十歳年下の弟子に「先生と呼ぶのはもうやめます」と言われた夜
夫の遺した硝子工房を継いで三年、四十路手前の澪は十歳年下の弟子・悠一と難しい特注品を仕上げる。窯の火を落とした夜、彼は「先生と呼ぶのはもうやめます」と告げ、抑えてきた想いが静かに動き出す。
窯の火は、二十四時間、決して落とさない。夫が生きていたころからの決まりで、澪はそれを三年間、律儀に守り続けている。守っているのは炎そのものより、炎を絶やさないという約束のほうだった。
澪は三十八歳。硝子作家だった夫を病で亡くしてから、彼が遺したこの工房を継いで三年になる。弟子の悠一は二十八歳、四年前にここへ来たときからずっと、澪のことを「先生」と呼んできた。教える側と教わる側という一線を、悠一は律義なほど守っていた。だから澪も、自分の内側で何かが疼くたびに、それを「先生」という呼び名の裏側に隠す術を覚えた。
その夜、二人は半年がかりの特注品——大聖堂の修復用に納める、直径一メートルを超えるステンドグラスの円窓——をようやく仕上げた。窯の火を落とし、工房に静けさが戻ったとき、悠一は道具を片づける手を止めて、澪をまっすぐに見た。
「先生と呼ぶのは、もうやめます」
その一言が、三年間かけて澪が押し殺してきたものに、静かに火を点けた。
工房は、夫の祖父の代から続く古い建物だった。天井は高く、壁には煤けた梁がむき出しのまま渡っている。澪がここへ嫁いできたのは十三年前、まだ二十代の半ばだった。硝子とは無縁の暮らしをしていた澪に、夫は根気強く吹きガラスの手ほどきをしてくれた。竿の重さに振り回され、初めて焼いた器を粉々に割ってしまった夜、夫は笑いもせず、ただ「もう一度、火の色を見てごらん」とだけ言った。あの人の教え方は、いつもそうだった。答えを教える前に、まず見せる。急かさず、待つ。
悠一が弟子入りしてきたのは、夫が亡くなる前年のことだ。夫の遠縁にあたる硝子作家からの紹介だった。線の細い、口数の少ない青年で、最初の半年は満足に竿も持たせてもらえず、ひたすら炉の掃除と薪の管理をしていた。夫は彼の中に何かを見出していたようで、「あいつは、待つことを知っている」とよく言っていた。その言葉の意味を、澪は夫が亡くなったあとになって、ようやく理解することになる。
夫が急に体調を崩し、半年ほどの闘病の末に逝ったとき、工房を継ぐかどうかは澪にとって迷う余地のない選択だった。夫の弟子はまだ悠一しかおらず、彼一人で工房を回すには経験が足りない。かといって工房を畳めば、夫が守ってきた窯の火は、その日で完全に消えてしまう。澪は夫の道具を受け継ぎ、悠一を弟子として指導する立場に、なし崩しのように立たされた。
最初の一年は、無我夢中だった。夫の技術書を読み、夫の遺した作品を写し、悠一に何かを教えられるだけの技量を、自分の中に急いで積み上げていった。振り返れば、その忙しさに紛れることで、澪は悲しみそのものと向き合う時間を、意図的に先延ばしにしていたのかもしれない。
夜、工房の灯りを消したあと、澪はよく一人で夫の使っていた作業机に座った。竿の重さ、火の照り返し、灰の匂い——そのすべてに夫の気配が染みついていて、涙が出るというよりは、ただ静かに呼吸が浅くなる夜が続いた。悠一がまだ言葉少なだったころ、彼はそんな澪の背中を見つけると、何も聞かずにそっと湯を沸かし、湯呑みだけを机に置いて去っていった。優しさを押しつけない、その距離の取り方に、澪は何度も救われていたのだと、あとになって気づくことになる。
その円窓の仕事は、澪にとって特別な意味を持っていた。夫が生前に受けていながら、体調を崩して手をつけられないまま逝ってしまった仕事だったからだ。図面は残っていた。夫の几帳面な字で、色ガラスの配分と焼成温度が細かく書き込まれた古いノートも。だが図面通りに硝子を焼いても、夫が生きていたら出しただろう色にはならなかった。
