婚約破棄された伯爵令嬢ですが、隣国の若き公爵に「全部あなたにください」と言われています
建国祭の夜、伯爵令嬢イザベルは王太子から大勢の前で婚約破棄を告げられる。すべてを失った彼女に、隣国の若き公爵が歩み寄り、静かに手を差し出す。──長年見つめ続けてきた想いが、身分差を越えて花開く宮廷溺愛譚。
建国祭の夜、王城の大広間はシャンデリアの光で満たされていた。伯爵令嬢イザベル・ド・クレシーは、婚約者である王太子フェリクスから、招待客が居並ぶその只中で、婚約の解消を告げられた。
「お前とは、もう終わりだ」
フェリクスの隣には、社交界の花と呼ばれる侯爵令嬢が寄り添っていた。イザベルは二十四年の人生で覚えた作法のすべてを使って、辛うじて表情を崩さずに済んだ。けれど視界の端で、遠くの柱の陰に立つ一人の男が、じっとこちらを見ていることには気づかなかった。隣国ヴェルンハルト公国の若き公爵アレクシス。彼が何年も前から、誰にも知られぬまま彼女を見つめ続けていたことを、イザベルはまだ知らない。
大広間のざわめきは、水を打ったように静まり、それからひそやかな囁きへと変わっていった。誰もがイザベルを見ていた。憐れみと、好奇と、わずかな嘲りの入り混じった視線。伯爵家の令嬢として恥じぬよう育てられた背筋は、その視線の重みにも折れなかったが、指先だけがドレスの裾を強く握りしめていた。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
声は思ったより静かに出た。フェリクスは侯爵令嬢の腰に手を回したまま、興が削がれたとでも言いたげに肩をすくめた。
「理由が要るか。婚約したのは父同士の取り決めだ。俺の意志ではない」
「六年、お側におりました」
「六年もあれば、十分だろう」
脳裏に蘇るのは、社交シーズンの度に交わした形式的な挨拶ばかりだった。誕生日の夜会にすら現れず、侍従を寄越して花束だけを届けさせたこと。手紙を書いても、返事は決まって用件のみの一行だった。それでもイザベルは、王太子妃となる者の務めだと自分に言い聞かせ、寂しさを飲み込み続けてきた。今夜、その積み重ねてきた忍耐のすべてが、たった一言で無に帰した。
夜会の作法を、外交儀礼を、王太子妃となるための教養のすべてを、彼女は誠実に身につけてきたつもりだった。だがフェリクスにとってそれは、ただの時間つぶしの相手に過ぎなかったのだ。
広間の隅で、誰かが小さく笑う声がした。クレシー伯爵家は、決して裕福な家ではない。婚約という後ろ盾を失えば、家の信用そのものが揺らぐ。父の顔が青ざめているのが、遠目にもわかった。イザベルは深く頭を下げ、それ以上の言葉を発さずに広間を後にした。夜風の当たるバルコニーに出て、ようやく詰めていた息を吐いたとき、背後から声がかかった。
「イザベル嬢」
低く、静かな声だった。振り返ると、そこに立っていたのはヴェルンハルト公国の公爵、アレクシスだった。年の頃は三十を少し過ぎたあたり、灰色がかった銀髪と、感情を読ませない碧眼を持つ男。国交の場で何度か言葉を交わしたことはあったが、親しいと呼べる間柄ではなかった。
「公爵様。……お見苦しいところを」
「見苦しくはなかった。むしろ、よく耐えられたと思う」
アレクシスはバルコニーの手すりに寄りかかり、遠い夜空を見上げた。イザベルは何と答えていいかわからず、ただ夜風に頬を撫でさせていた。
「六年前、初めてこの国の夜会であなたを見た。まだ十八だったあなたは、誰よりも礼儀正しく、誰よりも人の話をよく聞いていた。──それからずっと、覚えている」
思いがけない言葉に、イザベルは目を見開いた。六年前と言えば、彼女がフェリクスと婚約したばかりの頃だ。まさかその頃から、この男に見られていたとは。
「なぜ、そのようなことを、今」
「今しか言えないと思ったからだ」
アレクシスは初めて、まっすぐにイザベルを見た。その視線には、憐れみも好奇もなかった。ただ、長く胸に仕舞ってきた何かを、ようやく取り出したような静けさがあった。
「無礼を承知で申し上げる。もし行き場がないのなら、私の国へいらっしゃい。何も見返りは求めない。ただ、あなたが安心して息のできる場所を用意したいだけだ」
翌朝、クレシー伯爵邸には重い沈黙が漂っていた。父は書斎に籠もり、母はイザベルの顔を見るたびに何か言いかけては、結局言葉を飲み込んだ。婚約破棄の噂は一夜にして社交界を駆け巡り、これまで挨拶を交わしていた友人たちからの手紙は、ぱたりと途絶えた。
