夕暮れの草原に残る廃村。苔むした石の井戸のふちに、赤い髪をポニーテールにした若い女性が革のベストと長ズボン姿で腰かけ、灰色の外套を風になびかせながら空を見上げている。足元に革の鞄、背後に崩れた石壁と遠い山並み。
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白紙の国の帳簿係 第二話 名を預かる

追手だった獣人が、村の入口の石に座ったまま動かない。食べ物を出せば食べる。名を訊けば「団長が持っている」。名を質に入れられた者は、自分の名で約束を結べない。経理課長の井原遼は、獣人を縛っている依頼の文面から一語を見つけ、立会人のいない紙切れの約束を、初めて自分の名で結ぶ。

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収入 なし。 支出 なし。 備考 入口に、狼が一。

 獣人は、動かなかった。

 朝の光の中で、村の入口の石に腰を下ろし、両手を膝に置いている。灰色の毛は短く、首から肩にかけて逆立っていた。爪は長い。鼻先は人より前に出ていて、耳は頭の上についている。昨夜は松明の明かりで、犬とも狼ともつかなかった。昼の光で見ると、犬ではない。狼だ。狼の形をした、人だ。

 昨夜、松明を持って帰ったはずの三人のうちの一人。人間の二人はいない。この一人だけが、戻ってきた。

「見える、と言ったな」

 遼は、井戸の桶を地面に置いて、距離を測った。石まで、二十歩。走っても逃げられない距離だ。走らなくても、同じだ。数えても仕方のないことを数えている、と気づいて、やめた。

「見える」

 獣人は、同じことを言った。目は遼ではなく、遼の背後の村を見ている。石の家。井戸。落ちた屋根。目が滑っていない。

「他の二人は」

「帰った」

「あなたは、帰らなかった」

「帰れない」

 短い。遼は、続きを待った。獣人は、続きを言わなかった。言葉を惜しんでいるというより、言葉がそこで終わっているようだった。

「昨夜は、一瞬だった。村を見たのは」

「一度、見えた。帰り道で、また見えた。……振り返ったら、ずっと見えた」

 だから戻った、とは言わなかった。だが、そう聞こえた。

 背後で、足を引きずる音がした。ミレイが、井戸の縁から立ち上がって、こちらへ来る。右の足首の布は、今朝、遼が巻き直した。腫れは引いていない。

「……何、あれ」

「昨夜の一人だ」

「見えてるの。村が」

「そう言っている」

 ミレイは、獣人を見た。獣人は、ミレイを見なかった。相変わらず、村を見ている。ミレイの顔から血の気が引くのが、遼にも分かった。

「あたしを、連れ戻しに」

「それなら、昨夜のうちに来ている。二十歩の距離を、朝まで詰めなかった」

 遼は、桶を持ち上げた。水は重い。数字にすると、たぶん八キロ。

「先に、芋を数える」

「は?」

「昨日、そう言った。予定は動かさない」

 ミレイは、何か言いかけて、やめた。呆れているのか、怒っているのか、判別がつかなかった。判別がつかないものは、後回しにする。それも仕事で覚えたことだ。

 *

 芋は、十一個あった。畑の跡から掘り出した分と、昨日拾った分。大きさはまちまちで、握りこぶし以下のものが七つ、それ以上が四つ。遼は井戸の縁に並べて、帳面に書いた。

『芋、十一。うち、大、四。』

「そんなの書いて、どうするの」

「減ったときに分かる」

「減らすのは、あたしたちしかいないでしょ」

「いまは、三人だ」

 ミレイが、口をつぐんだ。

 遼は、芋を三つ取った。大きいのを一つ、小さいのを二つ。井戸の水で洗い、石の上に置いた。火は無い。火打ち石も、乾いた枯れ草も、まだ探していない。生の芋を食べるのは、たぶん体によくない。だが今日は、それしかない。

 三つのうち、大きい一つを持って、入口の石まで歩いた。

 二十歩。数えた。十歩目で、獣人の耳が動いた。十五歩目で、目がこちらを向いた。爪は膝の上に置かれたまま、動かない。動かないのを、遼は見ていた。見ながら、残りの五歩を歩いた。足は、思ったより普通に動いた。怖くないわけではなかった。ただ、怖さより先に、渡すものが手にあった。

 獣人の前に、芋を置いた。石の上に。手渡しはしなかった。爪の届く距離に手を入れるのは、まだ早い。それは獣人のためでもある、と遼は思った。相手が受け取らなくて済むように、置く。

