不眠の魔導具師 第一話 眠れない夜の客
辺境の街で夜だけ灯る工房。魔導具師レインは、触れた者の「眠れなさの形」を読み取り、安らかな眠りのための道具を作る。ある夜、二年眠れていないという護衛長ヴェラが訪れ、手っ取り早い魔除けを求めるが、レインは安易な処方を拒む。
その工房に灯が点るのは、いつも日が沈んでからだった。
看板はない。木戸の隙間から漏れる橙色の光だけが、訪れるべき人に居場所を教える。辺境の街カルダの裏通り、鍛冶屋と薬種屋に挟まれた小さな店。そこがレインの工房だった。
店内は狭い。壁一面の棚には、大小さまざまな灯玉が並び、乾いた月光草の束が天井から下がっている。奥の作業台には、砕いた眠り石の粉が小皿に分けられ、その隣に、まだ術式を刻みかけの砂時計が転がっていた。埃っぽさはない。むしろ、静かに整えられた清潔さが、この店の主の気質をそのまま表しているようだった。
魔導具師レイン、二十七歳。彼が鍛えるのは剣でも鎧でもない。眠れない人間のための道具――灯玉、砂時計、香炉。形はさまざまでも、すべては一つの願いのために作られていた。安らかに眠ること。それだけを、彼は何年もかけて突き詰めてきた。
レインには、他の魔導具師にはない資質があった。触れた者の「不眠の形」が、指先を通して伝わってくるのだ。乱れた鼓動の速さ、浅い呼吸の癖、握りしめた掌に残る熱。言葉より雄弁に、その人の眠れない夜を語るものたち。だからこそ彼は、素手で客の手首に触れることを、仕事の核として大切にしていた。
同時にそれは、危うい仕事でもあった。他人の最も無防備な部分に、道具越しではなく直接触れる仕事だ。触れられる側は、たいてい弱っている。眠れない夜が続けば続くほど、人は自分を守る力を失っていく。そういう相手に手を伸ばすことが、どれほど容易く一線を越えられてしまうか、レインはよく知っていた。だからこそ彼は、自分に一つの掟を課している。求められない限り、手は差し出さない。触れることに、意味を持たせすぎない。工房の主と客、その一線は、何があっても越えない。それを破った瞬間、この仕事は、ただの見世物に堕ちる。そう思っていた。
カルダの夜は、それなりに賑やかだ。酒場からは歌声が漏れ、隊商の護衛たちが交代で見張りに立ち、遅くまで開いている店の灯りが、石畳をまだらに照らす。だがその喧騒が引いたあとの、もっと深い時間になると、この街を訪れるのは、たいてい眠れない者たちだった。長旅の疲れが抜けない行商人。悪夢に悩む冒険者。誰にも言えない悩みを抱えた街の住人。彼らは口を揃えて、同じことを言う。「眠りたいだけなんだ」と。
レイン自身、規則正しく眠る人間ではなかった。夜に働く者の常として、彼の体内時計はとうに狂っている。それでも彼は、それを不幸だとは思っていなかった。眠れない者たちの時間に、こちらから合わせられることが、この仕事には都合がよかったからだ。誰にも邪魔されない静けさの中でしか、聞こえてこない声というものがある。
その夜、木戸を叩く音は、ひどく硬かった。
「まだやっているか」
戸口に立っていたのは、革の外套を纏った女だった。背が高く、肩から提げた大剣の鞘が、灯りに鈍く光っている。頬にはうっすらと古い傷跡。目の下には、化粧では隠しきれない濃い隈があった。旅塵と、遠くまで歩いてきた者特有の、乾いた匂いがした。
「営業中です。どうぞ」
レインが椅子を勧めると、女は迷うように立ち尽くしてから、腰を下ろした。動きの端々に、疲労が澱のように溜まっているのが見える。腰の得物を外そうとして、結局そのまま膝の上に置いた仕草に、レインは彼女の警戒心の高さを見て取った。
「隊商の護衛長をしている。ヴェラだ」
「レインです。魔導具師をしています」
「知っている。この街で、眠りの道具を作る男がいると聞いた」名乗ってから、ヴェラは苦く笑った。「単刀直入に言う。眠れる魔除けが欲しい。金は払う。街で一番いいものをくれ」
よくある注文だった。安眠の護符を一つ持たせて、それで終わる客も少なくない。行商人、旅の商隊、街を渡り歩く冒険者――一晩の安眠だけを求めて、ここに立ち寄る客は多い。レインは棚から、いくつかの護符を取り出しかけて――手を止めた。
理由は、彼女の目だった。護符を求める者の目には、たいてい単純な疲労の色がある。だがヴェラの目の奥には、それとは違う、もっと硬く、乾いた光があった。
「失礼を承知で伺いますが」レインは護符を棚に戻した。「最後にまとまって眠ったのは、いつですか」