夜、自室に戻ったイザベルのもとに、母がそっと顔を出した。「お前は何も悪くない」母はそう言ったきり、それ以上の言葉を継げずに、ただ娘の背をさすった。慰めの言葉より先に、涙が母の頬を伝っていた。かつて仲の良かった令嬢たちからは、当たり障りのない見舞いの手紙が二通届いただけで、あとは沈黙だった。手のひらを返すような社交界の冷たさに、イザベルは苦く笑うしかなかった。
そんな中、ヴェルンハルト公国からの正式な使者が伯爵邸を訪れたのは、建国祭からわずか三日後のことだった。使者が携えてきたのは、アレクシス自らの署名が入った書状。クレシー伯爵家との友好関係を深めたいという名目のもと、イザベルを公国の離宮に「賓客」として招きたいという申し出だった。
「渡りに船、というやつだろうな」
父は疲れた顔で書状を見つめながら呟いた。醜聞から距離を置き、時を稼ぐには最適の話だった。それでも父は、娘の意志を確かめるように尋ねた。
「イザベル、お前はどうしたい」
イザベルは少し考えてから、静かに頷いた。フェリクスに婚約破棄を告げられたあの夜、公爵の言葉が、思いのほか深く胸に残っていたことに、彼女自身も気づいていた。
「行かせてください。少し、この国から離れてみたいのです」
馬車で国境を越え、ヴェルンハルト公国の離宮に着いたのは、それから半月後のことだった。石造りの静かな邸宅は、王城の華美な広間とは違い、木々の香りと湖の光に満ちていた。出迎えたアレクシスは、いつもの正装ではなく、簡素な上着姿だった。
「よく来てくれた」
「……ご迷惑では、ありませんか」
「迷惑なら、招いていない」
その率直な物言いに、イザベルは思わず小さく笑ってしまった。ここ数週間、忘れていた感覚だった。
与えられた部屋は、伯爵邸の自室よりも広く、けれど不思議と息苦しさはなかった。窓の外に広がるのは、見慣れぬ山並みと、静かな湖。夜、寝台に横たわりながら、イザベルは慣れない天井の木目をぼんやりと数えた。故郷を離れた心細さはあったが、同時に、誰の期待にも縛られずに息ができる心地よさもあった。翌朝、侍女に起こされるまで、彼女は思いのほか深く眠っていた。
離宮での日々は、静かに、しかし確実にイザベルの中の何かを癒していった。アレクシスは政務の合間に必ず一度は姿を見せ、庭を歩き、湖畔で茶を飲んだ。彼は多くを語らない代わりに、よく聞いた。フェリクスとの婚約時代のこと、伯爵家の暮らしのこと、幼い頃の夢のこと。誰にも話したことのなかった些細な記憶さえ、アレクシスの前ではするりと言葉になった。
「公爵様は、なぜそんなに、私の話を聞きたがるのですか」
ある夕暮れ、湖畔のベンチでイザベルが尋ねると、アレクシスは少し困ったように視線を逸らした。
「知りたいからだ。あなたのことを、まだ何も知らないと気づいた」
「公爵様こそ、まだ独り身でいらっしゃるのが不思議です。これほどの御方に、縁談のひとつもないはずがないでしょうに」
アレクシスは苦笑した。
「縁談なら、山のようにあった。だが、どれも家同士の利害のための紙切れにしか見えなかった。そんなものに心を差し出す気には、どうしてもなれなかった」
「では、なぜ」
「なぜ、今なのか。──あなたに聞かれると、答えに困る。ただ、あなたにだけは、紙切れではないものを差し出したいと、ずっと思っていた」
「六年も見てきた、と仰っていたのに」
「見ていたのは、遠くからの姿だ。あなた自身の言葉を聞いたのは、あの夜が初めてだった」
その言葉に、イザベルは胸の奥が小さく疼くのを感じた。フェリクスとの六年間、彼女はいつも「王太子妃になるべき自分」を演じていた気がする。だがここでは、ただのイザベルとして扱われている。それがどれほど得難いことか、彼女は今さらのように思い知った。
「公爵様は、私に何を求めていらっしゃるのですか」
「求めてはいない。ただ──」
アレクシスは言葉を選ぶように、少しの間、湖面を見つめた。
「あなたが、いつかここを、居心地の良い場所だと思ってくれたら。それだけで十分だ」
数日後、離宮に近隣国の使節が訪れ、小規模な夜会が開かれた。イザベルは賓客としてその末席に加わることを許されたが、慣れない他国の作法に身を硬くしていた。休憩の折、年配の伯爵夫人が扇の陰でこう囁くのを、彼女は耳にしてしまった。
