熱帯夜の宿直室
台風で終電を失った地方新聞社の宿直室に、三十三歳の先輩記者と二十七歳の後輩記者が二人きりで取り残される。五年間、後輩として密かに想いを寄せてきた男の視線に気づいていた先輩は、「今夜だけは忘れてもいい?」の一言で、二人を隔てていた一線を静かに壊していく。
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台風が接近しているという理由で、その夜の終電はすべて止まっていた。
地方紙「東海日報」の編集局には、宿直室と呼ばれる六畳の仮眠部屋がある。古いエアコンは効きが悪く、窓を少し開けても、外の生ぬるい風が入ってくるだけだった。先輩記者の甲斐唯は、扇風機の首を自分に向けたまま、モニターの向こうの原稿と睨み合っていた。三十三歳、水害担当のデスクを兼ねるようになってから、こういう夜はめずらしくなかった。
「甲斐さん、増水の続報、支局から上がってきました」
後輩の連は、タブレットを片手に宿直室に飛び込んできた。今年で入社五年目、二十七歳。県内の水害担当を任されるようになったばかりの記者だった。汗で額に貼りついた前髪を、片手で乱暴に払っている。
「読み上げて。打ち直す時間ないから、耳で聞く」
連はタブレットを構え直し、額の汗を拭った。局内の蒸し暑さのせいなのか、それとも別の理由なのか、自分でもよく分からないまま、声だけはいつも通りを装った。
連が原稿を読み上げる間、唯はキーボードを叩き続けた。締切まで、あと四十分。局内にはもう二人しか残っていない。窓の外では、風がだんだん強さを増していた。支局からの一報が届くたび、二人の間の緊張感はわずかに濃くなっていく。
「……以上です。あとは見出しだけ」
「お疲れ。座って、少し待ってて」
連は言われるまま、唯の隣の椅子に腰を下ろした。狭い部屋に、扇風機の音と、キーボードの音だけが響く。唯のシャツの背中には、汗の跡がうっすらと透けていた。連はそれに気づいて、慌てて視線を原稿に戻した。
「暑いね、今夜」
唯がふと手を止めて言った。連は「そうですね」とだけ答えたが、声が少し掠れていた。二人きりの宿直室というシチュエーションに、今さらのように意識が向いてしまっていた。
入社してから三年、連はずっと唯の下で仕事を覚えてきた。怒られたことも、褒められたこともある。取材現場で足がすくんだ夜、電話越しに叱咤してくれたのも唯だった。けれど、こんなふうに、汗ばんだ肌と肌の距離を意識したのは初めてだった。
外の雨が本格的に降り始めた。窓ガラスを叩く音が強くなり、局内の照明が一瞬揺らいだ。連は思わず立ち上がり、窓の鍵を確かめに行った。振り返ると、唯がこちらをじっと見ていた。
「そんなに緊張しなくていい。停電したって、原稿はもう送った後だから」
「緊張してるの、停電のことじゃないです」
口に出してから、連は自分の失言に気づいて言葉を止めた。唯は驚いた顔をせず、ただ小さく肩をすくめた。
「知ってる。連が何年か前から、私のこと意識してるの」
「……いつから、気づいてたんですか」
「デスク会議の後、いつも私の隣の席を空けておくようになった頃から」
連は返す言葉がなかった。図星を指されたばつの悪さと、それでも見抜かれていたことへの、どこか安堵に似た感情が同時に押し寄せてきた。
「見出し、決まった。あとは送信するだけ」
唯はキーボードから手を離し、大きく伸びをした。Tシャツの裾がわずかにめくれ、腰のラインが見えた。連は視線をどこに置けばいいのか分からず、扇風機の羽根を見つめていた。
「連、今夜のニュース、よく取材できてたと思う」
「本当ですか」
「うん。水害の現場、怖かったでしょう」
「正直、少し」
「よく行った」唯は連の肩に軽く手を置いた。「お疲れさま」
