十年ぶりの同窓会で、当時いちばん話せなかった相手と最後まで残ってしまった
大学のゼミで四年間同じ教室にいたのに、ほとんど言葉を交わせなかった相手と、十年ぶりの同窓会の二次会に最後の二人で残ってしまった。互いに「嫌われている」と思い込んでいた勘違いが解けたとき、三十二歳になった二人の間に、ようやく素直な距離が生まれる。
ホテルの宴会場に「祝・卒業十周年」の垂れ幕がかかっているのを見て、三十二歳になった川嶋美緒は、思わず苦笑した。大学の建築デザイン学科、都市計画ゼミの同期十八人のうち、集まったのは十二人。市役所で建築指導係を務める美緒は、受付で名簿を確認しながら、ある名前を探して、そして見つけて、小さく息を止めた。「橋本悠真」。当時、同じゼミで四年間机を並べていたのに、二人きりで話した記憶はほとんどない。嫌われているのだと、美緒はずっと思い込んでいた。まさか今夜、その思い込みが十年越しに崩れることになるとは、まだ知らなかった。
宴会場の照明の下、久しぶりに顔を合わせた同期たちは、変わったところと変わらないところを見つけては笑い合った。美緒は市役所で都市計画課の建築指導係として働き、古い建物の耐震診断や、街並みの景観保全に携わっている。乾杯のあと、幹事の声に紛れて視線を巡らせると、会場の隅、あまり目立たない場所に、橋本悠真の姿があった。
在学中とほとんど変わらない、静かな佇まい。大学時代、悠真は寡黙で、必要なこと以外はほとんど口にしない男だった。美緒は当時、彼のことを苦手だと思われているのだと信じて疑わなかった。ゼミの発表で意見が食い違ったとき、悠真は美緒の案に対して「非効率だ」とだけ言い放ち、それ以上の説明もなかった。あの一言が、美緒の中にずっと小さな棘のように残っていた。
都市計画ゼミは、四年間を通して同じ十八人が机を並べる、比較的小さな集まりだった。それでも美緒と悠真が言葉を交わす機会は驚くほど少なかった。グループ課題で同じ班になったことも二度あったが、そのたびに悠真は黙々と模型を作り、美緒は資料をまとめる役に徹し、必要最低限の業務連絡以外の会話はほとんど生まれなかった。他の同期たちが飲み会や合宿で打ち解けていくのを横目に、美緒はいつも、悠真との間にだけ薄い膜が張られているような感覚を覚えていた。
卒業設計の講評会は、美緒にとって特に苦い記憶だった。半年かけて仕上げた集合住宅の提案に、教授陣からは概ね好意的な評価をもらえた。だが講評のあと、隣の展示台にいた悠真が、美緒の図面を一瞥しただけで何も言わずに視線を戻したことが、ずっと引っかかっていた。何かひとこと感想が欲しかったわけではない。ただ、無視されたように感じたその一瞬が、美緒の中で「彼には認められていない」という確信に変わってしまった。
「川嶋さん、久しぶり」
声をかけてきたのは、当時ゼミ長だった坂上だった。今は工務店を営んでいるという。周りには、久々の再会を喜ぶ声が飛び交っていたが、美緒の視線は、どうしても会場の隅の悠真に引き寄せられてしまう。
宴もたけなわになった頃、美緒は久しぶりに聞く名前に驚いた。同い年で三十二歳になったはずの悠真は、大学卒業後、家業の家具工房を継ぎ、今では自身の工房を構える家具職人になっているという。
「橋本、あの寡黙さのまま、今も無口な職人やってるらしいよ」坂上が笑いながら言った。「腕は本物らしいけどな。この前、雑誌にも載ってた」
「そう、なんだ」
美緒は当たり障りなく相槌を打ちながら、内心では別のことを考えていた。四年間、同じ教室で過ごしたのに、悠真と交わした会話は数えるほどしかない。
三年生の夏、二人が同じ班になった集合住宅の設計課題では、こんなこともあった。美緒が提案した中庭のデザインに対して、悠真は模型を無言でじっと見つめたあと、「動線が悪い」とだけ言って、自分の作業に戻ってしまった。他の班員が気を利かせて場を取り繕ってくれたが、美緒はその夜、下宿の部屋で一人、悔しさと情けなさに枕を濡らした。今にして思えば、あの一言もまた、悠真なりの不器用な指摘に過ぎなかったのかもしれない。だが当時の美緒には、それを差し引いて受け止める余裕がなかった。
