
ダンジョン対策課の窓口係 第三話 堅実な男
探索者の平井勉――ベンと呼ばれている――は、十年目の堅実な男だ。三年ごとの資格更新に、三年ごとに同じ時刻に来る。今回の書類は、一か所だけ前と違っていた。緊急連絡先の欄。黒木は、その違いを覚えている。覚えているが、訊かない。九月十八日、午後六時。第七層から十人が上がってくる日でもあった。
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九月十八日(金) 曇、夕方から雨。 受付 三十三件。 うち差戻し 四件。 備考 第七層、退域十件。入域一件。
三年前の更新は、十時四十分だった。六年前も、十時四十分だった。
今日も、窓口の時計が十時四十分を指したとき、平井勉がカウンターの前に立った。
資格の更新は三年ごとで、窓口は八時半に開く。八時半に並ぶ者は、朝のうちに潜るか、仕事の前に済ませたい者だ。昼前に来る者は、急いでいない。十時四十分は、朝の列が引いて、昼の列がまだ来ない時刻だった。
ベンは、それを知っていて、その時刻に来る。
探索者たちは、平井のことをベンと呼ぶ。勉の字を音で読んで、いつからかそうなった。本人は訂正しない。窓口では平井さんと呼ばれ、それも訂正しない。黒木も、窓口では平井さんと呼ぶ。頭の中では、ベンだ。
三十五歳。探索者になって十年。市内の組合に属し、第四層までの常時許可を持っている。第五層と第六層は、そのつど申請を出す。事故の届けは一度も無い。差戻しも、十年で二度しか無い。
黒木は、その二度を両方とも覚えている。
水曜の朝も、窓口の最初の一人はベンだった。常時許可の入域は短い様式で済む。四十秒で終わった。
*
「更新です」
ベンは、カウンターに書類の束を置いた。クリップで留めてある。更新申請書、健康診断書、更新講習の修了証、顔写真。順番も、様式の手引きに書いてある順番のままだった。
受けたのは、岸だった。
黒木は隣の席で、別の申請を見ていた。見ながら、岸の手元が見える位置に椅子を少しずらした。
「お預かりします」
岸は、一枚ずつめくった。めくるたびに、手引きの頁と見比べる。まだ、そうしないと不安なのだ。
ベンは、黙って待っていた。
背は高くない。肩が厚い。上着は組合の支給品で、袖口が擦れている。十年前も、同じ型の上着だった。擦れ方だけが違う。
「健康診断書、有効期限内です」
「はい」
「講習の修了証、原本ですね。コピーをお取りして、お返しします」
「はい」
「写真、規格どおりです」
「はい」
岸の声が、少しずつ落ち着いていった。書類に不備が無いと、人は落ち着く。
「ご住所と、ご家族の構成に、前回からの変更はありますか」
更新の定型の問いだった。手引きの三頁目に、そのまま書いてある。
「住所は、同じ」
ベンは、それだけ答えた。
岸は、次の言葉を待った。ベンは、それ以上何も言わなかった。岸は、少し迷ってから、住所欄に変更なしの印をつけた。家族の欄は、様式に無い。訊くのは、定型だからだ。
黒木は、自分の手元の申請を差し戻しの箱に入れた。入れながら、岸がめくった更新申請書の二枚目を見た。
緊急連絡先の欄。
東雲市探索者組合 事務局。電話番号。
黒木は、自分の手元に目を戻した。
三年前、同じ欄には、平井由紀と書いてあった。続柄、妻。六年前も同じだった。字は、ベン本人の字で、角が立っていた。
今回の字も、同じ角だった。書いてある名前だけが、違う。
常時許可の短い様式には、緊急連絡先の欄が無い。資格の台帳に登録したものが、そのまま使われる。台帳の連絡先が書き換わるのは、三年に一度、この更新のときだけだ。
第五層と第六層の申請には、この三年、毎回、平井由紀と書いてきた。八月の第六層の申請でも、そうだった。
住所欄は、三年前と一字も違わなかった。