その手は、思ったより長く肩に留まっていた。連は動けなかった。局内の空調が唸る音、窓を叩き始めた雨粒の音、そして自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえていた。
「甲斐さん、あの」
「唯でいい。今夜だけは」
台風の接近を告げるアラート音が、廊下の向こうで鈍く響いた。局内には誰もいない。唯は連の肩から手を離さないまま、椅子ごと少し近づいた。缶コーヒーの空き缶が机の端に並んでいて、それが二人の残業の時間の長さを物語っていた。
「五年間、後輩として見てきたけど」唯は言った。「今夜だけ、その線引きを忘れてもいい?」
「線引き、僕の方こそ、ずっと守ってきたつもりでした」
「守れなくなった?」
「甲斐さんの背中が汗で透けてるの見たときから、正直」
唯は小さく笑って、それ以上言わせなかった。連は返事の代わりに、唯の手に自分の手を重ねた。窓の外で雨が強くなり、宿直室の灯りが一瞬、瞬いた。
唯の指が、確かめるように連の手のひらをなぞった。「本当に、いいの」念を押す声は、いつものデスクの声より少しだけ低かった。二十七の男を前にして問う言葉ではないと分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「甲斐さんが嫌じゃなければ」
「嫌なわけ、ないでしょう」
唯は連の手を引き、仮眠用の簡易ベッドの縁に並んで座らせた。狭い宿直室、扇風機の風だけが二人の間を吹き抜けていく。連の手が、汗で湿った唯のシャツの裾にかかる。一瞬だけ、唯の体がこわばった。それは拒む固さではなく、待つことに耐えていた固さだと、連にも分かった。指の動きを緩め、めくり上げるというより、そっと肌に沿わせるように布を上げていく。
薄い布の下から、汗ばんだ素肌が現れる。連は自分の喉がひどく渇いていることに気づいた。三年間、先輩として仰いできた人の肌を前にして、敬語も遠慮も、どこかへ置き去りになっていく。唯は自分から連のシャツのボタンに手をかけた。指先がわずかに震えているのが分かった。三十三の彼女には珍しい、不慣れな仕草だった。
「五年間、こんな日が来るなんて、思ってなかった」連の胸に手のひらを当てながら、唯が呟いた。
「僕はずっと、想像してました」
正直に言うと、唯は困ったように笑い、それから連の首筋に唇を寄せた。触れられた場所から、電流に似たものが背筋を駆け抜ける。連は思わず声を殺した。局内にはもう誰もいないと分かっていても、五年間かけて染みついた「先輩の前で乱れてはいけない」という感覚は、簡単には剥がれなかった。
唯の腕が連の背に回り、抱き寄せる力が強くなる。互いの素肌が重なると、汗と体温がひとつに混ざっていくのが分かった。連の手は迷いながらも唯の腰のラインをたどり、その下の薄布に触れる。唯の呼吸が小さく乱れ、耳のすぐそばで名前を呼ばれた。
「連」
たった二文字の名前が、これまでのどんな言葉よりも重く響いた。連は唯をゆっくりと横たえ、最後の一枚に指をかけた。「本当に、いいんですね」ともう一度確かめると、唯は答える代わりに、連の手を自分の中心へと導いた。
そこはすでに、しっとりと濡れていた。指先が触れた瞬間、唯の腰が小さく跳ね、押し殺した声が漏れる。「我慢しなくていいです、声」と連が囁くと、「無理」と唯は掠れた声で返した。「五年分、我慢してきたんだから」
指を沈めるたび、唯の内側が緩やかにうねり、奥へ奥へと誘うように連を締めつけてくる。連自身もすでに限界近くまで昂ぶっていて、その硬さを唯の腿に感じさせないよう堪えるのに苦労していた。唯はそれに気づき、手を伸ばして確かめると、小さく息を呑んだ。
「連、こんなに」
「甲斐さんのせいです」
軽口を叩く余裕は、もう互いになかった。唯は連の体を引き寄せ、自分から脚を開いて招き入れる仕草をした。連は一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと腰を進めた。
