
悪女と呼ばれた侯爵夫人は、離縁状に判を押してから本気を出す 第一話 判を押す
社交界で十年、悪女と呼ばれ続けたヴェルンハイム侯爵夫人アデル。その評判は、夫の家を守るために自分で育てたものだった。秋の午後、侯爵は書斎で長い言葉を選びながら離縁を切り出す。アデルは最後まで黙って聞き、聞き終えて訊いた。「それで全部ですか」。そして懐から、朱肉の乾いた古い判を出した。
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侯爵の書斎は、秋のこの時刻がいちばんいい。
西向きの大きな窓から光が低く入って、書棚の背表紙を端から順に照らしていく。金の箔押しが一列ずつ光っては消える。アデル・ヴェルンハイムは十年、その光の進み方を見てきた。
今日は、その光の中に、椅子が二つ置かれていた。
向かい合わせに、二つ。
十年で、初めてだった。
「かけてくれ」
侯爵ラウル・ヴェルンハイムは、そう言って、自分から先に座った。三十八歳。細身で、背が高く、人の目を見て話す男だった。誠実だと評判で、実際に誠実だった。
アデルは座った。背を伸ばし、手を膝の上で重ねた。
「アデル」
「はい」
「話がある」
「伺います」
ラウルは、机の上の書類に手を置いた。置いてから、その手を退けた。
「まず、礼を言わせてほしい」
アデルは何も言わなかった。
「十年だ。兄が急に亡くなって、私が継いだとき、この家には金が無かった。麦の相場が三年続けて外れて、領の税だけでは借りの利息にも届かなかった。あのとき、君が来た」
「はい」
「君は、何も言わずに、片端から整理していった。使用人を減らし、縁者の年金を切り、夜会の招待を断った。私は何度も止めようとした。そのたびに君は『そう聞こえたなら、そうなのでしょう』と言って、聞かなかった」
「言いました」
「あれで、家は残った」
ラウルは、そこで一度、言葉を切った。
アデルは、窓の光を見ていた。書棚の四段目が光っている。もう少しで五段目に落ちる。
「だが、君は」ラウルは続けた。「代償を全部、一人で引き受けた」
「引き受けた覚えはありません」
「悪女、と呼ばれている」
「存じています」
「あれは、君ではない」
アデルは、ラウルを見た。
「私です」
「アデル」
「使用人を減らしたのは私です。マルタの姪を解雇したのも、叔母上の年金を止めたのも、春の茶会でヴィント夫人の帳面を読み上げたのも、全部、私です」
「必要だったからだろう」
「必要だからやったことは、やっていないことにはなりません」
ラウルは、口を閉じた。
光が五段目に落ちた。
「……その話をしたいのではない」
ラウルは、机の書類を、こんどは手前に引いた。紙が擦れる音がした。
「離縁を、申し入れたい」
アデルは、何も言わなかった。
ラウルは、そこから長く話した。
家は立ち直った。もう君が汚れ役を負う理由はない。私は君に十年ぶんの何も返せていない。世間は君を悪女と呼び、私を気の毒な夫と呼ぶが、それは逆だ。私は自分が楽をしてきたことを知っている。だから、これ以上は。
――それから、もう一つ。
ラウルは、ここで初めて言いよどんだ。
「……再婚を、考えている」
「どなたですか」
「ソレル家の、リゼットだ」
「二十四歳の」
「知っているのか」
「春の茶会で、お目にかかりました」
ラウルは頷いた。
「彼女は、この家の事情を知らない。知らないまま、私を好きだと言った。私は、それを断る理由を、うまく作れなかった」
「作る必要はありません」
「アデル」
「本当です。作らなくていいものを作ると、そのぶん、あとで嘘が要ります」
ラウルは、しばらくアデルを見ていた。
「君は、怒らないのだな」
「怒っているように見えますか」
「見えない。十年、一度も見たことがない」
「では、そうなのでしょう」
ラウルは、目を伏せた。