「先生の色じゃない気がします」
悠一が初めてそう言ったのは、半年前、試作の一枚を光にかざしたときだった。澪は何も言えなかった。悠一の言う「先生」は澪のことではなく、亡き夫のことだった。工房では、夫もまた「先生」と呼ばれていたから。二人の間で「先生」という言葉が、いつも夫と澪の両方を指す、曖昧な二重の意味を帯びていたことに、澪はそのとき初めて気づかされた。
それから半年、二人は幾晩も窯の前に立ち、色を探し続けた。夫の記録通りの配分では出ない、けれど夫の作品を知る誰もが「らしい」と頷くだろう色を、澪自身の手で探り当てる作業だった。それは澪にとって、夫の仕事を継ぐという以上に、夫の不在を一枚ずつガラスの色に変えて手放していく作業でもあった。
失敗した試作の破片は、工房の裏庭に積み上げられていった。青く光る欠片の山を見るたび、澪は自分の中の何かも、少しずつ砕けては形を変えているような気がした。ある夜など、七度目の焼成でようやく満足のいく色が出たと思った矢先、冷却の途中で一枚が音を立てて割れた。澪は思わず床にへたり込み、悠一はその隣に無言で座って、割れた破片を一つずつ丁寧に拾い集めた。「また焼けばいい」とだけ彼は言い、その声の穏やかさに、澪はどれほど支えられていたか分からない。
悠一は決して急かさなかった。澪が黙って炉の前に座り込んでいるとき、彼はただ隣で薪を足し、火加減を見た。何を言うでもなく、ただそこにいる。その静けさに、澪はいつからか、夫がいたころとは違う種類の安らぎを覚えるようになっていた。夫の隣にいるときの安らぎが、寄りかかるものだったとすれば、悠一の隣にいるときのそれは、支えられていることにすら気づかせない、もっと控えめな種類のものだった。
その安らぎに名前をつけてはいけない、と澪は自分に言い聞かせていた。悠一は弟子だ。十歳も年下で、夫の弟弟子筋にあたる人間から紹介されて、この工房に来た青年だ。彼が向けてくる眼差しの意味に気づかないほど鈍くはなかったが、気づいてしまえば、それは工房ごと壊しかねない危うさを持っていた。だから澪は、彼の視線に気づくたびに、わざと事務的な指示を口にして、その場の空気を業務に引き戻すことを覚えた。
円窓が焼き上がったのは、梅雨の終わりの、蒸し暑い夜だった。徐冷炉から出した硝子は、まだ人肌よりも熱を持っていて、二人はしばらく無言でそれを見つめていた。夫のノートにあった配分から少しだけ外れた青は、光にかざすと、澪の記憶の中の夫の作品よりも、ほんの少し柔らかく揺れて見えた。
「きれいです」
悠一が言った。澪は頷いた。喉の奥が熱かった。三年分の何かが、ようやく形になって降りてきたような気がした。長い共同作業の終わりに漂う、少しの寂しさを含んだ達成感が、工房の湿った空気に混じっていた。
窯の火を落とし、道具を洗い、工房の灯りを絞ったところで、悠一が道具を片づける手を止めた。長い沈黙があった。窓の外では、遠くで夏の最初の雷が鳴っていた。
「先生」
呼ばれて振り向くと、悠一の目は、これまで澪が見たことのない色をしていた。
「先生と呼ぶのは、もうやめます」
「……悠一くん?」
「弟子を、やめさせてください」
澪は息を止めた。悠一は続けた。
「四年間、ずっと先生の後ろに立って、先生の技を見て、先生の言葉を聞いて生きてきました。それが幸せでした。でも、もう無理です。生徒として先生の隣に立ちながら、これ以上、この気持ちを抑えていられません」
「気持ち、って」
