貸家の階段
駅から十五分、坂の途中に建つ古い貸家。住む人が変わるたびに、玄関の階段の段数が増えたり減ったりするという。新しく越してきた在宅ワーカーの女が気づいたのは、その段数が、そこに暮らす人の抱える未練の数だということだった。
坂の途中に、その貸家はあった。
駅から歩いて十五分。バス通りを外れ、古い住宅と新しいマンションが入り混じる坂道をのぼっていくと、一軒だけ、時代に取り残されたような木造の家が現れる。屋根瓦は苔むし、壁は雨だれの跡で縞模様になっていたが、庭の木だけは毎年きちんと葉を茂らせていた。不動産の写真では「昭和レトロ、要リフォーム、賃料応相談」と紹介されていて、その安さに惹かれて内見に来る者は多かったが、実際に住み続ける者は少なかった。近所の子どもたちは、その家を「変わり階段の家」と呼んでいたが、由来を知る大人は多くなかった。
美咲がその家を見つけたのは、フリーランスの翻訳の仕事が軌道に乗り始めた三十四歳の初夏だった。前の職場を辞めてから二年、契約書や技術文書の翻訳を細々と請け負う日々の中で、ようやく仕事が安定し始めたところだった。ワンルームの家賃と、静かに仕事ができる環境と、庭のある暮らしを、同時に叶えてくれる物件はそう多くない。不動産屋は少し歯切れの悪い口調で「入れ替わりの多い家なんですけどね」と付け加えたが、美咲はそれを、古い家によくある話だろうと聞き流した。前の住人がすぐに出ていくのは、たいてい水回りの古さか、隣家との距離の近さのせいだと相場が決まっている。
契約の日、美咲は玄関の前に立って、少しだけ首をかしげた。写真で見た記憶と、目の前の階段の印象が、微妙に違う気がしたのだ。三段だったか、四段だったか。すぐに忘れて、荷物を運び入れることに気を取られた。引っ越し業者のトラックが坂を上りきれず、途中から台車で何往復もしなければならなかったことのほうが、そのときは余程大きな問題だった。
引っ越しの荷解きを終えた最初の晩、美咲は玄関先に座り込んで、段ボールから出したばかりの湯呑みでお茶を飲んでいた。ふと目を落とすと、玄関から門扉までの短い階段が、四段あった。石造りの、簡素な階段だった。段ごとに苔の色合いが違って、まるで長い年月をかけて一段ずつ積み増されてきたかのように見えた。それが最初、美咲には特別な意味を持たなかった。ただの古い家の、ただの階段だった。夜風が庭木の葉を揺らし、遠くで電車の音がかすかに響いていた。ひとり暮らしを始めるときにいつも感じる、心細さと開放感の入り混じった気分を、美咲は久しぶりに味わっていた。
美咲の仕事は在宅の翻訳業だった。パソコンに向かって英語の契約書や技術文書を日本語に移し替える。締め切りに追われる日もあれば、静かに文章と向き合う日もある。会社勤めをしていた頃と違って、誰かと顔を合わせずに一日が終わることも珍しくなかった。それが心地よくもあり、時々、無性に人恋しくもあった。かつての職場では、些細なことで人間関係にすり減っていた自分を思い出すと、今の孤独のほうがまだましだと思う日もあれば、誰かに「おはよう」と言いたくて、コンビニの店員に必要以上に丁寧な挨拶をしてしまう日もあった。
一週間ほど経ったある朝、美咲はゴミ出しのために玄関を出て、階段を降りようとして、足を止めた。
段数が、三段になっていた。
見間違いかと思って、何度も数え直した。四段目があった場所には、今は苔むした土があるだけで、何かが崩れたり撤去されたりした形跡もない。まるで最初から三段しかなかったかのように、階段はそこにあった。美咲はしばらく立ち尽くしてから、寝不足で数え間違えたのだろうと自分に言い聞かせて、ゴミを出しに行った。ゴミ収集車が坂を下っていく音を聞きながら、美咲は何度も振り返って階段を確認した。何度数えても、三段だった。
その日の夜、美咲は仕事の合間に、ふと窓の外を見て、玄関先の階段をもう一度数えた。三段だった。やはり、間違いではなかった。パソコンの画面には、翻訳中の契約書がまだ半分ほど残っていたが、美咲はしばらく手を止めて、その不思議な現象について考え込んだ。
