五年ぶりに再会した幼馴染の外科医は、もう私を離す気がないらしい
父の緊急手術で五年ぶりに帰った町で、執刀医の欄に幼馴染の名前を見つけた柚葉。何も告げずに町を出た自分を、律は責めもせず、ただ「待っていた」とだけ言う。逃げ場を差し出し続ける彼の静かな執着に、心がほどけていく大人の再会譚。
三十一歳になった今も、柚葉の部屋には段ボール箱がいくつか開けられないまま積まれている。東京に出て五年、勤め先の出版社が入るビルと、駅前のワンルームを往復するだけの生活には、荷解きを急ぐ理由がなかった。恋人はいない。作らなかった、というほうが正しい。誰かと深く関われば、いつかまたどこかへ逃げ出す自分を、繰り返してしまう気がしていたからだ。
その静かな停滞を破ったのは、実家からの電話だった。父が急に倒れ、救急搬送されたという。取るものも取りあえず新幹線に飛び乗り、五年ぶりに降り立った駅は、記憶よりずっと小さく見えた。
病院の説明室に通され、書類の執刀医欄に見覚えのある名前を見つけた瞬間、柚葉の手は止まった。
「律」
幼馴染で、初恋で、そして何も言わずに置き去りにした相手だった。
白衣姿の律は、扉を開けて柚葉の顔を見た瞬間、驚きを一瞬だけ浮かべ、すぐにいつもの落ち着いた声に戻した。
「柚葉ちゃんのお父さんの主治医になったのは、僕です」
敬語も、距離のある言い方も、五年という歳月の分だけ律が用意してくれた礼儀なのだと、柚葉にはすぐにわかった。責める言葉はひとつもない。ただ、待っていた者だけが持つ静かさが、彼の目の奥にあった。この人は、私が逃げたことを、まだ許すとも許さないとも言っていない。そう思うと、安堵よりも先に、痛みに似た熱が胸に落ちてきた。
「胆嚢に石が詰まっていました。今夜のうちに、摘出します。命に関わるものではないので、落ち着いて待っていてください」
事務的な説明のはずなのに、律の声はどこまでも優しかった。柚葉が頷くと、律は一礼して部屋を出ていった。ドアが閉まる音を聞きながら、柚葉は自分がまだ、あの声の温度を覚えていたことに気づいて愕然とした。
手術は深夜に及んだ。控室の硬い椅子に座ったまま、柚葉の膝はずっと震えていた。命に関わらないと言われても、身内が手術台に乗っているという事実は、理屈で抑えられるものではなかった。
手術着のまま現れた律は、隣に座り、無事に終わったこと、経過は良好であることを簡潔に伝えると、それ以上は何も聞かずに立ち上がろうとした。
「待って」
柚葉が呼び止めると、律は振り返った。
「ちゃんと、お礼を言ってなかった。それに――」
続きが出てこない。五年分の説明を、この短い廊下でどう始めればいいのか、わからなかった。律はしばらく待ってから、静かに言った。
「今は、お父さんのことだけ考えてください。僕に説明する義理なんて、柚葉さんにはない」
さん付けに変わった呼び方が、逆に柚葉の胸を締めつけた。義理がないと言われて、こんなに苦しいのは何故だろう。律は軽く頭を下げ、足早に廊下を戻っていった。白衣の背中が角を折れて見えなくなるまで、柚葉はその場から動けなかった。
父の回復には、思ったより時間がかかった。高齢ということもあり、退院後も通院と自宅療養が必要だと言われ、柚葉は編集の仕事に一区切りをつけて、しばらく実家に留まることにした。祖父の代から続く小さな書店を、父に代わって開けるようになったのも、その頃からだ。
「ひなた書房」と染め抜かれた古い暖簾を出すたび、柚葉は五年前の自分がここから逃げ出したことを思い出した。何も悪いことは起きていなかった。ただ、律への気持ちが、幼馴染という言葉で片付けられないほど大きくなっていくのが怖かった。想いを伝えて壊れるくらいなら、伝えずに消える方がましだと、あの頃の自分は本気で思っていた。逃げた先の東京で、柚葉は何度も後悔した。それでも戻る勇気は、父が倒れるまで一度も出せなかった。