「言わせてください。今夜だけは」悠一の声は、震えてはいたが、逃げてはいなかった。「先生を、女性として好きです。四年前からずっと。それに気づいてから、弟子という立場に自分を縛りつけて、必死に見ないふりをしてきました。でも今日、あの窓を先生と一緒に仕上げて——もう、無理だと思いました」
雷が、少しだけ近くで鳴った。澪は何も言えなかった。言葉の代わりに、三年間、胸の奥にしまい込んでいたものが、音を立てて溶け出す気配だけがあった。
「悠一くんの気持ちは、分かった」
しばらくして、澪はやっと声を出した。自分でも驚くほど平静な声だった。
「でも、答えは今すぐには出せない。……ごめんなさい」
悠一は静かに頷いた。「分かってます。だから、弟子はやめます。先生の弟子のままじゃ、答えを待つ資格もないと思うので」
「工房まで辞めるつもり?」
「工房は辞めません。ここで働かせてください。ただ、弟子という肩書きだけは、今夜で終わりにさせてください」
その夜、悠一は自分の荷物をまとめず、いつも通り工房の二階の部屋に泊まっていった。だが翌朝、澪が起きたときには、彼はすでに炉の前で、いつもより少し離れた場所に立っていた。教える者と教わる者の距離ではなく、ただの、大人の男と女の距離で。
その日から、悠一は澪を「先生」と呼ばなくなった。かわりに何と呼べばいいのか分からないまま、彼はしばらく澪の名前を呼ぶことを避け、必要な言葉だけを交わした。工房の空気は張り詰め、けれど不思議と、以前より澄んでいた。互いに視線を合わせる回数は減ったのに、合ったときの重みだけが増していくのを、澪は日ごとに感じていた。
澪は毎晩、仏壇の前に座るようになった。夫の遺影に線香をあげながら、何を語りかければいいのか分からず、ただ長い時間、黙って座っていた。
三年前、夫を看取った夜のことを、澪は繰り返し思い出した。痩せた手を握って、「工房を、頼む」と言われたときのこと。あれは工房を継げという意味だったはずで、自分の余生を弔いに捧げよという意味ではなかったはずだ。それは分かっていた。分かっていて、澪は自分の中の疼きに、ずっと蓋をしてきた。夫への操立てのつもりだった。だがそれは、いつからか、悲しみそのものよりも、悲しみを言い訳にして何も選ばずにいる楽さのほうに近づいていた。
その週の終わり、夫の母がひさしぶりに工房を訪ねてきた。円窓の完成を聞きつけての訪問だった。硝子の破片が積もった裏庭を見て、義母は懐かしそうに目を細めた。
「あの子も、こうやって毎晩、破片の山を作ってたわね」
義母の言う「あの子」は、澪の亡き夫のことだ。お茶を出しながら、澪はふと、義母がどこまで自分と悠一のことに気づいているのだろうと不安になった。だが義母は何も探るようなことは言わず、ただ工房の様子や悠一の仕事ぶりを、遠回しに尋ねてくるだけだった。
「悠一くんは、いい職人になったわね。あの子も、きっと喜んでる」
その一言に、澪は思わず湯呑みを持つ手を止めた。義母は続けた。
「澪さん、いつまでも喪服の心のままでいなくていいのよ。あの子だって、あなたが幸せになることを、悲しむような人じゃなかった」
澪は何も言えなかった。義母がどこまで見抜いているのか分からなかったが、その言葉は、澪の中でずっと閉じていた扉に、そっと隙間を作った。
「まだ、迷ってるんですか」
一週間後の夜、悠一が工房に残った澪に、初めてそう尋ねた。もう「先生」ではなく、かといって名前で呼ぶでもなく、ただ「あなた」という一語も使わずに話しかけてくる、その距離の取り方に、澪は彼の不器用な誠実さを見た。
「迷ってる、というより」澪は硝子屑を片づける手を止めずに言った。「怖いのかもしれない」
「何がですか」
