雨の日だけ開く喫茶店
十年前に別れた恋人と、雨の日だけ営業する小さな喫茶店で再会した二人。互いの人生を確かめ合うように交わす会話は、過去を蒸し返すことも、未来を急ぐこともなく、ただ雨の音の中に静かにとどまる。
その店は、雨の日にしか開かない。晴れた日は硝子戸に「本日休業」の札が下がったまま、通りに面した軒先を濡らさずにいる。看板もない。常連たちは「あの店」とだけ呼び、天気予報を見ては、傘を持って出かける口実にしていた。
律子がその店に足を運ぶのは、三年ぶりだった。転勤先から戻ってきたばかりで、街の匂いも、雨の重さも少し忘れていた。傘の骨が一本折れていることに、駅を出てから気づいたが、引き返す気にはなれなかった。この街の雨は、記憶よりもずっと静かに降る気がした。
硝子戸を押すと、豆を挽く音と雨の音が同時に耳に入った。店主は還暦を過ぎたくらいの、口数の少ない男だった。名前を律子は知らない。十年前から、それでよかった。この店では、名乗らなくても居場所があった。
店内には、常連らしい老夫婦が一組いるだけだった。雨の日の常連は、大抵が一人で来て、一人で帰る。そういう静けさが、この店の値打ちだった。律子は昔からそれが好きだった。誰にも話しかけられず、誰にも急かされず、ただ雨音の中に座っていられる場所。
奥の席に、見覚えのある背中があった。
「まさか」と律子は声に出さずに思ったが、隼人はすぐに振り返った。十年前と変わらない、少し困ったような笑い方をした。
「久しぶり」
「うん」
律子はそれ以上、何を言えばいいか分からず、隼人の向かいに腰を下ろした。店主が黙ってブレンドを運んできた。何も注文していないのに、律子の好みを覚えていたらしい。この店では、そういうことがよく起きた。
二人が付き合っていたのは、二十代の半ばだった。理由らしい理由もなく別れた。強いて言うなら、互いに違う街で働くことを選んだ、それだけだった。恨み言もなく、涙もなく、ただ静かに距離が開いていった。
「まだ、この店に来てたんだ」と律子が言った。
「雨の日はね」隼人はカップを両手で包んだ。「晴れてる日は、なんとなく来る気がしなくて」
「私も同じこと思ってた」
窓の外では、雨脚が少しずつ強くなっていた。通りを歩く人たちが、傘を傾けながら足早に過ぎていく。店の中だけが、時間の流れる速さが違うようだった。
「結婚してるの?」律子が聞いた。少し性急すぎたかと思ったが、隼人は落ち着いた声で答えた。
「してない。忙しくしてたら、気づいたらこの歳だった。そっちは」
「私も。仕事が面白くなっちゃって」
二人とも笑った。噓ではなかったが、全部でもなかった。忙しさの陰に隠れていたものが何だったのか、律子はもう正確には思い出せない。ただ、隼人と別れたあと、誰と付き合っても、この店の匂いを思い出すことがあった。コーヒーの苦みと、雨の匂いと、隼人の低い声が、いつも同じ引き出しにしまわれていた。
律子は自分の指先を見た。マグカップの熱が、じんわりと掌に移ってくる。十年という数字を、律子は今まで、遠い過去の重さでしか計っていなかった。けれど今こうして向き合ってみると、十年はただの数字で、二人の間にあるのは、あの頃と同じ静かな距離感だけだった。
「隼人、変わってないね」
「そう?」
「時計店、続けてるんでしょう。前も、そういう仕事に憧れてたよね」
「憧れてただけの人間が、なんとなく続けられてるだけだよ」隼人はそう言って、少し照れたように視線を逸らした。「律子は、変わったよ。前より、話し方が落ち着いた」
「歳をとっただけ」
「悪い意味じゃなくて」
「あのとき」と隼人が切り出した。「もっと、ちゃんと話せばよかったって、たまに思う」
「私も」
「今さらだけど」
「うん、今さらだよね」
律子はそう言って、カップの中の湯気を見つめた。今さら謝られても、今さら理由を聞かされても、十年という時間が消えるわけではない。それでも、あのときの選択を悪くなかったと言い合えることに、律子は静かな安堵を感じていた。
「後悔してる?」隼人が聞いた。
律子は少し迷ってから、首を横に振った。「後悔はしてない。ただ、時々思い出すだけ」
「同じだ」
二人の間に、心地よい沈黙が落ちた。店主が、何も言わずに水を注ぎ足していった。カウンターの奥で、豆を挽く音がまた小さく響く。律子はその音を、十年前と同じように、ただ聞いていた。何かを埋め合わせようとするのではなく、ただ隣にいる時間を、そのまま受け取るように。
雨は本降りになっていた。店主が奥で静かにレコードをかけた。針が落ちる音のあとに、聞き覚えのある曲が流れ始めた。十年前、この店で何度も聴いた曲だった。
「まだ覚えてるんだ、この曲」
「忘れられるわけないでしょう」隼人は苦笑した。「この店に来るたびに、思い出すんだから」
律子は窓の外に目をやった。雨に濡れた通りが、街灯の光を細かく砕いていた。もう若くはない自分たちが、同じ雨の音を聞きながら向かい合っている。それだけのことが、律子にはひどく贅沢に思えた。
「また、雨の日に来てもいい?」
「この店、雨の日にしか開かないよ」
「知ってる」
隼人は少し黙ったあと、まっすぐに律子を見た。
「じゃあ、雨の日だけ、会おうか」
急ぐ話ではなかった。取り戻す話でもなかった。ただ、雨の日という限られた時間の中で、もう一度お互いを知っていく。そのくらいの速さが、今の二人には似合っているのかもしれなかった。
「うん」と律子は答えた。「雨の日だけ」
窓の外の雨は、まだしばらくやみそうになかった。二人はカップの中身がすっかり冷めるまで、その店に座っていた。急かす者は誰もいなかった。
店を出るとき、隼人は律子に折れた傘を差し出した。「これ、直しとくよ。うちは時計屋だけど、傘の骨組みくらいなら直せる」
「時計屋なのに」
「暇なときの趣味みたいなもの」
律子は笑って、傘を渡した。次に会うのは、きっと次の雨の日だ。天気予報を見て、傘を用意する理由が、もう一つ増えたことになる。それだけのことが、律子には十分すぎるほど嬉しかった。
硝子戸を開けると、雨はまだ静かに降り続いていた。律子は傘なしで、それでもゆっくりと、来た道を歩き出した。濡れることを、今夜だけは惜しいと思わなかった。