社内恋愛禁止の会社で、私は毎週金曜だけ上司の部屋の合鍵を使う
就業規則で社内恋愛が禁じられた会社で、三十歳の主任と三十七歳の部長は、毎週金曜だけ他人のふりをやめる。四ヶ月続いた秘密が、同僚の異動という現実を見せつけられた夜、ついに耐えられない重さに変わる——このまま隠れ続けるか、何かを手放して外に出るか。
金曜の終業後、わたしはいつも十九時四十分の電車に乗る。同じ車両には乗らない。彼——黒沢周、三十七歳、営業企画部長は、いつも一本あとの電車で来る。合鍵は名刺入れの裏に貼りつけてあって、彼のマンションのオートロックを抜けるとき、わたしはいつも一度だけ振り返る癖がついている。
わたしが勤めるのは、社員三百人ほどの中堅商社、共栄物産だ。三十歳、営業企画部主任。それが名刺に刷られたわたしの肩書きで、その名刺を持つ人間同士の恋愛を、うちの会社の就業規則は明確に禁じている。「従業員は、直属または準ずる指揮命令関係にある者との交際が発覚した場合、いずれか一方を配置転換とする」——三年前に起きた社内不倫のごたごたのあと、経営陣が急いで作った条文だ。破れば、どちらか一方、たいてい立場の弱い方が異動になる。
四ヶ月前から、わたしたちは金曜の夜だけ、その規則の外にいる。恋人がいるわけでも、家庭があるわけでもない。ただ、会社の外に出て初めて、互いをちゃんと名前で呼べる二人だった。この秘密がいつまで保つのか、わたしはまだ、答えを持っていなかった。
毎年春、うちの会社は全従業員向けにコンプライアンス研修を行う。今年の資料にも、社内恋愛禁止条項の一文がそのまま印刷されていた。研修の講師が淡々とそれを読み上げるあいだ、わたしは隣の席の黒沢さんの横顔を、視界の端で盗み見た。彼は微動だにせず、ただ資料の文字を目で追っていた。その徹底した無表情こそが、二人にしか分からない緊張の証だった。誰にも気づかれない場所で、わたしたちはいつも、こうして小さな綱渡りを重ねてきた。
オフィスでの黒沢さんは、いつも正しい距離を保っている。朝礼で目が合っても会釈だけ。廊下ですれ違っても足を止めない。会議で意見が割れたときは、他の誰よりも厳しくわたしの企画書を突き返す。その徹底ぶりに、最初は少し傷ついたこともあった。でも今は分かる。あれは彼なりの誠実さだった。曖昧な優しさを見せることのほうが、よほど危うい。
金曜のルールは、四ヶ月かけて二人で作り上げたものだ。連絡は必ず私用のスマートフォンから、社名や役職に触れる言葉は使わない。マンションに入るときは十分以上間隔を空ける。エレベーターで一緒にならない。彼の部屋のポストに入っているチラシまで、わたしは覚えている。これだけ気を配っていれば大丈夫だと、自分に言い聞かせてきた。
二ヶ月前、会社の周年パーティーで、わたしたちは同じ円卓に座ったことがあった。乾杯のとき、隣の席の後輩が「主任と部長、意外と話したことないですよね」と無邪気に振ってきて、わたしは笑いながら当たり障りのない相槌を返した。黒沢さんはグラス片手に、目線すら合わせずに別の話題へ流した。あの晩、帰りのタクシーで彼が「今日は肩が凝りました」とだけ呟いたのを覚えている。二人にしか分からない冗談だった。同じ空間で他人を演じることが、こんなに体力を使うとは、付き合う前は知らなかった。
けれど四ヶ月というのは、油断が生まれるにも、疲れが溜まるにも、十分な時間だった。
黒沢さんとのことは、去年の秋、彼のほうから始まった。
社内の忘年会準備で二人きりになった会議室で、彼は「好きです」とだけ、前置きもなく言った。窓の外はもう暗く、蛍光灯の白い光の下で、彼の耳が赤くなっていたのを覚えている。普段、会議で数字を語るときの落ち着き払った声とはまるで違う、少し掠れた声だった。わたしは驚いて、けれど答えは決まっていた。
「規則があります。それに、わたし今、仕事に必死で、それどころじゃないんです」