 獣人は、芋を見た。それから遼を見た。目は黄色に近い茶色で、瞳が縦に細い。

「食べるか」

 獣人は、答えなかった。答える代わりに、芋を取って、噛んだ。生の芋を、皮ごと、三口で。飲み込むあいだも、目は開いたままだった。閉じない。遼はそれを、なぜか覚えておこうと思った。

「名前は」

 獣人は、噛むのをやめた。

「……無い」

「無い、というのは」

「団長が、持っている」

 団長が、持っている。遼は、その言い方を、頭の中でもう一度なぞった。無い、ではない。持っている。誰かが。

「名は、物か」

 獣人は、少し考えるように、鼻先を動かした。

「紙だ」

 それきり、また村を見た。

 *

「名の質入れ」

 ミレイは、井戸の縁に座り直して、足首を伸ばしながら言った。声は低く、早口だった。昨日、「長くなるから今はいい」と言って切った話の続きだ。

「約定は、名を書ける者同士でしか結べない。それは言った」

「聞いた」

「でも、名を書けない者にも、約定で縛る方法がある。『名を預ける』約定。傭兵団に入るとき、団長と結ぶ。……正確には、団長が代わりに書く。本人は印を押すだけ」

「本人が書けないのに、当事者になれるのか」

「なれない。だから、その約定だけは特別なの。『この者の名を、団長に預ける。以後、団長はこの者の名で約定を結ぶことができる』。書記院が認めてる、唯一の形。預けた瞬間から、その人の名は、団長の手の中にある。団長が結んだ約定は、全部、その人の名でも結ばれたことになる」

 遼は、それを帳簿に置き換えた。

 名義貸し。いや、違う。名義を、まるごと預ける。預かった側が、その名で好きなだけ契約を結べる。

 遼は、話を聞きながら、残りの芋を布に包んで、穀倉の日陰に移した。日に当てると、芽が出る。芽が出た芋は、食べられない。ミレイは、その手つきを見ながら、話を続けた。返す義務は――と、遼が訊いた。

「返す期限は」

「書いてあれば、その通り。書いてなければ、無い」

「たいてい、書いていない」

「たいてい、書いてない」

 ミレイは、自分の膝を見た。

「父が言ってた。書記院が一番気にしてるのは、剣でも金でもなくて、名を書ける者の数だって。書ける者が増えたら、書けない者を縛れなくなる。だから資格を絞る。獣人には、最初から持たせない。……それで、団長みたいな人間が、獣人の名を何十人分も預かって、その名で約定を結んで、儲ける」

「あの一人は、団長の名で書記院の依頼を受けている。自分の名は、団長の手の中にある」

「そう。だから、帰れない。依頼を果たしてないのに帰ったら、団長の名で結んだ約定を、あの人の名でも破ったことになる。……いえ、正確には、破るのは団長で、落ちるのも団長の名なんだけど、そうならないように、団長は先に――」

 ミレイは、そこで言葉を切った。言いたくないことを、言わずに済ませたい顔だった。

「先に、あの一人を切る」

「切る、っていうか。預かった名を、書記院に差し出す。『この者が依頼を破った』って。そうしたら落ちるのは、あの人の名。団長は無事」

 遼は、しばらく黙っていた。

 合わない。どこが合わないのか、まだ言葉にならない。だが、この仕組みの中で、一番損をしている者が誰かは、もう分かっていた。入口の石に座っている。

「あの一人が、いま、いちばん困っていることは何だ」

「帰れないこと」

「違う」

 ミレイが、眉を上げた。

「あの一人が困っているのは、『帰れない』ではない。『帰ると落ちる』だ。帰らなければ、落ちない。ここに座っているかぎり、落ちない。困っているのは、それがいつまで続くか分からないことだ」

「……同じことでしょ」

「違う。帳簿でいえば、片方は赤字で、片方は締めていないだけだ」

 ミレイは、口を開けて、閉じた。それから、小さく、「変な人」と言った。昨日と同じ言い方だった。

 それから、急に、声の調子を変えた。

「それで、あの方を、この村に入れるおつもりですか」

 敬語だった。昨日の夕方、追手の話をしたときにも、一度だけこの言い方になった。怒ると敬語になる。遼はそれを、この一日で覚えた。

「入れる、と決めてはいない」

「決めていないのに、芋を渡した」

「食べる者に食べ物を渡した。それは、入れることとは違う」

「同じです。あの方は、あたしを銀二十枚で運ぶために来た人です。その人に、あなたは、うちの芋を――」

「うちの芋、と言ったな」

 ミレイが、詰まった。

 遼は、責めるつもりで言ったのではなかった。ただ、耳に残った。一日前にここへ転がり込んだ女が、この村の芋を「うち」と呼んだ。それは帳簿に書くようなことではない。だが、覚えておくべきことだった。

