離婚した元夫と、再婚相手の顔合わせ前夜に同じホテルに泊まっている
三年前に離婚した元夫と、妹の結婚式前夜、同じホテルのバーで鉢合わせた。互いに新しい相手がいると思い込んでいたのに、口を開けば出てくるのは、離婚の理由にもならなかった小さな本音ばかりで——三十六歳と三十九歳が、ようやく素面で向き合う一夜。
妹の結婚式は明日の午後二時から、隣県のこのホテルの庭園で執り行われる。受付を終えた宮田奈津子は、エレベーターホールに向かう途中、ロビーバーのカウンターに見覚えのある背中を見つけて足を止めた。仕立てのいいジャケットの肩の線、少し猫背気味の座り方。三年前まで、毎晩その背中の隣で眠っていた。
「……忍さん」
声をかけるつもりはなかった。けれど口が勝手に動いていた。振り返った男は一瞬だけ目を見開き、それからいつもの、困ったような笑い方をした。
「奈津子。……来てたのか、そうか、妹さんの」
離婚した元夫の宇佐美忍は、妹の長年の友人でもあった。式に招かれているのは知っていたが、まさか同じホテルに、同じ夜に泊まっているとは思わなかった。三十六歳になった奈津子と、三十九歳になった忍。憎み合って別れたわけではない。ただ、互いに言葉を惜しみすぎて、静かに擦り切れただけの六年間だった。今夜だけは、その擦り切れた場所に、もう一度触れてしまう予感がした。
エレベーターホールで立ち尽くしたまま、奈津子は結婚していた六年間のことを、ほんの数秒で思い出していた。忍と出会ったのは二十七歳の春、共通の友人が開いた飲み会でのことだった。物静かで、口数は少ないが聞き上手な男だった。三年付き合って結婚し、二人でこのホテルからそう遠くない街にマンションを買った。ベランダから見える隣の棟の屋根の色まで、今も鮮明に思い出せる。
離婚を切り出したのは、奈津子のほうだった。忍が浮気をしたわけでも、暴力を振るったわけでもない。ただ、毎晩帰りが遅くなる忍に「大丈夫?」と聞くたび、「大丈夫」としか返ってこないやり取りに、少しずつ心がすり減っていった。心配していることすら、伝わっていない気がした。離婚届を書いたあの夜、忍は何も言わずに判を押した。止めてほしかったのか、解放されたかったのか、奈津子自身、今でもわからない。
荷物を整理していたときに見つけた、忍が仕事の合間に書いたらしいメモ帳の隅の走り書きを、奈津子は今も忘れられずにいる。「奈津子に、ちゃんと話す時間を作る」――ただそれだけの一文だった。結局、その約束が果たされることはなかった。
バーのカウンターに近づきながら、奈津子は自分の心臓が思いのほか強く鳴っていることに気づいた。三年という時間は、忘れるには短すぎたのかもしれない。
「隣、座ってもいいですか」
奈津子は自分でも意外なほど自然にそう言えた。忍は少し驚いた顔をしたあと、隣のスツールを軽く手で示した。
「もちろん。何か飲む?」
「同じものを」
バーテンダーが新しいグラスを用意する間、二人はしばらく黙っていた。沈黙は気まずいというより、久しぶりに聞く相手の呼吸の間合いを、互いに確かめ合っているような静けさだった。
「明日、緊張してる?」と忍が聞いた。「妹さんの晴れ舞台だもんな」
「してる。スピーチ、三回書き直した」
「奈津子らしいな。昔からそうだった。誕生日カードの文面すら三回は書き直してた」
「よく覚えてるね、そんなこと」
「覚えてるよ」忍はグラスを見つめたまま、静かに答えた。「あの頃のことは、案外、全部覚えてる」
その言い方に、奈津子は胸の奥が小さく波立つのを感じた。離婚してからの三年間、忍のことは意識して思い出さないようにしてきた。それなのに、こうして声を聞いただけで、忘れたつもりの記憶が次々と輪郭を取り戻していく。
「再婚するって、風の噂で聞いたけど」
奈津子が言うと、忍は苦笑した。
「誰から聞いた、それ。……してないよ。噂が勝手に先を歩いてる」
「そうなんだ。てっきり」
「奈津子こそ、彼氏がいるって聞いたぞ、妹さんから」
