マッチングアプリで三回目に会った日、彼が私の部屋の合鍵を作ってきた
三回目のデートで合鍵を渡された私は、てっきり「うちに来て」の意味だと思って身構えたら、渡されたのは彼の部屋の鍵だった。勘違いから始まった夜は、変な空気のまま、思いのほか甘い方向に転がっていき、気づけば私は彼の部屋のベッドまで連れていかれていた。
三回目のデートで、彼はテーブルの上に鍵を置いた。
「これ、まだ渡してなかったから」
私、佐倉美咲、26歳。広告代理店――といっても社員十二人の小さい会社――で二年目。合コンにもマッチングアプリにも正直もう疲れていたところに現れたのが、この人だった。田中涼、28歳。印刷会社勤務。プロフィール写真より実物のほうがよかった、数少ないアプリ勢。
で、その鍵である。
銀色のギザギザ。まだ油の匂いが残ってそうな、切ったばかりの合鍵。私はそれを three seconds くらい見つめて、頭の中で盛大に勘違いをした。
(これ絶対、私の家に来る気満々ってことだよね? いや気が早くない? 三回目だよ? でも今どきそんなもの? 私だけテンポおかしい?)
「あの」私は鍵をつまみ上げた。「これって、涼さんが、私の部屋に来る前提の……」
「え」涼さんが固まった。「いや、違う。これ、俺の部屋の鍵」
「……は?」
「うちの、合鍵。美咲がいつでも来られるように」
一瞬、店内のBGMだけが妙にはっきり聞こえた。私は多分、ものすごく間の抜けた顔をしていたと思う。
「え、待って。私が、涼さんの家に、行く用の鍵ってこと?」
「そう」
「私が涼さんちに合鍵持つの? 私が渡されるほうなの?」
「……なんかそんなに驚くこと?」
驚くに決まってる。私はてっきり自分の部屋の合鍵を要求されると思って、頭の中で「まだ早くない?」「でも嬉しくない?」の両方が同時に鳴ってた。なのに向こうから先に渡してくるとは思わなかった。しかも自分の家の鍵を。
「涼さんって、そういうタイプだったんだ」
「そういうタイプって?」
「決めるの早いタイプ」
「早いかな。三回会って、毎回連絡取り合って、俺はもう十分だと思ったけど」
さらっと言われて、こっちが赤くなる番だった。ずるい。営業トークでもなさそうな、ただの照れ隠しの早口。印刷会社の人ってみんなこうなの? 知らないけど。
「返事は?」涼さんが鍵を私の方へ押し出してくる。「別に、今日から使えって話じゃないから。持っといてほしいだけ」
私は鍵を受け取った。ずっしりした真鍮の重み。財布の中で他の鍵とジャラジャラ鳴るその音が、なんか、ちゃんと現実だった。
「ちなみに」私は聞いた。「合鍵作るのに、いくらかかったの」
「そこ気になる? ロマンない質問だな」
「気になるでしょ。三回目のデートで鍵を持ってこられる女の気持ち、想像してみてよ。せめて相場は知っておきたい」
「五百円くらい」
「安い」
「安いけど、意味は五百円分じゃないから」
「そういう台詞、恥ずかしくないの」
「恥ずかしいけど、言わないと美咲が気づかなそうだから、言った」
自己申告制の口説き文句。ずるいところを自分でわかっててやってくる人だ、と思った。周りの友達に話したら絶対「重い」って言われるやつ。でも私は、重いより軽いほうが苦手なタイプだったので、これはこれでちょうどよかった。
「じゃあ、使う」私は言った。「今夜」
言った瞬間、自分でびっくりした。でも撤回する気はなかった。
正直に言うと、一回目と二回目のデートの時点で、私はもうかなり乗り気だった。