美緒はグラスを傾けながら、坂上の話に相槌を打ち続けた。あの頃の悔しさは、もう遠い記憶のはずなのに、悠真の名前を耳にした途端、驚くほど鮮明に蘇ってきた。
二次会は近くの居酒屋に流れた。美緒はグラス片手に窓際の席に座り、賑やかな笑い声を遠くに聞きながら、なんとなく物思いに沈んでいた。ふと隣を見ると、いつの間にか悠真が座っていた。
「……久しぶり」
美緒が先に声をかけると、悠真は少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「久しぶり。……市役所、って聞いた。建物の仕事、してるんだな」
「うん。悠真くんは、家具職人になったんだってね。すごいね」
「たいしたことじゃない」
素っ気ない返事に、美緒は昔の居心地の悪さを思い出した。やっぱり、私のことを苦手なんだろうな、と思いながら、それでも会話を続けようと試みた。
三次会に流れる頃には、参加者は半分以下になっていた。深夜のバーの片隅、気づけば残っているのは美緒と悠真の二人だけだった。他の同期たちは、終電やタクシーでそれぞれ帰路についていた。
「二人になっちゃったね」美緒は苦笑しながら言った。「悠真くん、帰らなくて平気?」
「平気。……美緒こそ、俺と二人でいて、気まずくないのか」
不意にファーストネームで呼ばれ、美緒は一瞬言葉に詰まった。学生時代、悠真がそう呼んでいたことなど一度もなかったはずだ。
「気まずいって、どうして」
「昔から、俺のこと苦手だっただろう。卒業設計のとき、俺の講評に、ずっと不満そうな顔してた」
その言葉に、美緒は目を見開いた。
「それ、逆だよ。私は悠真くんに嫌われてると思ってた。だって、私の案、いつも『非効率だ』の一言で切り捨てられてたし」
悠真は驚いた表情でグラスを置いた。
「あれは……効率が悪いのは、本当にそう思ったからで、美緒の人格を否定するつもりはなかった。ただ、他に言葉が見つからなかっただけだ。会話が下手なんだ、昔から」
「私も、そう。話しかけたくても、無視されたらどうしようって、ずっと臆病になってた」
「三年のとき、集合住宅の課題で同じ班になっただろう。あのとき、俺が『動線が悪い』って言った」
美緒は目を丸くした。
「覚えてるの、そんな細かいこと」
「言った直後から、ずっと後悔してた。もっと違う言い方があったはずなのに、うまく言葉にできなくて。あの日、美緒が泣いてたって、あとで別の子から聞いた」
「知ってたの、それ」
「知ってた。……知ってて、謝れなかった。謝ったら、余計に変に思われる気がして」
美緒は自分の中で、長年抱えていた小さなわだかまりが、音もなく崩れていくのを感じた。あの夜、下宿の部屋で一人枕を濡らした記憶が、こんな形で報われる日が来るとは、想像もしていなかった。
「今更だけど」美緒は静かに言った。「謝ってくれる?」
「ごめん」悠真はまっすぐ美緒を見て言った。「ずっと、謝りたかった」
「もう、いいよ。……十年越しでも、ちゃんと聞けたから」
二人はしばらく黙り込んだ。十年越しの誤解が、ようやく解けていく音が、静かに響いているようだった。
「本当は」悠真が先に口を開いた。「四年間、ずっと美緒のことが気になってた。……講評会のとき、まともに顔を見られなかったのも、そのせいだ」
美緒は息を呑んだ。
「気になってたって、どういう意味」
「言葉通りの意味だよ。ただ、どう接すればいいのかわからなかった。話しかけて、迷惑がられるのが怖かった」
「私も」美緒は小さく声を震わせた。「悠真くんの発表、いつも聞いてた。無口だけど、話す内容はいつも筋が通ってて。……本当は、もっと話したかった」
十年前、教室の隅で交わすことのできなかった言葉が、ようやくこのバーのカウンターで交わされていた。美緒は自分の中で、長く凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「あの卒業設計の講評会のこと、覚えてる?」美緒が聞いた。「悠真くんが、私の図面を見て、何も言わずに目を逸らしたこと」
