亡き夫の親友に、四十九日の夜「まだ泣いていないだろう」と言われた
夫を亡くして四十九日、三十五歳の紗和は、葬儀のすべてを取り仕切ってくれた夫の親友、四十一歳の遠野に「まだ泣いていないだろう」と指摘される。悲しみを声に出せずにいた夜、独りで生きていく覚悟だけを固めていた紗和は、その一言でようやく崩れ、二人は喪失の先にある生を、そっと確かめ合うことになる。
夫の航介が交通事故で急死してから、四十九日が経った。三十五歳のわたしは、その間ずっと泣かなかった。葬儀の段取りも、役所への届け出も、香典返しの手配も、涙を流す暇などないほどの手続きに追われ続けた結果だと、自分では思っていた。
事故の一報を受けたときのことを、わたしはほとんど覚えていない。警察からの電話を受けた瞬間から、記憶は断片的にしか残っていない。気がつけば葬儀場にいて、気がつけば火葬場にいて、気がつけば四十九日の法要の日を迎えていた。その間、わたしの身体だけが淡々と動き続け、心のほうはずっと、どこか遠いところに置き去りにされていたような気がする。
その手続きのすべてを、実際には陰で支えてくれていたのが、航介の大学時代からの親友、遠野悠一だった。四十一歳、独身。葬儀社との交渉から、遠方の親族への連絡まで、彼は喪主のわたしより先に動き、決して恩着せがましくは言わなかった。四十九日の法要を終えた夜、遠野は「今日で一区切りですね」とだけ言った。けれどその直後、彼はわたしの顔をまっすぐに見て、こう続けた。
「紗和さん、あなたはまだ、一度も泣いていないでしょう」
その一言が、四十九日間、わたしがずっと固く閉じていた場所に、初めて触れた。
四十九日のあいだ、わたしは会社を休職し、航介と暮らしたマンションに一人で残った。クローゼットの航介の服も、洗面所の彼の歯ブラシも、片づける気力が湧かず、そのままにしていた。夜、ベッドの片側だけが冷たいことに気づくたび、涙は出ないのに、胸の奥がひどく痛んだ。友人たちは代わる代わる連絡をくれたが、電話に出る気力もなく、わたしはほとんどの誘いを断り続けた。悲しみに向き合う方法が分からないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
そんな日々のなかで、変わらず顔を見せてくれたのが遠野だった。用件があってもなくても、彼は数日おきに様子を見に来てくれた。何かを話すわけでもなく、ただ一緒にお茶を飲んで帰っていく日もあった。その静かな存在が、当時のわたしにとって、唯一まともに息ができる時間だったのだと、今になって思う。
一度だけ、深夜に眠れず、リビングでぼんやりテレビをつけていたとき、遠野からメッセージが届いたことがあった。「起きてますか」とだけ書かれた一言に、わたしは反射的に「起きてます」と返した。数分後、彼はコンビニで買ったらしい温かい缶のスープを二本持って、部屋の前に立っていた。「眠れない夜は、一人だと長く感じるので」とだけ言って、彼はしばらく玄関先で立ち話をし、それだけで帰っていった。あの夜のスープの温かさを、わたしは今でもはっきりと覚えている。
法要は近くの寺で、親族十数人だけを呼んでこぢんまりと行った。読経のあいだ、わたしは終始無表情だったと思う。周りの親族が涙ぐむのを見ながら、自分の目だけが乾いていることに、どこか場違いな戸惑いを感じていた。
「紗和さんは強いわね」
法要のあと、義母がそう言った。慰めのつもりだったのだろうが、その言葉はわたしの胸に、小さな棘のように刺さった。強いのではない。ただ、悲しみをどこに置けばいいのか、分からないだけだった。
義母の隣で、義父も無言で頷いていた。二人とも、息子を失った悲しみを、涙という分かりやすい形で表していた。それに比べて、自分だけが何かを間違えているような気がしてならなかった。妻なのに、いちばん悲しんでいるはずなのに、涙一つ出てこない自分に、わたしは密かに嫌悪すら覚えていた。
親族が三々五々帰っていくのを見送ったあと、片づけを手伝ってくれていたのが遠野だった。彼は航介と大学のサークルからの付き合いで、結婚式では友人代表のスピーチを引き受けてくれた人でもある。あの日のスピーチで彼が語った、航介との学生時代のエピソードを、わたしは今でも覚えている。
