月夜の喫茶店
満月の夜だけ、閉店後の喫茶店で落ち合うマスターと常連客の女。三十路を過ぎた二人が、注文もせずコーヒーの湯気ごしに交わす言葉は、月を追うごとに少しずつ踏み込んでいく。大人のための官能短編。
喫茶店「三日月堂」は、満月の夜だけ閉店時間を過ぎても灯りが消えない。
マスターの士郎は四十を二つ過ぎた男で、豆を挽く手つきだけは若い頃から変わらないと自分でも思う。その灯りを目当てに、閉店後のガラス戸を軽く叩く女がいた。涼子、三十二歳。会社帰りに一度だけ寄っていた店に、いつからか月に一度、満月の夜だけ通うようになっていた。
「今夜も、豆から挽いてもらえます?」
「涼子さんの前でだけは、手を抜きませんから」
軽口のようで、それは一年前からの本気だった。士郎はミルを回す。粉になる豆の匂いが、静かな店の中に満ちていく。涼子はいつもの席、カウンターの一番奥に座り、腕を組んで目を閉じ、その匂いを吸い込む仕草をする。二十代の終わりに恋人と別れてから、彼女がひとりの時間を心から楽しめる場所は、この店だけになっていた。
窓の外、満月が電線の間に低く出ている。
「今日は、少し違う豆を淹れます」と士郎が言った。「深煎りの、酸味の少ないやつ」
「マスターの気分ですか」
「涼子さんの顔を見て決めてます、いつも」
涼子は目を開けて、彼を見た。カウンター越しの距離は、一年前から変わらない。変わらないはずのその距離が、今夜はやけに近く感じられた。ドリッパーに湯を注ぐ士郎の手元を、涼子は黙って見つめる。細く白い湯気が立ちのぼり、彼の指先を淡く照らす。
「マスターは、どうしてこの店を、満月の夜だけ遅くまで開けてるんですか」
「さあ。最初は気まぐれでした」士郎はカップを涼子の前に置いた。「今は違います」
「違う?」
「涼子さんが、来るからです」
言葉にしてしまうと、店の空気が少し変わった。涼子はカップを両手で包み、湯気の向こうから士郎の顔を見た。彼もまた、視線をそらさなかった。一年間、注文と会計の間にだけ交わしてきた会話が、今夜は違う速度で流れている。
「わたし、来月も来ていいですか」
「満月の夜以外にも」と士郎が言った。「いつでも」
その一言で、涼子の中の何かが決壊した。彼女は席を立ち、カウンターを回り込んで、士郎のすぐ横に立った。彼が驚いたように動きを止める。閉店後の店には、二人分の呼吸の音だけが響いていた。
「怒られませんか。お客さんに、こんな距離まで来られて」
「涼子さんは、もう客じゃない気がしてました。だいぶ前から」
窓の外、月明かりが店の床に長い影を落としている。涼子は爪先立って、士郎のエプロンの紐にそっと指をかけた。彼の手が、迷いながらも彼女の頬に触れる。ミルの上に置かれたままの豆の袋から、まだ挽ききれない香りがこぼれていた。
——照明を落とした店の奥、二人の影がカウンターの陰でひとつに溶けていく。倒れかけたコーヒーカップの中で、白湯だけが小さく揺れ、やがてそれきり誰も動かさなかった。満月はガラス戸の向こうから、ずっとその静けさを見下ろしていた。
夜が明ける前、涼子はブラウスのボタンを直しながら、まだ乱れた息の下で笑った。
「来月まで、待てるかしら」
「待たなくていいと、さっき言ったはずですよ」
士郎は新しい豆の袋を棚から取り出した。満月でない夜のための、来週分の豆だった。涼子はそれを見て、何も言わずに微笑んだ。
三日月堂の看板の灯りは、その夜も、いつもより少しだけ長く点いていた。
(了)