「もう一度、誰かを好きになることが」澪は初めて、その言葉を声に出した。「夫を亡くしてから、私はずっと、悲しむことでしか、あの人との時間に礼儀を尽くせないと思ってきた。誰かを好きになったら、その悲しみを裏切ることになる気がして」
悠一はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「先生……いえ、澪さん」
初めて名前を呼ばれて、澪は顔を上げた。
「僕は、亡くなった先生のことを、尊敬していました。今も尊敬しています。でも、あなたが一生悲しみ続けることを、あの人が望んでいたとは思えません。僕があの人の作品を見て思うのは、いつも、人が何かを大切に思う気持ちの、いちばん強い形です。それは、悲しみに閉じ込められるための力じゃない」
澪の手から、硝子屑を集めていた箒が滑り落ちた。
「あなたが誰かを新しく好きになることは、あの人を裏切ることじゃない。あなたが誰も好きにならないまま歳を取っていくことのほうが、僕には、ずっと悲しいことに思えます」
「……ずるい言い方」澪は苦笑いを浮かべた。声が少し震えていた。「そんなふうに言われたら、逃げ場がなくなる」
「逃げてほしくないので」
悠一のまっすぐな返事に、澪は目を伏せた。反論する言葉は、もう見つからなかった。
それでも、夜が更けて一人になると、別の不安が澪の胸をよぎった。十歳という年齢差。周囲の目。悠一の将来を、自分が縛ってしまうのではないかという恐れ。もし数年後、彼が本当に望むものが自分の隣にはないと気づいたら——そう考えると、指先が冷たくなった。だが同時に、澪は気づいていた。そうした恐れの一つひとつは、悠一を思うことに見せかけた、自分自身を守るための言い訳でもあったのだと。踏み出さない理由を探すことに、澪はもう疲れ始めていた。
その夜から、澪の中で何かが少しずつ動き始めた。
夫の遺したノートを、初めて頭から読み返した。配分の数字の合間に、夫が書き残した短い言葉があった。「澪の作る色は、俺より優しい。いつか、俺の記録なんか無視して、澪の色で作ればいい」。三年間、目を通していながら気づかなかった一文だった。あるいは、気づかないふりをしていたのかもしれない。
その言葉を見つけた夜、澪は初めて声を上げて泣いた。悲しみのための涙ではなく、長く縛りつけていた自分自身を、ようやく手放すための涙だった。夫が生きているうちに聞きたかった言葉を、亡くなってから見つけるのは残酷でもあり、同時に、この上ない救いでもあった。夫は、澪が澪自身の色で生きていくことを、ずっと前から許していたのだ。
数日後、澪は悠一を工房に残るよう頼んだ。彼はもう弟子ではなかった。代わりに、共同で工房を運営する話を、澪のほうから切り出した。
「悠一くんの腕は、もう弟子のものじゃない。対等な作家として、この工房でやっていってほしい」
悠一は少し驚いた顔をしたあと、静かに笑った。「それは、仕事の話ですか」
「仕事の話」澪は少しだけ間を置いた。「だけじゃない」
雷雨の続いた季節が終わり、工房の窓から差し込む光が、少しずつ秋の色に変わっていくころだった。二人の間にあった距離は、言葉ではなく、並んで炉の前に立つ時間の長さで、少しずつ縮まっていった。夕方、火を落とす前の短い休憩に、どちらからともなく並んで座るようになった。会話は途切れがちだったが、その沈黙は、以前のような緊張ではなく、互いの呼吸を確かめ合うような、穏やかなものに変わっていた。
その夜、二人は工房で、納品前の最後の検品をしていた。円窓は美術館の修復チームに引き渡され、代わりに小さな器の注文がいくつか机の上に並んでいた。窓の外はすでに暗く、遠くで秋の虫が鳴いていた。
「澪さん」