「破談になった。半年前に」
言ってしまってから、奈津子は少し驚いた。誰にも打ち明けていなかった話が、こんなにあっさり口から出るとは思わなかった。忍もまた、意外そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。詮索しないところは、昔から変わっていない。
三十九歳の忍は、離婚した当時よりも少し痩せていた。目の下にうっすらとできた影が、この三年の重さを物語っているようだった。奈津子はそれを見て、聞かずにいられなかった。
「ちゃんと、寝れてる?」
「……相変わらず、鋭いな」
忍はグラスの中の氷を揺らした。
「あんまり。仕事が変わって、責任も増えたし。……あと単純に、隣に誰もいないと、眠りが浅い性質らしい。今頃気づいたよ、そんなこと」
その言葉に、奈津子は思わず息を止めた。結婚していた頃、忍がまとめて眠れなかった夜、奈津子はいつも黙って背中をさすっていた。あの習慣を、忍はもう忘れているのだと思っていた。
「私も」奈津子は小さく言った。「同じ。眠りが浅い」
忍がこちらを見た。奈津子はグラスの水面に映る自分の顔から、目を逸らせなくなった。
「離婚して、正解だったと思う?」
不意打ちのような問いだった。忍の声には、責める色も、恨む色もなかった。ただ純粋に、答えを知りたいだけの声だった。
「わからない」奈津子は正直に答えた。「間違ってたとも、正解だったとも、言い切れない。ただ……」
「ただ?」
「言えばよかったこと、たくさんあった気がする。あの頃は言わなくてもわかってくれると思ってた。でも、そんなの、傲慢だったよね」
忍は長く息を吐いた。
「それ、俺が言おうと思ってた台詞だ」
忍は少し笑ってから、ふと真顔に戻った。
「奈津子は、俺のこと恨んでる?」
「恨んでない。……ただ、寂しかった。あなたが何を考えてるか、わからなくなっていくのが」
「俺も同じだったよ。奈津子が笑ってるとき、それが本当の笑顔なのか、我慢してる笑顔なのか、途中からわからなくなった。聞けばよかったのに、聞くのが怖かった」
「怖かったの、忍さんも?」
「怖かった。聞いて、『やっぱり無理』って言われるのが。だから、聞かないふりをして、仕事に逃げた」
奈津子は自分の中で、何かがゆっくりとほどけていくのを感じた。忍が「怖かった」と口にするのを、結婚していた六年間、一度も聞いたことがなかった。強がりでも意地でもなく、ただ本当に、その言葉を持ち合わせていなかったのだと、今になって奈津子は理解した。
「この三年、どうしてたの」奈津子は聞いた。「仕事は順調そうだけど」
「順調というか、忙しいだけだよ。去年、部署が変わって、今はほとんど休みなく現場を回ってる。……奈津子は? 実家に戻ったって、風の噂で」
「うん、しばらく戻ってた。今は職場の近くに、また一人で部屋を借りてる。カーテンの色まで、前と同じの選んじゃって、自分でも笑った」
「同じ色、覚えてるよ。淡いグレーの」
「よく覚えてるね、そんな細かいこと」
「奈津子に関することは、忘れようとしても忘れられなかった。整理できてないものを、無理やり棚の奥に押し込んでただけだったんだと思う。……今夜、その棚が開いてしまった感じがする」
その比喩に、奈津子は思わず笑ってしまった。真面目な忍が、こんな柔らかい言い方をするのは珍しかった。
離婚の原因は、浮気でも借金でもなかった。互いに仕事に追われ、すれ違いを埋める言葉を、どちらも先に差し出そうとしなかった。プライドが邪魔をした。奈津子は「察してほしい」と思い、忍は「聞かれたら答える」と思っていた。すれ違いの正体は、そんな些細な意地の張り合いだったと、離婚してから何度も気づいては、遅すぎる気づきに一人で苦笑いした。
「あの頃さ」忍が言った。「俺、仕事の話をあんまりしなかっただろ。奈津子に心配かけたくなくて。でも、それが逆に、壁を作ってたんだよな、たぶん」
「私もそう。忍さんが疲れてるの、わかってて、あえて聞かなかった。聞いたら、負担になると思って」
