不眠の魔導具師 第二話 触れる指先
三日ごとに工房へ通ううち、ヴェラは少しずつ二年前の記憶を語りはじめる。触れ合う指先に募る熱を、レインは魔導具師の一線として押しとどめるが、ある夜、ヴェラは自分の望みをはっきりと言葉にする。
三日後、ヴェラは約束通り工房に現れた。その次も、また次も。
回を重ねるごとに、彼女は少しずつ言葉を増やしていった。初めは名前と職業だけだったものが、やがて隊商の道のこと、扱う商品のこと、雇い主の気難しさのことへと広がっていく。まだ核心には触れない、周縁の話ばかりだったが、レインはそれで構わないと思っていた。人は、触れられたくない場所の周りを、自分のやり方で少しずつ歩いてから、ようやく中心に近づくものだ。
工房での手順は、毎回同じだった。ヴェラが椅子に座り、手首を差し出す。レインが掌を重ね、その夜の不眠の形を確かめる。前より軽くなっているか、変わらないか、あるいは重くなっているか――それを確かめてから、道具に手を加える。
その儀式めいた繰り返しの中で、レインは自分の中に、小さな変化が芽生えているのに気づいていた。三日おきの夜が、待ち遠しいのだ。次にどんな話をするだろうか、彼女の不眠の形はどう変わっているだろうか――そんな考えが、材料を計る手の合間に、勝手に浮かんでくる。それが仕事への熱意なのか、それ以外の何かなのか、レインはあえて深く考えないようにしていた。
「今夜は、少し軽い」
四度目の夜、レインは手を離しながら言った。ヴェラは自分の手首を、不思議そうに見つめた。
「わかるものなのか、自分では」
「疲れているとき、ふと体が軽く感じる瞬間があるでしょう。あれに近いものです。あなたの不眠は、まだ根本からは動いていませんが、表面が少しずつ、柔らかくなっている」
「表面、か」ヴェラは自嘲するように言った。「根はまだ硬いままだと」
「硬いままです。でも、硬いものが少しずつ柔らかくなる過程を、僕は何度も見てきました。焦る必要はありません」
その言葉に、ヴェラは何か言いかけて、結局黙った。触れられた手首を、もう片方の手でそっと握る仕草だけが残った。
その間にも、ヴェラの仕事は続いていた。隊商の護衛という仕事柄、街を出て一晩戻らない日もある。そういう日の翌朝、レインは自分が無意識に、街道の方角を気にしていることに気づいて、苦笑した。客の安否を気にかけるのは当然のことだ、と自分に言い聞かせながらも、その言い訳が、以前ほどしっくりこなくなっているのも、感じていた。
戻ってきたヴェラは、以前より少しだけ、口数が多くなっていた。護衛の仕事で出会った変わり者の商人の話、街道で見た珍しい獣の話。他愛のない話題が増えるにつれ、彼女の纏う空気から、刃のような硬さが、わずかずつ抜けていくのがわかった。
五度目の夜、ヴェラは初めて、二年前の話を口にした。
「隊商を、襲われたことがある」
前置きもなく、彼女は言った。レインは道具を組む手を止め、黙って続きを待った。
「山越えの護衛だった。私が指揮を任されていた。魔獣の群れに囲まれて、私は判断を誤った。……いや、誤ったかどうかは、今でもわからない。ただ、私の下にいた二人が、その夜、帰らなかった」
ヴェラの声には、感情の起伏がなかった。何百回も自分に言い聞かせて、ようやく平坦にできた口調だった。
「二人とも、私が拾った若い連中だった。剣も満足に扱えなかったのを、一から鍛えた。生意気で、よく口答えをして、それでも――可愛かった」ヴェラは自分の掌を見つめた。「魔獣の数を見誤ったのは私だ。退けの判断を、あと一分早く出していれば、間に合ったかもしれない。それを、二年間、何度も何度も数え直している」
「それ以来、目を閉じると、あの夜に戻る。二人の顔が、私を呼んでいる声が、聞こえる。だから私は――」ヴェラは一度言葉を切り、灯りに視線を逃がした。「眠るのが、怖い。眠っている間は、誰も見張れない。また誰かを見過ごすんじゃないかと思うと、体が眠りを拒む」
レインは静かに頷いた。触れた手首の奥にあった、あの動かしがたい硬さの正体が、ようやく言葉になって差し出された気がした。彼女がこれまで誰にも打ち明けてこなかったであろう重みを、今、初めて誰かに手渡された――そんな気がした。
