夜の調律師
深夜のバーでピアノを調律する女と、閉店後の店にひとり残るバーテンダーの男。週に一度、音を合わせるためだけに交わされていた言葉が、ある雨の夜、少しずつ違う熱を帯びていく。大人のための静かな官能譚。
その店のピアノは、週に一度、閉店後にだけ調律される。
調律師の名は棗(なつめ)といった。三十四歳。黒いケースを提げて午前一時に現れ、誰もいないフロアの灯りを半分だけ落とさせ、二時間かけて古いアップライトの音を整えていく。バーテンダーの湊(みなと)は、その二時間、カウンターの内側でグラスを磨きながら、ただ音を聴いている。それが二人の、一年続いた習慣だった。
「今夜は、ずいぶん狂ってる」
雨の火曜日、鍵盤を一つずつ叩きながら棗が言った。湿度のせいだ、と湊は答えた。梅雨の夜、ピアノは湿気を吸って、いつもより低く、重い声で鳴る。
「あなたの店のピアノは正直ね。隠しごとが、ぜんぶ音に出る」
「調律師には敵いませんよ」
湊は磨き終えたグラスに、二人ぶんの酒を注いだ。閉店後の一杯も、いつからか習慣になっていた。棗は鍵盤の前に座ったまま、グラスを受け取る。指先が、ほんの一瞬だけ触れた。一年間で何十回も繰り返された、なんでもないはずの一瞬だった。
その夜に限って、どちらも手を引かなかった。
雨の音が、店の窓を柔らかく叩いている。棗はグラスを鍵盤の蓋の上に置き、調律を途中で止めたピアノの、狂ったままの音をひとつ、鳴らした。
「ねえ。狂ったままの音って、嫌い?」
「直すのがあなたの仕事でしょう」
「仕事はね」棗は立ち上がった。ヒールの音が、フロアの静けさに小さな点を打つ。「でも、直したくない夜も、ある」
カウンター越しに向かい合う。一年かけて少しずつ縮まっていた距離が、最後の数センチを失うのに、それ以上の言葉は要らなかった。雨と、狂ったままのピアノの残響と、グラスの中で溶けていく氷の音だけが、その先の時間の伴奏だった。
——夜が深くなる。灯りを半分落としたフロアで、二人の影がひとつに重なり、やがて言葉は途切れ、吐息だけが残る。それから先のことを、ピアノは全部聴いていたけれど、調律師と同じくらい口が堅いのだった。
夜明け前、棗は乱れた髪を結い直しながら、最後の一音を整えた。完璧に調律されたピアノは、澄んだ、少し寂しい声で鳴った。
「直っちゃった」と棗は笑った。「また狂うまで、一週間」
「湿度の高い夜なら」と湊はグラスを拭きながら言った。「もっと早いかもしれない」
傘を開いて雨の路地に出ていく背中を、湊はドアが閉まるまで見ていた。カウンターには空のグラスが二つ。狂いのなくなったピアノが一台。そして来週までの、長い七日間が残された。
その週、湊は毎晩、店の加湿器を少しだけ強くした。
(了)