律が書店に顔を出すようになったのは、父の術後検診の帰り道に、たまたま店の前を通ったからだと本人は言った。けれど毎週決まった曜日に、決まった時間に現れるのは、たまたまにしては出来過ぎていた。
「本を、探しに来ただけです」
そう言って律が選ぶのは、たいてい医学書ではない、古い詩集や随筆だった。柚葉が学生の頃に好きだった作家のものばかりを、律は迷いなく手に取る。忘れているはずがなかった。あの頃、貸し借りしていた本の話を、彼はひとつも忘れていない。
「これ、覚えてる?」
律が差し出した文庫本の背表紙を見て、柚葉は息を呑んだ。高校生の時、柚葉が律に無理やり読ませた恋愛小説だった。当時、律は「柚葉ちゃんが好きな話は、僕にはちょっと甘すぎる」と苦笑いしていた。
「覚えてないふりをすればよかったのに」
「無理だよ。柚葉ちゃんが薦めてくれたものは、全部覚えてる」
さらりと返された言葉に、柚葉は何も返せなくなった。
東京の上司から電話がかかってきたのは、その週の終わりだった。担当していた企画の進行が止まっていること、いつ戻れるのか、それとなく確認したいという内容だった。柚葉は「もう少し」とだけ答え、電話を切ったあとしばらく、暗くなったスマートフォンの画面を見つめていた。
戻るつもりで出た町のはずだった。それなのに、父の顔色が良くなるたび、律の声を思い出すたび、東京での生活が急速に色を失っていくのを感じていた。
「無理に決めなくていい」
夕食の席で、父はぽつりと言った。母を早くに亡くしてから、父は多くを語らない人になっていたが、その夜は珍しく続きがあった。
「お前の母さんも、一度この町を出ようとしたことがある。戻ってきたのは、私がいたからじゃない。自分で、ここにいたいと決めたからだ」
柚葉は箸を止めた。父の言葉は、答えを急かすものではなく、ただ選択肢を静かに置いていくだけだった。律の誘い方と、どこか似ていた。この町の人たちは、大切なことほど、押しつけずに差し出すのかもしれないと、柚葉は思った。
「無理にとは言いません」
閉店間際の書店で、律はいつもそう前置きしてから、柚葉を夕食に誘った。断っても、次の週にはまた同じ言葉で誘いに来る。柚葉が「今日は疲れているから」と言えば、律はすぐに「じゃあ、また今度で」と引き下がった。追い詰められる怖さは、一度もなかった。むしろ、いつでも逃げていいのだと差し出され続けることの方が、柚葉には効いた。
「律は、変わらないね」
ある晩、二人で入った小さな食堂で、柚葉はそう言った。律は箸を止め、少し困ったように笑った。
「変わったよ。昔は、柚葉ちゃんが本を読んでる隣で、ただ黙って座っているだけで満足だった。今は違う」
「今は?」
「今は、隣にいてほしいと、ちゃんと言えるようになった」
まっすぐな声だった。柚葉は俯いて、水の入ったコップの縁をなぞった。言われた言葉の重さに、うまく返事ができなかった。律はそれ以上踏み込まず、話題を父の回復具合に変えた。踏み込まないことが、彼の優しさであり、同時に静かな執着でもあるのだと、柚葉は少しずつ気づき始めていた。この人は、急がない。急がないけれど、離れる気配もまったく見せない。
食事の帰り、律は駅までの道を、あえて遠回りして歩いた。理由は聞かなくてもわかった。柚葉と一緒にいる時間を、一分でも長く引き延ばしたいのだ。それに気づいていながら黙って歩調を合わせている自分にも、柚葉は少しずつ気づき始めていた。