不思議なことに、美咲はそのことをそれほど気味悪くは思わなかった。古い家には、古い家なりの謎があるものだ、というくらいの受け止め方だった。何かに害されるような気配は、家のどこにもなかった。むしろ、その家に流れる空気は、どこかやわらかく、懐かしいような温もりを含んでいた。夜になると柱時計もないのにどこかから微かな時を刻む音が聞こえる気がしたが、それすらも不快ではなかった。
隣に住む老女と口をきくようになったのは、それから十日ほど経った頃だった。庭の垣根越しに、洗濯物を干していた老女が声をかけてきたのだ。白髪を後ろで一つにまとめ、色あせたエプロンをつけたその老女は、見るからにこの土地に長く根を張ってきた人らしい落ち着きをまとっていた。
「あんた、あの家に越してきた人だね」
「はい。よろしくお願いします。朝比奈と申します」
「気になったこと、ないかい。あの階段」
美咲は少し驚いて、老女の顔を見た。老女は、心得ているというような、穏やかな表情を浮かべていた。
「増えたり、減ったりするんですよね」美咲は思い切って言った。「気のせいじゃないかって、ずっと思ってたんですけど」
「気のせいじゃないよ」老女は洗濯物を干す手を止めずに言った。「あたしはもう三十年、この隣に住んでるけどね、あの家に越してきた人はみんな、最初は同じことを言うんだ」
「あの階段は、何なんですか」
老女はしばらく黙って、遠くを見るような目をした。竿にかけたシーツが、風にふくらんで、彼女の顔を一瞬だけ隠した。
「あの家に住んだ人の未練の数だって、昔から言われてるんだよ」
「未練……」
「心残りって言えばいいのかね。片づけられずに、ずっと胸の中に置きっぱなしにしてる何か。それが多い人が越してくると、階段は増える。その人が一つ、心の中で片をつけると、階段は一段、消える」
美咲はすぐには信じられなかった。けれど、階段が三段になった朝のことを思い出すと、何か腑に落ちるものがあった。あの朝、美咲は珍しく、長年会っていなかった大学時代の友人に、思い切ってメッセージを送ったのだった。ずっと連絡を取りたいと思いながら、気まずさから避け続けていた相手だった。返事はまだ来ていなかったが、送ったこと自体が、美咲の中で小さな区切りになっていた。
「誰が数えてるんですか、その未練の数」
「さあねえ」老女は笑った。「家が数えてるんじゃないかね。長いこと、いろんな人を見てきた家だから。あんたの前に住んでた人は、若い男の子でね。最初は八段あったんだよ。それが半年もすると、二段まで減ってた。出ていくときには、すっきりした顔してたよ」
「その人は、どうして出ていったんですか」
「新しい仕事が決まって、遠くに引っ越すって言ってたね。あの家は、そういう風に人を送り出すんだ。長居する家じゃないのかもしれないね」
その日から、美咲は毎朝、玄関を出るたびに階段を数えるようになった。
三段の日が続いた。四段に戻った朝もあった。五段に増えたこともある。段数が増えた朝は決まって、美咲の心に何か引っかかりがある日だった。仕事の連絡に、素っ気ない返事をしてしまった罪悪感。実家の母からの電話に、忙しさを理由に折り返さなかったこと。かつての恋人との別れ際、言えなかった一言。数え上げればきりがないほど、美咲の中には、未処理のまま積み上がった感情があった。
段数が減った朝は、その逆だった。母に電話をかけ直した夜の翌朝。友人からようやく返事が来て、昔のように笑い合って話せた日の翌朝。階段は、まるで美咲の内側を映す鏡のようだった。美咲は次第に、階段の段数を通して、自分が普段どれだけ多くの感情を見て見ぬふりにしてきたかを、思い知らされるようになった。
美咲はこの家の不思議に、次第に安心感すら覚えるようになった。誰にも見せない自分の心の重さを、この家だけは正確に量ってくれる。そんな気がしたのだ。人に弱さを見せることが苦手な美咲にとって、それは思いがけない救いだった。仕事の合間、階段を眺めるためだけに玄関先に出ることも増えた。段数を確認するその数秒が、いつしか一日の中で、自分自身と向き合う小さな儀式になっていた。
ある晩、美咲は仕事の資料を探すうちに、押し入れの奥から古びたノートを見つけた。前の借主が置き忘れていったものらしかった。表紙に名前はなく、中には日記のような走り書きが、几帳面な字と乱れた字とが入り混じって並んでいた。
「今日は七段だった。父に、最後まで謝れなかったことが、まだ重い」
