契約結婚の相手が、契約書にない「毎晩の抱擁」を要求してくる
祖母の遺した古書店を守るため、汐里は一年限りの契約結婚を選んだ。家賃も家事分担も寝室の別も明記された契約書に、夫となる建築家はただ一条だけ、書かれていない条件を加えてきた——「毎晩、少しだけ抱きしめさせてほしい」。
婚姻届に押す判子より、賃貸契約書に並ぶ条項の数のほうが、汐里にはよほど正直に思えた。家賃は折半。家事は週替わりで交代。寝室は各自別。契約期間は一年、双方の合意があれば更新も解消も自由——弁護士立ち会いのもと、几帳面な字でそれだけを書き並べた紙に、汐里は迷いなく判を押した。
けれど夫となる男は、最後の一行を書き終えたあとで、ペンを置かずにこう言った。
「ひとつだけ、書いていない条件を足していいですか」
三十五歳の建築家、加賀塁は、契約書のどの条項よりも静かな声でそれを口にした。夜、眠る前に少しだけ抱きしめさせてほしい、と。それ以上は何も求めない、と。
意味がわからないまま頷いたその一条が、一年の終わりに、契約書のどの一行よりも本当のものになるとは、汐里はまだ知らなかった。
祖母の節子が営んでいた古書店「灯屋」は、汐里が生まれる前からその路地に灯りを点していた。両親を早くに亡くした汐里を、節子はこの店の二階で育てた。店の奥の本棚も、レジ横の古い電球も、汐里にとっては家族の輪郭そのものだった。
店の奥にある小さな文机で、汐里は幼い頃から本の背表紙を眺めて育った。両親の記憶はほとんどないが、店の隅に飾られた色褪せた写真の中で、二人は笑っている。節子はいつも「本には、灯りが宿るんだよ」と言い聞かせた。誰かが読み終えた本には、その人の時間が染み込んでいる——その言葉を胸に、汐里は装丁の仕事を選んだ。壊れた本の背を丁寧に繕う仕事は、失われた時間をもう一度綴じ直すことに似ていた。
その節子が去年の暮れに倒れ、意識が戻らないまま眠り続けている。目を覚ましたときに何を見せてやれるか、汐里はずっと考えていた。答えは病室の枕元で、節子の妹が教えてくれた。
「この店の名義、あんたが三十になるまでに結婚しないと、伯父さんの遺言どおり売却されるんだよ。知らなかったのかい」
節子の亡き夫——汐里にとっての祖父——が遺した古い条項だった。時代錯誤も甚だしいと思いながら、汐里は笑えなかった。灯屋を失えば、節子が目を覚ましたときに帰る場所がなくなる。それだけは、どうしても避けたかった。
一方の加賀塁にも、似たような期限があった。父の遺した設計事務所が、老舗旅館「花明」の大規模改修という、事務所の存続を左右する仕事を任されようとしていた。だが旅館の当主は古い人間で、「身の定まらぬ若い男に、百年続く宿の顔は預けられない」と難色を示していた。所帯を持ち、落ち着いた男であることを示せ、というのが暗黙の条件だった。
塁の父は三年前、現場の視察中に倒れてそのまま逝った。遺されたのは、古い机と製図道具、そして「加賀設計」という看板だけだった。事務所には、父の代から働く職人が三人いる。定年間際の棟梁、若い製図士、経理担当のパート。彼らの生活も、塁の双肩にかかっていた。「所帯を持たない代表に、大きな仕事は任せられない」という当主の言葉は、塁個人への侮辱ではなく、事務所そのものへの死刑宣告に等しかった。祖母の光江も事あるごとに「身を固めねば、下の者たちがついてこない」と繰り返した。所帯を持つことは、塁にとって恋愛の話ではなく、看板を守るための、もうひとつの仕事だった。
二人を引き合わせたのは、大学時代の友人だった直美だ。同窓会の帰り道、「結婚さえしていれば全部丸く収まるのに」とこぼした汐里の隣で、塁もまた同じ言葉を漏らしていたのだという。直美は二人の顔を見比べて、「事情婚って言葉、最近よく聞くよ」と笑いながら、名刺を交換させた。半分は冗談のつもりだったらしいが、一週間後には本当に連絡が来た、と直美は後になって驚いていた。