先端が押し入った瞬間、唯の喉から声が漏れ、扇風機の風がその声をさらっていった。狭く、熱く、脈打つ場所が連を包み、奥へと飲み込んでいく感覚に、連は奥歯を噛んで耐えた。すべてを沈めきると、唯は連の背に爪を立て、「動いて」と震える声で促した。
最初はゆっくりと、確かめるように。窓を叩く雨の音に紛れて、二人の呼吸が徐々に速さを増していく。唯の膝が連の腰に絡み、律動のたびに簡易ベッドが軋んだ音を立てた。連は唯の名を呼びながら、深く浅く、緩急をつけて動いた。奥まで届くたび、唯の背が反り、我慢の限界を超えた声が漏れる。
「待って、そこ——」
唯の言葉は最後まで続かなかった。連は一度動きを止め、体位を変えた。唯を膝の上に抱き上げるようにして座らせると、重みに導かれ、さらに深いところまで繋がった。唯は連の肩に額を押しつけ、こらえきれない声を漏らし続けた。汗が二人の間で混ざり合い、規則正しかった律動は、次第に荒く、切迫したものへと変わっていく。
「連、もう——」
唯の内側が、痙攣するように連を締めつけた。連もまた限界を悟り、最後にひときわ深く突き入れると、唯は声にならない声を上げて体を大きく震わせた。連も同時に、体の奥から込み上げるものを、唯の中で解き放った。二人はそのまま、しばらく動けなかった。
汗ばんだ肌が冷えていくのを感じながら、唯は連の胸に頭を預けた。「まだ、動けない」と小さく笑う声には、いつものデスクの鋭さはなく、ただ満ちた気だるさだけがあった。連は唯の背をそっと抱きしめ、乱れた息が整うのを、時間をかけて待った。窓の外では台風がまだ唸り声を上げていたが、二人にはもう、そんな音さえ遠く感じられた。
腕の中で、唯の心臓の音が少しずつ落ち着いていくのを、連は掌越しに数えていた。汗の匂いと、扇風機がかき回す生ぬるい空気の中、唯は体の力を抜ききったまま、連の腕に体重を預けきっていた。三年間、隙を見せたことのなかった先輩の、こんなに無防備な重みを知っているのは、今この部屋にいる自分だけなのだと思うと、腹の底がまた小さく疼いた。
——夜が深くなる。扇風機の風だけが、狭い部屋の空気をかき混ぜ続け、台風の音にまぎれて、二人はもう一度だけ体を重ねた。締切を終えた原稿だけが、静かにモニターの中で送信を待っていた。
明け方、台風は峠を越え、局の窓の外にはうっすらと朝日が差し始めていた。連が目を覚ますと、唯はすでに身支度を整え、宿直室の隅で缶コーヒーを二つ開けていた。
「はい、お疲れさま」
「……昨夜のことは」
「明日からは、ちゃんと先輩と後輩に戻る」唯は缶を軽くぶつけて言った。「でも、今夜だけは覚えておいてもいいでしょう」
「一回きりってことですか」
「さあ、それは」唯は窓の外を見ながら、少しだけ意味ありげに笑った。「次の台風が来るまで、考えておく」
連は缶コーヒーを受け取り、まだ湿った窓の外を見た。台風一過の空は、拍子抜けするほど青かった。
「甲斐さん、今度の非番、一緒に飯でも行きませんか。先輩後輩、じゃなくて」
唯は少し意外そうな顔をしてから、缶コーヒーを一口飲んだ。
「私を口説くの、宿直明けの寝不足の頭でやることじゃないと思うけど」
「素面の時に言う勇気、たぶんないので」
「正直でよろしい」唯は笑って、机の上の缶を片付け始めた。「じゃあ、考えとく。返事は次の当直まで待って」
「またそうやって、先延ばしにする」
「記者は、締切のないことには弱いの」
編集局の入り口で他の記者たちの足音が聞こえ始め、二人は示し合わせたように、いつもの先輩と後輩の顔に戻った。次の当直がいつになるか、それでも二人とも、口には出さないまま、心のどこかで数え始めていた。窓の外では、台風一過の入道雲が、夏の空にくっきりと立ち上がっていた。
(了)
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