古書店の合鍵
深夜まで灯る古書店で、四十二歳の店主と、週に一度木曜だけ通う二十九歳の常連客が、売り物にしない稀覯本を貸し借りする一年越しの駆け引きを続けてきた。「今夜だけは、貸すんじゃなくて渡したい」という言葉をきっかけに、帳簿にはつけられない夜が始まる。
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その古書店は、看板に「二十四時」とだけ書かれていた。実際には深夜零時に閉まるのだが、店主の太一(たいち)はいつも、常連客が来る木曜だけ扉を開けたままにしている。太一は四十二歳、先代から店を継いで十五年になる。
芹香(せりか)が店に通うようになって、そろそろ一年になる。二十九歳、出版社で編集の仕事をしている彼女は、仕事帰りにこの店へ寄るのを、木曜の習慣にしていた。目当ては、売り物の棚には並ばない一冊——太一が個人的に集めている稀覯本の中の、フランス装の詩集だった。売ってはくれない代わりに、太一は独自の貸出票を作り、一週間だけ貸し出すという妙な取引を許していた。最初は単なる本好き同士の物々交換のようなものだったのが、いつからか、木曜の夜だけの、名前のない約束事に変わっていた。
「今週の分、返しに来ました」
木曜の夜十一時、芹香は雨に濡れた傘を畳みながら言った。カウンターの奥で、太一は貸出票の日付を確かめる。
「一日、遅れてる」
「読み終わらなかったから」
「言い訳が下手ですね、芹香さん」
太一はそう言いながらも、貸出票に判を押した。この判子を押す瞬間だけ、太一の指先がわずかに長く紙の上に留まることに、芹香はとうに気づいていた。指先の癖ひとつを、一年かけて読み解いてきたようなものだった。
「今週は、次はどれを貸してくれるんですか」
「決めてない。でも」太一は本棚の奥、鍵のかかったガラス戸を振り返った。「芹香さんが読みたいものより、私が読ませたいものの方が、そろそろ多くなってきた」
「それは、私の好みを疑ってるってことですか」
「いや」太一はガラス戸の鍵を回した。「あなたの好みを、少し試したくなっただけです」
取り出したのは、詩集ではなく、古い手紙の束が挟まった随筆集だった。前の持ち主が余白に書き込んだ、誰宛てとも知れない言葉の数々。太一はそれを、あえて貸出票に記入しないまま、芹香の手に押しつけるように渡した。
「これは、貸出票なしですか」
「貸出票のいらない本もある」
「返さなくていいってこと?」
「返しに来る理由にはなる」
芹香はその答えに、思わず声を立てて笑った。店主にしては、ずいぶん回りくどい誘い方だと思った。けれど一年かけて、この店主の回りくどさこそが、自分を引き止め続けてきたのだとも気づいていた。ほかの誰かとの約束より、木曜の夜十一時をいつも優先してしまう理由も、たぶんそこにあった。
思えば最初の頃は、こんな会話すらなかった。芹香が詩集を求めて棚を巡っていたとき、太一はただカウンターの奥で本の虫食いを直していただけだった。声をかけたのは芹香からで、返ってきたのは素っ気ない一言だけ。それが、いつの間にか、木曜の夜だけ交わされる長い会話に変わっていた。誰が最初にその変化を望んだのか、二人とも、正確には覚えていない。
「今日は珍しく、饒舌ですね」芹香が言うと、太一はレジの引き出しをわざと音を立てて閉めた。
「雨の日は、口数が増える。湿気で本の紙が反るのと、たぶん同じ理由です」
「それ、私に対しても?」
「あなたに対しては、少し別の理由もある気がしますが」
芹香はその言い方を、いつものように聞き流すことができなかった。
閉店の札を裏返すと、太一は珈琲を二つ淹れた。読書灯だけが灯る店の奥、木の匂いと紙の匂いに包まれて、二人はしばらく無言で向き合った。カウンターの上に置かれた随筆集の余白には、誰かの筆跡で「またここに戻ってきてほしい」とだけ書かれていた。芹香はその一文を指でなぞった。
「太一さんは、なんで私にだけ貸すんですか。売り物じゃない本を」
「単純な理由ですよ」太一はカップを置いた。「あなたが本を、大切に扱う人だから」
「それだけ?」
「それだけで、十分でしょう」
「私は、十分だと思ったことない。太一さんの答え、いつも半分だけ」
太一は珍しく黙り込んだ。カウンターの上の随筆集を、指先でそっと閉じる。
「半分は、言葉にすると安っぽくなる気がして」
「安っぽくてもいいから、聞きたい」
雨の音が、店の硝子戸を叩いていた。芹香は随筆集を胸に抱いたまま、太一との距離を一歩詰めた。太一は逃げなかった。ただ、貸出票の綴りをそっとカウンターの端に押しやり、代わりに芹香の手を取った。指先に、紙の乾いた感触が残っていた。
「今夜だけは」太一は言った。「貸すんじゃなくて、渡したい」