一回目は駅前の居酒屋。緊張しすぎた涼さんが枝豆の数を数えながら喋っていたのが可愛かった。二回目は水族館。「クラゲって見てると無になれるよね」と真顔で言われて、この人とは長く続くかもしれないと思った。理由はよくわからない。多分、水族館デートで無になれる人となら、変な見栄を張り合わずに済むだろうという打算。
でも合鍵まで来るとは思わなかった。普通は三回目ってまだ「もう少し脈ありか探る」くらいの温度感じゃないの? 涼さんだけ一人でファストパスに乗ってる感じがする。
「歩いていける距離だから」お店を出たところで涼さんが言った。「送るついでに、寄っていく?」
「寄っていくって、鍵もらった当日に?」
「嫌ならタクシー呼ぶけど」
「嫌とは言ってない」
会話が変な方向に転がってるのは自覚してた。でも足はもう、涼さんの部屋の方向へ向かって動き出してた。夜の商店街、シャッターの下りた文房具店の前を通り過ぎながら、涼さんが小さく笑った。
「実は今日、鍵渡すの、めちゃくちゃ緊張してた」
「そんなふうに見えなかったけど」
「見えないように頑張った。ポケットの中で三回くらい鍵を落としそうになった」
「え、それ想像したらちょっと面白い」
「笑わないでよ。俺の中では一大イベントだったんだから」
「一大イベントの結果が『違う、俺の家の鍵』で私に二度見されたのは、涼さん的にどうだったの」
「正直へこんだ。でも美咲が食いついてきたから、まあいいかって」
「食いついてない、流れって言ってるでしょ」
二回目くらい同じやり取りをして、それでもまだ飽きなかった。多分これが相性というやつなのかもしれない。同じボケに二回笑える相手って、意外と貴重な気がする。
「合鍵作った日にこうなるの、俺も想定外」
「じゃあ何を想定してたの」
「もっと普通に、次のデートで少しずつ距離縮める的な。美咲が食いついてくるの、早い」
「食いついてない。流れでしょ、これは」
「流れね」
涼さんがにやついてるのが、街灯の下でもわかった。腹が立つのに、その顔があまりに機嫌よさそうで、こっちまで口角が上がってしまう。マッチングアプリで会った人とこんな空気になるとは、正直、登録した日の自分に教えてやりたい。
涼さんの部屋は1LDK。物が少なくて、印刷所勤めのくせに紙一枚落ちてない。逆に緊張した。私の部屋、脱いだ靴下が椅子にかかってるレベルだから。
「片付けてるとき、なんか意識しちゃった」玄関で彼が言った。「美咲が来るって思ったら、無駄に掃除機かけた」
「合鍵渡す前提で片付けたの?」
「渡す前提っていうか……渡したかったんだよ、ずっと。二回目のデートのときからもう作りに行きたかった」
「早すぎ」
「早いのわかってて言ってる」
そう言いながら涼さんは私の手からコートを受け取って、ハンガーにかけた。そのちょっとした所作が、やけに手慣れてて、でも同時にぎこちなくて。多分、私にどう見せたらいいか本気で考えてる。そういうのって、伝わっちゃうんだよね。
ソファに並んで座ると、涼さんはテレビもつけずに、ただ私の顔を見た。
「美咲」
「なに」
「触っていい?」
正面切って聞かれると、こっちが照れる。合コンで鍛えたはずのトーク力が全部どこかへ消える。
「聞くんだ、ちゃんと」
「聞かないと、美咲、あとで『勝手に距離詰められた』って怒りそうだから」
「よくわかってる」
「三回のデートで、けっこう観察したので」
観察されてたのか。ちょっと嬉しいような、ちょっと恥ずかしいような気持ちのまま、私は頷いた。
「何を観察したの」
「美咲、緊張すると早口になって、あと右手で左手の袖口をいじる」
「え、それ気づいてたの」
「一回目の居酒屋でずっとやってたから。可愛いなと思って見てた」
