市役所の事務室。長いカウンターの内側で、白いワイシャツに眼鏡の中年男性職員が座り、書類に朱の判を押している。カウンターの上には申請書の束と朱肉。向かい側に、革の胸当てと背負い袋の若い男性が立ち、職員の手元を見ている。背後の壁に色分けされた図の掲示、脇に灰色の書類棚とコピー機、天井に蛍光灯。
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ダンジョン対策課の窓口係 第二話 喋らない嘱託

再任用の武田照夫は、週に三日、午後から来る。ほとんど喋らない。書類の整理と、入域口の立ち会いだけをやっている。十二年前、この市で最初に穴へ入った十四人のうちの一人だった。その武田が、第七層へ入る申請を出している。目的欄は、調査。同行者、なし。退域予定の欄だけが、空いたままになっていた。

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九月十七日(木) 曇。 受付 二十八件。 うち差戻し 三件。 備考 第七層、本日二件。今週で十四件。

 武田照夫は、午後一時十分に来る。

 一時ちょうどではない。一時十分だ。この十分の理由を、黒木は知らない。訊いたことがない。

 嘱託職員は週に三日、午後一時十五分から五時十五分まで。武田は一時十分に来て、出勤簿に判を押し、十五分になるまで書類の棚の前に立っている。挨拶はしない。帰るときも、何も言わずに帰る。

