西洋風の屋敷の書斎。黒髪を結い上げ、深紅のビロードのドレスを着た女性が、大きな木の机に向かって座り、落ち着いた表情でこちらを見ている。机の上に羽ペンとインク壺、封蝋を押した一枚の書類、左手前に書類の束。背後は天井まで届く本棚で、右の大きな窓から午後の光が差している。
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悪女と呼ばれた侯爵夫人は、離縁状に判を押してから本気を出す 第三話 悪女の名で借りる

河港でいちばん口の悪い金貸し、ヴィナ。帳場の奥で、干した魚をかじりながら、アデルの頭の先から靴の先までを値踏みする。倉の塩は八か月動かず、麻は売られ、借財は三口。担保になるものは何も残っていない。アデルは、担保の話をしない。先に口にしたのは、ヴィナのほうだった。「あんたの名前は、河港では高く売れる」。

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 ヴィナの店は、河港のいちばん端にあった。

 魚を干す棚が並ぶ通りの、突き当たり。看板は無い。戸の上に、錆びた秤が一つ、吊るしてある。

 戸は開いていた。

 中は、狭かった。帳場が一つ。壁に、紐で束ねた証文が、何十と吊るしてある。紐の色が違う。赤、青、黒。

 帳場の向こうで、女が、干した魚をかじっていた。

 四十を少し過ぎたくらい。髪を後ろで乱暴に括って、袖をまくっている。指に、墨の染みがある。

 女は、アデルを見た。

 頭の先から、靴の先まで。それから、もう一度、靴から頭まで。

「……へえ」

 魚をかじったまま、言った。

「ヴェルンハイムの悪女が、黒い外套で、朝っぱらから、あたしの店に」

「アデル・アルデールです」

「知ってるよ。昨日から、河港じゅうが知ってる。判を押して、鞄を三つ自分で持って、歩いて出てきたって」

 ヴィナは、魚を皿に置いた。

「座んな。椅子は一つしかない。あんたが座れ」

 アデルは、座った。

 ヴィナは、帳場の縁に腰を引っかけた。

「で。いくら」

「千二百」

「銀貨で」

「銀貨で」

 ヴィナは、口笛を吹いた。品のない、長い口笛だった。

「ロシェの分だね」

 アデルは、答えなかった。

「隠さなくていいよ。あんたの弟が去年、ロシェから千二百借りたのは、河港じゃ誰でも知ってる。利息無しで、その代わり麻を十一枚で卸す。ロシェの帳場の手代が、酒場で自慢してた。いい買い物をしたってさ」

「そうですか」

「で、その千二百を、あたしから借りて、ロシェに叩き返す」

「はい」

「で、麻を、ロシェじゃないところに、まともな値で売る」

「はい」

 ヴィナは、少し笑った。

「話が早いね。噂より」

「噂は、どう言っていますか」

「悪女は話が長い。人を吊るし上げるとき、半刻かける」

「かけました」

 ヴィナは、今度は声を出して笑った。

    *

「利息は」

 アデルが訊いた。

「年に二割」

「組合は一割五分です」

「組合は、担保を取る。あたしは取らない。取れるもんが、あんたのとこに無いからね」

 ヴィナは、指を折った。

「倉の塩は、ロシェに押さえられてはいないけど、八か月動いてない。売れない塩は担保にならない。麻は、全部ロシェに流れてる。船枠は四十日流した。商会の建物は、組合の八百の担保に入ってる。父親の代からね」