葬儀のときも、事故直後の混乱のなかで、警察とのやり取りから通夜の手配まで、遠野が黙って先回りして動いてくれた。「航介の代わりに」と彼は繰り返し言っていたけれど、代わりというにはあまりに献身的すぎる働きぶりだった。深夜に役所の書類が必要だと気づいたときも、遠野は一時間もしないうちに必要な様式を調べて印刷して持ってきてくれた。わたしが食事を摂るのを忘れていることに気づき、無言でおにぎりを買ってきてくれたこともあった。わたし自身、そのことに薄々気づきながら、深く考えないようにしてきた。今は、そんなことを考える余裕がなかったから。
寺の片づけが終わり、二人でお斎の会場から歩いて駅へ向かう道すがら、遠野が唐突にその言葉を口にした。
「紗和さん、あなたはまだ、一度も泣いていないでしょう」
わたしは足を止めた。「そんなことないです。ちゃんと悲しんでます」
「悲しんでるのは分かります。でも、泣いてはいない」遠野は静かに、けれど揺るぎない声で続けた。「葬儀の間もずっと見てました。あなたは気を張って、事務的なことを全部一人でこなそうとしてた。それは、悲しみと向き合うことから、逃げてるのと同じだと思います」
図星だった。わたしは何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。周りの誰も、そこまで踏み込んでは言わなかった。義母も、友人たちも、「無理しないでね」と気遣いはしても、わたしが本当は何から目を逸らしているのか、誰も言い当てようとはしなかった。それを、よりによって夫の親友の口から、こんなにもまっすぐに指摘されるとは思っていなかった。
「差し出がましいことを言ってる自覚はあります」遠野は続けた。「でも、航介の代わりに言わせてください。あいつなら、紗和さんにこんな顔をさせたままにしておくのを、絶対に許さなかった」
その名前を出されて、わたしの喉の奥が、初めて熱くなった。けれどそれでも、涙は出なかった。四十九日間、わたしは自分の悲しみに、蓋をする方法しか知らなかった。
「悲しむって、どうやるんでしたっけ」わたしは自嘲気味に呟いた。「もう、忘れてしまいました」
遠野は答えなかった。ただ、隣を歩く歩調を、わたしに合わせてゆっくりにしただけだった。その沈黙が、下手な慰めの言葉より、ずっと救いになった。
「少し、話しませんか」
遠野の提案で、わたしたちは駅前の小さな喫茶店に入った。四十九日の疲れがどっと出たのか、椅子に座った瞬間、身体が鉛のように重く感じられた。
「無理に喋らなくていいです。ただ、一人で帰したくなかっただけなので」
遠野はそう言って、温かいお茶を頼んでくれた。しばらく、二人とも黙っていた。窓の外を、夕暮れの人波が通り過ぎていく。
「わたし、変なんです」ようやく、わたしは口を開いた。「航介がいなくなったこと、頭では分かってるんです。でも、実感がまだ湧かなくて。だから泣けないのかもしれません」
「実感が湧かないのに、葬儀の手配も、役所の手続きも、全部完璧にこなしてましたよね」
「それは……やらなきゃいけないことだったので」
「僕も同じでした」遠野は少し間を置いて言った。「航介が死んだって聞いた日、僕も涙が出ませんでした。代わりに、頭の中で段取りばかり考えてました。斎場はどこがいい、紗和さんの負担をどう減らせるか、会社への連絡は誰がするべきか。今思えば、それも一種の逃避だったんだと思います」
その告白に、わたしは少し驚いて顔を上げた。てっきり、遠野は誰よりも冷静に振る舞えているのだと思っていた。
「やらなきゃいけないことに逃げ込んでたんだと、僕は思います」遠野の声は穏やかだったが、逃げ場を与えなかった。「紗和さんが悲しむ時間を、誰も奪っちゃいけない。航介の親族も、会社の人たちも、みんな早く『日常』に戻ってほしがってる。でも、紗和さんまでそれに合わせる必要はないです」
わたしは俯いた。テーブルの木目を見つめながら、ずっと胸の奥に押し込めてきたものが、少しずつ形を持ち始めるのを感じた。
「怖いんです」やっと、本音が漏れた。「泣いたら、本当に終わったことになる気がして。まだどこかで、航介が帰ってくる気がしてるんです」