 六十三歳。

 十二年前、この市で最初に穴へ入った十四人のうちの一人だ。

 いまは、紙を綴じている。

「武田さん」

 黒木が声をかけると、武田は手を止めた。振り返らずに、首だけ少し傾ける。それが返事だった。

「第七層の申請、拝見しました」

 武田の手が、動かなくなった。

「明日ですね」

「……ああ」

 声は、思ったより低くなかった。

「目的欄が、調査になっています」

「そうだ」

「調査の内容が、書かれていません」

 武田は、綴じ紐を指に巻いたまま、しばらく黙っていた。

「様式に、書く欄が無い」

「無いです」

 黒木は認めた。

「第七層の申請様式は、素材採取を前提に作られています。調査を選ぶと、内容を書く欄がありません」

「だろう」

「ですので、差し戻せません」

 武田が、初めて振り返った。

 顔に表情は無い。この人は、笑ったところも怒ったところも、黒木は見たことがない。

「差し戻したいのか」

「いいえ」

「なら、いい」

 武田は、また棚のほうを向いた。

 黒木は、自分の席に戻った。

 戻ってから、しばらく画面を見ていた。何も開いていない画面だった。

 差し戻したいわけではない。

 黒木は、画面を閉じないまま、十分ほど何もしなかった。

 新人の岸が、綴じ込みを間違えたのは、その日の三時過ぎだった。

「あっ」

 声で分かった。

 黒木は、席を立った。

 岸の机の上に、紙の束が開いていた。第六層の綴りに、第七層の申請が一枚混ざっている。

「すみません、様式が似てて」

「似ています」

 黒木は、混ざった一枚を抜いた。

「第六層は上部に二本線、第七層は三本線です。一枚目の見た目だけが、よく似ています」

「見落としました」

「見落とします。私も三年目まで間違えました」

 岸が、顔を上げた。

「黒木さんもですか」

「はい」

「……ちょっと安心しました」

「安心しないでください」

 岸の顔が、また下を向いた。

「すみません」

「間違えるのは構いません。気づかないのが困ります。いま、気づきましたね」

「はい」

「では問題ありません」

 黒木は、抜いた一枚を持ったまま、岸の机の横に立った。

「綴じる順番を、決めていますか」

「……日付順です」

「日付順のあとは」

 岸が、黙った。

「層です。日付、層、受付番号。この三つで、必ず一つに決まります」

 黒木は、岸の机の紙の束を、三つに分けた。

「同じ日の、同じ層で、番号が飛んでいたら、抜けています。抜けているのか、そもそも無いのかを、その場で確かめてください。あとからでは分かりません」

「どうやって確かめるんですか」

「受付簿と突き合わせます。受付簿は、番号を飛ばさずに振っています」

 岸は、受付簿を開いた。開いて、しばらく指で追った。

「……〇八三が、ありません」

 黒木は、受付簿を覗いた。

「〇八三は、午前に取り下げがあった分です。取り下げは、綴らずに別の箱です」

「別の箱」

「棚の下から二段目、右です。取り下げも記録です。捨てません」

 岸は、立ち上がって、棚の下から二段目を開けた。開けて、中を見て、戻ってきた。

「ありました」

「では、〇八三は抜けていません。抜けていない、と受付簿の余白に書いてください。次に見る人が、同じ確認をしなくて済みます」

 岸は、鉛筆で書いた。書いてから、顔を上げた。

「黒木さん、これ、毎日やってるんですか」

「はい」

「何年ですか」

「十二年です」

 岸は、何か言いかけて、やめた。

 黒木は、抜いた一枚を第七層の綴りへ回した。

 回しながら、手が止まった。

 黒木は、キャビネットから今週の日別の綴りを順に出して、第七層の欄だけを数えた。

 月曜三件、火曜二件、水曜五件、木曜二件。先週までの繰り越しが二件。

 十四件。

 黒木は、今日の二枚を机に並べた。

 九月十七日受付、第七層、二件。

 一件目、三十代の男。所属は市内の組合。退域予定、九月十八日午後六時。

 二件目、四十代の女。無所属。退域予定、九月十八日午後六時。

 また、十八日の午後六時だ。

 黒木は、十四件を全部引き出して、退域予定時刻だけを紙に書き写した。

 九月十八日 午後六時  十件。  九月十九日 正午    二件。  九月二十日 午後三時  一件。  (未記入)       一件。

 未記入の一件が、武田の申請だった。

 第七層の様式では、目的欄で調査を選んだ場合に限り、退域予定時刻を「未定」と書いてよいことになっている。未定と書いた者は、事前面談で口頭の予定を申告する。そういう運用だ。

 武田の欄は、未定とも書かれていない。ただ、空いている。

 黒木は、その紙を折って、手帳に挟んだ。

 挟んでから、課長席へ行った。

 仁科は、画面を見たまま、キーボードを打っていた。

「課長。第七層の事前面談ですが」

「うん」

「武田さんの分は、いつ取りましたか」

 打つ音が、少しだけ遅くなった。

「……取ったと思うよ」

「記録が、綴りにありません」

「探しとく」

 仁科は、画面から目を離さなかった。

 黒木は、礼を言って、席に戻った。

 探しとく、は、この課では「やらない」と同じ意味で使われることがある。いつもそうだとは限らない。

 四時二十分、探索者の高橋詩織が来た。

「あの」

 カウンターに座らずに、立ったまま言う。

「昨日の、あれ、通ったんですけど」

「受理しました」

「で、今日、潜って、帰ってきたんですけど」

「お疲れさまでした」

「そうじゃなくて」

 詩織は、ジャケットのポケットから紙を出した。折り目が四つついている。

「これ、退域届。書き方が分かんない」

 黒木は、受け取った。

 退域の確認そのものは、入域口で立会人が取る。退域届は、そのあとで本人が窓口に出す事後の様式だ。A5一枚で、十二の欄がある。持ち帰った素材と、置いてきたものを、ここで初めて紙にする。