嘘ではなかった。企画部に異動したばかりで、結果を出さなければという焦りに追われていた時期だった。黒沢さんは「わかりました」とだけ言って、それきり態度をまったく変えなかった。査定期間になっても、わたしの評価シートに彼の手が入ったことは一度もない。実際に評価を書くのは直属の課長で、黒沢さんは部全体の数字しか見ない立場だった。それでもと思い、後になって人事に開示請求までして確かめた。何も変わっていなかった。昇給も、担当案件の割り振りも、告白の前後で寸分も違わなかった。彼はきっと、断られたその日から、わたしに何も期待しないと決めていたのだと思う。
わたしのほうから連絡したのは、それから半年後だった。大型案件が終わって打ち上げに二人だけ残ったとき、「あのときの話、まだ有効ですか」と聞いたのはわたしだった。黒沢さんは長く黙ってから、「今さらですか」と笑って、それから「有効です」と答えた。あの夜、わたしたちは初めて社外の居酒屋で、部下でも上司でもない話をした。仕事の焦りが消えたわけではなかったけれど、彼の隣にいる時間だけは、その焦りが少しだけ軽くなった。
「一つだけ、約束してください」あの夜、わたしは念を押した。「もし始めるなら、仕事とこれは、絶対に混ぜないでください。えこひいきされてるって噂が立ったら、わたし、耐えられません」
「それは、僕のほうから頼みたいくらいです」黒沢さんは即答した。「知世さんの評価が上がるのも下がるのも、僕以外の判断であってほしい。そうじゃないと、知世さんの実力を、僕がいちばん疑うことになる」
その約束は、四ヶ月経った今も、一度も破られていない。だから、この関係にわたしたちの意思以外のものは何もない。会社の外で始まり、会社の外でしか続けられない、それだけの単純な事実があるだけだった。
その週の金曜、営業部の梶くんが北関東の支店へ異動になったことが朝礼で発表された。理由は誰も口にしなかったけれど、同期の経理の子と付き合っていたことは、社内の誰もが知っていた。二人が同じ電車で帰るのを見た、という噂が半年前から流れていたのを、わたしも聞いたことがあった。
「見せしめだよね、あれ」
昼休み、同僚の由香がお弁当をつつきながら言った。「うちの会社、ほんと厳しいから。バレたら片方は飛ばされる。梶くんが可哀想。彼女のほうは残るのに、なんで彼だけって話にもなってるし」
わたしは相槌を打ちながら、味噌汁を飲むふりで顔を伏せた。心臓が変な速さで動いていた。梶くんと経理の子が、どうやって足がついたのか、由香は詳しく話していたけれど、わたしの頭には半分も入ってこなかった。ただ「同じ電車」という言葉だけが、耳の奥で鳴り続けていた。
「知世はそういうのないの? 社内で気になる人とか」
由香が悪気なく聞いてきて、わたしは咄嗟に首を振った。「ないない。仕事だけで手一杯だもん」その言葉がすらすらと出てくる自分に、少しだけ嫌気が差した。嘘をつくことにも、いつのまにか慣れてしまっていた。慣れることが、いちばん怖いのかもしれないと、味噌汁の湯気を見つめながら思った。
午後、企画会議で黒沢さんと目が合った。ほんの一秒にも満たない時間だったのに、彼の視線にいつもと違う硬さがあるのを、わたしは感じ取った。同じことを考えているのだと分かった。会議の議事録を取りながら、わたしは自分の字が心なしか震えているのに気づいた。何も変わっていないはずの会議室が、今日だけはやけに息苦しく感じられた。
会議のあと、資料を片づけていると、後輩の田中さんが「主任、最近お疲れですか」と声をかけてきた。「そんなことないよ」と笑い返しながら、わたしは自分の表情がうまく作れているか、急に自信がなくなった。誰かに顔色を読まれるようになったら、それはもう、隠しごとが限界に近づいている証拠なのかもしれなかった。
デスクに戻って、わたしは梶くんの空いた席をぼんやり眺めた。段ボール一箱に収まった私物と、剥がされた名札の跡。四ヶ月前まで、わたし自身の未来がああなる可能性を、正直どこかで軽く見ていた気がする。自分たちだけは大丈夫だという根拠のない自信は、今日一日で音を立てて崩れていった。
夕方、エレベーターホールで黒沢さんとばったり会った。二人きりだった。彼は一瞬だけわたしを見て、それからすぐに視線を外し、乗り込んだエレベーターの中では、後輩の田中さんが挟まるように立った。三人で無言のまま一階まで降りる時間が、これまでのどんな会議より長く感じられた。田中さんが世間話を振ってくるたび、わたしは相槌を打ちながら、黒沢さんの立ち位置だけを視界の端で確かめていた。