「話してくださって、ありがとうございます」
「同情はいらない」
「同情ではありません」レインは彼女の目をまっすぐ見た。「あなたの不眠に、ようやく正しい名前がついた。それだけです。名前のない痛みには、道具は合わせられない」
ヴェラは、レインの顔を長く見つめた。それから、初めて、力の抜けた笑みを見せた。
「変わった慰め方をする男だな」
「よく言われます」
六度目の夜、ヴェラは工房に着くなり、いつもの椅子ではなく、作業台の脇に置かれた丸椅子に腰を下ろした。レインが術式を刻む手元を、間近で覗き込むためだった。
「見ていて、いいのか」
「集中が乱れなければ」レインは苦笑した。「もっとも、あなたに見られていると、多少は緊張しますが」
「それは光栄だ」
からかうような口調に、レインの手が、ほんの一瞬止まった。ヴェラの視線が、作業に向けられているようで、実際には自分の横顔に注がれているのを、レインは感じ取っていた。
工房の中に、砥石を滑らせる音と、遠く酒場から流れてくる歌声だけが響いていた。ヴェラは長い時間、黙ってその音を聞いていたが、やがてぽつりと呟いた。
「こんなに静かな時間を、久しぶりに過ごしている気がする」
「隊商の仕事は、常に気が張るものですか」
「常にだ。眠っていないときの私は、いつも何かを警戒している。だが、ここにいる間だけは――」ヴェラは言葉を切り、少し照れたように視線を逸らした。「なんでもない。忘れてくれ」
レインは何も聞き返さなかった。ただ、彼女がその言葉を最後まで言わなかったことに、これまでにない温度を感じていた。
その夜、道具に手を加えるレインの指先が、ヴェラの手首に、いつもより少し長く触れていた。ヴェラもまた、手を引かなかった。
工房の灯りが、二人の間の空気を、橙色に染めている。レインは自分の指先が、彼女の脈の速さに合わせて、わずかに緊張しているのを感じた。仕事のための接触のはずだった。だが今、その一線が、以前よりずっと薄く感じられる。
ヴェラの手首から伝わってくるものも、以前とは違っていた。不眠の硬さの奥に、もう一つ別の脈動が混じっている。それは怯えでも、警戒でもない。誰かに触れられることそのものへの、静かな期待だった。レインはそれに気づいた瞬間、自分の指先が意志とは無関係に、彼女の肌の上に留まろうとしているのを感じて、慌てて意識を引き締めた。
「レイン」
名を呼ばれて、レインは我に返ったように手を離した。
「失礼しました。少し長く触れすぎました」
「別に、嫌だとは言っていない」
ヴェラの声には、からかうような響きがあった。レインは椅子を引き、意識して距離を取った。
「僕の仕事は、あなたの不眠を軽くすることです。それ以上のことをするために、あなたの信頼につけ込むわけにはいきません」
「つけ込む、か」ヴェラは腕を組んだ。「私が望んでも、か」
その一言に、レインは息を止めた。ヴェラの目は、真剣だった。からかいの色は、もう消えている。
「……あなたは今、僕を客として頼っています。その関係の中で、僕があなたに近づくことは、正しくない。あなたの弱っている部分に触れる仕事をしている以上、僕はその立場を、絶対に利用したくない」
「私が弱っているから、駄目だと」
「弱っているときに近づかれて、それを望みだと勘違いすることが、一番あなたを傷つけると思うからです」
「勘違いかどうかは、私が決める」ヴェラの声には、初めて強い響きがあった。「お前は私を、壊れ物みたいに扱いすぎる。二年も一人で戦ってきた女だ。自分の望みくらい、自分で判断できる」
「わかっています」レインは言葉を探すように、一度目を伏せた。「あなたが弱いと言いたいわけではありません。ただ、僕はまだ、あなたの客であることをやめていません。その立場のまま近づけば、僕自身が、自分の一線をどこまで信じていいのか、わからなくなる。それが怖いんです」
その正直な告白に、ヴェラは意表を突かれたように瞬きをした。
長い沈黙が落ちた。ヴェラはやがて、小さく息を吐いた。
「……律儀すぎる」
「よく言われます」レインはもう一度言った。今度は少し、苦く。