——夜が深くなる。読書灯がひとつ落とされ、雨の音だけが店に満ちていく。太一は芹香の頬に手を添え、静かに口づけた。二十九歳になった芹香の体は、木曜の夜だけ交わしてきた言葉の応酬とは違う緊張に包まれていた。
店の正面は、雨に濡れた通りに面した硝子戸だった。閉店の札は裏返してあるが、灯りは外からも透けて見えるはずだった。夜更けに通りかかる人がいれば、この声も届いてしまうかもしれない——そう思うと、芹香は喉の奥で息を止めた。
太一の指がブラウスのボタンにかかると、芹香は小さく息を止めた。四十二歳になる太一の指先は、古い本の紙をめくるときと同じ慎重さで、一つずつボタンを外していく。棚の隙間から差し込む読書灯の光の中、肩から布が滑り落ちる感触に、芹香は羞恥に似た震えを覚えた。木曜の夜だけ、貸出票を挟んで交わしてきた距離の近さとは、まるで違う近さだった。
「見られるの、久しぶりで」
「一年、待ちましたから」
太一はそう言って、自分のシャツも脱ぎ捨てた。灯りに照らされた体には、長年本を運び、棚を組み替えてきた男の張りがあった。芹香はその胸に手を這わせ、皮膚の下で脈打つ熱を確かめた。指先の癖しか知らなかった手が、今は素肌の下の鼓動まで教えてくれる。太一の唇が首筋に落ち、鎖骨をなぞり、胸のふくらみへと降りていく。舌が先端に触れた瞬間、芹香の背が反り、高い声がこぼれた。
「んっ……」
芹香は慌てて自分の手で口を覆った。硝子戸の向こうを、傘をさした誰かが通り過ぎていく足音がした気がした。
「表の戸……」
「今夜は、鍵をかけてあります」太一が芹香の口を覆う手を、そっと外させた。「声、我慢しなくていい」
その言葉に、芹香の中で何かが緩みかけたが、それでもまだ完全には解けなかった。舌が胸の先を含むと、芹香は思わず太一の髪に指を絡ませ、こらえきれずに腰を浮かせた。声の代わりに、彼の肩口に顔を埋める。汗ばんだ肌に、吐息だけが漏れていった。
太一の手が脚の間へと下りていくと、そこはすでにしっとりと潤みを帯びていた。指先がゆっくりと沈んだ瞬間、濡れた音が静かな店に響き、芹香はかあっと頬が熱くなるのを感じた。
一年間、貸出票と本の貸し借りだけを口実に通ってきた店だった。その静かな棚の間で、こんな声を上げている自分が信じられない。恥ずかしい、と思う端から、その恥ずかしさごと差し出したくなる。硝子戸の向こうを気にする理性より、この人にもっと触れられたいという欲のほうが、もう勝っていた。
「音、聞かないでください……」
「聞こえてるのは、私だけです」
指がなおも浅いところを探るように動くたび、芹香はカウンターの縁を強く握りしめた。浅瀬を撫でていた指がやがて一点を捉え、円を描くように押し上げると、芹香はもう肩に顔を埋めているだけでは足りなくなり、声を上げた。
「太一さん……もう、それ、だめ」
「だめ、というのは」
「いき、そう……っ」
指の動きが速まり、芹香は声を殺すことを諦めた。喉をのけぞらせ、腰の奥から迫り上がるものに全身を震わせる。硝子戸の外を、傘をたたむ音とともに誰かが通り過ぎていった。それすら今は、芹香を止める理由にならなかった。一度、目の前が白く弾けた。
しばらく、自分の乱れた呼吸だけが聞こえていた。
「……いっちゃいました」
「知ってます」
「言わないでください」
汗の滲んだ額を、太一が指の背で拭った。芹香は自分から手を伸ばし、太一の昂ぶりに触れる。熱く、硬く、脈打つそれに指を這わせると、太一が短く息を詰めるのがわかった。互いの高まりを確かめ合ったあと、太一は芹香の膝をそっと開かせ、体を重ねてきた。
「挿れますよ」
「……来て」
先端が沈んでくる感覚と、狭い場所がゆっくり押し広げられていく感覚と、そのまま奥へと満たされていく感覚は、指のときとはまるで違う、それぞれ別のものだった。芹香は喉をのけぞらせて声を上げた。木曜の夜だけの相手のはずだった男に、体の内側までこんなふうに開かれている——その事実だけで、目の奥が白く滲んだ。「大丈夫ですか」と気遣う太一の声に、芹香は言葉にならないまま何度も頷いた。すべてを収めきると、太一は動きを止め、額を芹香の額に重ねて、震える呼吸をひとつ整えた。
律動が始まると、雨の音の合間に、二人の呼吸だけが響いた。最初は確かめるように浅く、次第に深く。深く沈むたびに、芹香の中で一年分の遠回しな駆け引きが崩れていくようだった。太一の背中には汗が浮き、読書灯の淡い光に照らされて光った。芹香は声を殺そうとしたが、奥まで届くたびに、こらえていたものが吐息の形になって零れ落ちていった。
「痛くないですか」
「痛くない……もっと、してください」
角度が変わり、奥のある一点を擦られて、芹香の背が弓なりに反った。
「そこ、っ……だめ、そこは」
「ここですか」
「あっ……や、だめ、ほんとに」