ロビーを出るとき、黒沢さんの背中がいつもよりまっすぐで、他人行儀だった。それが正しい振る舞いだと分かっていても、その正しさが、今夜は妙に胸を刺した。
十九時四十分の電車に乗りながら、わたしは窓に映る自分の顔を見ていた。梶くんの異動が他人事に思えない。四ヶ月、うまくやってきたつもりだった。でも「うまくやる」というのは、結局、隠し続けるという意味でしかなかった。この先も、ずっとこうなのだろうか。誰かに見つかることを、毎日どこかで恐れながら。
スマートフォンが震えた。黒沢さんからの、いつも通り社名も名前も書かれていない一言だった。「今日はゆっくり話したいです」。それだけの文面に、いつもとは違う気配を感じ取って、わたしは吊り革を握る手に力を込めた。彼も同じことを考えている。四ヶ月間、こんなふうに予感だけで通じ合うことが増えていた自分たちに、少しだけ怖くなった。予感で通じ合えるほど近づいた分だけ、隠さなければならないことも増えていく。その引き算が、いつか合わなくなる日が来る気がした。
思い返せば、先週も危ないことがあった。非常階段で書類を運んでいたとき、下りてきた黒沢さんと鉢合わせしたのだ。誰もいない踊り場で、彼の手が一瞬わたしの肩に触れかけ、すぐに引っ込んだ。「危ない、躓きそうだったので」と彼は取り繕うように言ったが、あとで合流したとき「あのときは本当に肝が冷えました」と白状した。監視カメラの位置まで、わたしたちはもう諳んじられるほど覚えてしまっている。それだけの用心を重ねてなお、ヒヤリとする瞬間がゼロにならないという事実こそが、この関係の本当の重さなのかもしれなかった。
マンションに着くと、黒沢さんはもう部屋着に着替えていた。玄関で靴を脱ぐわたしを見て、彼はいつもよりわずかに硬い声で「お疲れさま」と言った。
「梶くんの件、聞きましたか」
わたしが聞くと、黒沢さんは頷いた。ダイニングの椅子に座り、少し間を置いてから答えた。
「聞きました。……今日、エレベーターで会ったとき、正直、怖かった。田中さんがいなかったら、僕はきっと、いつもの顔ができなかった」
「わたしも同じです」
わたしは向かいの椅子に座った。テーブルの上のグラスに指を這わせながら、ずっと考えていたことを、ようやく声にした。
「知世さん」と黒沢さんが先に言った。「疲れてきてますよね、これ」
図星だった。わたしは俯いて、それから顔を上げた。
「実は、三ヶ月前から、ヘッドハンターに声をかけられてます。同業のもう少し大きい会社で、企画のマネージャーポジション。条件は今よりいいです。……ずっと迷ってました。逃げるみたいで嫌だったから」
黒沢さんは黙って聞いていた。わたしは続けた。
「でも、逃げるんじゃない。会社を替えれば、うちの就業規則からわたしは抜けられる。あなたの部下でも、あなたの会社の人間でもなくなる。梶くんを見て、今日、はっきり分かりました。わたしはあなたを諦めたくない。だから、隠れるほうをやめて、条件のいい仕事のほうを選びます」
「僕のために、無理してませんか」
「してません」わたしは即答した。「あの会社、企画職としても魅力的です。給料も上がる。あなたがいなくても、たぶん受けてた。あなたがいるから、迷いがなくなっただけです。あなたのために選ぶんじゃなくて、自分のために選んで、その先にあなたがいる。それだけです」
「本当に、それだけですか」黒沢さんは少し疑わしそうな顔をした。「僕を安心させるために、都合よく言ってませんか」
「疑い深いですね、部長は」わたしはわざとその呼び方を使い、それから声を和らげた。「今の会社にいたら、たぶんもう一段階、責任者としてのポジションが空くまで五年は待つことになります。向こうは、いま欲しがってる。実力を正面から評価してくれる場所を選ぶのは、あなたと出会う前から、わたしが自分に許していいと思っていたことです。あなたはその決断を、ちょっと早めただけ」
