
悪女と呼ばれた侯爵夫人は、離縁状に判を押してから本気を出す 第三話 悪女の名で借りる
河港でいちばん口の悪い金貸し、ヴィナ。帳場の奥で、干した魚をかじりながら、アデルの頭の先から靴の先までを値踏みする。倉の塩は八か月動かず、麻は売られ、借財は三口。担保になるものは何も残っていない。アデルは、担保の話をしない。先に口にしたのは、ヴィナのほうだった。「あんたの名前は、河港では高く売れる」。
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ヴィナの店は、河港のいちばん端にあった。
魚を干す棚が並ぶ通りの、突き当たり。看板は無い。戸の上に、錆びた秤が一つ、吊るしてある。
戸は開いていた。
中は、狭かった。帳場が一つ。壁に、紐で束ねた証文が、何十と吊るしてある。紐の色が違う。赤、青、黒。
帳場の向こうで、女が、干した魚をかじっていた。
四十を少し過ぎたくらい。髪を後ろで乱暴に括って、袖をまくっている。指に、墨の染みがある。
女は、アデルを見た。
頭の先から、靴の先まで。それから、もう一度、靴から頭まで。
「……へえ」
魚をかじったまま、言った。
「ヴェルンハイムの悪女が、黒い外套で、朝っぱらから、あたしの店に」
「アデル・アルデールです」
「知ってるよ。昨日から、河港じゅうが知ってる。判を押して、鞄を三つ自分で持って、歩いて出てきたって」
ヴィナは、魚を皿に置いた。
「座んな。椅子は一つしかない。あんたが座れ」
アデルは、座った。
ヴィナは、帳場の縁に腰を引っかけた。
「で。いくら」
「千二百」
「銀貨で」
「銀貨で」
ヴィナは、口笛を吹いた。品のない、長い口笛だった。
「ロシェの分だね」
アデルは、答えなかった。
「隠さなくていいよ。あんたの弟が去年、ロシェから千二百借りたのは、河港じゃ誰でも知ってる。利息無しで、その代わり麻を十一枚で卸す。ロシェの帳場の手代が、酒場で自慢してた。いい買い物をしたってさ」
「そうですか」
「で、その千二百を、あたしから借りて、ロシェに叩き返す」
「はい」
「で、麻を、ロシェじゃないところに、まともな値で売る」
「はい」
ヴィナは、少し笑った。
「話が早いね。噂より」
「噂は、どう言っていますか」
「悪女は話が長い。人を吊るし上げるとき、半刻かける」
「かけました」
ヴィナは、今度は声を出して笑った。
*
「利息は」
アデルが訊いた。
「年に二割」
「組合は一割五分です」
「組合は、担保を取る。あたしは取らない。取れるもんが、あんたのとこに無いからね」
ヴィナは、指を折った。
「倉の塩は、ロシェに押さえられてはいないけど、八か月動いてない。売れない塩は担保にならない。麻は、全部ロシェに流れてる。船枠は四十日流した。商会の建物は、組合の八百の担保に入ってる。父親の代からね」
アデルは、黙って聞いていた。
全部、合っていた。
「つまり、あんたのとこには、あたしが取れるもんが何も無い。だから二割。取れるもんが無い相手に貸すのは、博打だ」
「そうですか」
「そうだよ」
アデルは、外套の前を、少し直した。
それだけで、何も言わなかった。
担保の話を、アデルは、しなかった。
帳場の上の沈黙が、長くなった。
外で、魚の棚を片づける音がした。
ヴィナは、アデルの顔を見ていた。アデルは、壁の証文の束を見ていた。赤い紐、青い紐、黒い紐。
「……黒は、返ってこなかった分ですね」
アデルが言った。
ヴィナの目が、細くなった。
「なんで分かる」
「黒の束だけ、埃をかぶっています。赤と青は、紐の結び目が新しい。結び直している。返ってくる途中の束です」
「……」
「黒は、もう結び直す理由が無い」
ヴィナは、しばらく黙っていた。
それから、帳場の縁から下りて、黒い束の一つを指で弾いた。埃が、光の中で舞った。
「十一年分だ。黒は、全部で三十七人」
「はい」
「そのうち、三十一人は、名前の無い連中だ。逃げても、河港の外に出れば、誰もそいつを知らない。だから逃げる」
ヴィナは、振り返った。
「残りの六人は、名前のある連中だ。家名がある。商会がある。そいつらは、逃げなかった。返せなくて、潰れた。潰れたあと、あたしは、そいつらの家名を、河港じゅうに言って回った。あの家は、ヴィナから借りて、返さなかったって」
「はい」
「それで、次から、名前のある連中は、あたしに返すようになった」
ヴィナは、帳場に戻って、アデルの正面に立った。
「悪女さん。あんたの名前はね」
ヴィナは、魚の脂のついた指で、アデルを指した。
「河港では、高く売れる」
アデルは、何も言わなかった。
「十年、社交界で悪女と呼ばれた女が、離縁されて、実家の傾いた商会に戻ってきた。河港の商人は、みんな、あんたを見てる。何をするのか。どこで転ぶのか」
「……」
