ガラス工房の夏
灼熱の炉を囲むガラス工房で、独立を控えた女職人と、六年間彼女を見守ってきた男職人が、夏の夜に押し殺してきた想いを解き放つ。汗と炎の匂いに満ちた、大人の職人たちの官能譚。
炉の温度は千二百度を超える。真夏の工房は、それだけでサウナよりも過酷な場所になった。窓という窓は開け放たれているのに、熱気は逃げ場を失ったように床に淀み、Tシャツは作業を始めて十分もすれば汗で肌に張りつく。それでも工房に流れる緊張感は、暑さとは別の理由で保たれていた。
古い商店街の外れにあるこの硝子工房は、地元でも数少ない吹きガラスの窯元だった。師匠が高齢を理由に一線を退いてからは、若手の弟子たちが交代で炉の番をしている。
深雪(みゆき)は二十九歳、この工房で七年、吹きガラスの修業を積んできた。今年の秋には独立し、自分の窯を持つ予定になっている。蒼太(そうた)は三十四歳、炉の火加減を一手に任される、工房で最も信頼される職人だった。二人は師匠の弟子として、同じ釜の火を六年間見つめ続けてきた仲だった。
入門した年、深雪は右も左もわからないまま炉の熱に怯えていた。そんな彼女に、竿の持ち方から呼吸の合わせ方まで、根気強く教えてくれたのが蒼太だった。以来六年、独立の話が持ち上がるまでは、彼が師匠に次いで頼れる存在であることに、深雪自身も疑いを持ったことはなかった。だが最近は、彼の視線が自分に向くたび、単なる兄弟子への信頼とは違う何かが胸の奥で疼くのを感じていた。
「今日で、仕上げよう」
深雪が手がけているのは、独立記念に作る最初の作品——大ぶりな一輪挿しの花瓶だった。何度も失敗を重ね、ようやく理想の形が見え始めていた。ここまで来るのに、割れて砕け散った試作品は数えきれない。そのたびに蒼太は文句一つ言わず、炉の温度を調整し直し、深雪が納得のいく色になるまで付き合ってくれた。吹き竿の先で真っ赤に灼けたガラスの塊が、彼女の息遣いに合わせて、少しずつ膨らんでいく。
「息、浅い」
蒼太が炉の前から声をかけた。汗だくのTシャツが、彼の背中に張りついている。「もっと、腹から吐いて」
深雪は言われた通り、深く息を吸い込み、竿の先に向かって吐き出した。灼熱のガラスが、まるで呼吸するように膨らんでいく。額から流れる汗が、目に染みた。それを拭う余裕もなく、深雪は形を整えることだけに集中していた。炉の炎が二人の影を工房の壁に大きく揺らし、静寂の中に、竿を回す金属音と炎の唸りだけが響いていた。
「危ない」
ガラスが少し傾いだ瞬間、蒼太の手が伸びて、深雪の手首を支えた。その手の熱さは、炉の熱とは違う種類のものだった。何年も炎と向き合ってきた手は、皮膚が硬く、けれど驚くほど繊細に力を加減する。深雪はその手に支えられながら、竿を安定させた。
「……ありがとう」
「危なっかしいのは、いつものことだろ」蒼太は炉の火を見つめ直しながら、口元だけで笑った。その横顔に、深雪はいつも通り安心させられると同時に、説明のつかない胸のざわめきを覚えていた。
蒼太は笑って手を離した。だが、その後もしばらく、手首に残った熱の輪郭が消えなかった。
作業を終え、花瓶を徐冷炉に一旦仮置きしてから、深雪は水を飲みに休憩スペースへ向かった。氷を張ったバケツに顔を寄せ、火照った頬を冷ますあいだ、さっき支えられた手首の感触が、何度も甦ってくる。師匠に弟子入りして七年、蒼太の手に助けられたことは数えきれないほどあったはずなのに、今日ほどその熱を意識したことはなかった。
日が落ちても、工房の熱気は引かなかった。夜の作業になり、他の職人たちが帰った後、深雪と蒼太だけが炉の前に残った。花瓶はほぼ完成し、あとは徐冷炉に入れるだけの段階まで来ていた。
「独立したら、この工房、寂しくなるな」