黒沢さんはグラスの水面をしばらく見つめていた。それから、ふっと表情を緩めて言った。
「知世さんのそういうところが、好きです。誰かのためだけに生きようとしない強さが」
「褒めてるんですか、それ」
「褒めてます。心から」黒沢さんは真顔で頷いた。「僕が最初に惹かれたのも、そこでした。企画会議で、他の誰も言わない反対意見を、平然と言い切ってたところ」
思いがけない告白に、わたしは少し照れくさくなって視線を逸らした。四ヶ月経っても、彼の言葉にこんなふうに動揺してしまう自分が、少しおかしかった。
黒沢さんは長く息を吐いた。それから、テーブル越しに手を伸ばして、わたしの指先にそっと触れた。
「正直に言うと、怖かったです」しばらくして、黒沢さんがぽつりと言った。「知世さんがいつか、こんな回りくどい恋愛に疲れて、僕を諦める日が来るんじゃないかって。梶くんの異動を見て、今日はずっとそれを考えてました」
「わたしも似たようなことを考えてました。でも、方向が逆でした。あなたを諦めるくらいなら、会社のほうを手放そうって」
「同じ夜に、逆側から同じ結論にたどり着いたんですね、僕たち」
黒沢さんは小さく笑い、それからわたしの手を両手で包んだ。「一つだけ、聞いていいですか。転職先の会社、僕のこと、話しますか」
「まだ話しません」わたしは正直に答えた。「向こうでの評価が固まる前に、恋人の話で色眼鏡をかけられるのは嫌なので。でも、いつかは話します。隠すのはもう、この会社限りにしたいので」
「僕もです。実は、僕の家族にも、まだ知世さんのことは話してません。母がうるさい人なので、変に急かされるのが嫌で。……でも、知世さんが会社を出たら、今度は僕から動きます」
「気が早いですね」
「四ヶ月、我慢した分の反動です」
黒沢さんはそう言って笑い、それからわたしの手を両手で包んだ。「知世さんがそう決めるなら、僕は何も言うことはないです。応援します、心から。……ただ、今夜だけは、部長でも主任でもない時間を、もう少し長くもらえますか」
その声に滲む安堵と欲を、わたしは同時に感じ取った。頷く代わりに、わたしは椅子から立ち上がり、彼の手を引いた。
寝室の灯りを、黒沢さんは点けたままにした。四ヶ月、何度も繰り返してきたはずのその瞬間が、今夜はいつもと違う重みを持っていた。
「決めた日に、こういうのって、変ですか」
わたしが聞くと、黒沢さんは首を振った。
「変じゃないです。……知世さんが自分で選んだ日に、僕もちゃんと知世さんに触れたい」
彼の指がブラウスのボタンにかかった。いつも規則正しく数字を追っているはずの指先が、今夜はわずかに震えていた。一つ外すたび、素肌にひやりとした夜気が触れ、わたしは小さく身を縮めた。黒沢さんはそのたび手を止め、確かめるようにわたしの顔を覗き込んだ。
「痛くしません。……嫌だったら、ちゃんと言ってください」
「大丈夫です。今夜は、隠すこと、何もしたくないので」
その一言に、黒沢さんは目を細め、わたしのうなじに顔を埋めた。唇が首筋を辿り、鎖骨のくぼみへ落ちていく。触れられるたびに肌が粟立ち、喉の奥から堪えきれない吐息が漏れた。ブラウスが肩から滑り落ち、スカートのホックが外される感触に、わたしは彼の背に腕を回してしがみついた。
「知世さんの匂い、金曜だけの匂いだと思ってました。今日で最後にしたくないです、こんな他人行儀な逢い方」
「わたしも」
囁くように答えると、黒沢さんの手のひらが胸のふくらみを包んだ。指先が先端をかすめるたび、腰の奥に甘い痺れが走り、わたしは声を殺そうとして失敗した。漏れた声に、黒沢さんは満足げに息をつき、さらに深く肌をたどっていった。膝の内側を辿られたとき、わたしは思わず彼の名を呼んでしまい、慌てて口元を手の甲で覆った。
「隠さないで。……今日ぐらい、我慢しないでほしいです」
その言葉に押されるように、わたしは腕を下ろした。黒沢さんの指がさらに奥へ進み、そこがすでに潤んでいることに触れると、羞恥で消えてしまいたくなった。けれど黒沢さんは、責めるどころか安堵したように短く笑った。
「よかった。……知世さんも、僕と同じくらい、待ちきれなかったんですね」