「その女が、ヴィナから借りて、返さなかったら。あたしは、それを言って回る。悪女は、借りた金も返さない女だった、って。そうなったら、あんたの名前は、河港では一文にもならなくなる。組合も、ロシェも、あんたの弟の商会とは、二度と話さない」
ヴィナは、指を下ろした。
「あんたは、それを嫌う。嫌うだろ。その顔は、自分の名前の値段を知ってる顔だ」
アデルは、答えなかった。
「だから、担保は、あんたの名前。あたしは、それで貸す」
*
「では」
アデルは、ようやく口を開いた。
「名前を担保に取るなら、利息は、組合より下がりますか」
ヴィナが、目を丸くした。
「……は?」
「組合は、建物を担保に取って、一割五分です。ヴィナさんは、建物の代わりに名前を取る。名前は、建物より確かだ、ということですね」
「言ってないよ、確かだなんて」
「建物は、燃えます。私の名前は、もう燃えるところがありません」
ヴィナは、口を開けて、閉じた。
それから、腹を抱えて笑い出した。帳場を拳で二度叩いて、干し魚の皿が跳ねた。
「……あんた、ほんとに悪女だね」
「そう聞こえたなら、そうなのでしょう」
「一割二分」
「一割」
「一割二分。それより下は、あたしの名前が安くなる。金貸しが悪女に値切り負けたって」
ヴィナは、指を一本立てた。
「その代わり、あんたが返したら、あたしの名前が上がる。悪女に千二百貸して、ちゃんと返させた金貸しだって。そうなりゃ、次から、名前のある客はみんな、あたしのとこに来る。一割二分でも、あたしは損しない」
アデルは、少し考えた。
千二百の一割二分は、年に百四十四。季ごとに三十六。
ロシェに十一枚で卸している麻は、年に四十台。河港の相場は、いま、一台十六枚。差は、一台五枚。年に二百。
二百から、百四十四を引いて、五十六。
月にすれば、四枚と少し。
弟の商会は、月に三十枚ずつ小さくなっている。それが、二十五枚になる。
まだ、縮む。向きは、変わらない。
それに、元の千二百は、二年後の秋に一度に返す。麻で浮くのは、利息を払えば年に五十六。縮み方が少し緩むだけで、手元には一枚も残らない。
麻では、返せない。
アデルは、膝の上で、外套の裾を直した。商会の奥に置いてきた鞄の一つを、思い浮かべた。四十七通の、紙の束。
返すのは、別の紙だ。
それでも、ロシェに麻を十一枚で渡し続けるより、ましだった。ロシェの千二百は利息が無い。その代わり、期限も無い。期限の無い借りは、終わらない。
「一割二分で」
「期限は」
「二年」
「二年ね。季ごとに利息、元は二年目の秋に一括。一日でも遅れたら、言って回る」
「はい」
ヴィナは、帳場の下から紙を三枚出した。
同じことを三枚に書く。ヴィナの字は、太くて、速かった。一枚目を書き終えて、手を止めた。
「担保の欄。なんて書く」
「空けておいてください」
「空けとく?」
「書いてあれば、組合の控えを見た人が、読みます。空いていれば、誰も読めません。ヴィナさんと私だけが、知っていればいい」
ヴィナは、ペンの尻で、こめかみを掻いた。
「……組合の控えは、誰でも見られる。悪女が名前を質に入れたって、書いてあったら、それだけで河港じゅうの噂だ」
「はい」
「空けとくよ」
ヴィナは、担保の欄を空けたまま、三枚に判を押した。アデルも、懐から判を出して、押した。柘植の、古い判。朱肉は、ヴィナのものを借りた。
一枚をアデルに。一枚をヴィナの帳面に。一枚を、組合の印の袋に。
ヴィナは、奥の箱から、銀貨の袋を十二、帳場に並べた。一袋、百枚。口は、どれも赤い紐で結んである。
アデルは、一袋ずつ、口を開けて、中を見た。数えはしなかった。重さを手で測って、口を閉じた。
「数えないのかい」
「ヴィナさんは、数え違えて渡す人ではないと思います」
「なんで分かる」
「数え違えて渡した金は、返してもらえないからです。ヴィナさんは、損をしない人です」
ヴィナは、鼻を鳴らした。
「……ひとつ、ただで教えとく」
アデルは、袋を抱えたまま、顔を上げた。
「あんたの弟、去年の春から、毎月十枚ずつ、どこかに払ってるだろ。月の頭に、ロシェとは別の方角へ歩いてくのを、魚屋の婆さんが見てる。あれは、あたしの客じゃない」
「はい」
「誰かは、知ってる」
「そうですか」
「訊かないのかい」
「ただで教えてくださるのは、そこまでだと思いますので」
ヴィナは、今度は笑わなかった。
アデルの顔を、しばらく見ていた。
「……帰んな。重いよ、それ」
重かった。
銀貨千二百枚。袋を六つずつ、両腕に抱えた。外套の中に隠すには、多すぎた。
魚の棚の通りを、端から端まで歩いた。干し網の陰から、何人かが顔を出して、黙って見ていた。黒い外套の女が、銀貨の袋を抱えて、ヴィナの店から出てくるところを。
アデルは、急がなかった。
*
ロシェ商会の帳場は、朝の荷受けが終わって、静かだった。
