政略結婚の初夜、冷徹と噂の辺境伯は毛布を三枚重ねてから私に触れた
政略結婚で嫁いだ先は、冷徹と噂の辺境伯——けれど初夜の彼は、凍える寝台に毛布を三枚重ねてから、震える指先で私の手にそっと触れた。不器用な優しさに少しずつ心を開いていく、雪深い辺境からはじまる大人の夫婦譚。
北方の辺境グラウシュタインへ嫁ぐと決まった夜、シャーロットは父からひとつだけ忠告を受けた。
「辺境伯は、戦場で情けをかけたことがないお方だ。心を残したまま行くな」
その言葉どおり、ジークハルト・ヴォルフラムという名には、いくつもの噂がまとわりついていた。蛮族の侵攻を単騎で退けた氷の剣。慈悲を持たぬ瞳。部下にも家族にも、ついぞ笑ったところを見せたことがないという、灰色の辺境伯。王都の社交界では、政略の駒として辺境へ送られる侯爵令嬢に、誰もが憐れみの目を向けた。ある夫人などは、扇の陰でわざわざシャーロットに囁いたものだった。「氷の辺境伯に嫁いだ娘は、三月と保たずに心を病むと聞くわ」と。
婚約が調ってから輿入れまでの三月、シャーロットとジークハルトの間で交わされたのは、数えるほどの手紙だけだった。届く便りはいつも数行で、時候の挨拶と、旅程の確認だけが素っ気なく綴られている。まるで事務官が書いたような文面に、シャーロットは何度も溜め息をついた。けれど、王都を発つ朝、荷物の中にひとつ、差出人の記されていない包みが紛れ込んでいた。開けてみると、北方の厳しい冬でも手がかじかまないという、上質な毛皮の手袋が一組。同封の紙片には、ただ一言「道中、冷えるゆえ」とだけ書かれていた。誰の手によるものか、シャーロットにはすぐに分かった。素っ気ない手紙の裏に、こんな心遣いを隠す人が、本当に噂どおりの冷徹な男なのだろうかと、そのときはまだ半信半疑だった。
馬車が北へ北へと進み、木々が針葉樹に変わり、やがて灰色の城壁が雪雲の下に現れたとき、シャーロットはあの手袋を握りしめながら、覚悟という名の氷を、自分の胸にも一枚張っていた。冷たい夫に、冷たいまま応じよう。それが、政略結婚という契約を全うする、唯一のやり方だと思っていた。城門をくぐるとき出迎えた辺境伯その人は、噂どおり長身で、表情の乏しい灰色の瞳をしていた。挨拶の言葉も型どおりで短く、シャーロットは胸の中で、やはりと呟いた。噂は本当だったのだ、と。あの手袋のことは、きっと何かの気まぐれか、あるいは家臣の誰かの気遣いだったのだろうと、自分に言い聞かせた。
その覚悟が、初夜にあっさりと崩れることになるとは、シャーロットはまだ知らなかった。
婚礼の儀は、驚くほど簡素だった。城の礼拝堂で誓いの言葉を交わし、少数の家臣が居並ぶ広間で杯を交わす。ジークハルトは終始無言で、シャーロットの隣に立つ長身の影は、噂どおり感情の読めない横顔をしていた。銀に近い髪と、氷を溶かしたような灰色の瞳。刃物のように整った顔立ちは、たしかに「冷徹」という言葉がよく似合った。宴の間、彼はほとんど杯に口をつけず、家臣たちの祝いの言葉にも短く頷くばかりだった。シャーロットは隣に座りながら、この男が何を考えているのか、まるで見当がつかなかった。
夜、侍女たちに寝間着に着替えさせられ、シャーロットは夫婦の寝所へ通された。石造りの城は外の雪よりも底冷えがして、暖炉の火だけでは到底追いつかない寒さが、寝台の周りにまで忍び込んでいる。壁に掛けられた古い剣や、無骨な調度の数々は、この部屋の主が武人であることを、言葉よりも雄弁に語っていた。シャーロットは寝台の端に腰かけ、膝の上で両手を握りしめた。これから何が起こるのか、頭では理解していても、体はまるで別の生き物のように強張っていた。侍女頭から囁かれた「閣下は気難しいお方ですが、決して手荒なことはなさいません」という言葉だけを、心の中で何度も繰り返す。
扉が開き、ジークハルトが入ってきた。
寝間着姿の彼は、鎧をまとっていたときよりも、なぜか一回り小さく見えた。彼はシャーロットの前まで来て立ち止まると、しばらく何も言わなかった。ただ、視線だけがせわしなく、シャーロットの顔と、寝台と、暖炉の火とを行き来していた。その落ち着きのなさは、戦場で名を馳せた男のものとは、とても思えなかった。