「持参金は、全額、返す。加えて、この家から年に三百を、生涯」
「要りません」
「受け取ってくれ」
「三百は、いま、この家が出せる額ではありません」
ラウルの顔が、わずかに動いた。
「……なぜ、そう思う」
「今年の麦は、去年の八分です。河港の相場は、先週から三日続けて下げています。それと、この家は三年前に、南の林を担保に入れています」
「それは、誰から」
「どなたからも聞いていません」
アデルは、机の上の書類を見た。
「そこに、林の証文の写しが挟んでいらっしゃいます。角が折れているのは、この三年で何度も開いた紙です」
ラウルは、書類の束を見下ろした。
角が折れていた。
「……」
「三百は、二年で止まります。止まったときに、あなたは私に言い訳をしなければならなくなる。私はあなたに言い訳をさせたくありません」
「では、いくらなら」
「持参金だけで結構です」
「それでは」
「それで全部ですか」
アデルは、そう言った。
ラウルは、口を開けたまま止まった。
「……何が」
「お話です」アデルは言った。「他に、私に伝えることはございますか」
ラウルは、書類を見て、それから顔を上げた。
「いや。……ない」
「承知しました」
アデルは、立ち上がらなかった。
膝の上の手を解いて、袖の中に入れた。
そこから、小さな箱を取り出した。
黒く塗った木の箱で、蓋が擦れて木地が出ている。アデルはそれを机の上に置き、蓋を開けた。
中に、判が一つ入っていた。
象牙でも、瑪瑙でもない。ただの柘植の判で、持ち手が指の形にへこんでいる。
ラウルが、それを見た。
「それは」
「私の判です」
「知らない判だ」
「婚姻の前から使っております」
アデルは、机の隅の朱肉を引き寄せた。
蓋を開けると、朱が乾いて、表面がひび割れていた。指で押すと、粉になって指先についた。
アデルは、水差しから水を一滴落として、指で練った。
そのあいだ、ラウルは何も言わなかった。
朱が戻った。アデルは判に朱をつけ、離縁状を自分のほうへ引き寄せ、名前の下に押した。
ぎゅ、と押しつけて、真上に離す。
紙に、赤い四角が残った。字は「アデル・アルデール」。旧姓だった。
「アデル」ラウルの声が、初めて揺れた。「いま、押したのか」
「はい」
「今日は……話をするだけのつもりだった」
「存じています」
「では、なぜ」
アデルは、判を布で拭いて、箱に戻した。
「押す日を決めるのは、押す人です」
ラウルは、離縁状を見つめていた。
離縁状は双方の判で成立する。ラウルはまだ押していない。だが、アデルが押した以上、この紙は、押さない理由を説明しなければ消せない紙になった。
「……すまない」
ラウルは言った。
アデルは、箱を袖に戻しながら、顔を上げた。
「何がですか」
ラウルは、答えなかった。
アデルは立ち上がり、一度だけ、丁寧に頭を下げた。
書斎を出て、廊下を歩いた。
侍女頭のマルタが、階段の下に立っていた。五十を越えている。この十年、アデルの噂をいちばん熱心に流した一人だ。
「奥さま」
「奥さまではなくなりました」
マルタの顔が、わずかに動いた。
「……いつ、お発ちに」
「今日」
「今日でございますか」
「荷物は、三つです」
アデルは、そのまま自分の居室へ入った。
部屋には、旅行鞄が三つ、すでに置いてあった。
一つは衣類。一つは母の形見の銀器。
三つ目は、書類だった。
アデルは蓋を開けて、中を確かめた。
紐で束ねた証文が、四十七通。
一通目は、婚姻の翌年のものだ。領の南の村から、干した麻を買う約束。数量は荷車一台ぶん。金額は銀貨で十二枚。
アデル・ヴェルンハイム、ではなく、アデル・アルデールの名で結んである。
二通目も、三通目も、同じだった。
この国の法では、離縁した女は持参金を持ち帰る。それに加えて、婚姻中に自分の名で結んだ契約も、自分のものとして持ち帰れる。
十年、アデルはそれを積んだ。