幼い頃の記憶は、いつも書店の匂いと重なっている。夏休み、祖父の店の隅で二人並んで座り、返却期限をとうに過ぎた図鑑を広げていたこと。律が虫の絵ばかり指差して喋り続け、柚葉が「静かに読みなさいよ」と叱るふりをしていたこと。祖父にこっそりアイスをもらって、店先の階段で分け合って食べたこと。何ひとつ特別な出来事ではなかった。ただその時間の中に、後から思えば恋と呼ぶしかない種が、確かに埋められていた。
律がいつから自分を好きだったのか、柚葉は正確には知らない。けれど今、大人になった律が向けてくる眼差しの奥に、あの夏の日と同じ、まっすぐで飽きない光があることだけは、はっきりとわかった。
一度だけ、はっきり覚えている夜がある。中学最後の夏祭りで、はぐれた柚葉を人混みの中から見つけ出したのは律だった。汗だくで駆け寄ってきた律は、何も言わずに柚葉の手を握り、屋台の明かりの下まで連れ戻すと、ようやく安堵の息をついた。「もう、離さないから」と、子どもらしい大真面目な顔で言ったその一言を、柚葉は長いあいだ忘れていたはずだった。今になって、あの夜の言葉が、律の中でずっと本気のまま生き続けていたのだと知る。
律が勤める病院を、柚葉は初めて仕事終わりに訪ねてみたことがある。会計待ちのロビーの隅から見た律は、子どもの患者に目線を合わせてしゃがみ込み、聴診器を怖がらせないよう冗談を挟みながら診察していた。普段の落ち着いた声とは違う、柔らかくあやすような声。それを見ているだけで、柚葉の胸は説明のつかない誇らしさでいっぱいになった。
同時に、小さな不安も生まれた。これほど多くの人に必要とされている人を、自分がまた失望させたらどうなるのだろう。五年前と同じ弱さが、まだ自分のどこかに残っているのではないか。会計を終えて振り返った律と目が合うと、柚葉は慌てて笑顔を作った。律は不思議そうにしながらも、それ以上は聞いてこなかった。
夏が終わりかけたある日、律が当直明けの疲れた顔で店に立ち寄った。カウンターに突っ伏すようにして、珍しく弱音をこぼした。
「今日、助けられなかった患者がいた」
柚葉は何も言わず、温かいお茶を淹れて隣に置いた。律はしばらく黙ってそれを見つめてから、ぽつりと続けた。
「こういう日はいつも、柚葉ちゃんならどう言うだろうって考える。五年間、ずっとそうだった」
「私、そんなに頼りになる相手じゃなかったと思うけど」
「柚葉がいてくれるだけで、僕は十分だった。今もそう」
その言葉に、柚葉の中で何かが静かに崩れた。律はいつも、多くを求めているようで、実は何も要求していない。ただ隣にいることだけを、五年間、諦めずに待ち続けていた。その事実の重さが、ようやく柚葉の胸に届いた。
けれど近づけば近づくほど、柚葉の中では別の恐れが頭をもたげてきた。このまま律に深く寄りかかってしまえば、いつかまた、自分が彼の重荷になる日が来るのではないか。父の容態が落ち着き、東京の仕事の催促が増えるにつれて、柚葉は少しずつ律との約束を先延ばしにするようになった。
「今週は、忙しいから」
三度目にそう断った夜、律は店の外まで送りながら、いつもより長く沈黙してから口を開いた。
「柚葉、逃げようとしてる?」
図星を突かれ、柚葉は言葉に詰まった。律は責める調子ではなく、ただ確かめるように続けた。
「無理に引き止めない。柚葉が本当に東京に戻りたいなら、それでいい。でも、怖くて距離を取ってるだけなら――今度は、僕にも言ってほしい」
その言葉は、五年前とまったく同じ場所に柚葉を立たせた。違うのは、今度は黙って背を向ける代わりに、目の前の律の顔をきちんと見られたことだった。
「怖いだけ」柚葉は小さく認めた。「また、あなたを失望させる気がして」