「……寒くはないか」
ようやく発せられた言葉は、想像していたどんな睦言とも違っていた。シャーロットが戸惑いながら頷くと、ジークハルトは踵を返し、寝室の隅にある長持を開けて、そこから分厚い毛布を取り出した。一枚、また一枚。都合三枚を寝台の上に重ねてから、彼はようやくシャーロットの隣に腰を下ろした。
「この城は、南の城より冷える。……体を冷やすのは、良くない」
言い訳のような呟きだった。シャーロットは毛布の重みに包まれながら、目の前の男を見つめた。噂に聞いていた氷の辺境伯は、寝台の上でどうしていいか分からず、拳をきつく握りしめている。その拳が、かすかに震えていることに、シャーロットは気づいてしまった。
「……閣下?」
「ジークハルトでいい。……もう、夫婦だ」
そう言った本人が、誰よりもその言葉に狼狽しているように見えた。彼はシャーロットの手に、自分の手をそっと重ねようとして、指先が触れる寸前で、二度も止めた。三度目にようやく、氷のように冷たい指先が、シャーロットの手の甲に触れた。あまりに慎重な触れ方に、シャーロットは思わず声を漏らした。
「痛くありません」
「……そうか」
ジークハルトは短く答えたきり、それ以上何もしなかった。ただ、シャーロットの手を包むように、両手でそっと握っている。暖炉の火が爆ぜる音だけが、長い沈黙を埋めていった。
「あの……閣下は、私に触れるのが、お嫌なのですか」
思い切って尋ねると、ジークハルトは初めて狼狽をあらわにした。灰色の瞳が大きく揺れ、視線が泳ぐ。
「嫌なわけがない。ただ……」
彼は言葉を探すように、しばらく沈黙した。暖炉の薪が崩れる音がして、火の粉がひとつ、闇に散った。
「俺の手は、剣を握るための手だ。人を斬るための力しか、覚えていない。……そんな手で、貴女のような方に触れて、傷つけたらと思うと」
その一言で、シャーロットの中にあった氷が、音を立てて欠けた。冷徹と噂される辺境伯は、冷たいのではなかった。ただ、自分の持つ力を恐れ、大切なものに触れる作法を知らないだけだったのだ。三枚重ねた毛布も、慎重すぎる指先も、すべてはシャーロットを守ろうとする、不器用すぎる優しさだった。
「今夜は、このままでいい」
ジークハルトはそう言うと、シャーロットの手を握ったまま、寝台に横たわった。毛布の中で、彼の体温がゆっくりと伝わってくる。シャーロットは、政略結婚という契約の向こうに、初めて生身の人間の輪郭を見た気がした。眠りに落ちる直前、握られた手のひらの熱だけが、この城で唯一確かなもののように思えた。
それから数週間、シャーロットはグラウシュタインの城で、辺境伯という男の素顔を、少しずつ知っていくことになった。
朝、シャーロットが目を覚ますと、寝台の脇にはいつも温かい湯を張った盥が用意されていた。誰の指示かと侍女に尋ねると、「閣下が、朝一番に湯を沸かすようにと」と、当たり前のことのように返された。廊下ですれ違う兵士たちは、噂とは裏腹に、ジークハルトの名を出すとき決まって表情を和らげた。若い兵が雪道で足を滑らせたとき、真っ先に駆け寄って肩を貸したのはジークハルトだったと、後になって聞いた。
ある雪の朝、シャーロットは城の裏手にある厩舎の陰で、思いがけない光景を目にした。ジークハルトが片膝をつき、雪の中で震える一匹の狼の仔を、両手でそっと包んでいたのだ。母を蛮族の襲撃で失ったらしいその仔は、彼の武骨な指先の間で、怯えるどころか安心しきったように目を細めていた。
「大きな手をしているのに」
シャーロットが思わず声をかけると、ジークハルトは狼の仔を落とさぬよう慎重に振り返り、珍しく気まずそうな顔をした。
「……見られていたのか」
「はい。とても、お上手でした」
「小さいものは、扱いを間違えれば、すぐに壊れる。だから、余計に気を張る」
その言葉が、初夜に彼が口にした「傷つけたら」という言葉と、同じ重みを持っていることに、シャーロットは気づいた。ジークハルトにとって力とは、常に何かを損なう可能性と表裏一体のものらしかった。