「婚約を破棄された令嬢を、公爵様はどういうおつもりで囲っていらっしゃるのかしら」
「傷物を拾うご趣味でもおありなのでは」
悪意のない噂話のつもりだったのだろう。だが、その言葉はイザベルの胸に、フェリクスに告げられたあの夜と同じ痛みを呼び起こした。俯いた彼女の肩に、静かに手が置かれたのは、その直後だった。
「イザベル嬢は、私の大切な客人だ。彼女の名を軽んじる言葉は、私への侮辱と受け取る」
低く、しかし広間の隅々まで届く声で、アレクシスがそう言い放った。伯爵夫人は顔を青くして頭を下げ、それ以上何も言わなかった。夜会が終わり、二人きりになった回廊で、イザベルは礼を言おうとしたが、うまく言葉が出なかった。
「怒って、くださったのですか。私のために」
「あなたを軽んじる声を、私の国で聞き流すつもりはない」
アレクシスの声には、これまで見たことのない強さがあった。イザベルはその横顔を見つめながら、この人は本当に、自分を守ろうとしてくれているのだと、初めて実感した。
それから数日後、アレクシスは領内の視察に、珍しくイザベルを同行させた。訪れた小さな村では、公爵を迎える人々の表情に、義務としての恭しさではなく、素朴な親しみがあった。老いた農婦がアレクシスの手を両手で包み、今年の収穫の礼を述べる姿を、イザベルは少し離れた場所から眺めていた。
「慕われて、いらっしゃるのですね」
村を離れる馬車の中で、イザベルがそう言うと、アレクシスは窓の外に目をやったまま答えた。
「慕われるより先に、裏切らないことだ。約束したことは、必ず守る。それだけを心がけてきた」
「王太子妃教育で教わった、どの言葉よりも、今のお言葉のほうが胸に残ります」
アレクシスは驚いたようにイザベルを見た。それから、少し照れたように視線を逸らし、それきり黙り込んでしまった。その沈黙の心地よさに、イザベルは初めて、この人の隣にいることが自然だと感じ始めていた。
その夜、離宮に届いた早馬が、ひとつの報せをもたらした。リーヴェル王国で、フェリクスと侯爵令嬢の縁談が、実は伯爵家への負債の帳消しと引き換えに進められていたという疑惑が浮上したという知らせだった。クレシー伯爵家が積み重ねてきた忠義を、王家が金銭の都合で切り捨てようとしていた証拠が、少しずつ明るみに出始めていた。
「父は、このことを知っているのでしょうか」
「知っている。だから、あなたをここへ招くよう、私に頼んできたのだ」
イザベルは驚いて顔を上げた。アレクシスは静かに続けた。
「あなたの父上は、娘を醜聞から守りたかった。同時に、火種が収まるまでの時間も必要だった。私はただ、その願いに応えただけのつもりだった。だが今は、違う」
「違う、とは」
「あなたを、政略のためだけにここへ置いておきたくない。──そう思うようになった」
年が明けて間もなく、南方の小国から婚姻の打診がイザベル宛に届いた。クレシー伯爵家の名誉回復と、王家への牽制を兼ねた、いかにも政略めいた縁談だった。父はあくまで娘の意志に任せると書き添えていたが、離宮の空気は、その報せを境に微かに張り詰めた。
「南方の縁談、お受けになるのか」
夕食の席で、アレクシスがめずらしく硬い声で尋ねた。イザベルは箸を止め、彼の表情を窺った。感情を見せない碧眼の奥に、初めて隠しきれない焦りのようなものを見つけた気がした。
「公爵様は、私に受けてほしいのですか。それとも」
「本音を言えば、断ってほしい。だが、それを望む資格が自分にあるとは、まだ言い切れずにいる」
「資格の話は、もう伺いました」
イザベルは静かに首を振り、初めて自分から一歩を踏み出す覚悟を決めた。
「私は、公爵様のお心を、政略の外側で伺いたいのです。それを教えていただけない限り、どんな縁談にも、色よい返事はいたしません」
アレクシスは長い沈黙の後、ようやく小さく頷いた。その夜以来、二人の間にあった遠慮の壁は、少しずつ薄くなっていった。
冬が終わり、離宮の庭に雪解けの水が流れ始める頃、リーヴェル王国の疑惑は正式な調査によって裏付けられ、フェリクスの縁談は白紙に戻された。クレシー伯爵家への非難は消え、むしろ理不尽な扱いを受けた被害者として、伯爵家への同情が集まるようになった。イザベルの立場は、半年前とはまるで違うものになっていた。