「……言いました。それが何か」

「何でもない。それより、ひとつ、教えてほしい。昨日、あなたはこの村がぼやけて見えると言った。指されれば、焦点が合うと」

「言いました」

「あの一人には、はっきり見えている。あなたより、はっきり。それは、なぜだ」

 ミレイは、答えかけて、止まった。敬語が、ほどけていく。

「……分からない。獣人だから、じゃないの。名を持てない者には見える、って、そういう話だったと思う。父が」

「持てない者。だが、あの一人の名は、団長の手の中にある。無いのではない。ある。帝国の書記院が認めた形で、団長の名の下に、預けられている」

「……そう」

「帝国の記録に載っている者には、見えない。あなたはそう言った。あの一人は、記録に載っている。団長の持ち物として」

 ミレイの目が、ゆっくりと、入口の石のほうへ動いた。

「載ってる。でも――本人として、載ってない」

「そういうことになる」

「名はあるのに、あの人のものじゃない。だから、帳簿の側から見たら、あの人はいない。いないから、見える」

 ミレイは、自分で言ったことを、自分で聞き返すように、黙った。

 遼は、その横顔を見ていた。父親のことを言うとき、この女の声は平らになる。いまも平らだった。平らにしようとして、平らになっている。

「あたしが半分しか見えないのは、父の名が落ちて、あたしの名がまだ半分、記録に引っかかってるから」

「たぶん」

「あんたが全部見えるのは、最初から、どこにも載ってないから」

「たぶん」

「……嫌な帳簿」

 ミレイは、そう言って、足首の布を締め直した。

 *

 昼を過ぎて、遼はもう一度、入口の石まで歩いた。

 今度は、帳面を持って。

 獣人は、同じ姿勢で座っていた。芋の皮の切れ端が、足元に一つ落ちている。遼はその隣に腰を下ろした。石は冷たかった。二十歩の距離が、いま、一歩も無い。走ったところで、どうにもならない距離だった。

「書記院の依頼の文面を、知っているか」

「団長が、読んだ」

「覚えているか」

「……『ミレイ・ハルンを、生きて、書記院に引き渡す。引き渡しと同時に、銀二十枚』」

 一語ずつ、確かめるように言った。ミレイが言っていたのと、同じ文面だった。

 遼は、帳面を開いた。昨夜つけた頁。『追手、三人。うち一人、こちらを見ていた。』

「あなたの団長は、この依頼を『引き渡した』ことで果たす。それまでは、果たしていない。果たしていない、ということと、破った、ということは、違う」

 獣人は、何も言わない。

「文面に、期限は」

「三日。四日。……団長が、そう言った」

「言った。書いてあったか」

 獣人が、初めて、村ではなく遼を見た。

「……知らない」

「知らないなら、書いていないかもしれない。書いていないなら、期限は無い。期限が無いなら、あなたはまだ、破っていない」

 遼は、帳面の白い頁をめくった。残りを数える。六枚。昨日、一枚使った。この帳面は、あと六枚しか、新しいことを書けない。

「もうひとつ。『生きて』とある」

「ある」

「ミレイ・ハルンは、生きている。あそこに座っている。あなたは、彼女が生きている場所を知っている。生きているまま、ここにいる。それは、依頼の文面のどこにも反していない」

 獣人の耳が、動いた。

「『引き渡す』を、まだしていない」

「していない。だが、『引き渡す』までのあいだ、『生きて』を守り続ける義務がある。あなたがここにいて、彼女が生きているのを見ているあいだ、『生きて』のほうは、いまも守られている。破っていない」