「僕を失望させるとしたら、それは柚葉がいなくなることだけだよ」
その夜、柚葉は初めて、逃げないという選択を自分の意思ではっきりと選んだ。
「実を言うと、東京の病院からも誘いはあったんだ」
数日後、二人で歩いた河川敷で、律がふと打ち明けた。大学病院の勧誘を一度は受けかけたこと、けれど最終的にこの町の病院を選んだこと。
「柚葉がいつか戻ってくるかもしれない場所を、離れたくなかった」
「もし、戻らなかったら?」
「それでも、ここにいたと思う。柚葉のいない町でも、柚葉が生まれた町ではあるから」
自分の人生の選択を、律はずっとどこかで柚葉に紐づけて決めてきたのだと知り、柚葉は嬉しさと同時に、その重さに軽い眩暈を覚えた。誰かにここまで想われる資格が、自分にあるとは思えなかった。それでも律は、資格の有無など問うたことは一度もない。ただ、柚葉がそこにいてくれれば、それでいいのだと、繰り返し態度で示してきただけだった。
九月の終わり、町の秋祭りがあった。露店の明かりが並ぶ通りを、柚葉は律と連れ立って歩いた。中学最後の夏に迷子になったのと同じ通りだということに、二人とも気づいていたが、どちらも口には出さなかった。
人混みで一瞬はぐれかけた時、律は迷わず柚葉の手を取った。強すぎず、けれど絶対に離さない力加減で。
「あの時と、同じだね」
柚葉が笑うと、律は少し照れたように視線を逸らしてから、まっすぐに柚葉を見た。
「あの時は子どもの約束だった。今度は、ちゃんとした約束にしたい」
「もう離さないって?」
「うん。もう離さない」
提灯の明かりの下で交わされたその言葉は、十代の頃の無邪気な誓いとは違う、大人の重さと覚悟を纏っていた。柚葉は握られた手を握り返し、初めて自分から、律の肩に軽く頭を預けた。
父の退院祝いを兼ねた食事会の帰り、雨が降り出した。傘を持たない柚葉に、律は自分の傘を差しかけ、自分の肩を雨に晒した。
「濡れるよ」
「平気です」
「敬語、やめてよ」
柚葉が言うと、律は一瞬だけ目を見開き、それからようやく、昔のままの砕けた声に戻った。
「――柚葉が、それでいいなら」
「いいよ。ずっと、その方がよかった」
町外れの橋の上で、柚葉は足を止めた。川面に落ちる雨粒を見つめながら、五年前のことを、初めて自分の言葉で話した。想いが重すぎて、律の人生の重荷になるのが怖かったこと。伝えて拒まれるより、何も言わずに消える方が、自分を守れると思っていたこと。母を早くに亡くし、誰かに深く必要とされることの怖さを、ずっと抱えてきたこと。今思えば、それは律を信じていなかったということだと、柚葉は静かに認めた。
律は黙って聞いていた。話し終えると、傘を持つ手にわずかに力がこもるのがわかった。
「怒って、いいのに」
「怒らない」律は言った。「柚葉が消えた五年、僕はずっと、腹を立てるより先に、自分に聞いてた。もし戻ってきてくれたら、どうするかって」
「どうするって、決めてたの?」
「待つ、って決めてた。誰かと付き合ってみようとしたこともある。でも、駄目だった。柚葉じゃないと、意味がなかった」
雨音の向こうで、律の声は静かなままだった。それでも、その静かさの底に、これまで見たことのないほど強い何かが流れているのを、柚葉ははっきりと感じ取った。愛しさよりも、独占に近い熱。けれどそれは、柚葉を縛るための熱ではなく、柚葉が離れたいと言えば、いつでも手を離す覚悟を含んだ熱だった。
「律」
「うん」
「今夜、一緒にいてほしい」
自分から口にした言葉に、柚葉自身が一番驚いていた。律は傘の下で振り返り、確かめるように、もう一度だけ聞いた。
「本当に、いいの。僕は、多分もう――柚葉を、簡単には手放せないよ」