今朝、紙を三枚書いていた手代が、帳場の奥にいた。アデルを見て、立ち上がった。
「千二百、お返しします」
アデルは、銀貨の袋を十二、帳場に並べた。袋の口は、どれも赤い紐で結んであった。
手代は、袋を見て、アデルを見て、また袋を見た。
「……アルデールの若旦那の分、ですか」
「はい。こちらの帳面の分と、組合の控えを出してください。弟の分は、持ってきました」
アデルは、酒の染みの一冊に挟まっていた一枚を、帳場に置いた。
手代は、奥へ行って、しばらく戻らなかった。
戻ってきたとき、後ろに、年配の男が一人、ついてきていた。上等な上着。胸に、鍵と波の印。
男は、袋を見た。それから、アデルを見た。
「アルデールのお嬢さんか」
「アデル・アルデールです」
「利息は取らない約束だった。返すのは、いつでもいい、と若旦那には言ってある」
「はい。ですから、いま、お返しします」
「……麻の約束は」
「元の証文に、書いてあります。借財が残るあいだ、麻を十一枚で卸す。借財は、いま、残らなくなりました」
男は、しばらく黙っていた。
「その千二百は、どこから」
アデルは、答えなかった。
男は、帳場の袋を見た。十二の袋の、十二本の赤い紐。
「……ヴィナか」
「そう聞こえたなら、そうなのでしょう」
男の口の端が、少し、動いた。
「悪女に千二百を貸す金貸しが、河港にいるとはな」
「いました」
男は、手代に顎で示した。
組合の者が一人、印のある革の袋を抱えて、手代のあとからついてきた。控えは、組合の外へは出ない。消すときは、組合の者の目の前で消す。
手代が、三枚の証文を並べた。一枚は帳面から。一枚は、組合の袋から。一枚は、アデルが持ってきたもの。
手代は、三枚に、同じ線を引いた。斜めに一本。それから、下に「皆済」と書いた。
男が判を押した。アデルも押した。柘植の判は、今日、二度目だった。
「今朝、南の村の荷が一台、入っている」
男が言った。
「あれは、十一枚で受けた。借財が残っているうちに入った荷だ」
「はい」
アデルは、うなずいた。
「今朝は、借財が残っていました。十一枚で結構です。明日からの荷は、うちの倉へ入れます」
男は、しばらくアデルを見ていた。
「……値を戻せ、とは言わないのか」
「約束の中で入った荷です。約束の外のものは、頂きません」
男の口の端が、もう一度、動いた。
*
商会に戻ると、クレイが、帳場で一番古い帳面を読んでいた。
読んでいた、というより、開いて、見ていた。十年前の、冬。
「姉上」
クレイは顔を上げた。
「どう、でした」
「ロシェに、千二百を返してきました」
クレイは、椅子から半分立ち上がった。
「え、あ、返し、え、どこから」
「ヴィナから借りました。一割二分。二年」
「一割、二分……組合より安い……なんで、そんな」
「担保が、よかったのでしょう」
「担保って、何を」
アデルは、証文の写しを帳場に置いた。
クレイは、それを取って、読んだ。担保の欄を見て、眉を寄せた。
「……空いてる」
「空いています」
「空いてて、一割二分で、千二百……」
クレイは、写しを持ったまま、しばらく動かなかった。
「……姉上の、悪い噂って」
「はい」
「俺、ずっと、あれのせいで、うちは組合に高く借りてるんだと思ってました。悪女の実家だから、信用が無いんだって」
アデルは、答えなかった。
「違うんですか」
「組合は、どこの商会にも一割五分です。父の代から、ずっと」
クレイは、写しを見た。
帳場の奥で、ゴダールが、膝の帳面を閉じた。
ぱたん。
「クレイ」
「はい」
「南の村の御者に、明日から、荷はロシェではなく、うちの倉へ、と伝えてください。倉の錠は、私が開けます」
「は、はい」
「それから、今日の麻の相場を、組合の掲示で見てきてください。十六枚のはずです。違っていたら、数字を持って帰ってきてください」
「……はい」
「それと、来月の頭の十枚」
クレイの足が止まった。
「払う前に、私に見せてください。今は、やめろとは言いません。見せてください」
クレイは、答えなかった。答えないまま、頷いた。
クレイは、外套も着ずに戸口まで行って、そこで止まった。
振り返った。
「姉上」
「はい」
「その、担保って……」
アデルは、証文の写しを、帳場の抽斗にしまった。
しまってから、弟を見て、少しだけ微笑んだ。
クレイは、何も訊かずに、走っていった。
帳場に、ゴダールと二人になった。
ゴダールは、膝の帳面を開いた。今年の分。紐の緩い一冊。
そこに、細い字で、何かを書き足した。
アデルは、それを覗かなかった。
窓の外で、河の船が、帆を上げていた。
残りの借財は、三口。組合の八百。ヴィナの千二百。そして、名前の無い、二百二十。
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