ヴェラの目が、わずかに強張った。
「関係ないだろう。金を出すと言っている」
「関係はあります」レインは静かに続けた。「護符は、眠りを『助ける』道具です。眠れない理由そのものを消す道具ではない。理由が浅い疲れなら、護符一つで十分眠れます。ですが――」
「勝手に決めつけるな」
「決めつけてはいません。ただ、あなたの目を見れば、護符で片づく話ではないとわかります。護符を売ることは、僕にもできます。売れば今夜、あなたは満足して帰るでしょう。でも三日後、また同じ顔でここに来ることになる」
沈黙が落ちた。工房の隅で、古い砂時計が細く砂を落とす音だけが響いている。ヴェラは大剣の柄を、意味もなく指でなぞった。壁際の棚に並んだ灯玉が、彼女の視線をわずかに引いたが、それもすぐに逸れた。
「……二年だ」
やがて、押し出すように彼女は言った。
「二年、まともに眠っていない。目を閉じれば、同じ場所に戻る。それだけだ。詳しく話す気はない」
「話していただかなくて構いません」レインは頷いた。「ですが、護符をお売りするわけにはいきません。二年分の不眠に、一枚の護符は効きません。効いたように感じても、三日で元に戻る。あなたはまた、同じ隈を作ってここに来る。僕は、それを見送りたくないだけです」
「じゃあどうしろと言うんだ」ヴェラの声に苛立ちが滲んだ。「見世物みたいに、傷をさらせと?」
ヴェラは椅子から腰を浮かしかけた。金を払うと言っているのに断られる、その理不尽さに苛立っているのが、はっきりと伝わってきた。他の店なら、こういう客は逃さない。金を積まれれば、望むものをそのまま売るのが商売というものだ。
だがレインは、彼女を引き留めようとはしなかった。ただ、静かに続けた。
「帰っていただいても構いません。ただ、それでは僕の仕事にならない、というだけです」
その言葉に、ヴェラは動きを止めた。追いすがってこないことに、かえって虚を突かれたような顔だった。彼女はゆっくりと、また椅子に腰を戻した。
「……面白い男だな。客を逃がして平気なのか」
「平気ではありません。ですが、あなたを騙して売る方が、僕には耐えられません」
「いいえ」レインは、机の上に自分の右手を、掌を上にして差し出した。「触れさせていただけますか。あなたの不眠の――形だけを、確かめたいんです。言葉にできないことも、体は覚えています」
ヴェラは動かなかった。長い沈黙の間、彼女の視線がレインの顔と手の間を、何度も往復した。信じていいものかを測るような、値踏みの目だった。
「妙な力か」
「魔導具師の資質です。あなたの記憶を読むわけではありません。ただ、体に残っている『眠れなさの重さと形』が、指先を通して伝わってくる。それだけです。無理強いはしません」
「……いやなら断っていい、ということか」
「もちろんです。無理に触れることは、絶対にしません。それは、僕の仕事の一線です」
その一言に、ヴェラの肩から、わずかに力が抜けたのがわかった。彼女は長く息を吐き、手袋を外した。剣を握り続けてきた掌には、硬い胼胝が並んでいる。
「一度だけだ」
そう言って、彼女は自分の手首を、レインの掌に乗せた。
触れた瞬間、レインの中に流れ込んできたのは、想像していたよりずっと重く、鈍いものだった。
浅く速い脈。皮膚の下で、常に張り詰めている何か。眠りに落ちかけては、何かに引き戻される、その繰り返しの跡。深い場所に沈んだまま、二年間、一度も浮上していない疲労の塊。
そして、その奥にある、動かしがたい硬さ。悲しみというより、責務に似た何か。誰かを守れなかった記憶が、眠りそのものを罰のように拒んでいる――そんな感触だった。まるで、目を閉じることそのものが、彼女にとって裏切りであるかのように。
レインは、それ以上深く読もうとはしなかった。読める、ということと、読んでいい、ということは別だ。手首から伝わる分だけを受け取って、そっと手を引いた。指先に、彼女の熱がしばらく残った。
短い沈黙の間、ヴェラは自分の手首を、確かめるように見つめていた。誰かに触れられることに、体がまだ慣れていないような、ぎこちない仕草だった。
「……どうだ」ヴェラが、探るように聞いた。
「あなたの不眠は、疲れではありません」レインは言葉を選びながら言った。「体が、眠ることを拒んでいる。眠れば何かを忘れてしまう、あるいは眠っている間に何かを見張れなくなる――そういう硬さです。護符で溶かせる硬さではありません」