 遼は、言った内容を、もう一度たどった。抜けはない。ねじ曲げてもいない。文面に書いてあることを、書いてある順に読んだだけだ。

「……お前は、何が言いたい」

「あなたは、ここにいてもいい、と言っている。帰らなくても、落ちない。書面上は」

 獣人は、長いこと黙った。それから、低く言った。

「団長は、書面を読まない」

「読まないなら、読める者が読む」

 遼は、帳面を閉じた。

「その代わり、ひとつ、頼みがある」

「……何を」

「この村を、数えてほしい。家が十四。井戸が一。畑の段が九。それ以上は、私一人の目では足りない。あなたには、見えている」

 獣人は、村を見た。それから、遼を見た。

「数える。それだけか」

「それだけだ。数えたものを、私に言う。私が書く。あなたが数え、私が書く。それで帳簿になる」

「帳簿」

「この村の。誰の持ち物でもない村の」

 獣人は、しばらく黙っていた。答えではなく、何かを噛みしめている沈黙だった。生の芋を噛んでいたときと、同じ顔だった。

「なぜ、戻った」

 遼は、訊いた。訊くつもりはなかったが、口が先に動いた。

「昨夜、あなたは二人と一緒に帰った。それが、戻ってきた」

 獣人は、答えるまでに、また少し時間をかけた。

「見えた」

「村が」

「見えたものは、ある。あるものの、そばにいる。……それだけだ」

 それだけだ、と獣人は言った。遼には、それが、それだけではないように聞こえた。だが、訊かなかった。帳簿に書けないことは、まだ、書かなくていい。

 *

 夕方、遼はミレイに、紙を一枚書いてほしいと言った。

「あたしが?」

「あなたは、名を書ける。私も書ける、らしい。だがこの世界の書き方の作法は知らない。文面は私が言う。あなたが書く」

 ミレイは、帳面の白い頁と、遼の顔を交互に見た。

「……何を書くの」

「約定だ」

 ミレイの顔が、こわばった。

「立会人がいないわよ。印章師が印を押さなかったら、それは約定じゃない。ただの紙」

「知っている。昨夜、あなたがそう言った」

「じゃあ、何のために」

「紙切れでも、書いてあることは同じだ。書いてあることは、書いた者を縛る。世界が守らせなくても、私は守る。それだけの紙だ」

 ミレイは、しばらく遼を見ていた。それから、深く息を吐いて、帳面を受け取った。

「……文面」

 遼は、言った。頭の中で、何度も読み直した文面だった。

「『井原遼は、団長バルトの手にある、この者の名を、この者に取り戻す。この者は、それまで、白地の数を数える』」

 ミレイの手が止まった。

「バルト?」

「団長の名だ。さっき、聞いた」

「……名を取り戻すって、どうやって」

「まだ分からない。だが、期限は書かない。書かなければ、破れない」

「ずるい」

「文面は、書いてある通りにしか働かない。それは、あなたが教えてくれた」

 ミレイは、何か言い返そうとして、やめた。ペンを――遼の青いボールペンを――取り、白い頁に、この世界の文字を書き始めた。細く、速く、美しい字だった。父親が書記だった、という話を、遼は思い出した。

 書き終えて、ミレイは、ペンを遼に返した。

「名前。あんたが書いて」

 遼は、頁の下に、書いた。

 井原遼。

 昨日、報告書に書いたのと同じ文字。だが、昨日は事実の下に書いた。今日は、約束の下に書いている。ペン先が紙を押す感触が、少しだけ違って感じられた。気のせいだ、と思うことにした。

「白地の数を数える、っていうのは」

「芋の数とか、家の数とか。私がやっていることだ。一人では、数え切れない」

「……それ、仕事なの?」

「仕事だ」

 ミレイは、帳面を閉じて、遼に返した。返しながら、訊いた。

「なんで、あの人のために」

「ためではない」

「じゃあ、何」

 遼は、少し考えた。数字で言えるなら、数字で言いたかった。だが、これは数字にならなかった。

「合わないからだ。この仕組みで、いちばん働いている者が、いちばん損をしている。そういう帳簿は、いつか必ず破綻する。破綻するときは、いちばん損をしている者が、まず切られる。私はそれを、何度も見た」

「……前の世界で?」

「前の会社で」

 ミレイは、それ以上訊かなかった。訊かない代わりに、井戸の水を一口飲んで、言った。

「あたしも、切られた側よ」

「知っている」

「だから、あの人を切らないなら、あたしも切らないで」

 それは、頼みというより、確認のように聞こえた。遼は、帳面を開いて、何も書かず、閉じた。書かなくても、覚えている。

「切らない」

 *

 入口の石の前で、遼は紙を広げた。

 日は落ちかけていた。獣人の毛が、夕日で赤茶に見えた。遼は文面を、一行ずつ、声に出して読んだ。獣人は聞いていた。読み終えて、遼は紙を差し出した。

「あなたの名は、ここに書けない。あなたは書けないし、書けたとしても、名はあなたの手に無い。だから、この紙は、私の名だけで書いてある。相手の名が無い約定は、約定ではない。立会人もいない。だから、これはただの紙だ」