様式上、緊急連絡先は「本人以外の個人、または所属組合」と定めてある。組合の事務局は、書いてよい。水曜の昼前に差し戻した組合の申請とは違う。あれは本人の番号だった。これは、組合の番号だ。
不備は、無い。
「受理します」
岸が言った。言ってから、ちらりと黒木を見た。
黒木は、頷かなかった。首を振りもしなかった。ただ、岸の手元の受理印の位置を見た。枠の中に、まっすぐ押してあった。
「新しい資格証は、二週間後にお送りします。それまでは、今の証が有効です」
「はい」
ベンは、書類の控えを受け取って、二つに折って、上着の内に入れた。
立ち上がりかけて、座り直した。
「七層」
ベンが言った。
黒木は、顔を上げた。岸にではなく、黒木に言っていた。
「七層の連中、今日上がるんだろ」
「お答えできません」
黒木は、すぐに答えた。
「他の方の入域と退域の記録は、ご本人以外にはお伝えできません」
「そうだな」
ベンは、それ以上言わなかった。言わないことに、慣れている顔だった。
七層に、ベンは潜らない。十年、一度も申請を出していない。
ベンは、今度こそ立ち上がった。
出口のほうへ二歩行って、振り返らずに言った。
「三分だった」
「はい」
「前は、あんたが三分でやった。今日は、その子が四分だ」
それだけ言って、出ていった。
岸が、黒木を見た。
「……計ってたんですか、あの人」
「たぶん」
「黒木さんも」
「四分十秒です」
岸は、瞬きを二つした。
*
昼休み、岸は弁当の蓋を開けずに、黒木の席の横に来た。
「あの」
「はい」
「さっきの、平井さんの」
「受理しました」
「はい。受理、しました」
岸は、自分の言葉をなぞるように言った。
「緊急連絡先、前は違いましたよね」
黒木は、岸を見た。
「どうして、そう思いましたか」
「更新の人は、前回の申請書の写しを横に置いて比べろって、手引きに。控えの綴りから出して、並べました」
黒木は、少しのあいだ黙っていた。
手引きには、そう書いてある。書いてあるが、黒木自身は、もう何年も写しを出していない。出さなくても、覚えているからだ。
岸は、覚えていない。だから、出した。出して、並べて、違いを見つけた。
「違いました」
黒木は、認めた。
「三年前は、奥さんのお名前でした」
「聞かないんですか」
「聞きません」
「どうしてですか」
黒木は、机の上の湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。湯呑みは、朝から空だった。
「様式上、問題がありません」
「それは、分かってます」
「聞いて、書類が良くなるなら、聞きます」
岸は、黙った。
「緊急連絡先は、何かあったときに、こちらから連絡する先です。連絡を受けた人が、動ける先であればいい。組合の事務局は、動けます。夜中でも、人がいます」
「でも」
「住所は、変わっていません。奥さんのお名前を消したのには、平井さんの理由があります。その理由は、書類には要りません」
岸が、何か言おうとして、黙った。黒木は、空の湯呑みを机の端に寄せた。
「書類に要らないことを訊くと、次から、書類に書かないことが増えます」
岸は、しばらく黒木を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……控えの写し、戻しておきます」
「はい」
「あの、黒木さん」
「はい」
「写しを出して比べたの、間違ってましたか」
「いいえ」
黒木は、すぐに答えた。
「正しいです。続けてください」
岸は、自分の席に戻っていった。弁当の蓋を開けて、箸を持って、しばらく持ったままでいた。
*
一時少し前、仁科が黒木の席に来た。
「これ」
メモ用紙が一枚。課長の字だった。
水曜の課長会の配布資料の、裏だった。走り書きで、三行。
『9/16 武田さん 七層 面談済 入域 18日夕 6時ごろ 退域 状況を見て判断』