悠真は少し考えるように視線を落とした。
「覚えてる。……あれは、逸らしたんじゃなくて、見すぎないようにしてたんだ。長く見てたら、何か変なことを口走りそうで、怖かった」
「そんな理由だったの」
「情けない理由だろう。ずっと後悔してた。あのとき何か言えてたら、違ってたかもしれないって」
美緒は自分の胸の奥で、十年間わだかまっていた小さな痛みが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。誤解というのは、案外こんなにも些細な積み重ねでできあがるものなのかもしれない。
「聞いてもいい?」美緒が言った。「なんで今夜、声かけてくれたの」
「幹事が全員の近況を読み上げただろう。美緒がまだ独身だって聞いて……不純な動機だけど、それで、勇気を出した」
その正直な答えに、美緒は思わず吹き出した。
「不純って言うわりに、律儀だね」
「昔から不器用なんだ、俺は」
「私こそ、聞いていい? 家具職人になったのも、意外だった。てっきり、設計事務所にでも入ると思ってたから」
「父が体を壊して、工房を継ぐ人間が必要だった。……でも、継いでみたら、性に合ってた。図面を引くより、木に触れているほうが、自分の言葉が要らなくて楽なんだ」
「悠真くんらしいね、それ」
「褒めてるのか、けなしてるのか、わからない言い方だな」
「褒めてる。ちゃんと」
「悠真くんの工房、見てみたいな」
美緒が何気なく言うと、悠真は一瞬考えるような間を置いてから答えた。
「明日、休みなんだ。……よかったら、今夜このまま、少し歩かないか。俺の工房、ここから歩いて十五分くらいだから」
深夜の街を、二人は並んで歩いた。会話は途切れがちだったが、その沈黙は昔感じていたような気まずさとは違う、心地よい静けさだった。
「昔から、こうやって二人で歩いてみたかった」美緒がぽつりと言うと、悠真は少し驚いたように隣を見た。
「言ってくれれば、いつでも歩いた」
「言えなかったんだよ、それが」
「それは、俺も同じだ」
信号待ちの間、悠真がふと美緒の手を取った。ためらいがちな、けれど確かな力だった。美緒はその手を握り返しながら、十年という時間が、こんなにあっさり埋まっていくものなのかと、不思議な気持ちになった。
工房のシャッターを開けると、木の香りが二人を包んだ。作りかけの椅子や机が、月明かりの中で静かに佇んでいる。
「綺麗だね」美緒は素直に言った。「悠真くんが、全部作ったの」
「ほとんどは。……座ってみるか」
美緒は作業台の脇に置かれた椅子に、そっと腰を下ろした。座り心地は、想像していたよりずっと柔らかく、優しかった。
「悠真くんの手、こんなに丁寧なものを作れるんだね」
「不器用なわりに、木には正直でいられる。人と話すよりずっと簡単だ」
悠真の隣に腰かけながら、美緒はふと、十年前に感じていた距離感が、今はもうどこにもないことに気づいた。工房の静けさの中、悠真の横顔を見つめていると、自然と手が伸びていた。指先が悠真の手に触れると、悠真も驚いたように美緒を見て、それから、ゆっくりとその手を握り返した。
「こんなこと、十年前にできてたら」美緒が呟いた。
「今できてるなら、それでいい」
悠真の声は、いつになく穏やかで、確かな熱を帯びていた。
「触れても、いいか」
悠真の問いに、美緒はまっすぐ彼を見つめて頷いた。
「うん。……私も、触れたい」
工房の隅、作業台の上に置かれたランタン型の照明だけが、二人の輪郭をぼんやりと照らしていた。悠真の手が美緒の頬に触れ、確かめるようにそっと輪郭をなぞる。その指先はかすかに震えていて、木を扱う職人らしいざらつきの奥に、抑えきれない緊張が滲んでいた。
唇が重なると、最初は探るような柔らかさだった。だが次第に深まっていく口づけの中で、美緒は自分の腕が自然と悠真の首に回っていることに気づいた。十年間、言葉にできなかった想いが、この瞬間に一気に押し寄せてくるようだった。
一度唇を離すと、悠真は美緒の額に自分の額を軽く合わせ、しばらくそのままじっとしていた。