蒼太が炉の火を落としながら、ぽつりと言った。オレンジ色の残り火が、彼の横顔をゆっくりと陰らせていく。工房全体が、一日の激しい作業を終えて、ようやく静けさを取り戻していく時間だった。
「まだ半年あるよ」
「半年なんて、あっという間だ」
深雪は作業台に腰掛け、汗で貼りついた髪をかき上げた。工房には、まだ炉の余熱が籠もっている。窓の外では、蝉の声がまだ絶え間なく続いていた。蒼太が近づいてきて、彼女の隣に座った。二人の間には、いつもより近い距離があった。汗の匂いと、炉の残り火の匂いが混じり合い、それが妙に心地よかった。
「深雪」
「なに」
「独立する前に、言っておきたいことがある」
蒼太の声は、いつもの職人としての口調とは違っていた。深雪は彼の顔を見た。炉の残り火に照らされた横顔は、汗に濡れて、いつもより鋭く、それでいて優しく見えた。
「六年間、ずっと隣で火を見てきた。……お前がいなくなったら、この炉の火、意味を失う気がする」蒼太の声には、職人としての誇りとは別の、剥き出しの本音が滲んでいた。「格好悪いこと言ってるのはわかってる。でも、今夜言わなきゃ、一生言えない気がした」
深雪の胸の奥で、何かが熱く弾けた。長年、師弟としての距離の中に押し込めてきた感情が、炉の熱に炙られて溶け出していくようだった。
「私も、同じこと考えてた」
答える声が震えた。蒼太の手が、そっと深雪の頬に触れる。灼けた指先の感触は、ガラスよりもずっと生々しい熱を持っていた。
「今更、師匠に叱られるかな」
「叱られてもいい」
深雪は自分から、彼の胸に額を寄せた。汗と炎の匂いが、いつもと違う意味を持って鼻腔を満たしていく。
「独立の話が出てから、ずっと考えてた」深雪は言った。「あなたのいない工房で、ちゃんと一人でやっていけるのかって」
「不安なのか、それとも」
「両方かもしれない」
蒼太の腕が、深雪の背中に回った。触れ合った肌から伝わる鼓動は、炉の熱よりもずっと生々しく、確かなものだった。長年、師弟の関係という言葉で押し込めてきたものが、この夏の夜、ようやくその名を持とうとしていた。
——徐冷炉の中で、花瓶がゆっくりと冷えていく音だけが、工房に響いていた。作業台の上、灯りを落とした暗がりの中で、二人は六年分の言葉にならなかった熱を、互いの肌に移し合っていった。汗ばんだ肩、乱れた息、炉の残り火に照らされた輪郭。夜が更けるほどに、工房の熱気は形を変えて、二人の間に満ちていった。
「熱いな」蒼太が囁いた。
「炉のせい?」
「さあ、どうだろう」
答えの代わりに、深雪は彼の首筋に唇を寄せた。長年鍛えられた体は硬く、それでいて彼女に触れる指先だけは、いつも通りどこまでも繊細だった。互いの名前を呼び合う声だけが、炉の残り火に混じって、暗い工房の中に溶けていった。
朝、深雪が目を覚ますと、徐冷炉の中の花瓶はすっかり冷え、透明な藍色に仕上がっていた。
「綺麗だ」
隣で花瓶を覗き込む蒼太の声に、深雪は頷いた。
「独立記念の一点目。……次は、二人で作ろうか」
蒼太が驚いた顔をして、それから静かに笑った。
「それは、プロポーズか?」
「さあ、どうでしょう」
深雪は悪戯っぽく笑って、冷めた花瓶にそっと指を這わせた。夏の朝の光が、工房の窓から差し込み始めていた。
「秋に工房を出ても」深雪は続けた。「あなたの手を借りたい仕事は、きっとたくさんある」
「炉の火加減だけじゃなくて?」
「うん。それだけじゃなくて」
蒼太は花瓶を両手で持ち上げ、光にかざした。透明な藍色のガラスの中に、朝の光が幾筋にも屈折して差し込んでいる。「独立祝いに、俺からも一つ作らせてくれ。お前の窯開きの日に」
「楽しみにしてる」
外では、蝉の声がすでに賑やかに響き始めていた。長い夏はまだ始まったばかりで、二人の間に灯った熱もまた、これから先、幾つもの季節を越えていくはずだった。
(了)