ファンタジー

風の電話ボックス

海を見下ろす丘に、電話線のつながっていない古い電話ボックスがある。受話器を上げて声を出すと、風がその声を遠くへ、時には過去へと運ぶという噂があった。喪失を抱えた青年がその扉を開ける、静かな再生の物語。

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丘の上に、電話ボックスがある。

塗装は剥げかけ、扉の蝶番は錆びて軋む。中の電話機はとうに配線が切れていて、受話器を上げても交換局につながることはない。それでも、麓の町の人々は誰も、それを撤去しようとはしなかった。

町の人はそれを「風の電話ボックス」と呼んでいた。受話器を上げて声を出すと、風がその声を遠くまで運んでくれる。時には、もう会えない誰かのところまで。子どもの頃からそう聞かされて育った者は多かったが、実際に登ったことのある者は少なかった。丘までの道は長く、バスも通っていない。

拓也がその丘に登ったのは、十一月のよく晴れた日だった。

祖母が死んで、四十九日が過ぎたばかりだった。喪主を務め、親戚への挨拶を済ませ、遺品を整理し終えた頃には、拓也の中から涙も言葉も、出尽くしたように思えた。それなのに、何かがまだ、胸の奥でつかえていた。言い残したことがある気がしたが、それが何なのか、拓也自身にもわからなかった。

仕事にも、その支えのなさは表れていた。会議中にふと集中が途切れる。取引先へのメールを書きかけたまま、画面を見つめて手が止まる。誰かに指摘されるほどではなかったが、拓也自身は、自分の内側で何かの歯車が一つ抜け落ちたままになっているのを、はっきりと感じていた。

会社の同僚が、なんの気なしに教えてくれたのが、この丘の電話ボックスだった。「あそこに登ると、なんか整理がつくらしいよ」と、同僚は半信半疑の口調で言った。噂の出どころは曖昧だった。震災の被災地にあるという話を混同している者もいれば、単なる都市伝説だと笑う者もいた。それでも拓也は、その曖昧さにかえって惹かれた。理屈で説明できるものなら、とっくに自分一人で片づけていたはずだった。

拓也は半分も信じていなかったが、有給を一日取って、電車とバスを乗り継ぎ、最後は一時間近く山道を歩いて、丘の上にたどり着いた。舗装の途切れた道を登る間、スマートフォンの電波は途中から届かなくなった。それが、かえって拓也の心を落ち着かせた。誰にも連絡が取れない場所で、誰にも見せない顔で、丘を登り続けた。

電話ボックスは、思っていたよりずっと小さかった。ガラス窓の向こうに海が見え、風が絶え間なく吹き抜けている。扉を開けると、蝶番が鳴いた。

中に入り、受話器を持ち上げる。ずしりと重い、古い型の受話器だった。耳に当てても、当然、発信音は聞こえない。ただ、風の音だけが、受話器の向こうから響いてくるような気がした。

何を話せばいいのか、拓也にはわからなかった。祖母との思い出は多すぎて、どれから話せばいいのか、選ぶことすらできない。結局、拓也は思いつくままに、ぽつりぽつりと話し始めた。

「ばあちゃん。おれ、うまく泣けなかった」

風がガラス窓を揺らす。

「葬式のとき、みんな泣いてたのに、おれだけ、なんか、涙が出なくて。薄情なやつだと思われたかもしれない。でも、そうじゃないんだ。ただ、実感がなかっただけで」

言葉は途切れ途切れに出てきた。子どもの頃、祖母の家の縁側で食べたかき氷の味。夏休みに毎年連れて行ってもらった花火大会。受験に失敗した年、誰にも言えなかった弱音を、祖母にだけはこぼせたこと。祖母が最後の入院のとき、痩せた手で拓也の手を握って、何か言おうとして、結局言葉にならなかったこと。