「六段になった。会社の後輩に、遅ればせながらメールを送った。届くといいけど」
「五段。同僚に嫌味を言われた。自分でも、器の小さいことをしているとわかっているのに、直せない」
「四段。母に、久しぶりに手紙を書いた。出す勇気は、まだない」
「三段。少しずつ、軽くなっている気がする。この家に来てよかった」
ページをめくるにつれて、美咲は不思議な連帯感を覚えた。この家に住んだ誰かが、同じように階段を数え、同じように自分の中の重荷と向き合っていたのだ。名前も顔も知らないその人が、確かにここにいたという痕跡が、美咲の心をあたたかくした。ノートの余白には、小さな落書きのような草花の絵が描かれているページもあり、書き手が几帳面でありながら、どこか不器用に生きていた人であることが伝わってきた。
ノートの最後のページには、こう書かれていた。
「一段になった日、この家を出ることにした。最後の一段は、たぶん、誰の心にも残る種類のものなんだと思う。それを抱えたまま、次に進むことにする。次にこの家に来る誰かへ。あなたの階段も、きっと、あなたに必要な段数なんだと思います」
美咲はそのページを、何度も読み返した。ゼロにならなくてもいい、というその一文が、美咲の胸に静かに染み込んでいった。ノートを閉じ、美咲はしばらく、部屋の隅にある古い柱にもたれて座り込んでいた。誰かがこの家で確かに生きていた気配が、部屋の空気そのものに溶け込んでいるように感じられた。
夏が終わりに近づく頃、美咲の階段は二段になっていた。仕事は順調に回り始め、母とは以前より頻繁に電話で話すようになり、友人とも何度か会って旧交を温めた。かつての恋人のことは、もう美咲の中で、痛みではなく、ただの記憶として落ち着いていた。何度か夢に出てきたその人の顔も、次第に輪郭がぼやけていき、やがて特別な感情を伴わない、遠い写真のような存在になっていった。
けれど、二段からなかなか減らない日々が続いた。美咲は自分でも、その理由に薄々気づいていた。父のことだった。
美咲の父は、彼女が高校生の頃に家を出て、それきり疎遠になっていた。理由らしい理由もなく、ただ気まずさだけが年月とともに積もっていった。母から時折、父の近況を聞くことはあったが、美咲自身が連絡を取ることは、ずっと避けてきた。連絡先は知っていたが、何を話せばいいのか、美咲にはずっとわからなかった。謝るべきことがあるわけでもない。ただ、長すぎる沈黙が、二人の間に分厚い壁を作ってしまっていた。
ある雨の夜、美咲は玄関先に座り、二段の階段を見つめながら、スマートフォンを手に取った。雨音が庭の木の葉を叩き、遠くで雷が低く鳴っていた。父の連絡先を呼び出し、指が画面の上で何度も止まった。何を言えばいいのか、結局最後までわからないまま、美咲は短いメッセージを打った。
「元気にしてる? 一度、顔を見せに行こうと思って」
送信ボタンを押した瞬間、玄関の外で、かすかな音がした気がした。石のこすれるような、ごく小さな音。美咲が扉を開けて外を見ると、階段は一段になっていた。雨に濡れた石段が、街灯の光を受けて、鈍く光っていた。
数日後、父から短い返信が来た。ぎこちない文面だったが、確かに、会いたいという気持ちが滲んでいた。「元気にしてる。会えたら嬉しい」というたった一文に、美咲は何度も目を通した。長い間胸の奥にわだかまっていた何かが、少しずつ形を変えていくのを感じた。美咲はその夜、久しぶりに声を出して笑った。
秋が来て、庭の木の葉が色づき始めた頃、美咲の階段は、ずっと一段のままだった。減りもせず、増えもしなかった。美咲はそれを、悪いこととは思わなかった。ノートの最後の一文を思い出したからだ。一段は、たぶん、誰の心にも残る種類のものなのだ。父との関係は、まだ完全には修復されていない。実際に会う約束はしたものの、日程はまだ決まっていなかった。けれど、二人はもう一度、少しずつ歩み寄り始めていた。それで十分だった。
その頃、美咲は久しぶりに大学時代の友人と会う約束を果たした。駅前の喫茶店で、二人は何時間も、まるで途切れた時間などなかったかのように話し続けた。友人は美咲が引っ越した家の話に興味を示し、「幽霊屋敷みたいで素敵じゃない」と笑ったが、美咲は階段の秘密を話すことはしなかった。ある種の恥ずかしさと、この不思議を誰かに軽く扱われたくないという気持ちが、美咲の中にあったからだ。それでも、こうして誰かと軽口を叩き合える時間そのものが、美咲にとってはかけがえのないものだった。別れ際、友人が「また誘ってね」と言ってくれたことが、美咲の胸に、じんわりとあたたかく残った。