「だめって言いながら、締まってます」
「言わ、ないで……っ」
抑えようとするたび、抑えきれなくなる。最初は手の甲で、次は太一の肩で、そして今はもう、芹香は何も隠していなかった。硝子戸の向こうへ声が漏れているかもしれないと思っても、止められなかった。
太一は一度動きを止め、体位を変えた。芹香を抱き起こし、自分の膝の上に座らせるようにして、重みに導かれてさらに深いところで繋がった。触れる深さと角度が変わり、芹香はこれまで届かなかった場所を擦られる感覚に息を呑んだ。
「っ、……深い」
「痛いですか」
「ちがう、っ……いい、です」
「我慢、しないでください」
芹香は太一の肩に額を押しつけ、自分から腰を揺らした。太一も下から応え、律動は次第に荒く、切迫したものへと変わっていく。速く浅い動きが続いたかと思うと、ふいに深く、ゆっくりとした一突きに変わり、そのたびに芹香は違う高さの声を上げた。互いの肌が汗ばみ、書棚の隙間から漏れる読書灯の光の中で、二人の影が重なって揺れた。
「芹香さん、もう……」
「私も、もう」
芹香の内側が痙攣するように締まり、太一が最後にひときわ深く突き入れた瞬間、芹香は声にならない声を上げて全身を震わせた。同時に太一も低く呻き、芹香の中で果てた。二度目のそれは、一度目よりも深いところから来て、長く尾を引いた。全身から力が抜け、芹香はしばらく指一本動かせなかった。自分の内側が、まだ小さく波打っているのがわかる。雨の音だけが、荒い呼吸の合間に店を満たしていく。
しばらくして、太一は芹香を抱いたまま体を横たえ、汗ばんだ肌にそっと触れた。「大丈夫ですか」と聞かれ、芹香は声も出せずに頷いた。読書灯の淡い光の下、太一は芹香の額に幾度も唇を落とした。互いの心臓の音がまだ速いまま重なり合い、芹香はその音を、いつまでも聞いていたいと思った。一年かけて読み解いてきた指先の癖が、今夜はもっと近くから確かめられたのだと、芹香は肌の余韻の中でぼんやり思った。木曜の夜だけの約束が、ようやく違う形を持ち始めていた。さっきまで硝子戸の外を気にして声を殺していたのが嘘のように、今はもう、乱れた息すら隠す気になれなかった。
古い紙の匂いに混じって、二人の吐息が、やがて言葉より静かなものに変わっていった。夜が更けるほどに、二人はもう一度、ゆっくりと体を重ねた。今度は芹香が太一の上に跨がり、自分から腰を沈めた。
「……深い」
「動けますか」
「わかりません……でも、いい」
たどたどしく腰を揺らすと、太一の手が芹香の腰を支え、導くように動いた。角度が変わるたび、芹香は喉をのけぞらせて声を上げ続けた。硝子戸への気兼ねも、もうどこにもなかった。
「芹香さん、また……」
「私も、もう……一緒に」
律動が速まり、太一が最後にひときわ深く突き上げた瞬間、芹香はまた声にならない声を上げて全身を震わせた。二度目の波は、一度目よりも深いところに長く残った。声を抑える理由は、もう芹香の中にはなかった。棚の本たちは、いつものように何も語らず、それを見届けていた。
明け方、芹香は随筆集を鞄にしまいながら、貸出票の綴りを見つめた。太一は珈琲のカップを片付けながら、何も言わずにその視線に気づいていた。
「次の木曜も、来ます」
「待ってます」太一は少しだけ笑った。「貸出票、忘れずに」
「今夜の分は、書いてくれないんですか」
「今夜のことは」太一は本棚の鍵を閉めながら言った。「帳簿には、つけないことにしてる」
「じゃあ、代わりに私が覚えておきます。ずっと」
太一は少し驚いた顔をしてから、いつもより長く目を細めて笑った。
「覚えておくって、貸出票よりも、ずいぶん頼りない台帳ですね」
「頼りないから、ちゃんと返しに来る理由になるでしょう」
「言い返し方まで、私に似てきた」
太一はそう言って、カウンターの隅にあった小さな真鍮の鍵を、芹香の手のひらに乗せた。ガラス戸の鍵だった。
「これは」
「木曜以外の日も、店の裏から入れる合鍵です。稀覯本の棚に、勝手に触っていいとは言いませんが」
「じゃあ、何のために」
「あなたが来たい時に、来られるように」
芹香は鍵を握りしめたまま、しばらく言葉を探した。それは貸出票よりも、随筆集の余白の一文よりも、ずっと分かりやすい言葉だった。
芹香は雨上がりの街に出た。傘はもう要らなかった。木曜まで、あと七日——けれど今夜からは、その七日を律儀に数える必要すらないのかもしれないと思った。随筆集の余白の言葉を、何度も読み返すことになるだろうと思いながら、握りしめた合鍵の重みを、コートのポケットの中で確かめた。店の灯りは、芹香の背中が角を曲がるまで、消えずに残っていた。
(了)
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