一通ずつは小さい。麻が荷車一台、塩が樽で三つ、河の船の積み荷の枠が三日ぶん。どれも、侯爵家の帳面に載せるほどの額ではない。だから誰も見ていなかった。
四十七通を並べると、別のものになる。
南の村の麻が、年に四十車。
塩の樽が、年に百二十。
河港の船枠が、年に九十日。
これは、一つの商会が一年で回す量に近い。
アデルは束を戻して、蓋を閉じた。
扉が鳴った。
「失礼いたします」
若い女の声だった。
アデルが返事をする前に、扉が開いた。
リゼット・ソレルが立っていた。二十四歳。薄い緑のドレスを着て、肩で息をしていた。走ってきたらしい。
「あの」
「どうぞ」
リゼットは、部屋に一歩入って、そこで止まった。
部屋を見回した。ほとんど何もない。鞄が三つあるだけだ。
「……本当に、お出になるのですか」
「はい」
「わたくしのせいですか」
「いいえ」
「でも」リゼットの声が震えた。「みなさんが、そう仰います。わたくしがいるから、奥さまが」
「誰が仰いましたか」
「え」
「どなたが、そう仰いましたか」
リゼットは、口ごもった。
「……侍女の方が」
「そうですか」
アデルは、鞄の留め金を確かめた。
「ご心配なく。私は、私の理由で出ます」
「わたくし、奥さまのことを」リゼットは、一息に言った。「ひどい方だと聞いておりました」
「はい」
「使用人を泣かせて、ご親族を追い出して、お茶会で人前で人を責めると」
「やりました」
リゼットの目が、まるくなった。
「……やった、のですか」
「やりました」
「なぜですか」
アデルは、留め金から手を離して、リゼットを見た。
十年、この質問をされたのは、二度目だった。
一度目は、婚姻の三年目、当時まだ生きていた大叔母に問われたときだ。あのとき、アデルは答えなかった。
今回も、答えなかった。
「そう聞こえたなら、そうなのでしょう」
リゼットは、言葉を探して、見つけられなかった。
アデルは鞄を持った。三つは一度に持てないので、二つを持って、一つは扉の外へ押した。
「お幸せに」
そう言って、通り過ぎた。
「あの!」
リゼットの声が追いかけてきた。
「わたくし、この家のことを何も知らないのです」
アデルは、廊下で足を止めた。
振り返らずに言った。
「南の林の証文を、ご覧になってください。書斎の、右から三つ目の抽斗です」
「え」
「あなたが入る家は、まだ立っていません。立っているように見えるだけです」
アデルは歩き出した。
背後で、リゼットが何か言ったが、聞き取れなかった。
玄関に、ラウルが立っていた。
馬車の手配はしていない。アデルが断ったからだ。
「せめて、馬車を」
「歩きます」
「河港まで、二刻ある」
「歩いたことがあります」
ラウルは、それ以上言わなかった。
従僕が鞄を運ぼうとしたのを、アデルは断った。三つを、自分で持った。重かった。書類の鞄がいちばん重い。
門まで、誰も見送らなかった。
正確には、見送る人はいたが、遠くから見ていた。侍女が三人、厩の陰に二人、二階の窓に一人。
門を出た。
石畳が、屋敷の敷地の砂利道から、街道の敷石に変わる。境目の一段を、アデルは越えた。
振り返らなかった。
街道を下ると、河が見えてくる。
河港は、屋敷から二刻。途中に村が二つある。最初の村の井戸端で、アデルは一度休んだ。
鞄を置いて、桶の水を汲んで飲んだ。
女が二人、洗い物をしていた。アデルを見て、目を伏せた。
アデルは、その顔を知っていた。三年前、この村の麻の値を、荷車一台につき銀貨二枚分だけ上げさせたときに、村の側で立ち会った人だ。
「ご無沙汰しております」
アデルが言うと、女は驚いた顔をした。
「……奥さま」
「アデル・アルデールです」
女は、湿った手を前掛けで拭いた。
「あの、ご無礼を。お顔を見て、その、逃げようかと」
「なぜですか」
「奥さまは、おそろしい方だと」
「はい」
