西洋風の屋敷の書斎。黒髪を結い上げ、深紅のビロードのドレスを着た女性が、大きな木の机に向かって座り、落ち着いた表情でこちらを見ている。机の上に羽ペンとインク壺、封蝋を押した一枚の書類、左手前に書類の束。背後は天井まで届く本棚で、右の大きな窓から午後の光が差している。
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悪女と呼ばれた侯爵夫人は、離縁状に判を押してから本気を出す 第二話 十年分の帳面

夜のアルデール商会。弟クレイが三年分の帳面を抱えて戻ると、老番頭ゴダールは黙って、奥の長持から十年分の帳面を出してきた。アデルは灯りの下で、一冊も飛ばさずに読む。朝、弟は姉の口から自分の商会の数字を聞く。麻を村から銀貨十四枚で買い、十一枚で売っている。塩の樽は八か月、倉から動いていない。「姉上は、商売なんて」。その思い込みが、最初に崩れる。

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 帳面は、三年分で、七冊あった。

 クレイが両腕に抱えて戻ってきて、帳場の上に置いた。置いたというより、崩した。一冊が滑って床に落ち、ばさりと開いた。

「す、すみません」

「拾いなさい」

 クレイは拾った。開いた頁に、茶色い染みがついている。

「これは」

「……酒です。去年の秋の」

「帳面の上で飲んだのですか」

「帳面を見ながら飲んだら、そうなりました」

 アデルは、それ以上訊かなかった。

 染みの一冊を、脇に置いた。残りの六冊を、年の順に並べ直した。クレイの並べ方は、順になっていなかった。背に年が書いていないので、表紙の隅に小さく書かれた日付を見て、並べる。それだけで、クレイは黙って見ていた。

 灯りが一つ。油が少ない。

「番頭さん、油はありますか」

 ゴダールは立ち上がって、奥へ行った。

 戻ってきたとき、手に油壺はなかった。

 代わりに、長持を一つ、引きずってきた。

 黒い、古い長持だった。角の金具が緑に錆びている。ゴダールはそれを帳場の脇に置き、蓋を開けた。

 中に、帳面が詰まっていた。

 薄い綴じで、一冊が指の幅もない。それが、隙間なく、縦に詰まっている。

「……番頭さん、それ、なんですか」

 クレイが訊いた。

 ゴダールは答えなかった。一番手前の一冊を抜いて、アデルの前に置いた。

 表紙に、細い字で、年と季が書いてある。春夏秋冬で、一冊。十年前の、冬。

 アデルは、それを見た。

「拝見します」

 ゴダールは、油壺を取りに、もう一度奥へ行った。

「姉上」クレイが小声で言った。「あの長持、俺、見たことないです」

「そう」

「十年分、ありますよね。あれ」

「そう見えますね」

「なんで、番頭さんがそんなの」

「番頭だからでしょう」

 クレイは、納得したような、していないような顔をした。

 アデルは、六冊の方ではなく、薄い一冊の方を開いた。

 十年前の冬。父が死んだ季だ。

 最初の頁に、塩の樽が三十、麻が荷車で六。その季の売りと、買い。数字は父の字ではない。ゴダールの字だ。

 アデルは、読み始めた。

    *

 商会の帳面は、読むのに、こつがある。

 数字を読むのではない。数字と数字の間を読む。

 たとえば、塩の樽が十入って、八出ている。残りの二は、どこへ行ったか。帳面には「損」と書いてある。だが、樽は割れない。中身が湿って固まることはあるが、消えはしない。二樽は、誰かの手元にある。

 たとえば、麻の荷車が六入って、六出ている。だが、出た先が、六つとも別の名になっている。同じ村の麻を、六つの商会に、一台ずつ売っている。売り先が一つに決まっていないということは、値が決まっていないということだ。

 そういうものを、一枚ずつ読む。

 アデルは、十年前の冬から順に、薄い一冊を読み、それが終わると次の一冊を抜いた。

 油が足された。灯りが戻った。

 ゴダールは、元の椅子に戻った。膝の上に、帳面を一冊、開いたまま置いている。紐が緩い。今年のものだ。読んでいるのか、ただ開いているのか、分からない。

 クレイは、最初のうち、向かいの椅子に座っていた。それから机に肘をついた。それから、頭が下がった。

 ゴダールは、白湯を足した。

 三冊目に入ったころ、クレイが顔を上げた。

「姉上」

「はい」

「……何か、俺、手伝えることは」

「ありません」

「ですよね」

 クレイは、また、突っ伏した。

 五冊目。父が死んで、一年後。塩の樽が、季に三十から、二十に減っている。理由は書いていない。だが、その季の隣に、河港の船枠が三日、使われずに流れている。塩は、船に載らなければ王都へ行けない。