「気遣いのつもりが、二人とも、相手を蚊帳の外に置いてた」
「うん」
奈津子はふと、結婚三年目の冬のことを思い出した。忍の父が体調を崩し、忍は毎週末、実家へ様子を見に通っていた。疲れているだろうに、忍は帰宅するたび「大丈夫、心配いらない」としか言わなかった。心配していることを伝えたくて、奈津子は何度も「一緒に行こうか」と申し出たが、忍はそのたびやんわりと断った。今にして思えば、あれも気遣いという名の壁の一枚だったのだろう。
「お義父さんの調子、あの頃どうだったの。私、結局最後まで詳しく聞けなかった」
「持ち直したよ。今も元気にしてる。……あの頃、奈津子を巻き込みたくなかった。自分の家族のことで、負担かけたくなかったんだ」
「巻き込んでほしかった。家族になったつもりでいたから、余計に」
忍は小さく頷いた。何かに気づいたような、静かな頷き方だった。
奈津子は自分の膝の上で、指を軽く組んだ。
「離婚届を出した日、忍さん、区役所の帰り道で、一度だけ立ち止まったよね。何か言いたそうにしてた」
忍は目を見開いた。
「覚えてたのか、それ」
「覚えてる。結局、何も言わずに、また歩き出したけど」
「……『やめないか』って、言おうとしてた」
その一言に、奈津子の喉が詰まった。三年間、聞くことのなかった台詞だった。
「なんで、言わなかったの」
「言ったところで、状況が変わる自信がなかったから。同じことを繰り返すだけなら、言葉にする意味がないと思った。……今思えば、それも間違ってたな」
奈津子は膝の上に置いた手を、きつく組み直した。
「私も、似たようなことがある。離婚届を出す前の晩、荷物をまとめながら、何度も忍さんの部屋のドアの前まで行った。ノックしようとして、やめた。……今更、何を言えばいいのかわからなくて」
「何を、言おうとしてたんだ」
「『本当は、まだ好き』って。……子供みたいでしょう。離婚届を書いた張本人が、それを言う権利なんてないと思って、結局、飲み込んだ」
忍はグラスを持つ手を止め、しばらく黙って奈津子の横顔を見つめていた。
「その言葉、三年遅れて聞くとは思わなかった」
「今更だよね、こんなの」
「今更でも、聞けてよかった」
忍の声には、皮肉も後悔も滲んでいなかった。ただ静かな、確かな響きだけがあった。奈津子はグラスの縁を指先でなぞりながら、この三年間、忍のいない生活にどれほど慣れようとしても、慣れきれなかった自分を思い出していた。新しい人と会っても、どこかで忍と比べてしまう。そんな自分を、ずるいと思ったこともある。
バーの照明が少しずつ落とされ、閉店時間が近いことを告げていた。他の客はもうほとんどいなかった。奈津子はグラスの最後の一口を飲み干し、ふと思い切って聞いた。
「明日、妹の隣で、忍さんと目が合うたびに、平気なふりしなきゃいけないんだよね」
「……そうだな」
「正直、自信ない」
忍はしばらく黙っていた。それから、静かに、けれどはっきりとした声で言った。
「部屋、何階?」
奈津子は一瞬、息を止めた。忍の目には、ためらいと同じくらいの強さで、確かな意志が浮かんでいた。それは三年前、すれ違ったまま言えなかった言葉の続きのように、奈津子には思えた。
「……八階」
「俺も、近い。……少し、話さないか。部屋で」
言葉の意味を、奈津子は正確に理解していた。それでも頷いたのは、酔いのせいでも、寂しさのせいでもなかった。ただ、今夜という夜が、二人にもう一度、言葉を交わす最後の機会をくれているような気がしたからだった。
エレベーターの中、二人は無言だった。だが沈黙の質は、バーにいたときとはまるで違った。押し殺した緊張が、狭い箱の中に満ちていた。奈津子の部屋の前で、忍は少し離れた場所に立って待っていた。カードキーを差し込む手が、少しだけ震えた。
部屋に入ると、忍はドアを閉め、しばらくそこに立ったまま動かなかった。
「本当に、いいのか」奈津子の手を取る前に、忍は確かめた。「明日を迎える前に、こんなことして。後悔しないか」