言葉にして初めて、その恐怖の正体がはっきりと見えた気がした。悲しみに蓋をしていたのは、悲しくなかったからではない。悲しみを認めた瞬間、航介がこの世からいなくなったという事実を、完全に受け入れなければならなくなる。それが怖くて、わたしはずっと、涙という扉の前に立ち尽くしていたのだ。
「帰ってこないって、頭では分かってます」わたしは続けた。「でも、認めたら最後、わたし一人だけが取り残される気がして。だから、忙しくしていたかったんだと思います。認めなくて済むように」
その言葉に、遠野は長い沈黙のあと、静かに言った。
「僕もです」
驚いて顔を上げると、遠野は窓の外に視線を向けたまま続けた。
「今でも、駅で航介に似た後ろ姿を見かけると、一瞬、声をかけそうになります。あいつがもういないってこと、頭では分かってるのに、身体のほうが追いついてない。紗和さんだけじゃないです、僕も同じくらい、実感が持てずにいます」
その告白に、わたしは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。悲しみ方が分からないのは、自分だけではなかったのだと、初めて誰かと分かち合えた気がした。
「でも、僕は少しだけ、紗和さんより早く泣きました」遠野は苦笑した。「火葬場で、骨を拾ってるときに、急に涙が止まらなくなって。恥ずかしくて、誰にも言えませんでしたけど」
「そんなこと、恥ずかしくないです」
「紗和さんも、いつか同じように、恥ずかしがらずに泣ける瞬間が来ます。僕はそう信じてます」
「航介と出会ったのは、大学の一年のときでした」
遠野は、これまで一度も話したことのなかった話を、ぽつぽつと語り始めた。授業をさぼって二人でよく行った定食屋のこと、就職活動で一緒に不安がった夜のこと、紗和さんとの結婚が決まったとき、航介が電話口で子供みたいにはしゃいでいたこと。
「結婚式の前夜、航介と二人で飲んだんです」遠野は懐かしそうに目を細めた。「あいつ、酔っ払って『俺、本当にこれでいいのかな』って泣き言を言い出して。緊張してるだけだろって笑い飛ばしたら、次の瞬間には『紗和にはもったいないくらいだ』って、真顔で言ってました。あの顔は、今でもはっきり覚えてます」
わたしはその話を、初めて聞いた。航介はそんな夜のことを、一度もわたしに話さなかった。亡くなってから、こうして少しずつ、知らなかった夫の姿を教えてもらうことになるとは、思ってもみなかった。
「あいつが幸せそうに紗和さんの話をするたび、正直、羨ましかったんです」遠野はそこで初めて、視線をわたしから外した。「僕にはずっと、そういう相手がいなかったので」
その告白の意味を、わたしはすぐには測りかねた。ただ、遠野の声にこれまで聞いたことのない揺れがあることだけは、はっきりと分かった。
「今、こんな話をするのは、不謹慎だと分かってます」遠野は続けた。「でも、四十九日が過ぎた今日を逃したら、僕はきっと一生言えない気がして。紗和さんのことを、友人の妻としてじゃなく、一人の人として、ずっと見てました。航介が生きているあいだは、その気持ちに蓋をしてきました。でも、もう蓋をする理由がなくなってしまった」
「いつから、そう思ってたんですか」
「正直に言うと、結婚式のスピーチを頼まれたときから、ずっとです」遠野は自嘲するように笑った。「友人代表として、心から祝福したい気持ちと、羨ましいと思う気持ちが、同時にありました。あんな最低な感情を抱えたまま、あの日はマイクの前に立ってました」
「知らなかったです、全然」
「知られないように、必死でしたから」遠野はテーブルの上で、両手を固く組んだ。「航介が生きているあいだ、この気持ちは絶対に誰にも知られてはいけないものでした。それが今、こうして口にできること自体、僕はまだ、どこかで信じられずにいます」
わたしは何も言えなかった。夫を亡くしたばかりの女に向かって、それを口にする遠野の勇気と、その言葉が持つ重さの両方に、圧倒されていた。
同時に、不思議と嫌悪感はなかった。もし別の誰かが、同じ状況で同じことを言ってきたなら、わたしはきっと怒りを覚えただろう。けれど遠野の言葉には、航介への裏切りを促すような響きが、一切なかった。むしろ、航介を失った悲しみごと、そのまま抱きとめようとしてくれているように感じられた。