 アデルは、その頁に指を置いて、しばらく動かさなかった。

 それから、次の頁をめくった。

    *

 窓の外が、灰色になった。

 クレイは、机に突っ伏して、規則正しい息をしていた。

 ゴダールは、起きていた。座ったまま、一度も動いていないように見えたが、白湯は四度、足された。膝の帳面は、開いたままだった。

 アデルは、最後の一冊を閉じた。

 今年の、先の季までの分だ。

 長持の帳面は、去年の分まではきっちり綴じてあって、今年の分だけ、紐が緩い。

 アデルは、それを長持に戻した。

 六冊の方は、開いていない。

 クレイが持ってきた三年分の帳面は、開かなくても、中身は分かっていた。薄い一冊に、同じことが書いてある。ただ、薄い一冊の方は、酒の染みがついていない。

「番頭さん」

 ゴダールが、顔を上げた。

「弟は、いつも、何時に起きますか」

 ゴダールは、帳面を閉じる代わりに、窓の外を見た。

 空が、灰色から白に変わろうとしている。

 それが答えだった。

 アデルは、立ち上がった。二刻歩いた足が、まだ重い。座っていた分、余計に重い。

「少し、外へ出ます」

    *

 河港の朝は、早い。

 荷揚げの声は、日が出る前から始まっている。船が、上流から来る。下流から来る。岸に着けて、綱を投げて、樽を転がす。

 アデルは、商会街の外れから、岸沿いに歩いた。

 倉が並んでいる。商会ごとに一つ、大きいところは三つ。扉に屋号の印がある。

 アルデールの倉は、路地の一番奥だった。

 扉に、錠が下りている。錠の周りだけ、埃がついていない。開け閉めはしている。

 アデルは、扉の隙間に顔を寄せた。

 塩のにおいがする。それと、古い麻のにおい。

 樽の陰が、奥まで並んでいた。

 数えられる範囲で、二十。奥は見えない。

 アデルは、扉から離れた。

 そのまま、岸に沿って、三つ先の倉まで歩いた。

 大きい倉だ。扉が両開きで、いま、開いている。中で人が動いている。

 屋号の印は、鍵と波。

 ロシェ商会。河港で、王家の御用達を持つ三つのうちの一つだ。

 倉の前に、荷馬車が一台、停まっていた。

 荷は、麻だ。

 輪金が減っている。

 昨日、街道でアデルの横に並んで、乗るかいと言った、あの荷馬車だった。

 御者が、荷台から麻の束を下ろしていた。アデルに気づいて、手を止めた。

「……奥さん」

「アルデールです」

「あ、ああ。昨日の」

「昨日のうちに着いたのでは、ありませんでしたか」

「着いたよ。着いたけど、夕べは倉が閉まってた。ロシェは、日が出てからしか受けねえんだ。船着き場で、荷と一緒に寝たよ」

「その麻は、南の村のですね」

「そうだよ」

「ロシェ商会に、卸すのですか」

「卸すも何も、ここに持ってこいって言われてるから」

「どなたに」

 御者は、束を持ったまま、少し考えた。

「アルデールの若旦那だよ。あんたの弟さんだろ」

「そうです」

「あの人が、去年から、うちの荷はロシェに直接届けろって。アルデールの倉は、いっぱいだからって」

「一台、いくらで」

「俺は運び賃しかもらってねえよ。荷の値は知らん」

「そうですか」

 アデルは、荷台を見た。

 下ろした分と合わせて、束は、十二。荷車一台ぶん。

 アデルが最初に結んだ証文と、同じ量だ。

 倉の中で、ロシェの手代が、帳場に紙を三枚、並べていた。一枚に書いて、隣の一枚に同じことを書き、三枚目にも書く。書き終えると、一枚を御者に渡し、一枚を帳面に挟み、三枚目を、革の袋に入れた。

 袋には、組合の印が押してある。

 アデルは、それを、見るだけ見た。

「ありがとうございました」

 頭を下げて、来た道へ戻りかけた。

「なあ、奥さん」

 御者が、後ろから言った。

「昨日の続きだけどよ。あんた、ほんとに悪女なのかい」

 アデルは、振り返らずに答えた。

「やりました」

 御者が、何か言いかけて、やめたのが、背中で分かった。

    *

 商会に戻ると、クレイは起きていた。

 起きていて、帳場の上に、湯呑みを三つ並べていた。一つは白湯。一つは、茶。一つは、空。

「姉上、あの、朝の」

「結構です」

「……はい」

 アデルは、座った。

 六冊の帳面は、まだ、開いていない。

 クレイは、その六冊と、アデルの顔を、交互に見た。

「姉上」

「はい」

「……読んだんですか。それ」

「いいえ」

「あ、そうですよね。三年分、一晩じゃ」

「読んでいません」

 クレイは、少し、ほっとした顔をした。

「クレイ」

「はい」

「南の村の麻は、荷車一台、いくらで買っていますか」

「え」

「村から、です」

「え、ええと」クレイは天井を見た。「銀貨で……十四枚、だったと思います」

「はい」

「あれ、高いんですよ。よその村は十二枚なのに、あそこだけ、なぜか十四枚で。証文があるとかで、番頭さんが下げてくれなくて」

「はい」

「だから、正直、うちの麻は儲からなくて」

「一台、いくらで売っていますか」

 クレイは、口を開けて、閉じた。

「ロシェ商会に、です」

「……なんで、ロシェの名前を」

「一台、いくらで」

 クレイは、視線を下げた。

「……十一枚、です」

「十四枚で買って、十一枚で売っている」

「でも、それは」クレイは早口になった。「ロシェは、その場で払ってくれるんです。現金で。うちは、季の末に利息を払わないといけなくて、それが、間に合わなくて。麻は、置いておいても腐るし」