家に帰り着くと、美咲はいつものように階段を数えた。一段のままだった。以前なら、変化がないことに少し焦れったさを感じたかもしれない。けれど今は、その揺るがなさが、むしろ心地よかった。友人との時間で満たされた気持ちのまま、美咲は玄関の鍵を開け、電気をつけた。部屋の中は、初めて越してきた日よりも、ずっと自分の色に馴染んでいた。本棚には少しずつ本が増え、台所には使い込まれた調理器具が並び、壁には気に入った絵はがきを何枚か飾っていた。この家に暮らし始めてから、美咲は初めて、自分の生活の輪郭がはっきりと見えるようになった気がしていた。
美咲はある朝、久しぶりに隣の老女と顔を合わせた。落ち葉を掃く老女の箒の音が、静かな坂道に響いていた。
「一段のままですけど、それでいいんでしょうか」美咲が尋ねると、老女は柔らかく微笑んだ。
「ゼロになった人なんて、あたしは見たことないよ」老女は言った。「みんな、どこかに一つくらいは、大事に抱えたままの何かを持ってる。それでいいんだ。むしろ、それがある人の方が、人らしいってもんさ。段が消えることばかりが、いいことだとは限らないんだよ」
「消えなくても、いいんですね」
「消えなくても、いいんだよ。大事なのは、それを見ないふりしないことさ。あんたは、ちゃんと見てるじゃないか。あの階段を通してね」
美咲は納得したように頷いた。玄関先の一段の階段は、朝の光を受けて、静かにそこに佇んでいた。それは重荷というよりも、美咲がここまで歩いてきた道のりを示す、小さな標のように見えた。
冬が近づいたある日、美咲のもとに、離れて暮らす父から荷物が届いた。中には古い写真が何枚か入っていた。美咲がまだ小さかった頃、父と一緒に撮った写真だった。公園の噴水の前で笑っている自分と、日差しに目を細めている若い頃の父の姿があった。同封の手紙には、不器用な字で、短い言葉が綴られていた。
「今度、そちらに行っていいか。積もる話は、会ってからにしよう」
美咲は写真を手に、玄関先に座り込んだ。冷たい空気の中で、吐く息が白くなった。階段はまだ一段だった。それでいい、と美咲は思った。この一段は、消えなくていい。消えなくても、自分は前に進める。そのことを、この家が教えてくれた気がした。写真の中の父の笑顔と、今の自分の記憶の中にある父の姿とを、美咲はゆっくりと重ね合わせていった。
美咲は返事の手紙を書くために、部屋に戻った。窓の外では、庭の木が冬支度を始めていた。玄関先の階段は、これから先も、美咲の心の重さや軽さに合わせて、静かに姿を変え続けるのだろう。それでいい。増えたら、また向き合えばいい。減ったら、少し胸を張ればいい。そうやって暮らしていくことに、美咲はもう不安を感じなくなっていた。
手紙を書き終えた後、美咲はもう一度、押し入れの奥のノートを取り出した。前の借主が最後に残した言葉の下に、美咲は自分の言葉を書き加えることにした。ペンを持つ手は、少しだけ震えていた。
「一段のまま、冬を迎えることにしました。消えなくてもいいものがあるって、この家が教えてくれました。次にここに来る誰かへ。あなたの階段も、きっと大丈夫です」
ノートは、押し入れの元あった場所に戻された。いつか美咲がこの家を出る日、次にこの家に来る誰かのために、この言葉が、少しでも支えになればいいと美咲は思った。それがどんな形で読まれるのか、今の美咲にはまだわからない。ただ、その日が来ることを、美咲は少しも恐れていなかった。
坂の途中の古い貸家は、今日も静かに、そこに建っている。誰かの未練を数えながら、誰かがそれと向き合う時間を、じっと見守りながら。庭の木は、冬に向けてゆっくりと葉を落としていく。落ちた葉の下から、来年もまた新しい芽が出ることを、美咲は知っていた。玄関先の一段の階段に足をかけ、美咲は坂の下、駅の方角に見える町の灯りを、しばらくの間、静かに眺めていた。
(了)
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