初めて向かい合った喫茶店で、塁は開口一番こう言った。
「恋愛はしません。お互いの事情を、契約で解決しましょう」
「なぜ、わたしなんですか」と汐里は聞いた。「見合いでも、他にも候補はいたはずです」
「条件が合うからです」塁は淡々と答えた。「互いに一年で終わらせたい理由がある。互いに恋愛感情を持ち込む気がない。それだけで、十分な相性だと思いました」
実務的すぎる回答に、汐里はかえって信頼できる気がした。恋を語る男より、条件を語る男のほうが、少なくとも嘘はつかないだろうと思ったからだ。
その乾いた提案が、汐里には救いに聞こえた。恋も情も挟まず、必要な期間だけ、必要なものを交換する。それなら傷つく余地もない。
実はそれ以前にも、親戚が勧める見合い話はいくつかあった。だが「愛のない結婚を装うこと」には、汐里ははっきりと抵抗があった。塁の提案が違ったのは、そこに嘘がなかったことだ。愛を装う必要も、演じる恋心もいらない。事情と事情を、対等に交換するだけの取り引きだと、塁ははっきり口にした。だからこそ汐里は、誰に強いられたのでもなく、自分の意思でこの話に頷くことができた。
引っ越しの荷解きも終わらないうちに、契約書の署名の日はやってきた。
窓の外では、桜がちょうど散り始めていた。次に花が咲く頃には、この契約は跡形もなく消えているはずだった。
弁護士事務所の会議室で、汐里は淡々と条項を確認していった。家賃、光熱費、食費の分担。掃除と洗濯の当番表。寝室は北側と南側にそれぞれ一つずつ。互いのプライバシーには干渉しない。恋愛や性的な関係を強要しない、あるいは期待しない——そこまで細かく明文化されていることに、汐里はむしろ安堵した。線引きが明確であればあるほど、心は波立たずに済む。
すべての条項に頷き終えたところで、塁がペンを止めた。
「ひとつだけ、書いていない条件を足していいですか」
汐里は顔を上げた。塁は窓の外を見ていた表情を、そのまま汐里に向けた。三十五歳にしては少年めいた、けれど疲れの滲んだ目だった。
「夜、眠る前に少しだけ、抱きしめさせてほしいんです」
一瞬、聞き間違いかと思った。塁は言葉を継いだ。
「父が死んでから、眠りが浅いんです。医者にも相談しましたが、薬は好きじゃない。……人の体温があると眠れることに、ある時期、気づいてしまって。それだけです。それ以上は求めません。数分でいい。契約書には書けないようなことなので、口頭で、今、伝えておきたかった」
契約にない条項。誰にも証明できない、口約束ですらない申し出。断ることもできた。汐里はしばらく黙って、塁の疲れた目を見ていた。
「……減るものじゃないので、いいですよ」
そう答えたのは、同情でも好奇心でもなく、ただ、目の前の男が嘘をついているようには見えなかったからだった。
塁は小さく息を吐いた。安堵、というより、長く抱えていた重石を、ようやく誰かに預けられたような息だった。
新居での最初の夜、汐里は南側の寝室のドアの前で、少し迷ってから廊下に出た。
塁はリビングのソファに座り、灯りを一つだけ点けたまま待っていた。契約書にない条項を、律儀に守ろうとしている姿が、どこか滑稽で、同時に痛々しかった。
「本当に、これだけでいいんですか」
「これだけでいいんです」
汐里が隣に腰を下ろすと、塁は静かに腕を回してきた。想像していたより優しく、想像していたより長い時間だった。互いの呼吸の音だけが部屋に満ちていく。汐里は最初、体を強張らせていたが、塁の腕に急かす気配が微塵もないことに気づいて、少しずつ力を抜いた。
「……ありがとう」
耳のすぐ近くで、塁が言った。低く、静かな声だった。