「知ってる」柚葉は笑った。「もう、五年分知ってる」
「怖くない?」
「怖かったのは、律に必要とされることじゃなくて、自分がそれに応えられないことだった。でも、もう逃げたくない」
律は柚葉の頬にそっと触れ、雨に濡れた前髪を指先で払った。それだけの仕草に、五年分の焦がれが滲んでいた。
橋を渡り終えるまで、二人は一本の傘の下で無言だった。言葉を交わさなくても、律の腕にかかる力が、柚葉の歩調に合わせて緩んだり強まったりするのが伝わってくる。傘の内側だけが、世界から切り離された小さな部屋のようだった。
律のマンションは、駅から少し離れた静かな通りにあった。玄関で靴を脱ぐ間も、律は何度も柚葉の様子をうかがっていた。急かす素振りは、最後までひとつもなかった。灯りを落とした部屋に、雨の音だけが響いていた。
「嫌だったら、言って」
律の声は掠れていた。柚葉はその手を取り、自分から距離を詰めた。答えの代わりに、指先を絡ませる。それだけで、律の体温が変わるのがわかった。
肩に置かれた手は、いつも患者に触れる時のように慎重で、それでいて、隠しきれない飢えを帯びていた。柚葉の名を呼ぶ声が、少しずつ掠れていく。触れるたびに律は必ず、確かめるように動きを止めた。怖いくらい優しいそのやり方が、かえって柚葉の中の、律を求める気持ちを煽った。
「律」
名を呼ぶと、律は額を柚葉の肩に押しつけ、長く息を吐いた。それきり言葉はなくなり、雨の音と、二人の呼吸だけが部屋を満たしていく。柔らかな闇の中で、五年分の距離が、少しずつ溶けて消えていった。触れ合う体温の奥に、これまで律がずっと隠してきた執着の熱が、はっきりと伝わってくる。それでも柚葉を追い詰めることは一度もなく、律はただ、柚葉が与える分だけを、大切に受け取っていた。
時折、律は動きを止めて、柚葉の顔を確かめた。その眼差しに映るのは欲だけではなく、五年間見失っていたものをようやく取り戻したという、安堵に近い光だった。柚葉はその光に応えるように、自分から律の背に腕を回した。言葉より雄弁な仕草で、もう逃げないという意志を伝えたかった。
律の指先は、まるで柚葉という存在そのものを確かめるように、時間をかけて動いた。急かず、奪わず、ただ差し出されたものだけを受け取ろうとする、その慎重さがかえって柚葉の余裕を奪っていく。名前を呼ばれるたびに、五年という時間が少しずつ薄紙のようにめくれて消えていくのを、柚葉は確かに感じていた。
言葉はほとんど要らなかった。触れる場所が変わるたび、互いの呼吸の間隔が短くなり、やがて二人の輪郭が、闇の中で見分けがつかなくなるほど近づいた。柚葉の中に残っていた最後の躊躇いも、その頃にはもう、跡形もなく溶けていた。
夜が更けても、雨はやまなかった。窓の外の音を遠くに聞きながら、柚葉は律の腕の中で、ようやく五年ぶりに、安心して目を閉じることができた。
朝、目を覚ますと、律はすでに起きていて、台所でコーヒーを淹れていた。柚葉が部屋に入ると、律は少し照れたように笑った。
「昨日のこと、後悔してない?」
「してない」柚葉は即答した。「律は?」
「僕は、五年前から一度も後悔したことがない」律はカップを差し出しながら言った。「柚葉がいなくなってからも、いつか戻ってきたら渡そうと思って、実は取ってあるものがある」
引き出しから出てきたのは、古いしおりだった。柚葉が子どもの頃、律のために作ってあげた、押し花の入った手作りのしおり。端が擦り切れているのに、大切に扱われてきたことが一目でわかった。
「捨てられなかった」律は言った。「他のことは全部諦めても、これだけは無理だった」