「返事は今じゃなくていいです」遠野は慌てて付け加えた。「ただ、紗和さんが一人で全部抱え込まなくていいということだけ、分かってほしかった」
喫茶店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。「送ります」と言う遠野の申し出を、わたしは断らなかった。並んで歩く道すがら、これまで意識したことのなかった遠野の横顔を、わたしは初めてまじまじと見た。四十一歳という年齢を感じさせる、目尻の細かな皺。それでいて、まっすぐにこちらを見る目には、少年のような真剣さが残っていた。マンションの前まで来たとき、玄関の灯りの下で、わたしは初めて足を止めた。
「上がっていきますか」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。遠野は一瞬、迷うような表情を見せたが、やがて静かに頷いた。
部屋に入ると、航介の遺影が置かれた小さな祭壇が、居間の隅にあった。線香の匂いがまだ微かに残っている。遠野はその前で立ち止まり、深く頭を下げた。写真の中の航介は、いつもと変わらない、少し照れたような笑顔でこちらを見ていた。この四十九日間、その笑顔を見るたびに胸が締めつけられていたはずなのに、今夜は不思議と、責められているようには感じなかった。長い沈黙のあと、遠野は振り返って言った。
「紗和さん。今夜、あなたに触れたいと思ってます。でも、それは航介への裏切りじゃないと、僕は思ってます。航介はもういない。あなたも僕も、これから先も生きていく人間です。……それでも、もし少しでも嫌だと思ったら、今、はっきり言ってください。それ以上は、絶対にしません」
その言葉に、わたしはようやく、四十九日間ずっと避けてきた問いに向き合った。航介を裏切ることへの恐れではなく、これから一人で生きていくことへの恐れが、自分の中にずっとあったのだと気づいた。誰かに必要とされること、誰かの体温を隣に感じること――そうした当たり前のことを、自分はもう二度と望んではいけないのだと、いつのまにか思い込んでいた。けれど遠野の言葉は、その思い込みを、静かに、しかし確かに崩していった。
「嫌じゃないです」わたしは言った。「怖いのは、悠一さんとのことじゃなくて、これから一人でどう生きていけばいいか、分からないことです」
「一人にはしません」遠野はわたしの手を取った。「今夜だけの約束はできません。でも、少なくとも今この瞬間、あなたを一人にはしません」
寝室に入ると、遠野はまず、わたしの頬にそっと触れた。指先は骨ばって大きく、けれどその動きは驚くほど慎重だった。
「本当に、いいんですか」
もう一度確かめる声に、わたしは頷く代わりに、彼のシャツの袖口をそっと握った。答えは、それで十分だったはずだ。遠野は長く息を吐き、それから、わたしのカーディガンのボタンに指をかけた。一つ、また一つと外されていくたび、彼の手が微かに震えているのが分かった。四十一歳の、いつも冷静で頼りになるはずのその手が、今夜はひどく不器用だった。
「悠一さんも、緊張してるんですね」
「してます。……こんなに緊張するの、久しぶりです」
素肌が夜気に触れた瞬間、わたしは思わず腕で身体を隠そうとした。けれど遠野の視線には、値踏みするような色はどこにもなく、ただ長い間押し隠してきた想いだけがあった。
「隠さないで」遠野は低く囁いた。「紗和さんのこと、ちゃんと見たいです」
彼の唇が首筋を辿り、鎖骨のくぼみへ、そのまま下りていく。触れられるたびにわたしの背が小さく震え、喉の奥から堪えきれない声が漏れた。四十九日ぶりに、自分の身体がまだ生きているという実感を、わたしは初めて取り戻していくような気がした。遠野はそのたび顔を上げてわたしの表情を確かめ、また慎重に先へ進んだ。
胸のふくらみに触れられたとき、わたしは自分でも驚くほど大きな声を上げてしまい、慌てて手の甲を口元に当てた。指先が先端をかすめるたび、腰の奥に甘い痺れが走った。遠野の手のひらは、いつも書類を扱っている人らしく骨ばっていて、けれど触れ方には不思議なやわらかさがあった。もう片方の手が背中をなぞり、そのたびわたしの肌は小さく波打った。