「これだけで眠れるなら安いものです」と汐里は答えたが、自分の声が思ったより優しく響いたことに、自分で驚いた。
その夜、汐里も、いつになく深く眠った。
もっとも、暮らしの全部が穏やかだったわけではない。同居を始めて二週間、洗濯物の畳み方ひとつで、二人は初めて言い争いになった。汐里のタオルは適当に丸めて仕舞う派、塁は角をきっちり揃えないと気が済まない派だった。
「几帳面すぎます」と汐里が言えば、塁は「几帳面すぎて悪いことはひとつもありません」と真顔で返した。埒が明かず、結局、互いの棚を完全に分けることで手打ちにした。くだらない喧嘩だったが、汐里はそのやり取りのあとで、少しほっとした自分に気づいた。契約上の他人同士なら、こんな些細な諍いすら起きないはずだ。腹を立てられるほど、もう塁は「他人」ではなくなっていた。
契約結婚は、想像していたよりずっと穏やかな暮らしだった。塁は約束通り、それ以上を求めなかった。食事の後片付けを黙々とこなし、汐里の仕事道具——装丁のための紙見本や糊——が居間に散らばっていても文句一つ言わなかった。汐里もまた、塁が深夜まで図面を睨んでいる背中を、そっとしておくことを覚えた。
洗面所の棚に歯ブラシが二本並ぶ景色にも、じきに慣れた。塁は米を炊くのが妙に上手く、汐里は味噌汁の出汁を丁寧に取る人だった。休みの日には、どちらからともなく台所に立ち、他愛もない話をしながら夕食を作った。マンションの隣人に「仲のいいご夫婦ですね」と言われるたび、汐里は曖昧に微笑んで誤魔化した。芝居のはずのその笑みが、日を追うごとに、板についていくのが自分でもわかった。
ある晩、塁は仕事から持ち帰った図面を、珍しく汐里に見せてくれた。花明の客室ひとつひとつに、光の入り方まで計算されているのだという。汐里も負けじと、修復途中の古書を居間に広げ、崩れた背表紙をどう繕うか説明した。互いの仕事道具に触れながら、二人は夜更けまで、それぞれの「直す仕事」について語り合った。
「壊れたものを、なかったことにせず、もう一度形にする。似てますね、俺たちの仕事」
塁がそう言ったとき、汐里は自分たちの関係もまた、少しずつ何かを繕い直しているのだと、ふいに思った。
そして夜が来るたびに、二人はソファか、どちらかの寝室の入り口で、数分だけ抱き合った。それはいつしか、歯磨きや施錠と同じくらい、暮らしに溶け込んだ習慣になっていった。
変わっていったのは、その数分の中身だった。
最初は無言だったものが、やがて言葉を伴うようになった。抱き合ったまま、塁は仕事の愚痴をこぼすようになり、汐里は節子の容態や、灯屋の棚の並びについて話すようになった。灯りを落とした部屋の中でだけ言える言葉、というものが確かにあった。日中は互いに礼儀正しい他人のような二人が、夜の数分だけ、驚くほど無防備になった。
「花明の当主に、また嫌味を言われた」
ある晩、塁がそう漏らした。「所帯を持っただけじゃ足りない、妻に会わせろと言われている」
「会えばいいじゃないですか」
「……汐里さんに、余計な芝居をさせたくない」
その言い方に、汐里は少しだけ驚いた。契約上の役目として演じることを厭わないつもりでいたのに、塁のほうがそれを厭っている。理由を聞く勇気はまだなかった。
「灯屋は」と塁が続けた。「節子さんは、もう少しで目を覚ますかもしれないと、主治医が」
「……知ってます。毎週会いに行ってるから」
「一緒に行っても?」
汐里は腕の中で、少しだけ体を離して塁の顔を見た。契約にない申し出は、いつも唐突に、けれど確かな重みを持って届く。
「……いいですよ」
その週末、塁は本当に病室までついてきた。眠り続ける節子の手を取り、聞こえているかもわからない声で、灯屋の梁の木目が美しいこと、汐里が装丁した本のことを、丁寧に話しかけた。演技には見えなかった。汐里は病室の入り口で、その背中をただ見つめていた。