「本当に、いいのか」
「聞かなくていいって、さっき言ったはずだけど」
「確かめたいんだ、何度でも」
その律儀さに、美緒は小さく笑いながら、もう一度自分から唇を寄せた。今度の口づけは、最初のものより長く、深いものだった。
「脱がせても」
悠真の指がブラウスのボタンにかかった。美緒は小さく頷き、自分の手をその上に重ねた。木材を扱う手にしては不慣れな動きで、ボタンが一つ、また一つと外されていく。
「不器用なんだね、こういうの」
「……悪いか」
「ううん。……嬉しい」
素肌が夜気に触れた瞬間、美緒は思わず腕で身を隠そうとした。だが悠真の視線に、値踏みするような色はどこにもなく、ただ長い間抑えてきた飢えだけがあった。
「隠さないでくれ。……ずっと、見たかった」
その一言に、美緒の肌が熱を持った。悠真の唇が首筋を辿り、鎖骨のくぼみへ、そのまま下りていく。触れられるたびに美緒の背が小さく震え、喉の奥から堪えきれない声が漏れた。深夜の工房に、その声だけが小さく響く。
「誰か、来ないよね」美緒が小さく聞いた。
「この時間は、誰も来ない。……安心して、声、我慢しなくていい」
その言葉に、美緒の中の緊張が少しずつほどけていった。悠真の手が脇腹から腰へと下り、下着の上から、すでに美緒がどれほど彼を求めているかを確かめると、悠真は小さく息を漏らした。
「……こんなに」
「言わないで、恥ずかしい」
美緒が小さく睨むと、悠真は珍しく口元を緩め、それから真剣な表情に戻って、下着をゆっくりと脱がせていった。指先が潤んだ場所に触れた瞬間、美緒は腰を浮かせるようにして声を漏らし、慌てて自分の手の甲を口元に押し当てた。
「美緒、大丈夫か」
「大丈夫……もっと、触れて」
悠真は自身の衣服を手早く脱ぎ捨てると、作業台の脇に敷かれた厚手の布の上に、美緒をそっと横たえた。木の匂いに包まれながら、美緒は悠真の広い肩と、木材を扱い続けてきた腕の筋の張りを、指先でそっとなぞった。
昂ぶりが入り口にそっと触れたとき、美緒は思わず彼の肩に爪を立てた。ゆっくりと、けれど確かに押し広げられていく感覚に、狭い場所を満たされていく圧迫が走り、彼女は小さく息を詰めた。悠真はすぐに動きを止め、額に汗を滲ませながら美緒の顔を覗き込んだ。
「痛くないか」
「痛くない……ゆっくりでいいから、止まらないで」
その言葉に、悠真は長く息を吐き、それから、さらに深く己を沈めていった。二人の身体が奥まで繋がった瞬間、これまでの十年間の遠回りのすべてが、この一点に集約されていくような錯覚を美緒は覚えた。
律動は最初、確かめるように緩やかだった。悠真は時折動きを止めて、美緒の額に唇を寄せ、「大丈夫か」とだけ確かめた。そのたび美緒は小さく頷き、自分から腰を寄せて応えた。次第に律動が深まっていくにつれ、美緒の喉から漏れる声はもう抑えきれないところまで大きくなり、そのたび悠真は低く名を呼んで、応えるように動きをわずかに速めた。
「美緒……そんなに、締めつけると」
余裕を失った掠れ声に、美緒は彼の背に爪を立てた。汗の滲む額が、美緒の額に重なる。互いの吐息がひとつに混じり合い、工房の空気そのものが熱を帯びていくようだった。悠真は一度、繋がったまま身を起こし、美緒を膝の上に抱き上げるようにして体勢を変えた。触れる深さと角度が変わるたび、これまでとは違う場所を擦られる感覚に、美緒は思わず高い声を上げ、慌てて悠真の肩口に顔を埋めた。
「我慢、しなくていい。ここには、俺たちしかいない」
その一言に、美緒の中にあった最後の遠慮が崩れた。膝の上に抱き上げられたまま、美緒は自分から腰を揺らし、悠真の首筋に額を押し当てた。密着した肌の間から伝わる鼓動の速さに、美緒は自分がどれほど求められているかを、言葉より確かに感じ取った。悠真の腕が美緒の背をしっかりと支え、律動のたびに二人の身体がぴたりと重なり合っては離れていく。
「悠真くん……もう」
「わかってる。……俺も、そろそろ」
