白紙の国の帳簿係 第一話 数を偽らぬ者
決算の帳簿が三万二千円合わない夜、経理課長の井原遼は、見知らぬ石の穀倉で目を覚ました。誰もいない廃村、机に残された古い台帳と印章。夕暮れに現れたのは、追われている若い女だった。剣も魔法も持たない男が、この世界で最初に使った武器は、一枚の紙だった。
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収入 なし。 支出 靴、片方。 備考 ここがどこか分からない。
目を開けると、天井が高かった。
石を組んだ丸天井で、継ぎ目に苔が生えている。その隙間から差す光が細い柱になって、埃の粒をひとつずつ照らしていた。井原遼は、その粒を数えかけて、やめた。数えられないものを数え始めるのは、疲れている証拠だ。
体を起こす。背中に麻袋の感触があった。中身は空で、何かの穀物のにおいだけが残っている。床は石。壁も石。窓は無く、光は天井の隙間からしか入らない。倉庫だ、と思った。それも、ずいぶん古い。
最後の記憶を、順に引き出す。
九月の決算。夜の十一時。フロアには自分ひとり。仕入台帳と請求書の突き合わせで、三万二千円が合わなかった。三万二千円。額としては大したことがない。だが合わない帳簿は、誰かがどこかで嘘をついているということだ。嘘の大きさと金額の大きさは、比例しない。遼はそれを十二年かけて学んだ。
だから帰らなかった。コンビニのコーヒーを買い足して、伝票の束をもう一度めくって――そこで記憶が切れている。
右手を見ると、ボールペンを握っていた。会社の備品の、青い軸のやつ。左手には何もない。足元を見ると、靴は右だけだった。
「……片方、どこへ行った」
声が石壁に跳ね返って、思ったより大きく響いた。誰も答えない。
立ち上がって、倉庫の扉を押した。木の扉は軋みながら開いた。
外は、村だった。
村だった、と過去形で思ったのは、誰もいなかったからだ。石積みの家が道の両側に並び、屋根はほとんど落ちている。井戸がひとつ。その向こうに、少し大きな石の建物。さらに向こうには段々になった畑の跡があって、その先は山だった。空は高く、雲は薄く、季節は秋の初めのように見えた。
人の気配は、ない。鳥の声もない。風だけがあった。
遼は靴を履いた右足と、靴下だけの左足で、道の真ん中に立った。そして、癖で数え始めた。
家、十四軒。井戸、一。大きな建物、一。畑の段、数えられる範囲で、九。墓らしい石の並び、道の外れに――多すぎて、途中でやめた。
数え終わって、少しだけ落ち着いた。数えられるものは、そこにある。それだけは確かだ。
*
大きな石の建物は、集会所か、役場のようなものだったらしい。
扉は開いていた。中は薄暗く、長い机が一本、部屋を横切っている。机の奥に、椅子がひとつ。その椅子の前だけ、埃が薄かった。誰かが最後まで座っていた場所だ、と遼は思った。
机の上に、二つのものが置いてあった。
ひとつは、革表紙の帳面。厚みは指の幅ほど。
もうひとつは、握りこぶしほどの石で、片面が平らに磨かれ、何かの模様が彫ってあった。判子だ。それも、ずいぶん重い。
遼は帳面を先に取った。経理の人間は、たいていそうする。
紙は黄ばんでいたが、破れてはいなかった。開くと、見慣れた形が目に飛び込んできた。左に日付らしきもの。真ん中に品目。右に数。最後に、残り。
――台帳だ。
文字は見たことのない形をしていた。それなのに、意味が分かった。麦、三十袋。塩、二樽。油、半分。次の行、麦、二十八袋。次の行、二十五袋。数字が減っていく。人の名前らしい列もある。名前の数も、頁が進むごとに減っていく。
なぜ読めるのか、という疑問が浮かび、遼はそれを一度、脇に置いた。読めるものは読める。理由は後で数える。今は中身だ。
最後の頁に、こう書いてあった。
『麦、なし。塩、なし。人、一。』
その下に、少し震えた字で、一行。
『この地に、数を偽らぬ者を。』
その下に署名らしきものがあったが、墨が滲んで読めなかった。