 詩織の書いた紙は、六つ埋まっていた。

「六つ空いています」

「分かんなかった」

「どこがですか」

 詩織は、指をさした。

「ここ。『到達層』って、いちばん深いとこでいいの? それとも最後にいた層?」

「いちばん深いところです」

「じゃあ五層」

「はい」

「で、ここ。『残置物の有無』」

「置いてきたものがあるかどうかです」

「ないです」

「では、無し、と書いてください」

「無しって書くの? 空欄じゃ駄目?」

「駄目です」

 黒木は、少しだけ椅子を引いた。

「空欄は、書き忘れたのか、無かったのか、区別できません。無しと書いてあれば、無かったと分かります」

「……それ、毎回言われる」

「言っています」

「なんで通じないんだろ」

「たぶん、理由を言われていないからです」

 詩織は、口を開けかけて、閉じた。それから、残りの欄を自分で埋めた。二つだけ、また空いた。

「これ、最初から教えてくれたらよかったのに」

 詩織は、そう言った。

 黒木は、判を押しながら、少し手が止まった。

「講習で、やっています」

「やってない」

「第五層講習の、四日目です」

「四日目、行ってない」

「行かないと、修了になりません」

「なりましたけど」

 黒木は、顔を上げた。

「なりましたか」

「なった。バッジもらった」

 詩織は、袖のバッジを叩いた。

「三日目の最後に、四日目は実技だけだから来なくていいって言われて」

 黒木は、判を持ったまま、動かなかった。

「誰にですか」

「講師の人。名前は知らない」

「第五層講習は、市が上に足している講習です。委託先は、県内に三社あります」

「三社」

「どこで受けましたか」

 詩織は、思い出そうとして、眉を寄せた。

「……駅の南のビル。四階」

 黒木は、判を押した。

 押してから、退域届を綴りに回して、それから、手帳を出した。

 書いた。

『九月十七日。第五層講習、四日目を受けていない修了者。駅南のビル、四階。』

「なんか、まずいことですか」

「分かりません」

「分かんないのにメモするんですか」

「分からないことを、いちばんメモします」

 詩織は、しばらく黙っていた。

「……あのさ」

「はい」

「あたし、その四日目って、受け直せる?」

「受け直せます。手続きは、この窓口です」

「じゃあ、また来る」

 詩織は、退域届を置いて、帰った。

 空いた二つの欄は、黒木が明日また訊く。

 訊かれなければ、言わない。

 三時五十分、黒木は書類を一つ持って、庁舎の裏へ出た。

 入域口は、フェンスを二つ越えた先にある。歩いて四分。

 武田が、そこに立っていた。

 立ち会いの当番だ。入る者の資格証を確かめ、入域簿に時刻を書き、出てくる者の時刻を書く。それだけの仕事で、一日のうち一時間ある。

 黒木が着いたとき、武田は二人組を通していた。

 資格証を受け取り、顔を上げ、写真と顔を見比べる。返す。何も言わない。

 二人組の片方が、何か軽口を叩いた。

 武田は、答えなかった。

 代わりに、その男の腰のカラビナを指で示した。

 男が、自分の腰を見た。留め金が、開いていた。

 男は「うわ」と言って、留め直した。

 武田は、入域簿に時刻を書いた。

 黒木は、少し離れたところで、それを見ていた。

 十二年、この人はここに立っている。

 黒木は、書類を渡して、戻った。

 五時を過ぎて、庁舎が静かになった。

 武田は、まだ棚の前にいた。

 嘱託の勤務は五時十五分までだ。もう過ぎている。

 黒木は、自分の綴りを閉じて、立ち上がった。

 武田の背中に、声をかけた。

「武田さん。時間です」

「ああ」

 武田は、綴じ紐を結び終えて、棚に戻した。

 戻してから、動かなかった。

「黒木さん」

 黒木は、振り返った。

 この人が自分の名前を呼ぶのは、今年に入って二度目だった。

「はい」

 武田は、何も言わなかった。

 黒木は、待った。