「……紙切れだ」

「紙切れだ」

 獣人は、紙を見た。長いこと見た。文字が読めるのかどうか、遼には分からなかった。

 やがて、獣人は、長い爪の先で、紙の端をつまんだ。

「紙切れで、いい」

 そう言って、紙を、胸の毛の奥に押し込んだ。

 遼は、立ち上がった。膝が鳴った。三十四歳の膝は、石の上に長く座るようにできていない。

「名を、聞いていいか。団長が持っているほうではなく、あなたが呼ばれている名を」

 獣人は、少しのあいだ、遼を見上げていた。

「ガル」

「ガル」

 遼は、繰り返した。覚えるためだ。帳簿のためではなく、自分のために覚える名は、この世界に来て、二つ目だった。

 *

 夜になる前に、ガルは石から立ち上がった。

 立つと、遼より頭一つ高かった。そのまま村の中へ歩いてきて、崩れた家の梁を一本、引き抜いた。乾いた木だった。ガルはそれを地面に立て、爪を当てて、縦に裂いた。音は乾いていて、思ったより小さかった。

 薪だった。

「……何をしている」

「数える。薪を」

 遼は、少しのあいだ、言葉が出なかった。それから、帳面を開いて、書いた。

『薪、一。』

 ミレイが、井戸の縁から、その様子を見ていた。ガルを見て、遼を見て、また薪を見て、何か言おうとして、結局、何も言わなかった。代わりに、足首の布を、少し締め直した。

 火は、その夜、つかなかった。火打ち石が無い。ガルが石を二つ打ち合わせて火花を出したが、枯れ草が湿っていた。明日、乾かす。明日は、それをやる。予定に入れた。

 ガルは、村の中では寝なかった。薪を割り終えると、また入口の石まで戻って、そこに座った。背中を村に向けて、谷のほうを見ている。見張っているのか、村に入らないと決めているのか、遼には分からなかった。訊かなかった。訊いても、短い答えしか返ってこない。

 穀倉の入口に麻袋を敷いて、遼とミレイは、少し離れて横になった。ミレイは、眠らなかった。暗がりの中で、目が開いているのが分かった。

「……怖くないの」

「怖い」

 遼は、天井の隙間から見える星を、数えずに見ていた。

「だが、数えられる怖さだ。入口に一人。谷の向こうに、まだ誰もいない。数えられるうちは、なんとかなる」

「数えられなくなったら」

「そのときは、そのときに数える」

 ミレイは、鼻で笑った。笑ってから、外套の前をかき合わせて、壁のほうを向いた。しばらくして、寝息が聞こえた。

 遼は、それを聞いてから、起き上がった。

 遼は、帳面の新しい頁に、書いた。

『収入 薪、一。  支出 帳面、一頁。  備考 人、三。』

 三、と書いて、遼は、その字をしばらく見た。

 昨日は一だった。今日は三だ。二人増えた。増えた二人は、どちらも、この世界の帳簿に名で載っていない。一人は名を落とされた者の娘で、一人は名を預けた獣人だ。そして、その二人には、この村が見える。

 合わない、と昨日思ったことが、少しだけ、合ってきた気がした。まだ言葉にはならない。だが、帳簿の左右が、一行分だけ揃ったときの感じに似ていた。

 *

 翌朝、遼は井戸の水を汲みに出た。

 ガルは、入口の石ではなく、井戸のそばの地面に座っていた。薪は、四本になっていた。夜のうちに、増やしたらしい。遼はそれを数えて、書いた。

 書き終えて、顔を上げると、ガルが、村の外を見ていた。谷の向こうだ。山脈と大河に挟まれた盆地の、遼がまだ足を踏み入れていない、東の端。

 朝の空気は澄んでいて、遠くまで見えた。

 谷の向こうに、煙が上がっていた。

 一本ではない。遼は、癖で、数えた。

 三本。

 細く、まっすぐな煙だった。炊事の煙だ。火事なら、もっと太い。誰かが、あそこで、朝の火を焚いている。三つ。三つの火は、三つの家か、三つの集まりか。

「……ガル」

「見えている」

「あれは、何だ」

 ガルは、しばらく煙を見ていた。それから、短く言った。

「人。名の無い」

 なぜ分かる、とは訊かなかった。ガルには、見えるものが見える。それでいい。

 背後で、ミレイが穀倉から出てきた。足を引きずりながら、遼の隣まで来て、遼の視線の先を追った。目を細めた。ぼやけているのだろう。遼は、黙って、指をさした。

 ミレイの目が、焦点を結んだ。

「……三本」

「三本だ」

 遼は、帳面を開いた。昨日、人、三、と書いた頁の下に、ボールペンで、小さく書き足した。

『備考 谷の向こうに、煙、三。』

 書いてから、思った。数えられるうちは、なんとかなる。昨夜、そう言った。まだ、数えられる。