柚葉はしおりを受け取り、その古びた花の色を、しばらくじっと見つめていた。窓から差し込む朝の光の中で、律がずっと抱えてきた孤独な待ち時間の長さを、ようやく実感として理解できた気がした。誰にも言わず、ただ引き出しの奥にしまって待ち続けた五年間を思うと、愛おしさと申し訳なさが同時にこみ上げてきて、柚葉は言葉に詰まった。
「これからは、待たせないから」
柚葉が言うと、律は少し驚いた顔をしてから、静かに、けれど確かな声で答えた。
「なら、もう二度と、行き先も言わずにいなくならないで。それだけでいい」
「約束する」
「欲を言えば」律はカップの湯気の向こうで、少しだけいたずらっぽく笑った。「この部屋の合鍵も、渡したいくらいなんだけど」
「気が早いよ」
「五年待った男の気の早さだと思って、大目に見てほしい」
冗談めかした声の奥に、隠しきれない本気が滲んでいるのが、柚葉にはわかった。断る理由は、もうどこにも見当たらなかった。
東京の編集部には、それから間もなく正式に退職の意思を伝えた。長く世話になった上司は驚きながらも、最後に「いい顔になった」とだけ言って送り出してくれた。学生時代からの友人には電話で経緯を話した。
「五年越しって、ちょっと出来過ぎじゃない」
友人は呆れたように笑ったが、その声には祝福が滲んでいた。柚葉自身、こんな結末を想像したことは一度もなかった。逃げた先で後悔を抱えたまま歳を重ねる人生も、十分にあり得たはずだった。それが今、こうして違う道の上に立っていることが、まだ少し信じられなかった。
父に律との関係を伝えた夜、父はしばらく黙って酒を口に運んでいたが、やがてぽつりと言った。
「律くんになら、任せられる」
短い言葉だったが、それで十分だった。子どもの頃から律を見てきた父にとって、答えはとうに決まっていたのかもしれない。柚葉は俯いて、目の奥が熱くなるのをこらえた。
半年後、「ひなた書房」の棚には、律が選んだ本のための小さな一角ができていた。医学書ではなく、詩集と随筆と、律が昔から好きだった児童文学が並ぶ、店で一番よく人の目に留まる場所だった。
柚葉は結局、書店を継ぐことに決めた。編集の仕事は完全に手放したわけではなく、フリーランスとして地方から続けている。律は当直明けの朝、決まってこの店に寄って、コーヒーを二つ買っていく。ひとつは自分の分、もうひとつは、レジに立つ柚葉の分だった。
「今日も、隣にいてくれる?」
律が聞くと、柚葉は本の整理をする手を止めて、笑って答える。
「もう、聞かなくていいよ」
それでも律は、これからもきっと毎朝聞き続けるのだろうと、柚葉にはわかっていた。答えを確かめずにはいられないほど、この人は自分を求めている。その執着に似た愛情を、もう怖いとは思わなかった。しおりに挟まれたまま色褪せていった押し花のように、五年間ずっと律の中で色を保ち続けていたものが、ようやく、今の時間の中で息を吹き返している。
年が明けて、律は柚葉の部屋に置きっぱなしだった段ボール箱を、二人で開けた。東京から持ち帰ったまま眠っていた荷物の中には、古い写真や、学生時代のノートが詰まっていた。律はその一枚一枚を、まるで発掘するように大事に手に取った。
「全部、取っておいてくれたんだね」
「捨てられなかった。律のしおりと、同じ」
律は少し笑って、柚葉の手を握った。指輪の話は、まだ出ていない。けれど二人とも、それが遠い未来の話ではないことを、なんとなく理解していた。急がなくていい。もう、時間はいくらでもあるのだから。
暖簾の外で、朝の光が通りを白く照らしていた。柚葉はカップを受け取り、律の隣に立った。もう、どこにも行くつもりはなかった。
(了)
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