熱帯夜の宿直室
台風接近で終電を失った地方新聞社の宿直室、締切に追われる先輩記者と後輩記者。エアコンの効かない蒸し暑い夜、原稿と一緒に積み重なっていく緊張が、やがて別の熱に変わっていく大人の夏の官能譚。
台風が接近しているという理由で、その夜の終電はすべて止まっていた。
地方紙「東海日報」の編集局には、宿直室と呼ばれる六畳の仮眠部屋がある。古いエアコンは効きが悪く、窓を少し開けても、外の生ぬるい風が入ってくるだけだった。先輩記者の甲斐唯は、扇風機の首を自分に向けたまま、モニターの向こうの原稿と睨み合っていた。三十三歳、水害担当のデスクを兼ねるようになってから、こういう夜はめずらしくなかった。
「甲斐さん、増水の続報、支局から上がってきました」
後輩の連は、タブレットを片手に宿直室に飛び込んできた。今年で入社五年目、県内の水害担当を任されるようになったばかりの記者だった。汗で額に貼りついた前髪を、片手で乱暴に払っている。
「読み上げて。打ち直す時間ないから、耳で聞く」
連はタブレットを構え直し、額の汗を拭った。局内の蒸し暑さのせいなのか、それとも別の理由なのか、自分でもよく分からないまま、声だけはいつも通りを装った。
連が原稿を読み上げる間、唯はキーボードを叩き続けた。締切まで、あと四十分。局内にはもう二人しか残っていない。窓の外では、風がだんだん強さを増していた。支局からの一報が届くたび、二人の間の緊張感はわずかに濃くなっていく。
「……以上です。あとは見出しだけ」
「お疲れ。座って、少し待ってて」
連は言われるまま、唯の隣の椅子に腰を下ろした。狭い部屋に、扇風機の音と、キーボードの音だけが響く。唯のシャツの背中には、汗の跡がうっすらと透けていた。連はそれに気づいて、慌てて視線を原稿に戻した。
「暑いね、今夜」
唯がふと手を止めて言った。連は「そうですね」とだけ答えたが、声が少し掠れていた。二人きりの宿直室というシチュエーションに、今さらのように意識が向いてしまっていた。
入社してから三年、連はずっと唯の下で仕事を覚えてきた。怒られたことも、褒められたこともある。取材現場で足がすくんだ夜、電話越しに叱咤してくれたのも唯だった。けれど、こんなふうに、汗ばんだ肌と肌の距離を意識したのは初めてだった。
外の雨が本格的に降り始めた。窓ガラスを叩く音が強くなり、局内の照明が一瞬揺らいだ。連は思わず立ち上がり、窓の鍵を確かめに行った。振り返ると、唯がこちらをじっと見ていた。
「そんなに緊張しなくていい。停電したって、原稿はもう送った後だから」
「緊張してるの、停電のことじゃないです」
口に出してから、連は自分の失言に気づいて言葉を止めた。唯は驚いた顔をせず、ただ小さく肩をすくめた。
「知ってる。連が何年か前から、私のこと意識してるの」
「……いつから、気づいてたんですか」
「デスク会議の後、いつも私の隣の席を空けておくようになった頃から」
連は返す言葉がなかった。図星を指されたばつの悪さと、それでも見抜かれていたことへの、どこか安堵に似た感情が同時に押し寄せてきた。
「見出し、決まった。あとは送信するだけ」
唯はキーボードから手を離し、大きく伸びをした。Tシャツの裾がわずかにめくれ、腰のラインが見えた。連は視線をどこに置けばいいのか分からず、扇風機の羽根を見つめていた。
「連、今夜のニュース、よく取材できてたと思う」
「本当ですか」
「うん。水害の現場、怖かったでしょう」
「正直、少し」
「よく行った」唯は連の肩に軽く手を置いた。「お疲れさま」
その手は、思ったより長く肩に留まっていた。連は動けなかった。局内の空調が唸る音、窓を叩き始めた雨粒の音、そして自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえていた。
「甲斐さん、あの」
「唯でいい。今夜だけは」
台風の接近を告げるアラート音が、廊下の向こうで鈍く響いた。局内には誰もいない。唯は連の肩から手を離さないまま、椅子ごと少し近づいた。缶コーヒーの空き缶が机の端に並んでいて、それが二人の残業の時間の長さを物語っていた。
「五年間、後輩として見てきたけど」唯は言った。「今夜だけ、その線引きを忘れてもいい?」
「線引き、僕の方こそ、ずっと守ってきたつもりでした」
「守れなくなった?」
「甲斐さんの背中が汗で透けてるの見たときから、正直」
唯は小さく笑って、それ以上言わせなかった。連は返事の代わりに、唯の手に自分の手を重ねた。窓の外で雨が強くなり、宿直室の灯りが一瞬、瞬いた。
——夜が深くなる。扇風機の風だけが、狭い部屋の空気をかき混ぜ続け、台風の音にまぎれて、二人の声はやがて誰にも届かないところへ沈んでいった。締切を終えた原稿だけが、静かにモニターの中で送信を待っていた。
明け方、台風は峠を越え、局の窓の外にはうっすらと朝日が差し始めていた。連が目を覚ますと、唯はすでに身支度を整え、宿直室の隅で缶コーヒーを二つ開けていた。
「はい、お疲れさま」
「……昨夜のことは」
「明日からは、ちゃんと先輩と後輩に戻る」唯は缶を軽くぶつけて言った。「でも、今夜だけは覚えておいてもいいでしょう」
「一回きりってことですか」
「さあ、それは」唯は窓の外を見ながら、少しだけ意味ありげに笑った。「次の台風が来るまで、考えておく」
連は缶コーヒーを受け取り、まだ湿った窓の外を見た。台風一過の空は、拍子抜けするほど青かった。
「甲斐さん、今度の非番、一緒に飯でも行きませんか。先輩後輩、じゃなくて」
唯は少し意外そうな顔をしてから、缶コーヒーを一口飲んだ。
「私を口説くの、宿直明けの寝不足の頭でやることじゃないと思うけど」
「素面の時に言う勇気、たぶんないので」
「正直でよろしい」唯は笑って、机の上の缶を片付け始めた。「じゃあ、考えとく。返事は次の当直まで待って」
「またそうやって、先延ばしにする」
「記者は、締切のないことには弱いの」
編集局の入り口で他の記者たちの足音が聞こえ始め、二人は示し合わせたように、いつもの先輩と後輩の顔に戻った。次の当直がいつになるか、それでも二人とも、口には出さないまま、心のどこかで数え始めていた。窓の外では、台風一過の入道雲が、夏の空にくっきりと立ち上がっていた。
(了)