父から届いた手紙には、これまでにない率直な言葉が綴られていた。「お前を政略の道具のように扱ってきたことを、許してほしい。だが今、お前が自分の足で選んだ道を、心から誇りに思う」フェリクスは王太子の地位を退けられ、静かに宮廷の表舞台から姿を消したという。同じ手紙には、フェリクス本人からの詫び状が同封されていたが、イザベルはそれを開けることなく、暖炉の炎にくべた。過去を燃やすことに、もう痛みはなかった。
「もう、この国に留まる理由は、なくなったな」
湖畔を歩きながら、アレクシスがぽつりと言った。声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。イザベルは足を止め、彼の横顔を見上げた。
「留まる理由が、なくなった、とお思いですか」
「あなたの家名は、もう守られた。私が果たすべき役目は、終わった」
「では、伺います。公爵様は、私にここを出ていってほしいのですか」
アレクシスは初めて、言葉に詰まった。長い沈黙の後、彼は振り返り、まっすぐにイザベルを見た。その碧眼には、これまで見たことのない揺らぎがあった。
「出ていってほしくない。だが、それを言う資格が、自分にあるとは思えなかった」
「資格は、公爵様が決めるものではありません」
イザベルは一歩、彼に近づいた。湖から吹く風が、彼女の髪をそっと乱した。
「六年前から見ていてくださった、その想いを。私はまだ、ちゃんと伺っておりません」
アレクシスは長く息を吐き、それから、まるで長年閉じ込めてきた何かを解き放つように口を開いた。
「初めて会った夜から、ずっとあなたのことばかり考えていた。婚約者のいるあなたに、想いを告げることなど許されないと分かっていたから、ただ遠くから見ているだけだった。あの夜、婚約破棄を告げられたあなたを見たとき──悲しかった。同時に、どこかで、これでようやく手を伸ばせると思った自分がいた。そんな自分を、ひどく卑怯だと思った」
「卑怯だとは思いません」
イザベルは静かに首を振った。
「私はあの夜、公爵様に声をかけていただかなければ、きっと立ち直れなかった。あなたが差し出してくれた手を、私はずっと、ありがたく思っていました」
「感謝ではなく」アレクシスは一度言葉を切り、それから、まっすぐに続けた。「私が欲しいのは、あなたの心そのものだ。伯爵令嬢としてでも、政略の駒としてでもなく、ただのイザベルとして。──全部、私にください」
その言葉に、イザベルの目に涙が滲んだ。誰かに「全部」を求められたのは、生まれて初めてのことだった。フェリクスは彼女の役割だけを求め、家柄と体面だけを見ていた。だがアレクシスは、彼女自身を欲しいと言っている。
「……頂けますか。全部、差し上げても」
「喜んで」
アレクシスはそっとイザベルの手を取り、指先に口づけた。湖の水面が、夕陽を受けて静かに輝いていた。
その夜、離宮の奥にある彼の私室に、イザベルは招かれた。暖炉の炎が壁に淡い影を落とし、窓の外では、遅い雪がまた降り始めていた。
「怖くなったら、いつでも言ってくれ」
アレクシスの声は、いつもより少し掠れていた。イザベルは首を振り、彼の胸元にそっと額を寄せた。ここに来るまでの半年間、彼が積み重ねてくれた静けさと誠実さが、今の彼女の中にある不安を、少しずつ溶かしていた。
「怖くはありません。ただ、少し、緊張しているだけです」
「私も、同じだ」
その正直な言葉に、イザベルは小さく笑った。三十を過ぎた公爵が、まるで少年のように緊張していることが、なぜだか愛おしく感じられた。
アレクシスの手が、そっとイザベルの頬に触れた。指先は少し冷たく、けれどその奥に、確かな熱がこもっていた。二人の間にあった距離が、ゆっくりと閉じていく。唇が重なる前、アレクシスは一度動きを止め、確かめるようにイザベルの瞳を覗き込んだ。イザベルはわずかに顎を上げ、その答えを示した。
初めて触れた唇は、想像していたよりもずっと優しかった。長い時間をかけて育まれた想いが、ようやく形を得たような、静かな口づけだった。暖炉の炎が爆ぜる音だけが、部屋の静けさを縁取っていた。
寝台に横たえられたイザベルの髪を、アレクシスは丁寧に指で梳いた。まるで壊れやすいものを扱うように、ひとつひとつの仕草がゆっくりとしていた。ドレスの紐を解く指先は、逸る様子もなく、けれど確かに震えていた。その震えに気づいて、イザベルはそっと彼の手を包んだ。