「引くほど見られてたってこと?」
「引くほどではなく、ちゃんとした量で」
適当なんだか誠実なんだかわからない返しに、私はもう笑うしかなかった。緊張してたのはこっちも同じで、多分お互いさまなんだと思う。
「いいよ」
涼さんの手が、私の頬に触れた。指、思ったより硬い。印刷機を扱う手だからかな、なんてどうでもいいことを考えてる間に、唇が重なってきた。
キスは最初、確かめるみたいに優しかった。でも段々、深くなっていく。私の背中に回った腕に力がこもって、気づいたらソファの上で彼に組み敷かれる格好になっていた。
「ベッド、行く?」涼さんが唇を離して聞く。息、ちょっと乱れてる。
「行く」
寝室に移動する間も、手は繋いだままだった。ベッドに座らされて、涼さんが私の服のボタンを外し始める。指先、思ったより丁寧で、急いでる感じが全然ない。
「涼さんって、こういうとき慎重なタイプなんだ」
「美咲相手に雑にできると思う?」
ブラウスの前を開かれて、素肌に夜の空気が触れた瞬間、私は思わず腕を胸の前に持っていきそうになった。でも涼さんの視線に、値踏みするような嫌な感じは全然なくて、ただ、まっすぐに私を見てるだけだった。
「綺麗」小さく呟かれて、耳まで熱くなる。
「そういうの、恥ずかしいから言わないで」
「本音なんだけど」
涼さんの唇が首筋に落ちて、そのまま鎖骨へ、胸のふくらみへと下りていく。触れられるたびに、私の口からちいさな声が漏れて、自分でびっくりして、慌てて手の甲で口を塞いだ。
「我慢しなくていい」涼さんが顔を上げて言う。「隣の部屋、誰もいないし」
「そういう問題じゃなくて……声出るの、恥ずかしいの」
「俺は聞きたい」
ずるい言い方。反論する余裕もないまま、下着の中に指が滑り込んできて、そこがもう十分に潤んでいることに気づかれる。恥ずかしくて消えたくなったけど、涼さんは笑ったりせず、むしろほっとしたような息を漏らした。
「よかった。俺だけ意識してたわけじゃないんだ」
「……そんなわけないでしょ」
指がゆっくり動くたびに、腰の奥から力が抜けていく感じがする。涼さんはお互いの服を脱がせ合いながら、時々手を止めて、私の顔色を確かめた。「大丈夫?」って聞かれるたび、頷くのがやっとで、声はもう出せなかった。
すべて脱ぎ終えると、涼さんは避妊具の袋を開けながら、もう一度聞いた。
「美咲、ほんとにいい? 合鍵の日にこんな展開になるとは思ってなかったけど」
「私も思ってなかった。でも、いい。ちゃんと、私が選んでる」
その言葉に、涼さんは少し目を細めて、それから覆いかぶさってきた。先端が入り口に触れた瞬間、私は思わず彼の背中に腕を回してしがみついた。
「ゆっくり、入れるから」
その言葉どおり、涼さんはゆっくり腰を進めた。狭いところを押し広げられる感覚に、私は息を止めた。痛いというより、圧迫感。慣れない重さに、身体が一瞬こわばる。
「痛い?」
「痛くない……ちょっとびっくりしてるだけ」
「止まる?」
「ううん、いい。そのまま」
私が言うと、涼さんはゆっくりと、でも確実に奥まで沈んできた。繋がったところから広がる熱に、私は喉の奥から声を漏らした。
最初の動きは、本当にゆっくりだった。涼さんは私の反応を確かめながら、少しずつ速さを上げていく。腰を打ちつけられるたび、私の口から抑えきれない声が出て、慌てて枕に顔を埋めた。
「美咲、顔見せて」
「無理、恥ずかしい」
「見たいんだって」