遼は長いこと、その一行を見ていた。意味は分からない。分からないが、この帳面をつけていた人間が、最後の最後に、数字ではなく言葉を書いたということだけは分かった。十二年帳簿を見てきて、そういう行はいくつか見たことがある。たいてい、ろくなことが書いていない。
石の判子を取り上げる。ずしりと重い。平らな面の模様は、木の枝のようでもあり、河の流れのようでもあった。
ポケットに入れた。理由は自分でもよく分からなかった。強いて言えば、机の上に置いたままにするには、重すぎた。
*
夕方まで、村を歩いた。
食べられそうなものは、畑の跡に野生化した芋が少し。井戸の水は、覗くと底に光が見えた。桶が転がっていたので、縄を結び直して汲んでみた。冷たく、土の味がした。飲めた。
左足の靴は、どこにもなかった。代わりに、崩れた家の中から、誰かの古い革靴を一足見つけた。左だけ履いた。大きさが合わなかったので、麻袋の切れ端を詰めた。
遼は、自分が今の状況にあまり動揺していないことに気づいて、そちらのほうに少し動揺した。
三十四歳。独身。実家は遠く、連絡は年に二回。会社の机には自分の私物がほとんど無かった。誰かが困るとすれば、月曜の朝に三万二千円の差異を引き継ぐ後輩くらいだろう。それも、真面目に探せば半日で見つかる程度の差異だ。
――帰る理由が薄い、というのは、こういう時に効くのか。
そう思って、井戸の縁に腰を下ろした。
日が傾いて、村の石が橙色になった。風の音しかしない。
その風の音の中に、別の音が混じった。
息の音だ。走ってきた人間の、荒い息。
遼は立ち上がった。音は道の下手、村の入口のほうから近づいてくる。誰かが、こちらへ走ってくる。
*
現れたのは、若い女だった。
年は二十をいくつか過ぎたくらい。灰色の粗い上着に、裾の短い外套。髪は暗い赤で、乱れてひとつに結んである。走りながら何度も後ろを振り返り、村の入口の石を越えたところで、足がもつれて転んだ。
転んだまま、しばらく動かなかった。それから、四つん這いのまま顔を上げ、周囲を見た。
その目の動きが、妙だった。
女の目は、家を見ていなかった。井戸も見ていない。目は村の上を滑って、その先の山を見て、また滑って、戻ってきた。何度か、同じことを繰り返した。まるで、目の前にあるものに焦点が合わないみたいに。
最後に、女の目は、遼で止まった。
止まって、見開かれた。
「……あんた」
かすれた声だ。
「あんた、ここが見えるの?」
遼は、質問の意味を考えた。考えて、分からなかったので、正直に答えた。
「見える。石の家が十四軒と、井戸がひとつ。あなたは、その井戸の手前で転んだ」
女は、しばらく黙っていた。それから、荒い息のまま、笑うような息を漏らした。
「十四軒。そう。……そうなんだ。あたしには、七つか八つに見える。数えようとすると、ずれる」
遼は井戸を指さした。ミレイの目が、指の先を追って、井戸で止まった。
「言われれば、見える。目を離すと、また滑る」
女は立ち上がろうとして、顔をしかめた。右の足首を押さえている。腫れていた。
「追われてる」
遼が訊く前に、女が言った。
「三人。傭兵。もうすぐ来る。……でも、ここには入れない。たぶん」
「たぶん?」
「ここは白地だから」
女はそう言って、初めて遼の全身を見た。片方だけ大きさの合わない靴、見慣れない布地の上着、ポケットのふくらみ。
「あんた、どこの人。その服、見たことない」
「遠いところだ」
嘘ではなかった。
「名前は」
「井原。井原遼」
女は、その名前を口の中で二度繰り返した。何かを確かめるような言い方だった。それから、自分の胸に手を当てた。
「ミレイ。……ミレイ・ハルン」
名乗った後で、女はすぐに付け足した。
「今の、聞かなかったことにして。あんたの前で名乗るつもりはなかった。癖で出た」
「名乗るのが、まずいのか」
「まずい」
ミレイは、それ以上説明しなかった。
*
井戸の水を飲ませ、足首を冷やさせた。桶の縄を切って、布で足首を固く巻いた。遼の手つきは、慣れているというほどではなかったが、迷いはなかった。捻挫なら、固定して冷やす。合わない帳簿なら、遡って突き合わせる。やることが決まっている作業は、落ち着く。
「あんた、医者?」
「経理だ」
「けいり」
「数を数える仕事だ」