「そんなの、言わなくていいです」
抗議は、続く快感の波にすぐさらわれた。黒沢さんの昂ぶりが、潤んだ入り口にそっと触れたとき、わたしは思わず彼の背に爪を立てた。ゆっくりと、けれど確かに沈み込んでくる感覚に、狭い場所を押し広げられる圧迫が走り、わたしは短く息を詰めた。黒沢さんはすぐに動きを止め、額に汗を滲ませたまま、わたしの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です……止まらないで」
答えると、黒沢さんは長く息を吐き、さらに深く己を沈めた。二人の身体が奥まで繋がった瞬間、これまでの金曜の夜のすべてが、この一点に集約されていくような錯覚を覚えた。律動は最初、確かめるように緩やかだった。黒沢さんはときどき動きを止め、わたしの額に唇を寄せて「痛くないですか」とだけ確かめた。そのたびわたしは小さく頷き、腰を寄せて答えにした。
律動が次第に深まっていくにつれ、わたしの喉から漏れる声はもう抑えられないところまで大きくなった。そのたび黒沢さんは低く名を呼び、応えるように動きをわずかに速めた。
「知世さん……そんなに、締めつけると」
余裕を失った掠れ声に、わたしは彼の背に腕を回した。汗の滲む額が、わたしの額に重なる。黒沢さんは一度、繋がったまま身を起こし、わたしを横向きに抱き直すと、背中から包み込むようにして律動を続けた。触れる角度が変わるたび、これまでとは違う場所を擦られる感覚に、わたしは思わず高い声を上げ、慌てて枕に顔を埋めた。
「我慢しないで。……今夜だけは、隣の部屋を気にしなくていいので」
その一言に、わたしの中にあった最後の遠慮が崩れた。奥を穿たれるたびに目の前が白く霞み、金曜だけの秘密も、月曜からの他人行儀な笑みも、すべてがこの熱の中に溶けて消えていった。黒沢さんはもう一度体位を変え、今度はわたしを組み敷くようにして深く沈み込んだ。額から落ちる汗が、わたしの鎖骨に滴った。荒い息の合間に彼が漏らす声は、いつもの落ち着いた部長の声とはまるで違う、余裕を失った掠れたものだった。
律動の速さが増すたびに、繋がった場所からあがる濡れた音が、静かな寝室に響いた。恥ずかしさに耳を塞ぎたくなったけれど、黒沢さんの手がわたしの手を取り、シーツに縫い止めるように指を絡めてきたので、逃げ場はどこにもなかった。深く貫かれるたびに腰の奥が疼き、わたしは彼の名を、これまでで一番大きな声で呼んでしまった。隣室を気にする理性は、もうどこにも残っていなかった。
黒沢さんの背には、いつのまにか薄く汗が浮き、肩の筋が張り詰めているのが、抱きついた腕越しに伝わってきた。彼の息は乱れ、時折わたしの耳元で名前を呼ぶ声だけが、やけに近く聞こえた。互いの体温が溶け合い、寝室の空気そのものが重たく湿っていくようだった。
一度、黒沢さんは動きを緩め、汗ばんだわたしの頬に手を添えて、確かめるように瞳を覗き込んだ。「苦しくないですか」と聞かれ、わたしは首を横に振る代わりに、自分から腰を押しつけた。その仕草に黒沢さんは短く息を呑み、それからまた、ゆっくりと律動を再開させた。緩やかな動きが再び速さを増していくたび、わたしの中でくすぶっていた熱が、また少しずつ高まっていくのが分かった。
やがて律動が速まり、二人の呼吸が短く重なっていくと、わたしの内側で何かが張り詰め、限界に近づいていくのが分かった。黒沢さんもまた、こらえるように低く呻き、最後にひときわ深く身を沈めた瞬間、わたしは声にならない声を上げて、彼の背にしがみついた。全身が甘く痺れ、力の抜けていく感覚だけが、しばらく身体の内側に残っていた。
「……大丈夫でしたか」
律動がやんだあと、黒沢さんは汗ばんだわたしの額に、そっと唇を落としながら尋ねた。
「大丈夫どころじゃないです。しばらく、立てる気がしません」
正直な呟きに、黒沢さんは小さく笑い、汗の冷えていく肌にそっと上掛けを引き寄せた。数字と規則にきっちり従うはずの彼の手が、今は乱れたシーツを直そうともせず、ただわたしの背をゆっくりと撫でていた。その乱れ方さえ、わたしには愛おしく思えた。