そう言われて枕から顔を上げると、涼さんはすごく嬉しそうな顔をしていた。それだけで、なんか、こっちが泣きそうになる。律動が少しずつ速くなって、二人の息が重なっていく。汗ばんだ涼さんの背中に爪を立てると、彼は小さく呻いて、それから体勢を変えて、私を横向きに抱き直した。背中から包み込むみたいに繋がったまま動かれると、さっきまでと違う場所に当たって、私は思わず高い声を上げてしまった。
「今の、いい声」
「言わないでって言ったのに」
「無理、可愛すぎて」
腰の動きが速くなるにつれて、頭の中がだんだん白くなっていく。恥ずかしいとか、声出るとか、そういう考えがどんどん溶けていって、ただ涼さんの体温と、繋がってる感覚だけが残る。
「涼さん……もう……」
「俺も、そろそろ」
最後、涼さんが一段深く沈んできた瞬間、私の内側で何かが弾けた。声にならない声を上げて、彼の背中にしがみつく。涼さんも同時に低く息を詰めて、体をこわばらせた。
しばらく、二人とも動けなかった。私の身体はまだ甘く痺れていて、指先まで力が入らない。涼さんは私の額に浮いた汗を、指でそっと拭ってくれた。
「大丈夫?」
「大丈夫……なんか、腰、抜けた」
「褒め言葉として受け取っていい?」
「ばか」
そう言いながら私は笑った。涼さんも笑って、私の隣に横になって、腕を伸ばして抱き寄せてくれた。汗が冷えていく感覚、身体の奥にまだ何か残ってるような感覚。全部ちょっと気だるくて、でも嫌じゃなかった。
しばらく黙って天井を見ていたら、涼さんがぽつりと言った。
「合鍵、正解だったな」
「まだ何も証明されてないでしょ」
「いや、美咲が今ここにいる時点で、成功でしょ」
否定できなかった。悔しいけど、そのとおりだった。
翌朝、目を覚ますと涼さんはもう起きていて、コーヒーを淹れていた。
「合鍵、ちゃんと持ってきてくれたよね」ベッドから声をかけると、涼さんがキッチンから顔を出した。
「持ってるよ。財布の中」
「じゃあ次からは、勝手に入ってきていいってこと?」
「事前に連絡はしてほしいけど」涼さんがマグカップを持ってきてくれる。「あと、今度は美咲の部屋の合鍵も作りたい」
「気が早いって、また言われるよ」
「もう言われた後だから、今更」
私はコーヒーを一口飲んで、鍵の重みをもう一度思い出した。三回目のデートで渡された、油の匂いが残る合鍵。てっきり自分が要求される側だと思い込んでいた、あの間抜けな数秒間。
思えばマッチングアプリを始めたとき、私が探してたのは「ちゃんとした人」だった。プロフィール文がちゃんとしてる人、返信が早い人、初回デートで奢りすぎない人。涼さんは正直、そのどれにも特別秀でてはいなかった。プロフィール文は三行しかなかったし、初回は割り勘だったし、返信は割とマイペースだった。
なのに合鍵は誰よりも早かった。人間、変なところで本気を出す。
「ねえ、聞いてもいい?」私はマグカップを両手で包みながら聞いた。「なんで、私の家じゃなくて、自分の家の鍵にしたの?」
涼さんは少し考えて、それから照れくさそうに答えた。
「美咲の部屋に押しかける権利より、美咲がいつでも来られる場所を作りたかったんだと思う。呼びつけるんじゃなくて、待っていられる場所」
その言い方が、思ってたよりずっとまっすぐで、私は返事に詰まった。合コンでもアプリでも、こんな台詞を真顔で言う男には会ったことがなかった。
「涼さんって、印刷会社より、少女漫画の編集部にいたほうが向いてない?」
「褒めてる? けなしてる?」
「半分ずつ」
そう言いながら、私はもう、次の休みの予定を心のどこかで数え始めていた。合鍵をもらうって、こういうことだったんだ、と今なら思う。
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