「後悔するとしたら」奈津子は忍の目をまっすぐ見て言った。「今夜、何も言わずに終わることのほうだと思う」
その答えに、忍は小さく息を吐いた。安堵とも、覚悟とも取れる、深い息だった。忍の手が奈津子の頬に触れ、そのまま輪郭をなぞるように顎の下まで下りてきた。ためらいがちだったその指先が、奈津子の肌の温度を確かめると、次第に確かな熱を帯びていった。
「……三年ぶりだ」
「うん」
「怖い?」
「怖くない。ただ、少しだけ、緊張してる」
その正直な返事に、忍は目を細めた。唇が重なると、最初はどちらも探るような、確かめ合うような柔らかさだった。だが次第に深くなっていく口づけの中で、奈津子は自分の腕が自然と忍の背に回っていることに気づいた。忘れたつもりだった体の記憶が、次々と呼び起こされていく。
忍の指がブラウスのボタンにかかった。一つ、また一つと外していく手つきは、記憶にあるより少し緩慢で、慎重だった。
「変わってない」忍が呟いた。「ここに触れると、少し震えるところも」
鎖骨に指先が触れた瞬間、奈津子は本当に小さく身を震わせてしまい、恥ずかしさに目を伏せた。
「覚えてるの、そんなことまで」
「全部、覚えてる。忘れようとしても、忘れられなかった」
その一言が、奈津子の中に残っていた最後のためらいを溶かしていった。ブラウスが肩から滑り落ち、忍の手が背中のホックに触れる。素肌が夜気に触れた瞬間、奈津子は思わず腕で胸元を隠そうとしたが、忍がその手をそっと取り、指先に唇を寄せた。
「隠さないでくれ。……ずっと、こうして見たかった」
低い声に、奈津子の肌が熱を持った。忍の唇が首筋から鎖骨、そのまま胸のふくらみへと下りていく。触れられるたびに背が小さく反り、喉の奥から堪えきれない声が漏れた。壁の薄いホテルの部屋であることを思い出し、奈津子は慌てて自分の手の甲を口元に押し当てた。
「声、我慢しなくていい」忍が顔を上げて囁いた。「もう、誰にも遠慮する必要ないんだから」
「でも……隣の部屋に、明日の式の関係者が」
「なら、俺が塞ぐ」
そう言うと、忍は口づけで奈津子の声をそのまま塞いだ。その優しい強引さに、奈津子は目の奥が熱くなるのを感じた。忍の指が脚の内側を辿り、下着の上から、すでに奈津子がどれほど彼を求めているかを確かめると、忍は小さく息を漏らした。
「……そんなに、待っててくれたのか」
「意地悪、言わないで」
奈津子が小さく睨むと、忍は珍しく声を立てて笑い、それから真剣な表情に戻って、下着をゆっくりと脱がせていった。指先が潤んだ場所に触れた瞬間、奈津子は腰を浮かせるようにして声を漏らした。慣れた手つきというより、記憶の中の感覚を丁寧になぞり直すような、確かめる触れ方だった。
「奈津子、大丈夫か」
「大丈夫……止まらないで」
忍は自身の衣服を手早く脱ぎ捨てると、奈津子の脚の間に身を沈めた。昂ぶりが入り口にそっと触れたとき、奈津子は思わず彼の肩に爪を立てた。ゆっくりと、けれど確かに押し広げられていく感覚に、三年という時間の隔たりを思い知らされるような圧迫が走った。忍はすぐに動きを止め、額に汗を滲ませながら奈津子の顔を覗き込んだ。
「痛くないか」
「痛くない……ただ、久しぶりで、少し」
「無理はさせない。ゆっくりいくから」
そう言って、忍はさらに深く、時間をかけて己を沈めていった。奥まで満たされた瞬間、奈津子は声にならない吐息を漏らし、忍の背にしっかりと腕を回した。三年前、離れていった夜の記憶と、今この瞬間の熱が、頭の中で溶け合っていくようだった。
律動は最初、確かめるように緩やかだった。忍は時折動きを止めて、奈津子の額に唇を寄せ、「大丈夫か」とだけ確かめた。そのたび奈津子は小さく頷き、自分から腰を寄せて応えた。次第に律動が深まっていくにつれ、奈津子の喉から漏れる声はもう抑えきれないところまで大きくなった。
「奈津子……そんなに、締めつけると」