しばらくして、黒沢さんの指先がまたわたしの腰のあたりを撫でた。「もう一度、いいですか」と囁く声に、わたしは答える代わりに彼の胸に頬を寄せた。二度目は最初よりゆっくりと、確かめ合うような時間だった。深く沈むたびに漏れる声は、もう隠す理由も、隠す気力も残っていなかった。すべてが終わったあと、わたしたちはしばらく言葉もなく、互いの心臓の音だけを聞いていた。
窓の外が白み始める頃、わたしたちはまだ眠らずに並んでいた。
「月曜、辞令のこと、課長に話します」
わたしが言うと、黒沢さんは少し驚いた顔をした。
「もう決めたんですか」
「決めました。今夜決めたんじゃなくて、たぶん、ずっと前から半分決まってたんです。今夜、背中を押されただけで」
「後悔、しませんか」
「しません」わたしは黒沢さんの胸に頭を預けた。「新しい会社でも、企画の仕事は続けられます。給料も上がる。それはあなたと関係なく、わたし自身のための選択です。ただ、その先に、隠れなくていいあなたがいることが、何より嬉しいだけです」
黒沢さんはしばらく黙っていたが、やがてわたしの髪に指を通しながら、静かに言った。
「引き継ぎが済んで、知世さんが会社を出たら、次の金曜は、他人の顔をしなくていいですか」
「合鍵、玄関の鍵に変えてもらえますか。裏に貼っておくのはもう、やめにしたいです」
その言葉に、黒沢さんは声を立てて笑った。四ヶ月間、金曜以外には見たことのなかった、飾らない笑い方だった。
「変えておきます。……知世さんがうちに帰ってくる日のために」
月曜、課長に転職の意思を伝えると、驚かれこそしたものの、引き止められることはなかった。「主任のキャリアなら、うちより向いてる場所があっても仕方ない」とだけ言われ、わたしは少し拍子抜けした。隠してきたものの重さに比べて、辞めること自体は、拍子抜けするほど普通の手続きだった。
一ヶ月後、わたしは正式に転職先へ移ることになった。最終出社日、由香は「また飲もうね」と何も知らないまま笑って送り出してくれた。黒沢さんとは、エレベーターですれ違ったとき、ほんの一瞬だけ視線が絡んだ。誰も気づかない、けれどわたしにだけは分かる合図だった。
その週末、わたしは初めて、彼のマンションの正面玄関を、誰の目も気にせず堂々とくぐった。合鍵はもう名刺入れの裏ではなく、わたしの鍵束に、他の鍵と並んでぶら下がっている。土曜の朝、二人で近所のパン屋まで歩いた。すれ違う人に会釈されても、慌てて距離を取る必要はなかった。黒沢さんが何気なくわたしの手を取り、指を絡めたとき、わたしはようやく、この四ヶ月間ずっと欲しかったものの正体に気づいた。特別な瞬間ではなく、何でもない瞬間を、人目を気にせず並んで歩けること。それだけのことが、これまでのどんな金曜よりも、確かな約束のように思えた。
次の月曜から、わたしは新しい名刺を持って、新しいオフィスへ向かう。もう合鍵を裏に貼る必要も、電車を分ける必要もない。金曜だけだった二人の時間は、これからようやく、他の曜日にも広がっていく。
四ヶ月間、わたしたちを縛っていたのは、就業規則の一文でしかなかった。けれど今振り返ると、その一文が、わたしたちにお互いをどれだけ求めているかを、何よりも正確に測らせてくれた気もする。隠さなければ気づかなかった重さも、たしかにあった。これから先、隠す必要のない毎日の中で、その重さをどう育てていくかは、わたしたちにしか分からない。
新しい会社での初出勤の朝、黒沢さんからメッセージが届いた。今度はもう、社名も名前も伏せる必要のない、ただの「頑張って」という一言だった。それを見て、わたしは少しだけ泣きそうになった。四ヶ月間、こんな当たり前の言葉を、当たり前に送り合うことすらできなかったのだと、改めて思い知らされたからだ。
ただ一つだけ確かなのは、次の金曜、わたしはもう電車を分ける必要がないということだった。合鍵を握りしめて改札を抜けるとき、周りの誰にも気づかれずに済むという安心感ではなく、誰に見られても構わないという、もっと単純な安心感が、初めて胸の中にあった。
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