ミレイは、変な顔をした。
「数を数えるだけで、食っていけるの」
「食えていた。ここで食えるかは、分からない」
ミレイは、それには答えず、足首を見下ろしていた。日は落ちかけていた。
「――来る」
村の入口の向こう、道が山裾を回ってくるあたりに、火が三つ見えた。松明だ。ゆっくり近づいてくる。
遼は、火を数えた。三つ。人影も、三つ。そのうち一つは、他の二つより頭ひとつ大きかった。
「入って来ないのか」
「来ない。……来られない。白地は、名を落とした土地だから。見えないの。あの人たちには、この村が無い。道が途中で消えて、山になってるように見えてる。それ以上進もうとすると、理由もなく引き返したくなる」
「あなたには、七つか八つに見える」
「あたしは半端だから」
ミレイはそう言って、口を閉じた。
半端。名を落とされた者の娘。この世界の帳簿に、半分だけ載っている――そういう意味だろうか。遼は、その言葉も脇に置いた。今、数えなければならないのは、松明の側だ。
「入って来られないなら、待てばいい」
「向こうも、そう思ってる」
ミレイは、村の入口を顎で示した。道は一本しかない。山側は崖で、反対側は崩れた畑と森だった。
「出口も一本。あたしの足じゃ、山は越えられない。向こうは三日でも待てる。食料を持ってるから。あたしは持ってない」
火は、村の入口の少し手前で止まった。三人はそこに座り込み、松明を石に立てた。逃げも追いもしない。ただ、待つ構えだった。
「三日、と言ったな」
「たぶん」
「なぜ三日だと思う」
ミレイは、遼を見た。
「……仕事の期限。書記院が傭兵団に出した約定は、たぶん三日か四日。それを過ぎると、報酬が減る」
「書記院。約定。傭兵団。順に教えてほしい。あなたを追っている理由も」
ミレイは、迷った。それが分かる沈黙だった。それから、遼のポケットのふくらみを見た。
「先に、それを見せて」
遼は、石の判子を出した。
ミレイの顔から、血の気が引いた。
「……どこで、それを」
「そこの大きい建物の、机の上に。帳面と一緒に置いてあった」
「印章師の印よ、それ。本物の。……この村の、印章師の」
ミレイは、判子から目を離せないでいた。遼は、それを握ったまま、待った。
ミレイが話し始めたのは、松明の火が三つとも落ち着き、向こうの三人が食事を始めたころだった。
*
約定、というものがある。
紙に約束を書く。約束する者同士が、自分の名を書く。そして、印章師が印を押す。それで、約束は「本物」になる。本物になった約束は、世界そのものが守らせる。
「守らせる、というのは」
「破ると、名が落ちる」
「落ちる」
「誰にも思い出されなくなる。呼ばれなくなる。数えられなくなる。生きてるのに、いないことになる」
ミレイは、自分の言葉に、少し肩をすくめた。
「だから、名を書くってことは、それ自体が重い。名を書けるのは書記だけ。書記になるには書記院に入って、何年も見習いをやる。あたしは、それをやってた」
「やっていた」
「父が、名を落とされた。書記だった。何を破ったのかは、教えてもらえなかった。父のことを覚えてるのは、たぶん、もうあたしだけ」
ミレイの声は平らで、平らにしようとしているのが分かった。
「名を落とされた者の娘は、書記になれない。書記院は、あたしを見習いから外して、別のところへ送ろうとした。どこかは言わなかった。だから逃げた」
「それで、傭兵」
「書記院が傭兵団に約定を出した。『ミレイ・ハルンを、生きて書記院に引き渡す。引き渡しと同時に、銀二十枚』。たぶん、そういう文面。あの三人はその団の下っ端」
遼は、しばらく考えた。
「あの三人は、名を書けるのか」
ミレイは、首を振った。
「傭兵は、たいてい書けない。名は団長が握ってる。仕組みは……長くなるから、今はいい。とにかく、約定を結ぶのは団長。三人は、団長の名で動いてるだけ。……それに、一人は獣人よ。獣人はそもそも名を持てない。帝国では」
「では、書記院と結んだ約定は、団長の名で結ばれている」
「そう」
「あの三人自身は、当事者ではない」
「……そうだけど、それが何」
遼は、答えなかった。頭の中で、帳簿をつけていた。