ヴェラは目を伏せた。図星を突かれた者の顔だった。
「一晩でどうにかなる話じゃない、ということか」
「はい。一度で終わらせるなら、今夜だけ楽になる護符を売ることもできます。ですが、それはあなたのためにならない。数日おきに、何度か通っていただけますか。一度に少しずつ、あなたの不眠の形を確かめながら、あなたに合う道具を作ります。急いで作ったものは、急いで壊れます」
「時間も金もかかる、ということだな」
「かかります。それでも」レインはまっすぐ彼女を見た。「二年分の眠れなさを、たった一晩で消す方法はありません。それを売る者がいたら、詐欺師です」
その正直さに、ヴェラは初めて、小さく喉の奥で笑った。
「変わった商売人だな。金になる仕事を、わざわざ遠ざける」
「眠れない客を、また眠れないまま送り出す方が、僕には性に合いません」
「その道具とやらは、どうやって作る」ヴェラは棚に並んだ灯玉に目をやった。「魔石を光らせるだけの代物には見えないが」
「土台は月光草の粉と、砕いた眠り石です。それだけなら、どの魔導具師にも作れます。違うのは、そこに何を編み込むかです」レインは棚から一つ、まだ調整途中の灯玉を手に取った。「僕は、触れて読み取った不眠の形を、術式に映します。硬く強張った眠りには、ゆっくりほどけていく術式を。浅く途切れがちな眠りには、途切れを橋渡しする術式を。だから、同じ材料でも、一つとして同じ道具にはなりません」
「私のためだけの道具、ということか」
「あなたのためだけの道具です。ただし、それを作るには、あなたのことを知らなければなりません」
しばらく、ヴェラは無言でレインを見ていた。値踏みするような、それでいてどこか安堵したような目だった。旅の間、誰にも弱さを見せてこなかった人間が、初めて少しだけ、鎧を緩めたような顔だった。
「一つ聞くが」ヴェラは腕を組んだ。「お前は、こうやって客の手に触れるたび、その相手のことを知っていくわけだろう。それを、都合よく使おうとは思わないのか」
「思いません」レインは即座に答えた。「思った瞬間、僕はこの仕事を続けられなくなります。手に伝わってくるものは、あなたが差し出してくれたものだけです。それ以上を望むつもりはありません」
「ずいぶん、きっぱり言うな」
「何度も、自分に言い聞かせてきたことなので」
ヴェラは、その返答をしばらく吟味するように黙っていたが、やがて小さく頷いた。疑いが完全に消えたわけではない。それでも、この場に留まってもいいと判断したような、そんな頷き方だった。
「……次はいつ来ればいい」
「三日後の夜、また同じ時間に。今夜のところは、これを」
レインは棚から、小さな灯玉を一つ取り出した。ごく単純な、眠りを深くする効果だけを持つ、応急のための品だ。
「あなたの不眠には効きません。ただ、今夜だけ、少し眠りを軽くする程度のものです。次までの、繋ぎだと思ってください」
ヴェラは灯玉を受け取り、掌の中でしばらく転がした。灯りが彼女の指の間から、淡く漏れる。
「金はいくらだ」
「今夜の分は結構です。まだ何も、あなたに合う仕事をしていませんから」
「律儀だな」
「商売としては、下手だとよく言われます」
ヴェラは立ち上がり、外套を纏い直した。戸口で一度、振り返る。
「三日後だな」
「お待ちしています」
木戸が閉まり、足音が夜の路地に遠ざかっていく。レインは灯りを一つ落とし、机の上に残った彼女の指の温もりを、しばらくの間、そのままにしておいた。
触れた手首の下に眠っていた硬さのことを、彼はまだ、考え続けていた。二年という歳月の重さを、掌はまだ覚えている。それを軽くする道具を、自分に作れるだろうか――そんな問いが、静かな工房の中で、いつまでも消えなかった。
レインは作業台に向き直り、月光草の粉を秤にかけた。いつもなら、材料を計りながら考えるのは配合の比率だけだ。だが今夜は、違う何かが混ざっていた。硬く強張ったまま、二年間ほどけずにいる誰かの眠り。それをどんな術式で受け止めればいいのか、答えはまだ見えない。それでも、答えを探すこと自体が、久しぶりに胸を熱くさせるのを、レインは自分でも意外に思っていた。
窓の外では、月が高く昇っていた。三日後の夜まで、レインにはやるべきことがたくさんあった。
(第二話に続く)
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