「我慢しないでください」遠野の声が、耳元で掠れた。「今夜くらい、声を殺さないでほしいです」
膝の内側を撫でられたとき、わたしはこらえきれずに彼の名を呼んでしまった。遠野の指がさらに奥へと進み、そこがすでに潤んでいることに触れると、羞恥で消えてしまいたくなった。だが遠野は責めるどころか、安堵したように息を漏らした。
「よかった。……紗和さんも、生きてるって、ちゃんと感じてくれてる」
その声には、これまでずっと抑えてきた飢えと、それでもなお紗和を傷つけまいとする慎重さが、同時ににじんでいた。彼の指の動きは性急さを孕みながらも、決して乱暴にはならなかった。
その言葉に、わたしの目の奥がふいに熱くなった。泣くまいとして、これまでずっと堪えてきたものが、快感と一緒に溶け出していくようだった。遠野の昂ぶりが、潤んだ入り口にそっと触れたとき、わたしは思わず彼の背に腕を回した。ゆっくりと、けれど確かに沈み込んでくる感覚に、狭い場所を押し広げられる圧迫が走り、わたしは短く息を詰めた。遠野はすぐに動きを止め、額に汗を滲ませたまま、わたしの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか。……痛かったら、すぐ言ってください」
「大丈夫です……ゆっくりでいいから、止まらないで」
その言葉に、遠野は長く息を吐き、それから、さらに深く己を沈めていった。二人の身体が奥まで繋がった瞬間、これまでの四十九日間の張り詰めた時間のすべてが、この一点に溶けていくような錯覚をわたしは覚えた。律動は最初、確かめるように緩やかだった。遠野はときどき動きを止めて、わたしの額に唇を寄せ、「大丈夫か」とだけ確かめた。そのたびわたしは小さく頷き、自分から腰を寄せて答えにした。
次第に律動が深まっていくにつれ、わたしの喉から漏れる声はもう抑えられないところまで大きくなった。そのたび遠野は低く名を呼び、応えるように動きをわずかに速めた。
「紗和さん……そんなに、締めつけると」
余裕を失った掠れ声に、わたしは彼の背に爪を立てた。汗の滲む額が、わたしの額に重なる。互いの吐息がひとつに混じり合い、部屋の温度そのものが上がっていくようだった。遠野は一度、繋がったまま身を起こし、わたしを横向きに抱き直すと、背中から包み込むようにして律動を続けた。触れる深さと角度が変わるたび、これまでとは違う場所を擦られる感覚に、わたしは思わず高い声を上げ、慌てて枕に顔を埋めた。
遠野の腕がわたしの腹に回り、抱き寄せる力が強まるたび、彼の胸板に浮いた汗が背中に伝わってきた。乱れた呼吸の合間に、彼はときどき「紗和さん」とだけ名を呼んだ。その声には、これまで見せたことのない余裕のなさと、同時に、確かめるような優しさが同居していた。律動が緩やかに戻ると、遠野はわたしの肩口に額を押し当て、しばらくそのまま動きを止めた。荒い息が首筋にかかるたび、わたしの肌が小さく粟立った。
「泣いていいです」律動の合間に、遠野が囁いた。「悲しくても、幸せでも、どっちでもいいから、我慢しないでください」
その一言に、わたしの中で何かが決壊した。奥を穿たれるたびに目の前が白く霞み、四十九日間堪えてきた涙が、快感と混ざり合いながら、静かに頬を伝い始めた。悲しみなのか、生きていることへの安堵なのか、自分でも区別がつかなかった。ただ、涙が止まらなかった。
やがて律動が速まり、二人の呼吸が短く重なっていくと、わたしの内側で何かが張り詰め、限界に近づいていくのが分かった。遠野もまた、こらえるように低く呻き、最後にひときわ深く身を沈めた瞬間、わたしは声にならない声を上げて、彼の背にしがみついた。全身が甘く痺れ、涙だけが止めどなく溢れ続けていた。
「……大丈夫ですか」
律動がやんだあと、遠野は汗ばんだわたしの額に、そっと唇を落としながら尋ねた。
「大丈夫です。やっと、泣けました」
正直な呟きに、遠野は静かに微笑み、涙で濡れたわたしの頬を、指の背でそっと拭った。汗の冷えていく肌に、彼はそっと上掛けを引き寄せた。いつも冷静で、感情を表に出さないはずの遠野の手が、今はただ、わたしの背をゆっくりと撫でていた。