書記院――依頼主。傭兵団長――受注者。三人――実働。報酬、銀二十枚。期限、三日か四日。成果物、ミレイ・ハルン、生きた状態で。
合わない箇所を探す。それが仕事だった。
「三人が、手ぶらで帰るとどうなる」
「団長に絞られる。報酬が出ないから。……たぶん、ひどいことになる。傭兵団は、そういうところ」
「では、あの三人がいちばん欲しいものは、あなたではない。あなたは団長が欲しいものだ。三人が欲しいのは、『手ぶらではない』という事実だ」
ミレイが、目を細めた。
「何を言ってるの」
「あの三人に、紙を一枚書く」
*
帳面のいちばん後ろの白い頁を、遼は慎重に切り取った。白い頁は、まだ何枚か残っている。それでも、他人の台帳を破るのは軽い罪ではない。だが、この台帳の持ち主は、最後の行に『数を偽らぬ者を』と書いて、それきりだった。
――偽らない。それだけは、約束する。
青い軸のボールペンを取り出す。ミレイが、それを見て、また変な顔をした。
「何、その筆」
「筆だ。墨は中に入っている」
遼は、頁の上に、この世界の文字を書いた。読めるのだから、書けるだろうと思った。思った通り、書けた。手が勝手に形を覚えているような、奇妙な感覚だった。
書いたのは、約束ではない。報告だった。
『第三日、日没。 書記院の依頼にかかる者、ミレイ・ハルンは、東の山裾の白地に入った。 白地は帝国の記録に無く、道は途中で絶えている。 追跡の三名はこれを確認し、白地の手前にて引き返した。 右の事実に、相違なし。』
その下に、少し空けて、自分の名を書いた。
『井原遼』
ミレイが、息を呑んだ。
「――待って。あんた、自分の名、書いた」
「書いた」
「書記なの?」
「違う。数を数える仕事だ」
「そうじゃなくて――」
ミレイは言葉に詰まり、それから、紙を覗き込んだ。読んで、また、遼の顔を見た。
「これ、約定じゃない。約束が書いてない」
「約束はしていない。事実を書いた。あの三人は、あなたが白地に入ったのを見た。道が絶えているのも見た。だから引き返した。……これから引き返す。全部、本当のことだ」
「印は?」
「押さない。押せば、それは本物の約定になる。私は、そういうものをまだよく知らない。知らないものに印は押さない」
遼は、紙を折った。
「これは、領収書に近い。三人は、『白地に入ったのを確認した』という紙を持って帰れる。手ぶらではなくなる。団長は、それを書記院に見せられる。書記院は、白地に入った者を追えないことを、たぶん知っている」
「……知ってる。白地は、帝国の記録に無い。無いところには、誰も行けないことになってる。書記院が一番よく知ってる」
「なら、これで帳尻は合う」
ミレイは、折られた紙を見ていた。
「合わないわよ」
「どこが」
「あんたの名前。この世界の帳簿に、無い」
遼は、少しの間、その言葉を考えた。理解はできなかった。だが、ミレイが本気で言っていることは分かった。
「では、あの三人にとって、この署名は何に見える」
「……分からない。見たことのない名。でも、名を書ける人間が書いたものには見える。それだけで、あの人たちには十分すぎるかもしれない」
「十分なら、それでいい」
遼は立ち上がった。ミレイが、慌てて袖を掴んだ。
「行くの? 一人で?」
「私は、あの三人には見えるのだろう? あなたに見えたのだから」
「見えるけど――」
「あなたは、ここにいてくれ。足を動かさないでいい。……数えていてほしい。三人が、三人のまま帰るかどうか」
*
道の下手へ歩いた。村の入口の石を越えると、松明の火が急に近くなった。三人が、いっせいにこちらを向いた。
二人は人間で、革の胴着に短い剣を差している。顔はよく見えない。
三人目は、大きい。頭ひとつどころではなく、肩の高さが遼の目の高さにある。灰色の毛に覆われた顔は、犬とも狼ともつかない。両手は太く、爪が長い。その目が、遼を見ている。
遼は、その視線から目を逸らさなかった。逸らすと、数えられなくなるからだ。
「誰だ」
人間の一人が、剣の柄に手をかけて言った。
「井原という。この先の者だ」