七度目の夜、ヴェラは珍しく、遅い時間に現れた。街道での小競り合いがあったとかで、外套の袖に泥が跳ねている。疲れた顔で椅子に沈み込む彼女に、レインは温めた茶を差し出した。
「今夜は無理に、手を確かめなくても構いません。まずは休んでください」
「いや」ヴェラは茶を一口含んで、息をついた。「今夜くらい、確かめてもらいたい。ひどい夜だったからな」
差し出された手首は、いつもより冷たかった。レインが両手でそっと包み込むようにして温めると、ヴェラの喉から、小さな吐息が漏れた。
「お前の手は、本当に落ち着く」ヴェラは目を閉じたまま呟いた。「不思議なくらいに」
その言葉に、レインの胸の奥が、小さく波立った。ヴェラの手が、包み込んだ自分の手の上に、そっと重なってくる。指先が触れ合う距離ではなく、もっと確かな重みで。
「ヴェラ」
「わかっている」ヴェラは目を開け、静かにその手を引いた。「今夜じゃない、と言いたいんだろう」
「……はい」
「察しがいいのも、考えものだな」ヴェラは苦笑した。「無理に迫るつもりはない。ただ、お前がどれだけ律儀に一線を守っていても、私の中の何かは、もう動き出している。それだけは、知っておいてほしい」
その夜以降も、ヴェラは通い続けた。眠りは、少しずつ深くなっていった。完全に、というわけではない。それでも、隈は薄くなり、声には張りが戻り、剣を握る手つきにも余裕が見え始めていた。
道具は、最初の応急の灯玉から、彼女専用のものへと形を変えていった。眠っている間、見張りの意識だけをごく浅く保ちながら、体は深く休められる――そういう複雑な調整を施した香炉。何日もかけて、レインは彼女の不眠の形に合わせて、それを削り、足し、また削った。夜更けに一人、術式の刻み直しに没頭しているとき、レインはふと、自分がこれほど時間をかけて一つの道具に向き合ったことが、これまでにあっただろうかと思った。技術の追求だけでは、説明のつかない熱の入れようだった。
「今夜で、ようやく形になりました」
八度目の夜、レインは完成した香炉を、彼女の前に置いた。
「これを枕元で焚いてください。完全に消える保証はできませんが、少なくとも今よりは、深く眠れるはずです」
ヴェラは香炉を手に取り、しばらく無言でそれを見つめた。手のひらの上で、香炉に刻まれた術式が、ごくかすかに光を帯びている。長い時間をかけて、自分だけのために編まれた模様だった。
「レイン。一つ、聞いていいか」
「なんでしょう」
「お前は、私が客だから、私に触れないと言った」ヴェラの声は、これまでで一番落ち着いていた。「なら――もし私が、客ではなくなったら」
工房の灯りが、ちりちりと音を立てて揺れた。レインは、すぐには言葉を返せなかった。
「私は今夜で、道具を受け取り終える」ヴェラは続けた。「支払いも、今夜で全部済ませる。だから次に来るときは、私はお前の客じゃない。それでも、お前は私に触れないと言うか」
その目には、迷いがなかった。二年分の重さを抱えたまま、なお前を向こうとする、まっすぐな光があった。
レインは、長く息を吐いた。守り続けてきた一線が、初めて、自分の意志ではなく、目の前の相手の意志によって、揺らごうとしていた。
「……今すぐには、答えられません」
「今すぐでなくていい」ヴェラは立ち上がり、香炉を大事そうに抱えた。「考えておけ。次に来るとき、私は客としてじゃなく、お前に会いに来る」
戸口で振り返った彼女の顔には、これまで見たことのない、柔らかな笑みが浮かんでいた。
木戸が閉まる。灯りだけが残った工房で、レインは自分の右手を見つめた。何度も彼女の手首に重ねてきた、この手を。
自分に課してきた掟は、間違っていなかったはずだ。求められない限り、手は差し出さない。その一線があったからこそ、彼女は安心してここに通い続けられた。だが今、その一線の向こう側から、彼女自身が扉を叩こうとしている。それを拒む理由を、レインはもう、うまく見つけられなくなっていた。
窓の外、月はまだ高い位置にあった。次に彼女が木戸を叩く夜、自分がどんな顔でそれを開けるのか、レインにはまだ、わからなかった。
(第三話に続く)
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