悠一が呼んだ。もう躊躇いのない声だった。澪が顔を上げると、悠一は硝子の器を光にかざしたまま、こちらを見ていた。
「もう一度、ちゃんと言わせてください。好きです。弟子としてじゃなく、一人の男として」
澪は器を作業台に置き、悠一のほうへ、初めて自分から一歩近づいた。
「私も」声が掠れた。「悠一くんが思ってくれているより、ずっと前から。……気づかないふりを、するのに必死だった」
悠一の手が、ためらいがちに伸びてきて、澪の頬に触れた。熱い手だった。炉の火の熱ではなく、彼自身の熱だと分かって、澪は目を閉じた。
「怖くないですか」悠一が囁いた。
「怖い」澪は素直に言った。「でも、悲しみに蓋をしたまま生きるほうが、もっと怖いと、教えてくれたのは悠一くんだから」
唇が重なった。四年という時間の分だけ、ためらいがちで、けれど確かな重みを持った口づけだった。工房の隅で燻る種火の音だけが、二人の呼吸に寄り添っていた。どれくらいそうしていただろうか。唇が離れたとき、悠一の額が澪の額にそっと触れた。
「今夜、一緒にいてもらえますか」
澪は答える代わりに、悠一の胸に自分の額を預けた。それが、返事だった。
工房の二階、悠一の部屋には、彼がここに来てからの四年分の道具と本が、静かに積み重なっていた。澪がその部屋に足を踏み入れるのは、初めてのことだった。
「本当に、いいんですか」
扉を閉めながら、悠一が念を押すように尋ねた。何度目かの確認だった。澪は小さく笑った。
「今さら聞かないで。ここまで来て」
窓から差し込む月明かりが、床に散らばった硝子の欠片の縁を、細く光らせていた。悠一の手が、澪の背をそっと抱き寄せる。三年間、誰にも触れさせなかった体が、その熱にゆっくりと馴染んでいくのを、澪は自分でも意外なほど素直に受け入れていた。
服の合わせ目に触れる指先は、いつも硝子を扱うときと同じように、慎重で、力の加減を知っていた。乱暴に扱えば割れてしまうものを扱う手つきで、悠一は澪に触れた。その優しさが、かえって澪の中に長く眠っていた何かを、大きく揺さぶった。
「先生……」
無意識にこぼれた呼び名に、悠一が小さく笑った気配がした。
「もう、その呼び方はなしです」
「ごめん……悠一」
名前を呼び直すと、悠一の腕に力がこもった。押し倒されるというより、そっと横たえられるという感覚に近かった。月明かりの下で、悠一の輪郭が澪を覆う。四年間見つめ続けてきた師の体に触れる悠一の手は、最初こそ震えていたが、澪が小さく吐いた息に応えるように、少しずつ確かさを増していった。
肌の重なる感触は、久しく忘れていたもので、澪はそれが自分の体の記憶の底に、まだちゃんと残っていたことに驚いた。悠一の唇が首筋を辿り、耳元で名前を呼ぶ。澪、と。四年間封じられていた響きが、こんなにも柔らかく自分の名を包むのだと、初めて知った。
熱は静かに高まっていった。窯の火のように、急に燃え上がるのではなく、時間をかけて温度を上げていく熱だった。悠一の背に腕を回しながら、澪は、これは裏切りではないと、はっきり感じていた。夫との時間を汚すものではなく、夫が遺した言葉——澪の色で作ればいい——が、ようやく自分の体温として実現していく過程なのだと。
二人の間に交わされる吐息は、言葉よりも雄弁だった。触れるたびに小さく震える澪の反応を、悠一は一つひとつ確かめるように受け止め、決して急がなかった。まるで硝子を吹くときのように、力を込めすぎれば壊れてしまうものを、根気強く、丁寧な手つきで満たしていく。澪はその慎重さの中に、四年間積み重ねられてきた信頼の重みを感じ、目の奥が熱くなった。