汐里の出版社の忘年会に、塁は「配偶者枠」として招かれた。会場の隅で静かにグラスを傾ける塁をよそに、汐里は昔から仲の良かった編集者の相楽から、思いがけず口説かれた。
「籍を入れただけの結婚なんだろ、噂で聞いたよ。……今からでも、乗り換えないか」
冗談めかした口調だったが、目は本気だった。汐里が言葉を探していると、横から伸びてきた手が、そっと汐里の腰を引き寄せた。
「妻に、その質問は失礼じゃないですか」
塁の声は穏やかだったが、相楽が思わず半歩下がるほどの圧があった。会場を出たあとの帰り道、汐里はからかうように聞いた。
「妻、なんて言い方、契約書にありましたっけ」
「ありません」塁は前を向いたまま答えた。「でも、他の男に取られると思ったら、頭の中が真っ白になった。契約とか、そういう問題じゃなかった」
その素直な独占欲に、汐里は驚くと同時に、じわりと胸の奥が疼くのを感じた。契約結婚の相手に嫉妬されるという、想定にない出来事だった。
塁には、誰にも言っていない習慣があった。月命日には必ず、父の墓に立ち寄る。ある日、汐里にそれを知られてしまい、気まずさよりも先に、なぜか隣についてきてほしいと思っている自分に驚いた。
線香の煙の向こうで、塁は墓石に向かって「困ったことになった」と苦笑した。「契約のはずだったのに」
汐里は聞こえないふりで、少し離れた場所に立っていた。けれど風向きが変わって、その呟きは確かに届いていた。届いたことを、塁は知らない。汐里はその晩の抱擁を、いつもより少しだけ長く受け止めた。
季節が二つ変わる頃には、夜の抱擁は、汐里にとって一日でいちばん待ち遠しい時間になっていた。
同時に、それが怖くもなった。契約書には、恋愛関係を期待しないと明記されている。なのに塁の腕の中で心が凪いでいくたび、これは契約ではない何かだと、汐里は気づかずにいられなくなっていた。
決定的だったのは、花明の当主主催の顔合わせの夜だった。
当主の親族や取引先が居並ぶ広間で、汐里は借り物の訪問着に身を包み、終始緊張していた。誰かに素性を探られるたびに、あらかじめ決めておいた台詞——「主人とは大学の後輩の紹介で」——を繰り返した。嘘は淀みなく出たが、隣に立つ塁の手の温度だけは、演技とは思えないほど確かだった。
老舗旅館の広間、着物姿の汐里の隣で、塁は終始さりげなく、けれど絶えず手を添えていた。当主やその親族の視線が集まるたび、塁は汐里の腰に軽く手を回し、耳元で「大丈夫」とだけ囁いた。演技のつもりだったはずのそれが、汐里の胸を掻き乱した。
宴が終わり、二人きりになった旅館の廊下で、汐里はつい聞いてしまった。
「さっきの……どこまでが、演技だったんですか」
塁は足を止めた。行灯の灯りが、廊下の障子に淡い橙を落としていた。
「正直に言っていいですか」
「言ってください」
「わからなくなっていました。あなたに触れているとき、どこからが契約で、どこからが——」
言葉が途切れた。汐里は息を止めて続きを待った。だが塁は、それ以上を言わずに目を伏せた。
「……すみません。契約にない話です」
その夜の抱擁は、いつもより長かった。どちらも何も言わずに、ただ、互いの鼓動を数えるようにして。
それからしばらく、汐里は自分の気持ちに蓋をしようとした。契約はあくまで契約だ、と自分に言い聞かせるほど、夜の腕の中で心が乱れた。このまま一年が終われば、何事もなかったように別れられるのだろうか。想像するだけで、胸の奥が痛んだ。だが同時に、自分から気持ちを告げて、この穏やかな暮らしを壊す勇気もなかった。
そうして季節がもうひとつ過ぎた。汐里は変わらず週に一度、病室の節子に会いに行き、塁は変わらず月命日に父の墓を訪れた。互いの習慣に、互いが当たり前のように寄り添うようになっていたことに、二人ともまだ名前をつけられずにいた。
