最後の宿題
廃校が決まった小さな島の小学校で、最後の一年を受け持つことになった四十代の教師と、たった三人の児童たち。特別なことは何も起きない、けれど確かに積み重なっていく日々を、卒業式の朝まで静かに描く。
四月の職員会議で、校長は淡々とした口調で言った。
「来年三月をもって、この学校は閉校になります」
驚く者は誰もいなかった。この数年、児童数の減少はずっと話題に上っていたし、島の人口そのものが、毎年少しずつ減っていくのを、誰もが肌で知っていた。ただ、決まってしまうと、やはり何か違う重みがあった。
宮下先生は今年四十三になる。この春から、島の小学校に赴任してきたばかりだった。県の人事異動で決まったことで、自分から望んだわけではない。それでも、辞令を受け取ったとき、どこか安堵に似た気持ちがあったことを、宮下先生自身、うまく説明できずにいた。前任校での数年間は、慌ただしく、いつも何かに追われているようだった。この島に来て、初めて息がつけた気がした。
宮下先生が受け持つのは、複式学級だった。一年生が一人、四年生が一人、六年生が一人。それぞれ学年は違うが、教室は一つしかない。三人の児童は、莉子、翔太、蒼といった。莉子は六年生で、今年度末にはこの学校で卒業式を迎える、最後の卒業生になる。
初めて教室に入った日、宮下先生は三人の顔を順に見た。莉子は落ち着いた表情で、宮下先生をじっと観察するように見返してきた。翔太は四年生らしい人懐こさで、すぐに話しかけてきた。蒼は一年生にしては物静かで、机の下でずっと足をぶらぶらさせていた。
「先生、東京から来たの」
翔太が開口一番、そう聞いた。
「東京じゃないよ。もっと近くの、県庁のあるところから来たんだ」
「へえ。それでも、遠いね」
翔太の言葉に、莉子が小さく笑った。この島から見れば、確かにどこも遠い。船で一時間半、そこからさらにバスに乗り継いでようやく本土の街にたどり着く。宮下先生は、その距離感を、赴任してすぐに実感することになった。
赴任してすぐの頃、宮下先生は職員室で、教頭からこの島の学校の歴史を聞かされた。かつては児童数が七十人を超えていた時期もあったという。木造の古い校舎の廊下には、今も歴代の卒業写真が並んでいる。集合写真の人数は、年を追うごとに減っていき、ここ数年はひとけたが続いていた。
「先生には申し訳ないけど、最後の年を任せることになる」
教頭はそう言って、少し頭を下げた。宮下先生は首を振った。
「いえ。任せていただけて、ありがたいと思っています」
その言葉に嘘はなかった。ただ、最後の年という響きの重さを、このときの宮下先生はまだ、実感として掴めていなかった。
島の暮らしは、宮下先生が想像していたよりも、ずっと静かで、ずっと忙しかった。
朝は五時に起きる。海沿いの道を歩いて学校まで通う。途中、漁を終えた船が港に戻ってくるのが見える。教室に着くと、まず窓を開けて、潮の匂いを部屋いっぱいに入れる。それが、宮下先生の一日の始まりだった。
授業は複式学級の常で、常に二つの学年を同時に進める必要があった。一方の学年に説明をしている間、もう一方の学年には自習をさせる。それを交互に繰り返す。慣れるまでは、頭の切り替えがうまくいかず、何度も授業の流れを見失いかけた。
「先生、さっきの続き教えて」
蒼がそう言って、算数のドリルを持ってくる。宮下先生は六年生の莉子に社会科の課題を与えてから、蒼の隣に座り、繰り上がりの足し算を、一緒に指を折りながら教える。その間、翔太は理科の観察日記をつけている。教室の中で、三つの時間が同時に流れていた。
放課後になると、児童たちはそれぞれの家路につく。島には塾もなければ、習い事の教室もほとんどない。子どもたちは、海で貝を拾ったり、山道で虫を探したり、あるいは家の手伝いをしたりして過ごす。宮下先生は職員室で明日の授業の準備をしながら、窓の外に見える海を、時々眺めた。
夏が近づく頃、莉子が放課後、教室に残っていることが増えた。
「莉子、帰らなくていいの」
「うちに帰っても、誰もいないから」
莉子の両親は共働きで、漁業と民宿の手伝いを掛け持ちしている。祖母が家にいるが、畑仕事で忙しい時間帯もある。莉子は教室の隅の席で、黙々と読書をしていることが多かった。宮下先生は、その邪魔をしないように、自分の仕事を進めながら、時折、莉子の様子をうかがった。