月が雲に隠れ、部屋が一段と暗くなったとき、二人の呼吸だけが、静かな部屋を満たしていた。言葉はもう要らなかった。互いの鼓動が触れ合うほど近く重なり、やがてその境目さえ曖昧になっていく。悠一の腕の中で、澪は久しぶりに、明日を怖れない眠りに落ちていった。
朝、澪が目を覚ますと、悠一はすでに起きていて、窓辺で朝の光にかざした小さな硝子細工を眺めていた。澪の視線に気づくと、彼はそれをそっと差し出した。
「昨夜のうちに、寝る前に一つだけ作りました。眠れなくて」
小さな一輪挿しだった。薄い青の色が、朝の光を受けて揺れている。円窓に使った、あの新しい配分の青だった。
「悠一の色だ」澪は微笑んだ。
「澪さんの色です」悠一は首を振った。「あなたが見つけた色を、僕が形にしただけです」
その言葉に、澪は胸の奥が温かくなるのを感じた。ここから先の工房が、誰か一人の名前だけで語られるものではなく、二人の名前で語られていくのだと、その一輪の硝子が静かに告げているようだった。
半年後、工房の入り口には、新しい看板がかかっていた。夫の名前を継いだ屋号の下に、小さく「澪・悠一」と、連名で刻まれている。
工房を訪れる客の中には、二人の関係を知って驚く者もいれば、当然のことのように受け止める者もいた。義母となるはずだった夫の母は、最初こそ複雑な顔をしたが、二人が仕上げた円窓が美術館に飾られたという報せを聞いて、工房を訪ね、しばらく看板を眺めたあと、静かに言った。
「いい名前の並びね。あの子も、きっと安心してる」
それから、澪の手を取って、少しだけ握りしめた。「これからは、悲しみのためじゃなくて、この人たちのために、火を絶やさないであげてね」
澪は言葉に詰まり、ただ頷いた。義母のその一言で、三年間、心のどこかに残っていた罪悪感の最後のかけらが、静かに溶けていくのが分かった。
窯の火は、今も二十四時間、絶やされることなく燃え続けている。守っているのは、もう亡き夫との約束だけではない。澪と悠一、二人で選び取った、これからの時間との約束でもあった。
秋の終わりの夜、炉の前で並んで硝子を吹きながら、悠一がふと澪に言った。
「先生、って、もう二度と呼ばないと思ってたんですけど」
「なに、急に」
「工房の看板を見た若い見学者が、僕のことを『先生』って呼んだんです。ちょっと、変な気分でした」
澪は笑った。「悠一も、いよいよ一人前の作家ってことね」
「澪さんは、いつまでも先生のままだと思ってました」
「私は」澪は炉の炎に目を戻しながら、静かに言った。「もう先生じゃなくて、ただの澪でいい。悠一の隣にいるときは」
炎の照り返しが、二人の頬を同じ色に染めていた。窓の外では、来年もまた同じ色の硝子を焼くための、長い季節が始まろうとしていた。
その夜遅く、二人は工房の裏庭に出た。積み上げられたままの硝子の破片が、月明かりを受けて、青白く静かに光っていた。失敗の数だけ積もった、あの欠片の山を、悠一はしゃがみ込んで手のひらですくい上げた。
「いつか、これを溶かして、何か作りませんか」悠一が言った。「二人分の失敗を、全部混ぜて」
「面白いこと言うのね」澪は笑い、隣にしゃがんだ。「うまくいくかしら。色が濁るかもしれない」
「濁ってもいいです。それが、僕らの色になる」
澪は答える代わりに、月明かりに透ける欠片を一つ手に取った。夫と過ごした歳月も、悲しみに沈んでいた三年間も、悠一と積み重ねてきた四年間も、この工房の火はすべてを見てきた。これからも、その火は消えない。誰かを喪う悲しみさえも、いつか誰かと分け合う温もりに変えていける——そのことを、澪は静かな確信とともに、胸に刻んだ。
(了)
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