「大丈夫です」
「……分かっている。だが、六年分の想いというのは、こんなにも重いものかと、今、思い知っている」
灯りを絞った部屋の中、二人の輪郭が、暖炉の炎に照らされて曖昧に溶け合っていく。イザベルの肌に触れるアレクシスの指先は、驚くほど慎重で、まるで彼女の反応のひとつひとつを、大切に記憶しようとしているかのようだった。触れられるたびに、イザベルの呼吸はわずかに乱れ、その乱れに気づいたアレクシスが、動きを緩めては、額に、頬に、そっと唇を落とした。
「痛かったら、言ってくれ」
「……はい」
言葉はそれ以上必要なかった。互いの体温が重なり、静かな吐息だけが暖炉の炎の音に混じっていく。イザベルは目を閉じ、これまで誰にも許したことのなかった深いところで、アレクシスという人の存在を感じていた。恐れも、遠慮も、いつの間にか溶けて消えていた。ただ、長い時間をかけてここまで辿り着いた二人の想いだけが、静かに満ちていった。
時折、アレクシスは動きを止め、確かめるようにイザベルの名を呼んだ。そのたびに彼女は小さく頷き、彼の背に腕を回してその答えに代えた。互いの鼓動が重なり合う感覚だけが、今、確かな現実として二人の間にあった。積み重ねてきた六年という歳月も、離宮で過ごした半年という時間も、すべてがこの静かな夜に集約されていくようだった。
窓の外の雪は、いつの間にかやんでいた。月明かりが薄く差し込む部屋の中で、二人は言葉のいらない時間を、いつまでも分かち合っていた。
翌朝、湖畔には久しぶりの晴れ間が広がっていた。イザベルが目を覚ますと、隣で眠るアレクシスの寝顔があった。政務の場では見せない、無防備な表情に、イザベルは思わず微笑んだ。
「……何を、見ている」
「起きていらしたのですか」
「あなたの視線で、目が覚めた」
アレクシスは少し照れたように身を起こし、イザベルの額に口づけを落とした。窓の外から差し込む朝の光が、二人の間にあった長い年月の距離を、静かに埋めていくようだった。
「これから、どうする」
「決まっています」イザベルは彼の胸に頬を寄せ、微かに笑った。「もう、あなたのいない場所には帰りません」
アレクシスは何も言わず、ただ長く、彼女を抱きしめた。窓辺で揺れる薄いカーテンの向こうに、雪解けを待つ湖が、朝の光を静かに映していた。
それから半年後、リーヴェル王国とヴェルンハルト公国の国境にある教会で、二人はささやかな結婚式を挙げた。クレシー伯爵家は、王家との縁こそ失ったものの、隣国公爵家との縁組によって、以前よりも確かな信用を取り戻していた。フェリクスの元婚約者としてではなく、ヴェルンハルト公爵夫人として、イザベルは新しい人生を歩み始めていた。
式には、クレシー伯爵夫妻も国境を越えて参列した。ヴェールを上げたイザベルの顔を見て、父はこれまで見せたことのないほど声を震わせた。「幸せに、なりなさい」短いその言葉に、六年間言えなかった詫びのすべてが込められているようだった。母は式の間じゅう、ハンカチを目元から離さなかった。
式の後、湖畔の東屋で二人きりになったとき、アレクシスがふと尋ねた。
「後悔は、していないか」
「何をですか」
「王太子妃になる道を、手放したこと」
イザベルは少し考えてから、静かに首を振った。
「あの夜、婚約を破棄されたときは、すべてを失ったと思いました。でも今は、あの夜があったから、あなたに出会えたのだと思っています」
アレクシスは目を細め、イザベルの手を取った。指輪の光が、湖面の光と重なって、静かに揺れていた。
「これからも、全部、私にくれるか」
「はい。全部、あなたに」
湖を渡る風が、二人の間を優しく通り抜けていった。冬の終わりの光の中で、かつて不遇を告げられた伯爵令嬢は、誰よりも穏やかな笑みを浮かべていた。
それから一年が過ぎた頃、離宮の庭には、イザベルが故郷から持ち込んだ花の種が根付き、リーヴェルの野花とヴェルンハルトの木々が、国境などないかのように咲き誇るようになっていた。湖畔を並んで歩く二人の姿は、もはや誰の目にも、政略とは無縁の睦まじい夫婦として映っている。かつて大広間で切り捨てられた令嬢は、遠い異国の地で、誰よりも深く見つめられ、大切にされる妻となっていた。
(了)
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