「でも、うちの麻は、あの年から値が下がっておりません」
アデルは、桶を置いた。
「下げないと約束しました」
「約束でございましたか」
「証文にしてあります」
女は、洗濯物を絞りながら言った。
「……村では、奥さまのことを、あまり悪く言いません」
「そうですか」
「よそでは、みんな言うと聞きましたが」
「言っているでしょうね」
アデルは、鞄を持ち上げた。
「言わせておいてください。そのほうが、値が下がりません」
女は、意味が分からなかったらしく、曖昧に笑った。
アデルは頭を下げて、歩き出した。
二つ目の村を過ぎたあたりで、後ろから荷馬車が来た。
御者が速度を落として、アデルの横に並んだ。
「乗るかい、奥さん」
「歩きます」
「河港まで、まだ一刻あるよ」
「知っています」
御者は肩をすくめて、行こうとして、それから振り返った。
「……あんた、ヴェルンハイムの奥方か」
アデルは、歩きながら答えた。
「アルデールです」
「へえ」
荷馬車が、また速度を落とした。
「アルデールってのは、河港の商会の」
「実家です」
「あそこ、傾いてるって話だが」
「傾いています」
御者は、口笛を吹いた。
「正直だね」
「本当のことしか言いません」
「はは。じゃあ一つ聞くが、あんた、悪女なんだって?」
アデルは、荷馬車の車輪を見ていた。輪金が減っている。荷を積みすぎている。
「そう聞こえたなら、そうなのでしょう」
「答えになってねえよ」
「はい」
御者は笑って、鞭を鳴らした。荷馬車は先へ行った。
アデルは、その荷を目で追った。
麻だ。荷車一台ぶん。
南の村から河港へ運ばれる麻は、アデルの証文の中にある。
あの荷が誰に渡るかは、河港に着けば分かる。
河港に着いたのは、日が落ちる少し前だった。
水のにおいがする。船が十数隻、岸に並んでいる。荷揚げの声が飛び交って、樽の転がる音が響く。
河港の北の端に、商会街がある。十二の商会が軒を連ねていて、そのうち三つが王家の御用達だ。
アデルは、そこから外れた路地に入った。
路地の奥に、看板が一つ。
塩の結晶と、麻の束の意匠。塗りが剥げて、下地の木が見えている。
アルデール商会。
アデルの実家だった。
窓に灯りがついている。人はいる。
アデルは、扉の前に立って、鞄を三つ、足元に置いた。
肩を回した。二刻歩いた腕が、しびれている。
それから、扉を押した。
鍵はかかっていなかった。
中は、埃と、古い麻のにおいがした。帳場の向こうで、若い男が机に突っ伏して寝ていた。二十七歳。アデルの弟のクレイだ。
その隣で、老人が一人、帳面をめくっていた。
老人は顔を上げた。
六十をいくつか越えている。先代からの番頭で、名はゴダール。
アデルを見て、老人は帳面を閉じた。
ぱたん、と音がした。
それが、この人の返事だった。
「ただいま」
アデルは言った。
ゴダールは、何も言わずに立ち上がって、奥の棚から、埃をかぶった椅子を一つ持ってきた。
アデルは、腰を下ろした。
そして、三つ目の鞄を開けて、紐で束ねた四十七通を、帳場の上に置いた。
どん、と重い音がした。
クレイが飛び起きた。
「な、なんだ、なに――姉上!?」
「おはよう」
「夜です!」
「そう」
アデルは、束の紐をほどいた。
「クレイ」
「は、はい」
「今日から、私がここにいます」
「え」
「まず、帳面を全部出しなさい。三年ぶん」
「三年!?」
「五年でもいいですが」
「三年でお願いします!」
クレイは椅子を蹴倒すようにして、奥へ走っていった。
ゴダールが、湯呑みを一つ、アデルの前に置いた。
中身は白湯だった。
「番頭さん」
「はい」
「十年、帳面を送ってくださって、ありがとうございました」
ゴダールは、何も言わなかった。
ただ、もう一度、帳面を閉じる音をさせた。
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