 待ってから、自分のほうから言った。

「十二年前の様式は、B5一枚でした。欄が五つ。氏名、住所、入域希望日、目的、そして、緊急連絡先」

 武田の背中は、動かなかった。

「受け付けたのが十四件です。全部、私が受けました。あの年は、四人でした」

 まだ、動かない。

「武田さんの分も、私が受けました」

 武田が、棚のほうを向いたまま、首だけ少し傾けた。それが返事だった。

「帰る」

「……はい」

 黒木は、待った。

 窓口の仕事で身についた癖だった。相手が言葉を探しているとき、こちらから言葉を出さない。出すと、相手は探すのをやめる。

 武田は、探さなかった。

「お疲れさまでした」

 武田は、出ていった。

 黒木は、棚の前に立った。

 武田が今日綴じた分は、第一層から第三層の日帰りだ。十七件。紐の結び方が、いつもどおり左が上になっている。

 黒木は、その結び目をしばらく見ていた。

 それから、自分の席に戻って、第七層の綴りをもう一度開いた。

 武田の申請書。

 氏名、武田照夫。国家資格の番号の下に、市の入域者台帳の番号が振ってある。東雲〇〇〇七。

 番号を見て、黒木は指を止めた。

 〇〇〇七。

 十二年前の十四人のうち、七番目に登録した人間だ。

 黒木は、キャビネットの奥を見た。

 いちばん下の段に、十二年前の綴りがある。法が出来る前に、市が独自に取っていた受付簿だ。年に一度、県への報告のときにしか出さない。触ると、紙が少し粉になる。

 十四枚。

 黒木は、取っ手に手をかけた。

 かけて、そのままにした。

 県への報告は、来月だ。いま開ける理由が無い。

 理由の無いものを開けると、次から、理由が要らなくなる。

 黒木は、手を離した。

 離してから、少し立っていた。

 嘱託の武田照夫の人事記録も、見ていない。見る権限はあるが、見る理由が無い。

 ただ、この十二年で、この課の飲み会は四回あって、四回とも武田は来なかった。家族の話を聞いたことは、一度も無い。

 武田が席を立つとき、いつも、椅子をきっちり机の下に戻す。誰も見ていない時間に、戻す。

 武田の申請書は、要件を満たしている。目的欄は空欄ではない。調査と書いてある。同行者なしも、第七層では違反ではない。年齢に上限は無い。

 止める根拠が、一つも無い。

 黒木は、自分の席に座って、手帳を出した。

 ペンを取って、今日の一行を書いた。

九月十七日(木) 曇。 受付 二十八件。 うち差戻し 三件。 窓口 二百四十一分。 備考 第七層、本日二件。今週で十四件。

 書いてから、その下に、もう一行足した。

武田さんの退域予定が、空欄のままだ。

 書いて、少し見て、さらに一行足した。

十二年前も、調査だった。

 手帳を閉じて、鞄に入れた。

 立ち上がって、窓の外を見た。

 曇っている。庁舎の裏のフェンスの向こうに、入域口へ続く道の街灯が、一定の間隔で並んでいる。数えられる。十七本。

 黒木は、電気を消した。

 消してから、岸の机を見た。

 書類の山が、三つに分かれて、日付順に重ねてあった。

 黒木は、それを直さずに、そのまま帰った。

 その夜、匿名掲示板「潜り板」の東雲スレッドに、こんな書き込みがあった。

501 名前:名無しの潜り屋
七層、明日の夕方までに出ろって言われてる

502 名前:名無しの潜り屋
>>501
誰に

503 名前:名無しの潜り屋
それは言えない

504 名前:名無しの潜り屋
言えないのかよ

505 名前:名無しの潜り屋
東雲の窓口、なんか言ってた?

506 名前:名無しの潜り屋
>>505
何も。いつも通り書式だけ
あの人、何も言わないよ

507 名前:名無しの潜り屋
言わないだけで、全部見てると思うけどな

 黒木は、この掲示板を見ない。

 見ないまま、その夜、手帳をもう一度開いて、十四件の退域予定時刻を書き写した紙を、もう一度眺めた。

 空欄が、一つ。

 黒木は、その空欄を、指でなぞった。