「莉子は、卒業したらどうするの」
ある日、そう聞いてみた。莉子は本から顔を上げずに答えた。
「島の外の中学校に行く。寮のあるところ」
「寂しくない?」
莉子はしばらく黙っていたが、やがて本を閉じて言った。
「わかんない。でも、この島に中学校ないから、しょうがない」
その口調には、諦めというより、事実を事実として受け止めている落ち着きがあった。宮下先生は、その落ち着きに、かえって胸を突かれた。十二歳の少女が、島を出ることを当たり前のこととして受け入れている。その静けさの奥に、まだ言葉にならない何かがあるはずだと、宮下先生は感じていた。
放課後の教室に残る莉子と過ごす時間は、次第に宮下先生にとっても、一日の中で大切な時間になっていった。莉子は本の話をするときだけ、いつもの落ち着いた口調から少し離れて、早口になった。海洋生物の図鑑が好きで、この島の周りに棲む魚の名前を、宮下先生よりもずっと詳しく知っていた。
「先生、これ知ってる? タカベっていう魚。この島でしか、あんまり獲れないんだよ」
「知らなかった。莉子は物知りだね」
「じいちゃんの船に乗せてもらったとき、漁師さんたちが教えてくれるんだ」
そう話すときの莉子の顔は、教室では見せない生き生きとした表情をしていた。宮下先生は、その表情を見るたびに、この子はきっと、島を出た先でも、自分の足でしっかりと歩いていけるだろうと思った。それでも、寂しさが消えるわけではなかった。
夏休みが終わり、二学期が始まった。この頃から、学校ではことあるごとに「最後の」という言葉がつくようになった。最後の運動会、最後の学芸会、最後の学習発表会。地域の人々もそれを意識してか、行事のたびに、普段よりも多くの大人たちが学校を訪れるようになった。
運動会の日、島の住民のほとんどが校庭に集まった。児童はたった三人だが、地域住民参加の種目が、プログラムの半分以上を占めていた。玉入れ、綱引き、島の伝統の踊り。宮下先生はテントの下で進行を務めながら、その光景を眺めていた。校庭を埋め尽くす大人たちの姿は、児童数の少なさを忘れさせるほどだった。
「先生、頑張って走ってね」
翔太が徒競走の前、そう声をかけてきた。三人しかいないから、徒競走は毎年同じ順位になる。それでも翔太は本気で走った。ゴールした後、悔しそうに地面を蹴った。
「翔太、いい走りだったよ」
「でも二位だった」
「一位が一人しかいない競技もあるんだよ。でも、みんなが見てた走りは、ちゃんと一位だった」
宮下先生がそう言うと、翔太は納得したような、していないような顔をした。だが、その日の夕方、翔太の父親が宮下先生のところに来て、頭を下げた。
「先生、うちの子が、今日の言葉、家でずっと話してました。ありがとうございます」
宮下先生は、その一言に、何かを教えるということの手応えを、久しぶりに感じた。
秋になると、島では収穫祭が開かれた。学校の児童三人も、それぞれの家業を手伝う形で祭りに参加した。莉子は民宿の手伝いで来客の案内をし、翔太は漁協のテントで魚を運び、蒼は祖父の畑で採れた芋を売る手伝いをした。宮下先生は、祭りの合間にそれぞれの持ち場を回り、児童たちの働く姿を見て歩いた。
教室では見せない顔を、児童たちは持っていた。莉子は来客に丁寧に応対し、大人びた口調で観光客の質問に答えていた。翔太は漁協の若い衆に混じって、大きな声で威勢よく魚を運んでいた。蒼は祖父の隣で、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに芋を差し出していた。
「先生、芋、買ってく?」
蒼にそう声をかけられ、宮下先生は財布を取り出した。
「もちろん買うよ。蒼が育てたの?」
「じいちゃんと一緒に」
蒼は照れくさそうに笑った。宮下先生は焼き芋を受け取り、その場でかじった。ほくほくとした甘みが口の中に広がった。ただの芋の味以上の何かが、そこにはあった。
祭りの片付けが終わった頃、翔太の父親が宮下先生のところに焼酎の一杯を持ってきた。
「先生、今年は本当にありがとうございます。うちの子も、蒼くんとこも、来年からどうなるか、正直まだ決めきれてないんですけどね」
「みなさん、悩まれてますよね」