余裕を失った掠れ声に、奈津子は枕に顔を半分埋めながら、それでも声を殺しきれなかった。忍は一度、繋がったまま奈津子の腰を抱え、体勢を変えて横向きに抱き直した。触れる深さと角度が変わるたび、これまでとは違う場所を擦られる感覚に、奈津子は思わず高い声を上げ、慌てて自分の手で口を覆った。
「我慢しなくていいって、言っただろう」
「だって……声、出ちゃう」
「出せばいい。今夜だけは、誰に気兼ねすることもない」
その言葉に、奈津子の中にあった最後の遠慮が崩れ落ちた。奥を突かれるたびに視界が白く霞み、明日の式のことも、三年間の空白も、すべてがこの熱の中に溶けて消えていった。忍の額から落ちる汗が、奈津子の頬に触れる。互いの息が短く重なり合い、部屋の空気そのものが熱を帯びていくようだった。
やがて律動が速まり、奈津子の内側で何かが張り詰めていくのがわかった。忍もまた、こらえるように低く呻き、最後にひときわ深く身を沈めた瞬間、奈津子は声にならない声を上げて、彼の背にしがみついた。全身が甘く痺れ、力の抜けていく感覚だけが、しばらく身体の内側に残っていた。
「……大丈夫か」
律動がやんだあと、忍は奈津子の汗ばんだ額に、そっと唇を落としながら尋ねた。
「大丈夫。ただ、まだ身体の奥に、忍さんがいる気がする」
「そんなことを言われると、また触れたくなる」
正直な呟きに、奈津子は小さく笑った。忍は乱れたシーツを引き寄せ、奈津子の背をゆっくりと撫でた。汗の冷えていく肌に、その手のひらの温度だけが確かだった。
しばらく二人とも口を開かず、ただ互いの息が整っていく気配だけを聞いていた。奈津子は忍の胸に頬を寄せ、規則正しくなっていく鼓動を数えた。三年ぶりに感じるその音は、記憶の中にあるものより少しだけ速く、少しだけ強く、奈津子の耳の奥に響いた。
「奈津子」
「なに」
「さっきの言葉、もう一回言ってもいいか」
「どの言葉」
「『まだ好き』って、さっき、バーで」
奈津子は忍の胸に顔を埋めたまま、小さく笑った。
「言った。……忍さんは?」
「同じだよ。ずっと、言えなかっただけで」
「明日、平然としてる自信、ますますなくなった」
奈津子が言うと、忍は笑いながら、額に軽く唇を落とした。
「俺もだ。……でも、それでいいと思う」
窓の外が白み始める頃、二人はようやく眠りに落ちた。互いの体温だけを確かめ合うように、抱き合ったまま。
翌朝、式場の庭園には、初秋の柔らかな光が差し込んでいた。列席者席の少し離れた場所に、奈津子と忍は並んで座った。誰の目にも、旧知の間柄程度にしか映らなかっただろう。だが誓いの言葉が読み上げられる間、二人の手は、テーブルクロスの下でそっと重なっていた。
披露宴が終わり、参加者がまばらになった庭で、忍が改まった様子で言った。
「もう一度、ちゃんと言わせてくれないか」
「何を」
「やめないか、って。あの日、言えなかった言葉」
奈津子は目を見開いた。忍は続けた。
「離婚をやめようとは言えない。もう出した届けは戻らない。だから、代わりに言う。……もう一度、一緒に暮らさないか。今度は、ちゃんと言葉にする。黙って察してもらおうとしない」
奈津子は少しの間、庭の緑を見つめていた。それから、笑って言った。
「条件がある」
「なんでも聞く」
「疲れてる日は、疲れてるって言うこと。私も、ちゃんと聞くから」
「約束する」
「じゃあ、いいよ」
二人の間に、初めて交わされる本当の約束があった。契約でも、義務でもない、ただ互いに選び直した言葉だった。
「一つ、聞いていい?」奈津子は忍の顔を見上げた。「昨日の夜、私を部屋に誘ったの、酔ってたから?」
「酔ってはいたけど、それが理由じゃない」忍は少し考えるように間を置いてから続けた。「バーで話してるうちに、このまま何も言わずに別れたら、一生後悔すると思った。式が終わって、それぞれの生活に戻ったら、二度とこんな機会はないだろうって」
「私も、同じこと考えてた」
「じゃあ、意見が一致してよかった」