掠れた声で答えると、悠真は再び美緒を布の上に横たえ、正面から深く身を沈めた。角度が変わるたび、美緒の背が弓なりに反り、堪えていた声がとうとう抑えきれずに漏れた。奥を穿たれるたびに目の前が白く霞み、十年間の誤解も、言えなかった言葉も、すべてがこの熱の奔流の中に溶けて消えていった。
やがて律動が速まり、二人の呼吸が短く重なっていくと、美緒の内側で何かが張り詰め、限界に近づいていくのがわかった。悠真もまた、こらえるように低く呻き、最後にひときわ深く身を沈めた瞬間、美緒は声にならない声を上げて、彼の背にしがみついた。全身が甘く痺れ、力の抜けていく感覚だけが、しばらく身体の内側に残っていた。
「……大丈夫か」
律動がやんだあと、悠真は美緒の汗ばんだ額に、そっと唇を落としながら尋ねた。
「大丈夫。ただ、まだ身体の奥に、悠真くんがいる気がする」
「そんなことを言われると、また触れたくなる」
正直な呟きに、美緒は小さく笑った。悠真は近くにあった上着を引き寄せ、美緒の肩にそっとかけた。不器用な手が、乱れた前髪を優しく直す。その丁寧さに、美緒は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「十年前、こうなってたら、どうなってたと思う」美緒が呟いた。
「わからない。……でも、遠回りしたぶん、今このほうが、ありがたく思える」
しばらく二人とも口を開かず、ただ互いの息が整っていく気配だけを聞いていた。美緒は悠真の胸に頬を寄せ、規則正しくなっていく鼓動を数えた。窓の外が白み始める頃、二人はまだ工房の片隅で、互いの体温だけを確かめ合うように、抱き合ったままでいた。
翌朝、美緒は悠真の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、工房の作りかけの椅子を眺めていた。木の削り跡ひとつひとつに、丁寧な手仕事の跡が見えた。
「これ、誰かの注文?」
「まだ誰のものでもない。……気に入ったなら、美緒にあげようか」
「本気で言ってる?」
「本気だ。座り心地、良かったんだろう」
美緒は思わず笑った。不器用な言い方で、悠真なりの気持ちを伝えようとしているのが、痛いほど伝わってきた。
「じゃあ、もらう。……その代わり、今度は私からも何か返さないとね」
「何を返してくれるんだ」
「まだ考えてない。……でも、また会いに来ることは、約束する」
その言葉に、悠真は珍しく、はっきりとした笑みを浮かべた。
「待ってる。……今度は、ちゃんと自分から誘うから」
「昔の悠真くんからは、想像できない台詞」
「十年かけて、少しは学んだんだ」
美緒は椅子から立ち上がり、工房の窓から差し込む朝の光の中で、改めて悠真の顔を見つめた。昨夜まで感じていた十年分の距離が、噓のように消えていた。
「一つ、正直に言っていい?」美緒が言った。
「なんだ」
「大学のとき、悠真くんが無口なの、実はちょっとかっこいいと思ってた。誰にも媚びない感じが」
悠真は虚を突かれたような顔をしたあと、耳の先を赤くした。
「今更、そういうことを言うのはずるいだろう」
「ずるくてもいい。十年分、言えなかったんだから」
「なら、俺も一つ言わせてくれ。……美緒が発表するとき、いつも一番前の席で聞いてた。目立たないように、後ろのほうに座ってたつもりだったのに、案外バレてなかったんだな」
「全然、気づかなかった」
「気づかれないように必死だったからな」
二人は顔を見合わせて笑った。十年前には想像もできなかった、屈託のない笑い方だった。
それから数週間、美緒と悠真は、互いの仕事の合間を縫って会うようになった。美緒が担当する古い建物の改修現場に、悠真が家具の相談で立ち会うこともあれば、悠真の工房に美緒が顔を出し、木の匂いの中で他愛もない会話を交わすこともあった。
悠真からのメッセージは、相変わらず短かった。「今度の日曜、空いてるか」「工房、休みにする」。それだけの文面に、美緒は毎回、思わず頬を緩めた。返信の言葉数を合わせようとして、自分も短く「空いてる」とだけ打ち込み、送信したあとで少し可笑しくなった。長い言葉を交わさなくても、通じ合えるものがあるのだと、二人はこの数週間で少しずつ学んでいった。