しばらくそのまま、二人とも言葉を発さなかった。わたしの涙は少しずつ収まっていったが、頬を伝う感触だけは、いつまでも新鮮に感じられた。四十九日ぶりに流した涙は、思っていたよりずっと熱く、そして不思議と、心地よかった。遠野の胸に耳を当てると、彼の心臓の音が、まだ少し速く鳴っているのが聞こえた。その音を数えているうちに、わたしの呼吸も、ようやく普段の速さに戻っていった。
しばらくして、涙も落ち着いた頃、わたしは遠野の胸に頭を預けたまま、ぽつりと言った。
「悠一さん、さっき言ってましたよね。今夜だけの約束はできない、って」
「言いました」
「わたしも、今夜だけにはしたくないです。でも」わたしは言葉を選びながら続けた。「まだ、四十九日が終わったばかりです。親族には、まだ何も話せません。しばらくは、誰にも言わずに、ゆっくり確かめ合う時間が欲しいです」
遠野はしばらく黙っていたが、やがてわたしの髪をそっと撫でながら、静かに言った。
「僕もそう思ってました。急いで何かを決めることじゃない。周りにどう思われるかより先に、僕たち自身が、ちゃんと納得できる時間が必要です」
「世間体を気にしてるわけじゃないんです」わたしは付け加えた。「ただ、航介の親族にとっても、わたし自身にとっても、悲しみを悲しみとしてきちんと終える時間が要る気がして。それを飛ばして、悠一さんとのことだけを急いで形にしたら、たぶんいつか、自分を許せなくなる気がします」
「分かります」遠野は頷いた。「僕も、航介に顔向けできる形で、あなたの隣に立ちたい。それには、時間が要ることくらい、分かってます」
「一年、待ってもらえますか」わたしは言った。「一周忌が終わるまで。それまでは、こうして会うことも、誰にも言わずにいたいです」
「待ちます」遠野は迷いなく答えた。「一年でも、それ以上でも。紗和さんが、自分の気持ちに、ちゃんと嘘をつかずにいられる時間なら、いくらでも」
「気が早いかもしれませんけど」わたしは少しだけ笑った。「一周忌が終わったら、悠一さんとのこと、義母たちにどう話せばいいんでしょうね」
「それは、二人で一緒に考えましょう」遠野もつられて笑った。「今夜だけは、そんな先のことより、紗和さんがちゃんと眠れるかどうかのほうが、僕には大事です」
その気遣いに、わたしは胸の奥がまた温かくなるのを感じた。急かされることも、決めつけられることもない、この人と一緒に過ごす時間の心地よさを、わたしは改めて噛みしめていた。
窓の外で、夜風が微かに窓を鳴らした。祭壇の航介の遺影を、わたしは遠くから見つめた。悲しみは消えていなかったし、これから先も消えることはないのだろう。それでも、その悲しみの隣に、もう一つ、確かな温もりが並んで存在できることを、わたしはこの夜、初めて知った。
悲しみを終わらせることと、悲しみの隣で生きていくことは、たぶん違う。航介を失った事実は、これから何年経っても変わらない。けれど、その事実を抱えたまま、それでも誰かの手を取って歩いていくことは、許されているはずだと、遠野の腕の中で、わたしはようやく思えるようになっていた。
「ありがとうございます」わたしは遠野の胸に、もう一度顔を埋めた。「泣かせてくれて」
遠野は答える代わりに、わたしの背をそっと抱き寄せた。窓の外が白み始めるまで、わたしたちは言葉少なに、ただ互いの体温だけを確かめ合っていた。
翌朝、遠野が帰り支度をするあいだ、わたしは祭壇の前に座り、航介の遺影に向かって、初めてゆっくりと手を合わせた。「ごめんね、遅くなって」と、声に出して呟いてみる。不思議と、それは謝罪の言葉でありながら、同時に、これからも生きていくという報告のようにも聞こえた。玄関で靴を履く遠野の背中に、わたしは「また来てください」とだけ声をかけた。それは今のわたしに言える、精一杯の約束だった。
急ぐ必要はどこにもなかった。一年後、二人がどんな形で並んでいるのか、まだ誰にも分からない。それでも、その未来を、隠れることなく迎えられる日が来ることだけは、この夜、はっきりと約束された気がした。
縦書きでは右から左へ読み進みます。キーボードの ← → でもめくれます。