転機は、思いがけない形でやってきた。
節子が意識を取り戻したという連絡が、深夜に届いた。汐里は着の身着のまま病院へ走った。塁も、仕事の資料を放り出してついてきた。
節子は痩せた頬に、けれど確かな光をたたえた目で、汐里を見つめた。
「灯屋は……」
「大丈夫。ちゃんと、あります」
節子の視線が、汐里の隣に立つ塁に移った。何も説明していないのに、節子は小さく笑った。
「いい顔で、この子の隣に立ってるね」
その一言に、汐里は喉の奥が熱くなった。塁は深く頭を下げ、「必ず、灯屋も汐里さんも、守ります」と言った。契約書のどこにもない誓いだった。
病院からの帰り道、明け方の空の下、汐里はずっと黙っていた塁に、思い切って言った。
「契約、あと三ヶ月で終わりますね」
「……そうですね」
「更新、するべきかどうか、迷ってます」
塁は歩みを止めた。街灯の下、その顔には、いつもの落ち着きが欠けていた。
「本音を、言ってもいいですか」
「言ってください」
「契約の更新なんて、もうどうでもいい」塁の声が、初めて揺れた。「あなたを抱きしめる理由が、契約書に書いてあるからだと思われるのが、たまらなく嫌なんです。眠れないからでも、条項だからでもない。あなたじゃないと、駄目なんです。もう、ずっと前から」
夜明け前の道に、塁の言葉だけが響いた。汐里は、自分の頬が濡れていることに、少し遅れて気づいた。
「私も」やっと声が出た。「私も、契約だからじゃなくなってます。ずっと前から」
塁は汐里の手を取り、指先の震えを確かめるように握った。
「今夜、一緒にいてもいいですか」
「聞くまでもないです」汐里は自分から一歩踏み出し、塁の胸に額を寄せた。「行きたいのは、わたしのほうです」
その夜、二人は初めて、寝室の境を越えた。
帰り着くころには、空はすっかり明るくなっていた。玄関で靴を脱ぐのももどかしく、塁は汐里の手を引いた。いつもの数分の抱擁とは違う、確かな熱を持った手だった。
北側の部屋の灯りを、塁は消さなかった。豆電球ほどの淡い光の中で、互いの輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
「怖くない?」
塁が聞いた。契約にはない、けれど確かめずにいられない問いだった。
「怖くないです」と汐里は答えた。「今夜だけは、ちゃんと、私が選んでますから」
言葉はそれきりで十分だった。塁の腕は、これまでの数百夜と同じように、けれど今夜だけは違う熱を持って汐里を包んだ。触れる指先の一つ一つに、契約書には書けなかった月日の重みが宿っているようだった。汐里は目を閉じ、その重みに身を委ねた。
夜が深くなるにつれ、言葉は少なくなり、代わりに吐息と、名を呼ぶ声だけが残った。塁はときどき動きを止めて、汐里の額に唇を寄せ、「大丈夫か」とだけ確かめた。そのたび汐里は小さく頷き、自分から腕を回して答えにした。灯りは最後まで、消されなかった。夜が明けても、その部屋にだけは淡い光が残っているようだった。
時折、塁は動きを止めて汐里の名を呼んだ。まるでそこにいることを確かめるように。汐里もまた、闇の中で塁の輪郭を指先でなぞり、この一年で覚えた癖のひとつひとつを、もう一度確かめるように辿った。契約という言葉から遠く離れた場所で、二人はただ、互いだけを求めていた。
窓の外が白み始める頃、二人はようやく眠りに落ちた。互いの体温だけを、確かめ合うように抱き合ったまま。
昼近くに目を覚ましたとき、隣にはまだ塁がいた。契約書に定められた「寝室は各自別」という一文は、もうどこにもない約束のように思えた。汐里が身じろぎすると、塁は寝ぼけた声で「おはよう」と言い、額に唇を落とした。それだけのことが、これまでのどんな条項よりも、汐里の胸を満たした。