三人が、遼の背後を見た。目が、滑るのが分かった。山裾の道が途中で絶えている場所を、三人とも見ている。見ているのに、見えていない。
「この先に、何がある」
「あなた方には、無いものが」
遼は、折った紙を差し出した。
「あなた方の探している者は、そこに入った。あなた方は、それを見た。道が絶えているのも見た。ここに、そう書いてある」
人間の一人が、紙を受け取った。開いて、松明にかざした。読めないらしく、目が文字の上を往復した。もう一人が覗き込む。こちらも読めない。
「何が書いてある」
「今、言った通りのことが」
「……あんた、書記か」
「違う」
遼は、ポケットから石の判子を出した。押さない。ただ、見せた。
効果は、思ったより大きい。二人が半歩、下がった。獣人は下がらない。判子ではなく、遼の顔を見ている。
「印章師か」
「それも違う。だが、この印は本物だ。そう聞いた」
嘘は言っていない。遼は自分の言葉を、頭の中で一行ずつ確かめた。全部、本当のことだけで組んである。
「あなた方は、報酬を持って帰れない。相手は白地に入った。帝国の記録に無い場所へ入った者は、追えない。それはあなた方の責任ではない。団長がそれを認めないなら、この紙を見せればいい。書記院は、白地の意味を知っている」
「……」
「三日分の食料は、もう二日分減っている。ここで待っても、四日目に減るのは報酬だけだ。帰る方が、数として合う」
二人が、顔を見合わせた。
遼は待った。急かさない。帳簿の突き合わせでも、相手が数字を確かめる時間は、待つ。
やがて、人間の一人が紙を懐に入れた。
「この紙で、団長が納得しなかったら」
「私の名を出せばいい。井原遼と書いてある。見たことのない名だが、書けている。それはあなた方にも分かるだろう」
「……分かる」
二人が、松明を取った。
獣人が、最後まで動かなかった。
遼は、獣人と目を合わせたまま、動かなかった。
獣人の目は、遼を見て、それから――ほんの一瞬、遼の肩越しに、村のほうを見た。目が滑らなかった。石の家を、はっきり見ている目だった。
それは、一瞬だった。獣人はすぐに目を戻し、何も言わず、二人の後を追って歩き出した。
三つの火が、山裾を回って、見えなくなった。
*
村へ戻ると、ミレイは井戸の縁に座って、遼を見ていた。
「三人。三人のまま。帰った」
「数えていてくれたか」
「数えてた。……あんた、何を言ったの」
「本当のことだけを」
ミレイは、長いこと黙っていた。それから、思い出したように、笑った。疲れた笑いだった。
「変な人」
「言われる」
遼は井戸の縁に腰を下ろし、帳面を膝に置いた。いちばん後ろの、切り取った頁の跡。そこから前へ、白い頁を何枚かめくると、『この地に、数を偽らぬ者を』の行がある。
ミレイが、横からそれを覗き込んだ。読んで、声を失った。
「……これ、誰が書いたの」
「分からない。この帳面の持ち主だ。名前は滲んで読めない」
ミレイは、それ以上何も言わなかった。言わなかったが、震えている手で、自分の外套の前をかき合わせた。寒さのせいではないように見えた。
夜が来た。星が、見たことのない並びで出ていた。数字にする気にはなれなかった。今日はもう、数えるものが多すぎた。
遼は、ボールペンを取り出し、帳面の新しい頁に、この世界の文字で書いた。読めるのだから、書ける。書けるのだから、つける。
『収入 なし。 支出 帳面、一頁。 備考 追手、三人。うち一人、こちらを見ていた。』
書き終えて、顔を上げると、ミレイがまだこちらを見ていた。
「明日、どうするの」
「芋を数える」
「……それだけ?」
「それから、次のことを考える」
ミレイは、呆れたような、少しだけ安心したような顔で、井戸の縁に頭をもたせかけた。
*
翌朝、遼が井戸の水を汲みに出ると、村の入口の石の上に、誰かが座っていた。
灰色の毛。長い爪。昨夜の獣人だった。
獣人は、遼を見て、それから、遼の背後の村を――石の家を、井戸を、崩れた屋根を、ひとつひとつ確かめるように見て、口を開いた。
「見える」
低い声だった。
「俺には、ここが、見える」
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