ある晩、美緒が担当する改修現場で、古い木造建築の梁の劣化が見つかり、美緒は判断に迷っていた。相談する相手がいないまま、なんとなく悠真に電話をかけると、悠真は珍しく饒舌に、木材の見分け方や補修の勘所を教えてくれた。
「悠真くん、こういう話になると、急に喋るね」
「木のことなら、いくらでも話せる」
「私のことも、もっと話してくれていいのに」
「……それは、もう少し時間をくれ。慣れてないから」
電話越しの声には、照れくささが滲んでいた。美緒はその不器用さを、もう嫌だとは思わなかった。むしろ、少しずつ言葉を重ねていく過程そのものが、いとおしく感じられた。
「あの椅子、市役所の相談窓口に置いてもいい?」美緒が聞くと、悠真は少し照れくさそうに頷いた。
「置いてくれるのか。……なら、もう一脚、作らないとな」
美緒は市役所の窓口に置かれたその椅子を見るたび、十年前には想像もできなかった今の関係を、静かに噛みしめた。無口で不器用な悠真の言葉の少なさが、かつては壁のように感じられていたのに、今では、その少ない言葉の一つ一つに、確かな重みを感じられるようになっていた。
半年後、悠真の工房の展示会に、美緒は招待客として顔を出した。並んだ家具の中に、あの夜二人で座った椅子と同じ型のものが、静かに並んでいた。案内板には、悠真の字で「灯」というシリーズ名が書かれていた。
「このシリーズ名、由来は?」
美緒が聞くと、悠真は少し照れながら答えた。
「言わなくても、わかるだろう」
その答えに、美緒は目を細めて微笑んだ。十年前、教室の隅でついに交わせなかった言葉たちが、今、こんな形で結実していることを、美緒は誰よりも自分自身が信じられずにいた。
展示会の会場には、悠真の父も車椅子で顔を出していた。老いた職人らしい鋭い目で、息子の作品をひとつひとつ確かめるように眺めていたが、美緒を紹介されると、皺の刻まれた顔をふっと緩めた。
「あいつが誰かを連れてくるなんて、珍しいこともあるもんだ」
「お世話になります」美緒が頭を下げると、悠真の父は満足げに頷いた。
「無口な息子ですまんね。中身は、見た目より単純な男だから」
「父さん」悠真が小さく咎めるように言ったが、その声にはいつもの硬さがなかった。美緒はその親子のやり取りを見ながら、これから自分がこの家族の輪の中に、少しずつ加わっていくのだという実感を、静かに噛みしめていた。
同窓会の幹事だった坂上が、展示会に顔を出し、二人の様子を見て驚いた顔をした。
「お前ら、まさかそんな関係になってたのか。あの日の三次会、二人だけ残ったって噂には聞いてたけど」
「噂、本当だったみたいだね」美緒が笑いながら答えると、悠真は珍しく耳を赤くしながら、黙って隣に立っていた。
展示会が終わった夜、二人は工房の片付けを終えて、あの日と同じ作業台の脇に座った。窓の外には、あの夜と同じような静かな月明かりが差し込んでいた。
「これからも、ここで会う?」美緒が聞いた。
「ここじゃなくてもいい。美緒がいる場所なら、どこでも」
不器用な言葉の中に、確かな約束が込められていた。美緒は悠真の手をそっと握り、十年越しにようやく手に入れた、静かで温かい距離を、ゆっくりと確かめていた。
「来年の同窓会、二十周年まで待たなくても、また集まろうって坂上が言ってた」美緒が思い出したように言った。「その頃には、私たち、どうなってるかな」
「さあ。……でも、少なくとも、隅っこで一人になってることはないと思う」
「私が隣にいるから?」
「美緒がいなくても、もう昔みたいに、一人で隅にいるのは性に合わなくなった」
「変わったね、悠真くん」
「美緒のせいだ」
「褒め言葉として受け取っておく」
その答えに、美緒は声を立てて笑った。窓の外では、月がゆっくりと雲間に隠れていく。工房に満ちた木の香りの中で、二人は言葉少なに、けれど確かな温度を分け合いながら、次の約束の輪郭を、静かに描き始めていた。
(了)
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