「あのとき、ばあちゃん、何を言おうとしてたんだろう」

拓也の声が、初めて震えた。

「聞けなかったこと、ずっと引っかかってて。もう、聞けないんだよな。当たり前だけど」

風が一段と強く吹いて、電話ボックスの古いガラスがかたかたと鳴った。拓也は目を閉じた。すると、ふいに、記憶の底から一つの場面が浮かび上がってきた。

小学生の拓也が、祖母の家の縁側で、宿題もせずにぼんやり空を眺めていた夏の午後。祖母が隣に座って、何も聞かずに、ただ一緒に空を見ていた。あのとき祖母は、こう言っていたはずだった。

「拓也は拓也のままでいいんだよ。急がなくていい」

忘れていたわけではなかった。ただ、日々に埋もれて、思い出す順番がずっと後ろに追いやられていただけだった。受話器を耳に当てたまま、拓也はその言葉を、まるで今初めて聞いたかのように、もう一度受け取り直した。

「――ありがとう」

拓也はそれだけ言って、受話器を静かに置いた。


電話ボックスを出ると、海からの風が、まっすぐに拓也の頬を撫でた。涙は、今度は自然に出てきた。声を殺さず、拓也はしばらく、丘の上で泣いた。悲しみのための涙ではなく、何か重いものが胸から抜け落ちていくときの涙だった。

丘の中腹で、拓也は一人の老婦人とすれ違った。杖をつき、ゆっくりとした足取りで丘を登っていくところだった。目が合うと、老婦人は小さく会釈をした。

「あなたも、話してきたのかい」老婦人が尋ねた。

「はい」拓也は頷いた。「思っていたのと、違う答えが返ってきました」

老婦人は柔らかく微笑んだ。「みんなそうだよ。届けたい言葉より、届けてもらう言葉のほうが多いのさ、あの電話は」

「あなたは、どなたに話しに?」

「亭主だよ」老婦人は海のほうを見やった。「四十年連れ添って、先に逝かれてね。もう話すことなんて、とっくに話し尽くしたと思ってたんだけど」

「それでも、登るんですか」

「毎年、この時期にね」老婦人は杖を持ち直した。「話すことがなくなっても、聞きたいことは、なくならないもんだよ」

拓也は老婦人と別れ、丘を下り始めた。振り返ると、老婦人の小さな背中が、電話ボックスへ向かって、ゆっくりと丘を登っていくのが見えた。杖の先が土を踏むたびに、小さな砂利の音が風に混じって聞こえた。あの人は今日、四十年分のどの記憶を、あの小さな箱の中で開くのだろう。拓也にはわからなかったが、見送るあいだ、自分の胸のつかえが、少しだけ軽くなっているのに気がついた。

道の途中、拓也は一度だけ足を止めて振り返った。丘の中腹からでも、電話ボックスの小さなシルエットが、稜線の上にぽつんと見えた。あそこに立つ誰もが、届くはずのない声を届け、返るはずのない答えを受け取って、また日々の中へ戻っていくのだろう。何百年経っても電話線などつながらないその箱が、それでも麓の町の人々にとって、何かとても大切な回線であり続ける理由が、拓也には今ようやくわかった気がした。

麓に着く頃には、日が傾き始めていた。拓也はバス停のベンチに座り、スマートフォンを取り出しかけて、やめた。かわりに、鞄の中の手帳を開き、白紙のページに、思いついたことを書きつけた。

「拓也は拓也のままでいいんだよ。急がなくていい」

もう一度読み返し、拓也は静かに手帳を閉じた。バスが来るまで、まだしばらく時間がある。拓也は顔を上げ、丘の上の小さな電話ボックスを見つめた。ガラスが西日を受けて、一瞬だけ、金色に光った。

風はまだ、丘の上を吹き抜けている。今日も誰かの声を、遠くへ、あるいは記憶の奥深くへと運びながら。

拓也はベンチから立ち上がり、来た道を、もう一度だけ振り返った。それから、町へ戻るバスに乗るために、ゆっくりと歩き出した。

(了)