「悩みますよ。でも」翔太の父親は、少し笑って続けた。「先生が来てくれて、この一年、うちの子、毎日楽しそうに学校の話をするんです。それだけでも、良かったなと思ってます」
宮下先生は、その言葉を受け取りながら、胸の内で小さく礼を返した。自分がこの島に来て、何かを変えられたとまでは思わない。ただ、この一年間、確かに児童たちのそばにいられたことだけは、誇ってもいいのかもしれないと思った。
その夜、宮下先生は職員室で、来年度以降のことを考えた。この学校が閉校した後、莉子は島の外の中学校へ、翔太と蒼は本土の統合小学校へ通うことになる。船で通うか、寮に入るか、家族が島を離れるか。それぞれの家庭が、それぞれの事情の中で答えを出そうとしていた。宮下先生自身も、閉校後は別の学校へ異動することが決まっていた。この島で過ごすのは、この一年きりになる。
冬になると、教室の中は一段と静かになった。北風が校舎を叩く音の合間に、三人の鉛筆の音だけが響く。宮下先生は石油ストーブの番をしながら、複式授業を進めた。
ある日、蒼が国語の授業中、急に泣き出した。理由を聞くと、飼っていた猫が死んだのだという。宮下先生は授業を止め、蒼の話を聞いた。莉子と翔太も、自分の作業の手を止めて、蒼の話に耳を傾けた。
「その猫、蒼が名前つけたの?」
莉子が優しく聞いた。
「うん。ミケって名前」
「いい名前だね」
翔太もそう言った。教室の中に、いつもとは違う、しんとした空気が流れた。三人だけの教室だからこそ、こういう時間が生まれるのだと、宮下先生は思った。人数の多い学校では、こんな風に、クラス全員が一人の悲しみを共有する時間は、なかなか作れない。
その日の帰り道、宮下先生は蒼を家まで送っていった。蒼の祖父が庭先で、小さな木の墓標を作っているところだった。
「先生、わざわざすみません」
「いえ。蒼くん、頑張って学校に来てましたよ」
祖父は頷き、墓標に猫の名前を彫り込んだ。蒼はその隣にしゃがみ込み、じっと祖父の手元を見つめていた。宮下先生は、その光景を少し離れたところから見守った。教えるということは、教室の中だけで完結するものではないのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。
冬休みが明けた最初の朝、宮下先生が教室に入ると、黒板いっぱいに三人の落書きが残されていた。始業式を待ちきれず、早く登校した翔太と蒼が、莉子を巻き込んで描いたものらしい。海と、船と、三人の似顔絵らしきものが、下手な字とともに並んでいる。「あけましておめでとう先生」と書かれた文字の横に、小さく「あと少し」とも書き添えられていた。
宮下先生はしばらくその黒板を消さずに眺めていた。あと少し、という言葉が誰の手によるものかはわからなかったが、それが閉校までの日々を指しているのだと、すぐにわかった。児童たちなりに、この一年の終わりを、意識し始めているのだと思うと、胸の奥が少し痛んだ。
その日の給食の時間、宮下先生は三人に聞いてみた。
「黒板の落書き、あと少しって書いたの、誰?」
三人は顔を見合わせて、それぞれ違う方向を指さした。結局誰が書いたのかはわからないままだったが、宮下先生はそれ以上追及しなかった。ただ、給食の後片付けをする三人の背中を見ながら、残された時間を、これまで以上に大切に過ごそうと、心に決めた。
年が明け、三学期が始まると、卒業式の準備が本格的に始まった。今年の卒業生は莉子一人だけだが、閉校式を兼ねた式典になるため、島を挙げての行事になるという話が、職員会議で決まった。
宮下先生は莉子に、卒業式の呼びかけの言葉を任せることにした。
「莉子、卒業式で、みんなの前で話すことになるけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
莉子は即座に頷いたが、その夜、原稿用紙を持って、なかなか筆が進まない様子で職員室に来た。
「先生、何を書けばいいか、わかんない」
「莉子が、この一年で思ったことを、そのまま書けばいいんだよ」
「でも、特別なことなんて、何もなかった」
莉子の言葉に、宮下先生は少し考えてから答えた。
「特別なことがなかったっていうのも、一つの答えだと思うよ。毎日、当たり前に学校に来て、当たり前に授業を受けて、当たり前に帰る。それが続いたってことは、何も特別なことが起きなかったからじゃなくて、その当たり前を、みんなが守ってきたからじゃないかな」