「あったよ、面談の記録」
「ありがとうございます」
「会議の資料に挟まってた。水曜の午後、小部屋で受けたんだよ。綴り忘れてた。ごめん」
仁科は、それだけ言って戻っていった。戻る途中で、電話が鳴った。仁科は、歩きながら受話器を取った。
水曜の午後。面談の小部屋。
黒木が水曜の夕方に綴りを整理したとき、武田の申請書はもう綴りの中にあった。小部屋で直接出したのだろう、とあのとき黒木は考えた。その通りだった。
課長は、忙しい。忙しい人の走り書きは、三行で済む。
ただ、退域予定の行に書いてある言葉だけが、残った。
状況を見て判断。
誰が、何の状況を見て、判断するのか。書いていない。
予定ではない。予定の決め方だ。
黒木は、メモを武田の申請書に綴じた。
*
武田は、一時十分に来た。
出勤簿に判を押し、十五分になるまで棚の前に立っていた。いつもと同じだった。
一時十五分、黒木は武田の申請書を持って、棚の前へ行った。
「武田さん」
武田は、首だけ少し傾けた。
「退域予定の欄が、空欄です」
「……ああ」
「調査の場合は、未定と書いていただく運用です。空欄のままでは、書き忘れなのか、未定なのか、区別がつきません」
昨日、詩織に言ったのと、同じことを言っていた。
武田は、黒木の手からボールペンを取った。空欄に、未定、と二文字書いた。字は、小さくて、まっすぐだった。
「面談での申告の内容も、伺えますか」
「状況を見て」
「どういう状況を」
武田は、答えなかった。ボールペンを黒木に返して、棚のほうを向いた。
黒木は、未定と書かれた欄を見た。
書類は、正しくなった。運用どおりの書類だ。未定と書き、面談を受け、課長の記録がある。
正しくなったことで、止める理由は一つも無くなった。
受理は、水曜に済んでいる。空欄は、受理の要件ではない。運用の要件だ。運用は、埋めてもらうことしかできない。埋めてもらえば、止める理由は無くなる。
選べるものは、最初から一つだった。
黒木は、申請書を綴りに戻した。
三時五十分、武田は入域口の立ち会いに出ていった。四時五十分に戻ってきて、棚の前で紙を綴じた。綴じ紐を結ぶ手が、いつもより遅かった。遅いのか、黒木が見ているからそう見えるのか、分からなかった。
五時十五分。
武田は、席を立った。
上着を取って、何も言わずに、廊下へ出ていった。
黒木は、武田の机を見た。
椅子が、机から引き出されたままになっていた。
十二年、一度も見たことのない形だった。
黒木は、自分の席を立って、武田の机まで行き、椅子を机の下に戻した。きっちり、奥まで。いつも武田がそうしているように。
戻してから、窓の外を見た。
雨が降り始めていた。庁舎の裏のフェンスの向こうに、入域口へ続く道の街灯が並んでいる。十七本。まだ点いていない。
*
入域口の日報は、毎日午後六時十分に、課の端末に上がってくる。
当日の入域と退域を、立会人が時刻順に打ち込んだものだ。夕方以降は、市が夜間の立ち会いを委託している警備会社の人間が打つ。
黒木は、六時十分まで席にいた。
理由は、あった。今日は、第七層の退域予定が十件ある日だ。退域が予定を過ぎれば、未帰還の手続きに入る。手続きに入るのは、この課だ。
六時十分。
日報が上がった。
黒木は、第七層の行だけを見た。
退域、十件。
午後五時三十一分から、五時五十二分まで。
十人が、二十一分のあいだに、全員上がってきていた。組合も、年齢も、経験年数もばらばらの十人が。持ち帰りの欄は、十件とも「有」。
予定の午後六時より、八分早い。
黒木は、手帳を開いた。十件の時刻を、上から順に書き写した。
書き写して、その下に、もう一行あった。
入域、一件。第七層。午後六時四分。
武田照夫。
退域予定、未定。
立会、夜間委託。
黒木は、その行を、しばらく見ていた。
午後六時四分。