「麻は、腐りません」

「え」

「乾いた麻は、湿らせなければ、三年持ちます」

「……そう、なんですか」

「帳面に書いてあります。十年前の冬。父が死んだ季に、倉の麻を、三年前の分まで数えて、値をつけ直しています。番頭さんの字で」

 クレイは、ゴダールを見た。

 ゴダールは、膝の帳面を、閉じなかった。

 開いたままにしていた。

「……姉上」クレイは言った。「一晩で、十年分、読んだんですか」

 アデルは、答えなかった。

 代わりに、指を三本、立てた。

「借財は、三口です」

「え」

「一つは、河港の組合から。銀貨で八百。利息は年に一割五分。季ごとに三十。これは、父の代からです。二つ目は、ロシェ商会から。銀貨で千二百。利息はありません。代わりに、麻を十一枚で卸す約束になっています。これは、あなたの代です」

 クレイの顔から、色が抜けた。

「三つ目は、名前が書いていません。元は銀貨で四百。去年の春から、毎月、十枚ずつ返しています。残りは二百二十。帳面には、『雑』と書いてあります」

「……」

「雑、というのは、誰ですか」

 クレイは、答えなかった。

 ゴダールも、答えなかった。

 アデルは、それ以上、その名を追わなかった。

「合わせて、二千二百と二十」

 アデルは、指を下ろした。

「倉には、塩の樽が、およそ百二十。八か月、動いていません。船枠は、今年に入って、四十日、流しています。麻は、村から年に四十台入って、全部、ロシェへ行っています」

「……」

「クレイ」

「はい」

「あなたは、商会を、月に銀貨で三十枚ずつ、小さくしています。利息で十。麻で十。それに、雑で十」

 クレイは、椅子の背にもたれた。

 もたれて、天井を見た。

「……姉上は」

「はい」

「姉上は、商売なんて、知らないと思ってました」

「そう聞こえたなら、そうなのでしょう」

「違います、いや、違わない、俺がそう思ってたんです。侯爵家に嫁いで、十年、こっちには一度も帰ってこなくて。手紙も無くて。だから、姉上は、うちのことなんて、もう」

「はい」

「……十年、一度も、帰ってこなかった」

「帰りませんでした」

 アデルは、そう言った。

 クレイは、しばらく、姉の顔を見ていた。

 それから、小さい声で言った。

「……番頭さん」

 ゴダールが、顔を上げた。

「俺、姉上が怖い」

 ゴダールは、それには答えず、白湯を、クレイの前の空の湯呑みに注いだ。

 クレイは、両手で湯呑みを持って、飲んだ。熱かったらしく、少しむせた。

 アデルは、脇に置いてあった、酒の染みのある一冊を、手元に引き寄せた。

 去年の秋の一冊だ。

 開いた。

 初めて、開いた。

「クレイ」

「は、はい」

「この秋、あなたは、麻を八台、ロシェに卸しています。帳面には七台と書いてある」

「……」

「一台は、どこへ」

「……それは、その」

「雑、ですか」

 クレイは、湯呑みを置いた。

 置いて、両手を膝の上で握った。

 答えなかった。

「分かりました」

 アデルは、帳面を閉じた。

 ぱたん、と音がした。

 ゴダールが、顔を上げた。

 アデルは、そのとき、少しだけ、笑った。

 クレイは、それを見て、なぜか背筋を伸ばした。

「姉上」

「はい」

「これから、どうするんですか」

「まず、雑、を止めます」

「……」

「それから、河港で、いちばん口の悪い金貸しに会います」

「え!? 金貸し? これ以上、借りるんですか?」

「借ります」

「何を担保に!? もう、倉も麻も、全部――」

 アデルは、答えなかった。

 立ち上がって、鞄の一つ――衣類の鞄を開けた。中から、黒い、地味な外套を出した。侯爵夫人が着るものではない。商家の女が、河港を歩くときに着るものだ。

 十年前、この家を出るときに持っていった外套だった。

 袖を通した。少し、きつい。

「番頭さん」

 ゴダールが、顔を上げた。

「ヴィナは、まだ、河港にいますか」

 ゴダールは、膝の帳面を閉じた。

 ぱたん。

「では、行ってきます」

 アデルは、扉を開けた。

 朝の光が、帳場まで入ってきた。埃が、光の中で、ゆっくり回った。

 クレイは、その光の中で、六冊の帳面の、一番古い一冊を、開いた。

 誰にも、言われていないのに。