 アデルは、黙って聞いていた。

 全部、合っていた。

「つまり、あんたのとこには、あたしが取れるもんが何も無い。だから二割。取れるもんが無い相手に貸すのは、博打だ」

「そうですか」

「そうだよ」

 アデルは、外套の前を、少し直した。

 それだけで、何も言わなかった。

 担保の話を、アデルは、しなかった。

 帳場の上の沈黙が、長くなった。

 外で、魚の棚を片づける音がした。

 ヴィナは、アデルの顔を見ていた。アデルは、壁の証文の束を見ていた。赤い紐、青い紐、黒い紐。

「……黒は、返ってこなかった分ですね」

 アデルが言った。

 ヴィナの目が、細くなった。

「なんで分かる」

「黒の束だけ、埃をかぶっています。赤と青は、紐の結び目が新しい。結び直している。返ってくる途中の束です」

「……」

「黒は、もう結び直す理由が無い」

 ヴィナは、しばらく黙っていた。

 それから、帳場の縁から下りて、黒い束の一つを指で弾いた。埃が、光の中で舞った。

「十一年分だ。黒は、全部で三十七人」

「はい」

「そのうち、三十一人は、名前の無い連中だ。逃げても、河港の外に出れば、誰もそいつを知らない。だから逃げる」

 ヴィナは、振り返った。

「残りの六人は、名前のある連中だ。家名がある。商会がある。そいつらは、逃げなかった。返せなくて、潰れた。潰れたあと、あたしは、そいつらの家名を、河港じゅうに言って回った。あの家は、ヴィナから借りて、返さなかったって」

「はい」

「それで、次から、名前のある連中は、あたしに返すようになった」

 ヴィナは、帳場に戻って、アデルの正面に立った。

「悪女さん。あんたの名前はね」

 ヴィナは、魚の脂のついた指で、アデルを指した。

「河港では、高く売れる」

 アデルは、何も言わなかった。

「十年、社交界で悪女と呼ばれた女が、離縁されて、実家の傾いた商会に戻ってきた。河港の商人は、みんな、あんたを見てる。何をするのか。どこで転ぶのか」

「……」

「その女が、ヴィナから借りて、返さなかったら。あたしは、それを言って回る。悪女は、借りた金も返さない女だった、って。そうなったら、あんたの名前は、河港では一文にもならなくなる。組合も、ロシェも、あんたの弟の商会とは、二度と話さない」

 ヴィナは、指を下ろした。

「あんたは、それを嫌う。嫌うだろ。その顔は、自分の名前の値段を知ってる顔だ」

 アデルは、答えなかった。

「だから、担保は、あんたの名前。あたしは、それで貸す」

    *

「では」

 アデルは、ようやく口を開いた。

「名前を担保に取るなら、利息は、組合より下がりますか」

 ヴィナが、目を丸くした。

「……は?」

「組合は、建物を担保に取って、一割五分です。ヴィナさんは、建物の代わりに名前を取る。名前は、建物より確かだ、ということですね」

「言ってないよ、確かだなんて」

「建物は、燃えます。私の名前は、もう燃えるところがありません」

 ヴィナは、口を開けて、閉じた。

 それから、腹を抱えて笑い出した。帳場を拳で二度叩いて、干し魚の皿が跳ねた。

「……あんた、ほんとに悪女だね」

「そう聞こえたなら、そうなのでしょう」

「一割二分」

「一割」

「一割二分。それより下は、あたしの名前が安くなる。金貸しが悪女に値切り負けたって」

 ヴィナは、指を一本立てた。

「その代わり、あんたが返したら、あたしの名前が上がる。悪女に千二百貸して、ちゃんと返させた金貸しだって。そうなりゃ、次から、名前のある客はみんな、あたしのとこに来る。一割二分でも、あたしは損しない」

