え木で、毛布の上に投げ出されていた。
「そこだ。机の、地図の下」
地図の下に、書きかけの手紙があった。三通とも、一行目で止まっている。
「三日かかる、と言っただろう」
「一行で止まっています」
「一行目で三日だ」
わたしは、手紙を胸に抱えて、鞍の一つに腰を下ろした。
「セラ」
「はい」
「昨日、お前、止めようとしたな。土間で」
「はい」
「グラウは、悪くないぞ」
「知っています」
兄は、天井を見た。
「謝りに行くところだったんだ。一日、置いていったからな。夜のうちに鞍を見せて、明日は乗るぞ、と言ってやるつもりだった」
兄は、顔をこちらに向けた。
「あいつ、今日も、待ってるだろう。見てきてくれ。俺の代わりに」
*
夜、厩へ行った。
階段には、灯りがあった。踊り場と、上と、下に、一つずつ。手すりに触らずに、下りられた。
階段の下の石には、もう何も落ちていなかった。
厩では、バーレが、グラウの鞍を膝に載せて、切った鐙の革を繕っていた。
「セラさま」
「兄上の代わりに、来ました」
バーレは、針を止めて、いちばん奥の馬房を見た。
「今朝から、ずっと掻いております」
黒い馬が、前脚で、床を掻いていた。掻いては止まり、止まっては掻いた。扉のほうに顔を向けたまま。
わたしは、馬房に近づいた。
グラウは、春のように後ろへ下がらなかった。ただ、わたしの後ろの、誰もいない戸口を見ていた。
「兄上は、来られません」
わたしは、馬に言った。
「春までは、来られません。でも、来ます」
グラウが、鼻を鳴らした。
短く、二度。
夏の初めの夜、窓の外で聞いた音を、わたしは思い出した。あのときは、グラウかロートか、暗くて分からなかった。
いまなら、聞き分けられる気がした。
厩のいちばん手前の馬房で、ロートが、藁の上で目を閉じていた。
*
部屋に戻って、日程表を開いた。
一年目 秋 兄、落馬。〇
わたしは、「落馬」の二文字に、細い線を一本引いた。元の字が読めるように。何を直したのか、あとで誰が見ても分かるように。校正の決まりだ。
線の脇に、小さく直しを入れた。
階段。
丸は、消さなかった。
兄は、落ちた。見出しのとおりだ。馬からではなかった。見出しのとおりではない。どちらなのか、わたしにはまだ決められない。決められないものには、丸をつけたままにする。
その下に、書き足した。
――同じ夜、階段。グラウの鞍を担いで。鐙に左足。左の脛。医者「鐙に足を取られた折れ方」。春まで歩けず。馬は夏まで。
ペンを置いて、表を最初から読んだ。
馬を替えた。兄は、湿地では落ちなかった。
置いていかれた馬のために、兄は、夜に鞍を担いだ。
替えたことが、階段まで続いていたのか。替えなくても、どこかで落ちたのか。
分からない。
九行と、書き足しが七つ。直しが一つ。
わたしは、三年目の行で、目を止めた。
三年目 姉、王都の家へ嫁ぐ。
その脇に、夏に書いた三角がある。
――一年目 夏 姉に王都から手紙。「さる家」が興味。家の名、無し。△
机の引き出しに、姉から預かった手紙が入っている。白くて薄い王都の紙。おかしいところの無い字。
わたしは、懐から、春に一行だけ書き写した紙を出した。
一年目 秋 兄、落馬。〇
半年、持ち歩いた紙だ。折り目が、すり切れかけている。
その行の「落馬」にも、細い線を引いた。
それから、余白に、三年目の行と、その脇の三角を書き写した。
紙を折って、懐に戻した。
「もう一度、読みます」
扉の下の隙間から、細い光が入っていた。階段の灯りだ。夜の廊下に光が届くのを、わたしは、この部屋で初めて見た。
馬を替えても、兄は落ちた。
では、姉の縁組を止めたら。
姉は、どの階段から落ちるのだろう。
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