一年の契約期間が満了する日、汐里と塁は再び同じ弁護士事務所の会議室にいた。目の前には、更新か解消かを選ぶための、真っ白な書式が置かれていた。
塁はそれを一瞥すると、代わりに一枚の便箋を取り出した。
「契約書じゃなくて、これでいいですか」
そこには、たった一行だけ書かれていた。
『これからも、毎晩、あなたを抱きしめさせてください。理由は、愛しているからです』
汐里は声を出さずに笑った。それから、その便箋の余白に、自分の字でもう一行を書き足した。
『こちらこそ、よろしくお願いします』
契約でも義務でもない、ただの約束。二人は弁護士の前で、その一枚の便箋に並んで判を押した。誰の目にも、正式な効力など持たない紙だった。けれどそれは、これまでの一年分の契約書よりも、はるかに重いものだった。
窓の外では、去年と同じように桜が咲き始めていた。契約が消える季節に、代わりに何か違うものが根を張っていた。弁護士が退室したあと、塁は改めて汐里の左手を取り、薬指に指輪を通した。「これは契約書に書いてありません」と塁が言うと、汐里は声を立てて笑った。「知ってます。だから、いいんです」
その週末、二人は節子と光江を、灯屋の二階に招いた。契約結婚から始まった顛末を包み隠さず話すと、光江は呆れたように笑い、「そんな安易な始まり方でも、ちゃんと本物になるもんだねえ」とお茶を啜った。節子は何も言わず、ただ汐里の手を取って、「良かったね」とだけ繰り返した。誰に取り繕う必要もない、初めての夜だった。
灯屋は今も、あの路地で灯りを点している。節子はゆっくりと回復し、店番はできないまでも、レジ横の椅子に座って本の背表紙を眺める日々を取り戻した。花明の改修は無事に竣工し、当主は落成式の日、塁の隣に立つ汐里の手を取って「いい嫁を見つけたな」と笑った。塁はそのたび、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに頷くのだった。
灯屋の再開の日には、塁が設計した小さな灯りが、店先の庇に取り付けられた。節子はその灯りを見上げて、「まるであんたたちみたいだね。ひとつだけの灯りで、十分足りてる」と笑った。汐里は何も言えず、ただ隣に立つ塁の手を強く握った。「本には灯りが宿る」と昔、節子は言った。人にも、同じことが言えるのかもしれない、と汐里は思った。誰かと重ねた時間の分だけ、体の内側に灯りが増えていく。
相楽は最初こそばつが悪そうにしていたが、今では二人の家に招かれて鍋を囲むほどの仲になっている。「あの夜の塁さんの顔、忘れられないよ」とからかわれるたび、塁は珍しく耳を赤くした。節子は完全に店に復帰し、汐里が装丁した本を、いちばん目立つ棚に並べるのが日課になった。加賀設計の壁には、父の代からの図面と並んで、花明の竣工写真が飾られている。塁はその写真を見るたび、少しだけ誇らしげな顔をする。
季節はまた巡り、二人の暮らしから「契約」という言葉はすっかり消えた。それでも夜、眠る前の数分間の習慣だけは変わらずに続いている。
今夜も、灯りを一つだけ残した部屋で、塁は汐里の背に腕を回す。窓の外では、去年と同じ場所で桜が散り始めている。契約書に判を押したあの日と、同じ季節が巡ってきたことに、汐里はふと気づいて微笑んだ。
「今日も一日、お疲れさま」
「うん。……明日も、この時間があるって思うと、それだけで頑張れる」
「毎晩、約束するよ」
契約書に書かれることのなかった、けれどどんな条項よりも固く守られる約束だった。灯屋の灯りのように、静かに、絶えることなく。
(了)
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