忍が冗談めかして言うと、奈津子は声を立てて笑った。庭の隅では、妹とその夫が招待客に見送られながら、幸せそうに手を振っていた。その光景を横目に、奈津子はふと、自分たちもまた、遠回りをした末にようやく同じ場所へ辿り着いたのだと思った。
「実家の両親には、俺から話してもいいか」忍が言った。「今度こそ、ちゃんと筋を通したい」
「うん。お母さん、きっと驚くと思うけど」
「驚いたついでに、今度は仲人でも頼まれそうだな」
「やめてよ、気が早い」
軽口を叩き合いながらも、二人の間には、確かな安堵と決意が同居していた。
妹夫婦には、しばらく黙っていようと決めていた。だが結婚式の写真を整理していた妹が、披露宴のテーブル写真に写り込んだ二人の重なった手に気づき、「これ、何?」と目を丸くした。奈津子が言い訳を探しあぐねていると、忍が先に「もう一度、一緒にやり直すことにした」とあっさり白状してしまい、妹はしばらく絶句したあと、「先に言ってよ、もう」と笑いながら泣いた。
半年後、奈津子と忍は籍を入れ直した。役所の窓口で、前と同じ職員に「あれ、以前もいらっしゃいましたよね」と苦笑まじりに言われ、二人で顔を見合わせて笑った。届を出したあと、忍は前のときとは違い、その足で花屋に寄って小さな花束を買った。「今度は、ちゃんと形にしたかった」と少し照れながら差し出されたそれを、奈津子は一輪ずつ数えるようにして受け取った。
新しい部屋には、以前より一回り小さなダイニングテーブルを選んだ。二人分の会話が、もう二度と途切れないようにという、忍のささやかなこだわりだった。壁には、以前は飾らなかった二人の写真を並べて掛けた。奈津子が「恥ずかしい」と渋ると、忍は「隠すことなんてもう何もないだろう」と笑って譲らなかった。
夜、眠る前に忍が仕事の愚痴をこぼすようになった。奈津子もまた、些細な不安を、その日のうちに口にする癖がついた。以前なら黙って飲み込んでいたはずの小さな不満も、今は口に出すたびに、驚くほど軽くなって消えていった。言葉にすることは、思っていたよりずっと簡単で、そしてずっと大きな意味を持っていた。
「今日、上司にきつく当たられた」と忍がこぼせば、奈津子は「それは腹立つね」とただ相槌を打つだけで済ませることもある。以前は解決策を急いで探そうとして、かえって忍を追い詰めていたのだと、今になって気づいた。聞くことは、答えを出すこととは違う。ただ隣にいて、聞いているという事実だけで、十分なこともあるのだと、二人はこの一年で少しずつ学んでいった。
妹の結婚式から一年が経った秋、二人はあのホテルのバーに、記念日として立ち寄った。同じカウンター、同じスツールに座り、忍が笑って言った。
「あの夜、声をかけてくれてありがとう」
「かけたの、私からだったっけ」
「そうだよ。奈津子から」
「じゃあ、私の手柄だ」
グラスを合わせる音が、静かなバーに小さく響いた。窓の外では、去年と同じように、初秋の風が庭木を揺らしていた。
バーテンダーは代替わりしていたが、カウンターの木目も、天井の照明の落ち具合も、あの夜のままだった。奈津子はグラスの中の氷を見つめながら、この一年で積み重ねてきた、地味だけれど確かな時間を振り返った。喧嘩をしなかったわけではない。忍が急な出張を入れて連絡を怠ったときは、奈津子も声を荒げた。それでも、以前のように黙り込むことはなくなった。言い合ったあとには必ず、どちらかが「さっきはごめん」と口にする習慣ができていた。
「来年もここに来る?」奈津子が聞いた。
「もちろん。再来年も、その先も」
「気が早いね」
「早いくらいで、ちょうどいいんだ。……一度、伝えるのを先延ばしにして、三年も無駄にした男の台詞だから」
忍の言葉に、奈津子は目を細めて笑った。窓の外を、宴を終えたばかりらしい客たちが、幸せそうな顔で通り過ぎていく。奈津子は隣に座る忍の横顔を見て、もう二度と、この横顔を見失わずに済むだろうと、静かに確信していた。
(了)
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