雨の館ホテル
山あいの古い洋館ホテルが記録的な豪雨で孤立し、停電した夜。偶然同じ館に足止めされた三十代の男女が、蝋燭の灯りひとつを頼りに、互いの素性も知らないまま言葉を交わし始める。大人のための官能短編。
山あいの洋館ホテルに雨が降り出したのは、午後三時のことだった。
天気予報が大きく外れ、夕方には道路が冠水して麓との連絡が途絶えた。宿泊客は片手で数えるほど、従業員も最小限しかいないその夜、九時を回った頃に電気が落ちた。
「困りましたね」
ロビーの暗闇の中で、女の声がした。三十四歳、名を冬子といった。仕事で訪れた出張の途中、悪天候に足止めされてこの館に泊まることになった一人だった。声のした方から、蝋燭を手にした男が歩いてくる。三十七歳、隼人と名乗った彼も、冬子と同じく偶然に閉じ込められた客の一人だった。
「フロントに、あと三本しかないそうです」隼人は蝋燭を一本、冬子に差し出した。「灯りは分け合うしかないみたいで」
冬子はそれを受け取った。指先が触れ合うほど近くで、初めて互いの顔を見た。蝋燭の炎が揺れるたび、相手の輪郭が影の中で伸びたり縮んだりする。
「復旧は、朝までかかるそうです」フロントの支配人が申し訳なさそうに告げた。「お部屋にも暖房が入りませんので、よろしければロビーの暖炉のそばに、皆様どうぞ」
暖炉には火が入り、他の宿泊客は早々に自室へ引き上げていった。残ったのは冬子と隼人、二人だけだった。誰からともなく、暖炉の前の古い長椅子に並んで座る形になった。
「こういう館、初めてですか」
「学生の頃に、一度」冬子は膝の上で手を組んだ。「でも一人で泊まるのと、こうして誰かと停電の夜を過ごすのとでは、全然違いますね」
「怖いですか」
「いいえ」冬子は炎を見つめたまま、少し笑った。「不思議と、落ち着きます」
雨の音が窓を叩き続けている。木造の館全体が、風のたびに小さく軋んだ。隼人は暖炉に薪を足しながら、冬子の横顔を見た。仕事の話も、家族の話もしていない。互いの名字さえ、まだ知らなかった。それがかえって、二人の間の空気を柔らかくしていた。
「明日には、他人に戻るんでしょうね」隼人がぽつりと言った。「この雨が上がったら」
「そうかもしれません」
「そうかもしれない、ということは」
冬子は隼人の方を向いた。蝋燭の灯りが、彼女の瞳の中で小さく揺れている。
「今夜だけは、他人じゃなくてもいいということです」
その言葉が合図だったように、隼人の手が冬子の手に重なった。冷えた指先が、暖炉の熱でゆっくりと温まっていく。冬子は目を伏せ、拒まなかった。館の奥で、古い柱時計が十時を打った。
「部屋まで、送りましょうか」
「はい」
蝋燭の炎を守りながら、二人は暗い廊下を並んで歩いた。雨の音が遠くなり、代わりに互いの足音だけが響く。冬子の部屋のドアの前で、隼人は蝋燭を掲げたまま、答えを求めるように彼女を見た。冬子は何も言わず、ドアを開けて先に中へ入り、彼を招くように振り返った。
——蝋燭の灯りが一度だけ大きく揺れ、それきり部屋の奥へ運ばれていく。閉じたドアの向こうで、雨音に混じって、二人分の低い声が長く続いた。館全体を包む嵐だけが、その夜の証人だった。
夜明け、雨はまだ止んでいなかったが、風は弱まっていた。冬子は窓辺に立ち、灰色の谷を見下ろしていた。背後のベッドで、隼人が静かに身を起こす気配がする。
「道が開いたら、僕らは他人に戻るんですね」
「ええ」冬子は振り返らずに答えた。「でも、覚えてはいます。きっと、ずっと」
昼過ぎ、迎えの車が麓から到着したという知らせが届いた。ロビーで鉢合わせた二人は、他の宿泊客たちと同じように、軽く会釈だけを交わした。名字も、連絡先も、最後まで知らないままだった。
館の暖炉には、まだ小さな炭火が残っていた。
(了)