莉子はしばらく黙って、原稿用紙を見つめていた。それから、少しずつ、鉛筆を動かし始めた。
二月の終わり、最後の学習発表会が開かれた。三人の児童は、それぞれこの一年で学んだことを発表した。莉子は島の漁業の歴史について調べた自由研究を、翔太は理科で育てた植物の観察記録を、蒼はひらがなの練習の成果を、それぞれの言葉で発表した。
会場には島の住民のほとんどが集まっていた。宮下先生は、その光景を見ながら、この一年間の授業の一つひとつを思い返していた。複式学級の慌ただしさ、蒼と一緒に折った指、莉子の静かな読書、翔太の悔しそうな顔、猫が死んだ日の教室の静けさ。何一つ特別ではないはずのそれらが、今、こうして一つの形になって、目の前にあった。
発表が終わった後、宮下先生は職員室に戻り、三人分の通知表を書き始めた。それぞれの成長を、一言一言、丁寧に書き記していく。書きながら、宮下先生は、この学校で過ごした一年が、自分にとっても何か大切なものになっていることに気づいていた。
三月、卒業式の朝が来た。島には珍しく、風のない穏やかな日だった。宮下先生は、いつもより早く学校に着き、教室の窓を開けた。潮の匂いが、いつも通り部屋に満ちた。
式場には、島の住民のほとんどが集まっていた。三人の児童は、それぞれ正装をして、緊張した面持ちで並んでいた。宮下先生は担任として、最後の挨拶をすることになっていた。
「この一年、この教室で、私は三人の児童から、多くのことを教わりました」
宮下先生はそう切り出した。
「教えるということは、大きな声で何かを伝えることだと、以前は思っていました。でも、この島で過ごした一年で、それだけではないと知りました。誰かの隣に座って、一緒に指を折って数を数えること。誰かの悲しみに、静かに耳を傾けること。当たり前の毎日を、当たり前のまま、大切に積み重ねていくこと。それもまた、教えるということなのだと、私は三人から学びました」
会場は静かだった。宮下先生は続けた。
「この学校は、今日で閉じられます。ですが、ここで過ごした時間が消えるわけではありません。莉子さん、翔太くん、蒼くん。あなたたちがこの教室で学んだことは、これから先、どこへ行っても、あなたたちの中に残り続けます」
莉子が壇上に上がり、卒業証書を受け取った後、呼びかけの言葉を読み上げた。
「わたしは、この学校で六年間を過ごしました。特別なことは、あまりなかったと思います。でも、毎日教室に来て、先生や友達と過ごした時間は、わたしにとって、かけがえのないものでした」
莉子の声は、少し震えていたが、最後まで止まらなかった。
「この学校がなくなるのは、寂しいです。でも、ここで学んだことを、わたしはこれから先も、ずっと覚えています。先生、翔太、蒼、島のみんな、ありがとうございました」
式が終わった後、校庭に出ると、島の住民たちが三人の児童を取り囲んで、口々に労いの言葉をかけていた。宮下先生は少し離れたところに立ち、その光景を眺めていた。
「先生」
莉子が近づいてきた。
「先生、最後に聞きたいことがあります」
「なに?」
「最後の宿題って、出さないんですか」
宮下先生は少し驚いて、莉子を見た。莉子は真面目な顔で続けた。
「先生、いつも宿題出すとき、これをやると次につながるよって言ってたから。だから、最後の宿題も、あるのかなって」
宮下先生は少し考えてから、答えた。
「あるよ。最後の宿題は――これから先の毎日を、大切に積み重ねていくこと。それだけだよ」
莉子はその答えを、しばらく胸の中で反芻するように、じっと黙っていた。それから、小さく頷いた。
「わかりました。ちゃんとやります」
その言葉に、宮下先生は微笑んだ。翔太と蒼も、いつの間にか近くに来ていて、二人とも同じように頷いていた。
海からの風が、校庭を吹き抜けた。閉校となる小さな校舎が、春の光の中で、静かにその役目を終えようとしていた。宮下先生は、三人の児童の背中を見送りながら、この一年が、誰にとっても、確かに意味のあるものだったことを、改めて噛みしめていた。
(了)
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