十人が全員上がった十二分後に、一人が入っている。
課長のメモの、入域、十八日夕、六時ごろ。予定どおりだった。予定どおりであることが、何の役にも立たなかった。
五時十五分に庁舎を出て、歩いて四分の入域口まで、四十九分。着替えて、装備を確かめて、十人が上がってくるのを待って、入った。
待っていたのかどうかは、日報には書いていない。日報には、時刻しか書いていない。
黒木は、手帳に書いた。
『九月十八日(金) 第七層 退域十件(一七三一〜一七五二)。入域一件(一八〇四 武田)。退域予定、未定』
書いてから、ペンを置いた。
受理したのは、この課だ。面談の記録は、会議資料の裏に三行ある。退域予定の欄には、状況を見て判断、と書いてある。
書類は、揃っている。
揃っているのに、何も分からない書類というものが、ある。
黒木は、端末の画面を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
日報を、もう一度見た。武田の行の、立会人の欄。
夜間委託。
入域口の立ち会いは、昼は職員が交代で立つ。武田の当番は、そのうち一時間だ。夜は、委託の警備員がやる。警備員は、受理印があるかどうかだけを見る。
受理印は、ある。
黒木は、キャビネットから、事故対応の規程の綴りを出した。未帰還の手続きの頁を開いた。
『退域予定時刻を経過し、なお退域の確認が取れない場合、対策課は直ちに――』
起点は、退域予定時刻だ。
未定の者には、退域予定時刻が無い。
時刻が無ければ、経過もしない。経過しなければ、手続きは始まらない。規程の上では、武田は、いつまで帰らなくても、帰らない人にならない。
誰も、時計を回さない。
黒木は、規程を閉じた。
手帳を開いて、今日の欄の下に、一行書いた。
『十九日(土) 正午 入域口(夜間委託)に電話 武田さんの退域を確認』
規程には無い期限だった。誰に頼まれたものでもない。
黒木が、自分で置いた時計だった。
黒木は、今度こそ画面を閉じた。
手帳の、いつもの欄に、今日の数字を書いた。
『窓口 二百二十八分』
*
その夜、匿名掲示板「潜り板」の東雲スレッドに、こんな書き込みがあった。
512 名前:名無しの潜り屋
七層組、全員上がった
六時前
513 名前:名無しの潜り屋
>>512
全員? 十人?
514 名前:名無しの潜り屋
十人。二十分くらいで順番に出てきた
全員リュックぱんぱん
515 名前:名無しの潜り屋
入れ替わりに爺さんが一人入ってったぞ
七層の札つけて
516 名前:名無しの潜り屋
>>515
一人で七層? 夜に?
517 名前:名無しの潜り屋
あの爺さん、昼に入域口に立ってる人じゃないの
518 名前:名無しの潜り屋
ベンさんが今日窓口来てたらしい
更新
新人の子にやらせて、東雲の窓口は手続きのあいだ一回も顔上げなかったって
519 名前:名無しの潜り屋
>>518
新人に任せたのか。珍しい
520 名前:名無しの潜り屋
任せたんじゃなくて、見てたんだろ
あの人、自分の窓口より他人の窓口のほうが長く見てる
黒木は、この掲示板を見ない。
見ないまま、その夜、アパートの台所で湯を沸かした。
湯が沸くのを待ちながら、三年前のベンの更新申請書を思い出した。
緊急連絡先、平井由紀。続柄、妻。
その前の年、ベンは一度だけ差し戻されている。第六層の入域申請で、同行者の欄に、同行者の資格番号を書き忘れた。同行者の名前は、書いてあった。
黒木は、その名前も覚えている。
覚えているが、いまは思い出さないことにした。思い出す理由が、無い。
湯が沸いた。
黒木は、火を止めた。
窓の外で、雨の音が強くなった。
入域口の街灯は、今夜は十七本とも点いているはずだった。
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