 アデルは、少し考えた。

 千二百の一割二分は、年に百四十四。季ごとに三十六。

 ロシェに十一枚で卸している麻は、年に四十台。河港の相場は、いま、一台十六枚。差は、一台五枚。年に二百。

 二百から、百四十四を引いて、五十六。

 月にすれば、四枚と少し。

 弟の商会は、月に三十枚ずつ小さくなっている。それが、二十五枚になる。

 まだ、縮む。向きは、変わらない。

 それに、元の千二百は、二年後の秋に一度に返す。麻で浮くのは、利息を払えば年に五十六。縮み方が少し緩むだけで、手元には一枚も残らない。

 麻では、返せない。

 アデルは、膝の上で、外套の裾を直した。商会の奥に置いてきた鞄の一つを、思い浮かべた。四十七通の、紙の束。

 返すのは、別の紙だ。

 それでも、ロシェに麻を十一枚で渡し続けるより、ましだった。ロシェの千二百は利息が無い。その代わり、期限も無い。期限の無い借りは、終わらない。

「一割二分で」

「期限は」

「二年」

「二年ね。季ごとに利息、元は二年目の秋に一括。一日でも遅れたら、言って回る」

「はい」

 ヴィナは、帳場の下から紙を三枚出した。

 同じことを三枚に書く。ヴィナの字は、太くて、速かった。一枚目を書き終えて、手を止めた。

「担保の欄。なんて書く」

「空けておいてください」

「空けとく?」

「書いてあれば、組合の控えを見た人が、読みます。空いていれば、誰も読めません。ヴィナさんと私だけが、知っていればいい」

 ヴィナは、ペンの尻で、こめかみを掻いた。

「……組合の控えは、誰でも見られる。悪女が名前を質に入れたって、書いてあったら、それだけで河港じゅうの噂だ」

「はい」

「空けとくよ」

 ヴィナは、担保の欄を空けたまま、三枚に判を押した。アデルも、懐から判を出して、押した。柘植の、古い判。朱肉は、ヴィナのものを借りた。

 一枚をアデルに。一枚をヴィナの帳面に。一枚を、組合の印の袋に。

 ヴィナは、奥の箱から、銀貨の袋を十二、帳場に並べた。一袋、百枚。口は、どれも赤い紐で結んである。

 アデルは、一袋ずつ、口を開けて、中を見た。数えはしなかった。重さを手で測って、口を閉じた。

「数えないのかい」

「ヴィナさんは、数え違えて渡す人ではないと思います」

「なんで分かる」

「数え違えて渡した金は、返してもらえないからです。ヴィナさんは、損をしない人です」

 ヴィナは、鼻を鳴らした。

「……ひとつ、ただで教えとく」

 アデルは、袋を抱えたまま、顔を上げた。

「あんたの弟、去年の春から、毎月十枚ずつ、どこかに払ってるだろ。月の頭に、ロシェとは別の方角へ歩いてくのを、魚屋の婆さんが見てる。あれは、あたしの客じゃない」

「はい」

「誰かは、知ってる」

「そうですか」

「訊かないのかい」

「ただで教えてくださるのは、そこまでだと思いますので」

 ヴィナは、今度は笑わなかった。

 アデルの顔を、しばらく見ていた。

「……帰んな。重いよ、それ」

 重かった。

 銀貨千二百枚。袋を六つずつ、両腕に抱えた。外套の中に隠すには、多すぎた。

 魚の棚の通りを、端から端まで歩いた。干し網の陰から、何人かが顔を出して、黙って見ていた。黒い外套の女が、銀貨の袋を抱えて、ヴィナの店から出てくるところを。

 アデルは、急がなかった。

    *

 ロシェ商会の帳場は、朝の荷受けが終わって、静かだった。

 今朝、紙を三枚書いていた手代が、帳場の奥にいた。アデルを見て、立ち上がった。

「千二百、お返しします」

 アデルは、銀貨の袋を十二、帳場に並べた。袋の口は、どれも赤い紐で結んであった。

 手代は、袋を見て、アデルを見て、また袋を見た。

「……アルデールの若旦那の分、ですか」

「はい。こちらの帳面の分と、組合の控えを出してください。弟の分は、持ってきました」

 アデルは、酒の染みの一冊に挟まっていた一枚を、帳場に置いた。

 手代は、奥へ行って、しばらく戻らなかった。

 戻ってきたとき、後ろに、年配の男が一人、ついてきていた。上等な上着。胸に、鍵と波の印。

 男は、袋を見た。それから、アデルを見た。

「アルデールのお嬢さんか」

「アデル・アルデールです」

「利息は取らない約束だった。返すのは、いつでもいい、と若旦那には言ってある」

「はい。ですから、いま、お返しします」

「……麻の約束は」

「元の証文に、書いてあります。借財が残るあいだ、麻を十一枚で卸す。借財は、いま、残らなくなりました」

 男は、しばらく黙っていた。

「その千二百は、どこから」

 アデルは、答えなかった。

 男は、帳場の袋を見た。十二の袋の、十二本の赤い紐。

「……ヴィナか」

「そう聞こえたなら、そうなのでしょう」

 男の口の端が、少し、動いた。

「悪女に千二百を貸す金貸しが、河港にいるとはな」

「いました」

 男は、手代に顎で示した。

 組合の者が一人、印のある革の袋を抱えて、手代のあとからついてきた。控えは、組合の外へは出ない。消すときは、組合の者の目の前で消す。

 手代が、三枚の証文を並べた。一枚は帳面から。一枚は、組合の袋から。一枚は、アデルが持ってきたもの。

 手代は、三枚に、同じ線を引いた。斜めに一本。それから、下に「皆済」と書いた。

 男が判を押した。アデルも押した。柘植の判は、今日、二度目だった。

「今朝、南の村の荷が一台、入っている」

 男が言った。

「あれは、十一枚で受けた。借財が残っているうちに入った荷だ」

「はい」

 アデルは、うなずいた。

「今朝は、借財が残っていました。十一枚で結構です。明日からの荷は、うちの倉へ入れます」

 男は、しばらくアデルを見ていた。

「……値を戻せ、とは言わないのか」

「約束の中で入った荷です。約束の外のものは、頂きません」

 男の口の端が、もう一度、動いた。

    *

 商会に戻ると、クレイが、帳場で一番古い帳面を読んでいた。

 読んでいた、というより、開いて、見ていた。十年前の、冬。

「姉上」

 クレイは顔を上げた。

「どう、でした」

「ロシェに、千二百を返してきました」

 クレイは、椅子から半分立ち上がった。

「え、あ、返し、え、どこから」

「ヴィナから借りました。一割二分。二年」

「一割、二分……組合より安い……なんで、そんな」

「担保が、よかったのでしょう」

「担保って、何を」

 アデルは、証文の写しを帳場に置いた。

 クレイは、それを取って、読んだ。担保の欄を見て、眉を寄せた。

「……空いてる」

「空いています」

「空いてて、一割二分で、千二百……」

 クレイは、写しを持ったまま、しばらく動かなかった。

「……姉上の、悪い噂って」

「はい」

「俺、ずっと、あれのせいで、うちは組合に高く借りてるんだと思ってました。悪女の実家だから、信用が無いんだって」

 アデルは、答えなかった。

「違うんですか」

「組合は、どこの商会にも一割五分です。父の代から、ずっと」

 クレイは、写しを見た。

 帳場の奥で、ゴダールが、膝の帳面を閉じた。

 ぱたん。

「クレイ」

「はい」

「南の村の御者に、明日から、荷はロシェではなく、うちの倉へ、と伝えてください。倉の錠は、私が開けます」

「は、はい」

「それから、今日の麻の相場を、組合の掲示で見てきてください。十六枚のはずです。違っていたら、数字を持って帰ってきてください」

「……はい」

「それと、来月の頭の十枚」

 クレイの足が止まった。

「払う前に、私に見せてください。今は、やめろとは言いません。見せてください」

 クレイは、答えなかった。答えないまま、頷いた。

 クレイは、外套も着ずに戸口まで行って、そこで止まった。

 振り返った。

「姉上」

「はい」

「その、担保って……」

 アデルは、証文の写しを、帳場の抽斗にしまった。

 しまってから、弟を見て、少しだけ微笑んだ。

 クレイは、何も訊かずに、走っていった。

 帳場に、ゴダールと二人になった。

 ゴダールは、膝の帳面を開いた。今年の分。紐の緩い一冊。

 そこに、細い字で、何かを書き足した。

 アデルは、それを覗かなかった。

 窓の外で、河の船が、帆を上げていた。

 残りの借財は、三口。組合の八百。ヴィナの千二百。そして、名前の無い、二百二十。