「閣下は、口下手なだけです」
古参の家臣がそう教えてくれたのは、雪に閉ざされた午後のことだった。
「戦で名を上げてから、閣下は『情け容赦のない男』であることを、あえて演じておられます。辺境は弱さを見せれば侵される土地ゆえ。……ですが本当は、誰よりも部下の傷を気にかけるお方です。若い頃、力に任せて盾を握り潰し、隣にいた従者の腕を折ってしまったことがございましてな。それ以来、閣下はご自分の力を、ずっと恐れておられます」
その話を聞いた夜、シャーロットは自室で刺繍をしていたジークハルトの外套を届けに、彼の執務室を訪れた。書類に埋もれた机の向こうで、ジークハルトは驚いたように顔を上げた。
「こんな夜更けに、どうした」
「ほつれを直しました。……閣下が、寒い夜番の兵に貸したせいで、肩の縫い目が裂けていたと聞いたので」
ジークハルトは一瞬、言葉に詰まった。それから、らしくもなく視線を逸らした。
「余計な世話だったか」
「いいえ」
シャーロットは外套を彼の肩にかけながら、初めて彼の間近で、その顔をまじまじと見た。灰色の瞳は、噂に聞くような冷たさではなく、むしろどこか途方に暮れた子供のような色を宿していた。
「閣下は、優しい方なのですね」
「……そんなことを言われたのは、初めてだ」
ジークハルトの声は、かすかに掠れていた。彼はそれ以上何も言わず、ただシャーロットの手を取って、自分の額にそっと押し当てた。祈るような仕草だった。冷たい指先の下で、シャーロットは彼の鼓動が速くなっているのを感じた。
「昔、俺の力で人を傷つけたことがある。……あれから、大切なものほど、強く握れなくなった」
彼が自ら過去を語ったのは、それが初めてだった。シャーロットは何も言わず、ただその手を、両手でそっと包み返した。
その日を境に、二人の間の距離は、少しずつ縮まっていった。夕食の後、暖炉の前で共に過ごす時間が増えた。ジークハルトは戦場の話を避け、代わりに幼い頃、亡くなった母が編んでくれた手袋の話や、辺境の空に架かる霜の橋のような光の話をした。シャーロットは王都の窮屈な社交界の話や、好きな詩集の話をした。どちらの話にも、二人はゆっくりと、時に不器用に、相槌を重ねていった。
ある晴れた日、ジークハルトはシャーロットを連れて、城下の市を歩いた。護衛も最小限に絞られたその外出で、シャーロットは初めて、辺境伯という肩書を脱いだ彼の姿を見た。露店の老婆は彼を見るなり相好を崩し、「今年も雪掻きを手伝ってくださったね」と礼を言った。子供たちは物怖じもせず彼のマントに駆け寄り、ジークハルトはぎこちなく、けれど確かに、その頭を撫でてやっていた。
本屋の軒先で、シャーロットが何気なく手に取った詩集に目を留めていたのを、ジークハルトは見逃さなかった。城へ戻ってしばらく経った夜、彼は不器用な包み紙に収めたその詩集を、黙ってシャーロットの手に押し付けた。
「……見ていただろう、あの店で」
「買ってくださったのですか」
「贈り物の仕方など、知らない。……気に入らなければ、捨ててくれてかまわない」
シャーロットは詩集を胸に抱き、首を横に振った。捨てるはずがなかった。この不器用な人が、精一杯考えて選んでくれたものを。
城を訪れた王都の貴族が、宴の席でジークハルトを指して「所詮は蛮族斬りの武骨者」と嘲笑ったとき、シャーロットは臆せず声を上げた。
「私の夫は、狼の仔にすら優しくできる方です。あなたに、その半分の優しさがおありかしら」
広間がしんと静まり返る中、ジークハルトは驚いたようにシャーロットを見つめ、それから小さく、本当に小さく口の端を上げた。その夜、寝所で彼はぽつりと言った。
「貴女といると、剣を握っていないときの自分が、何者なのか分かる気がする」
シャーロットは、その言葉を長く胸にしまっておくことになった。
転機が訪れたのは、雪解けの気配が兆し始めた頃だった。
王都からシャーロットの実家に届いた密書が、辺境伯家の弱体化を狙う一派の企みを告げていた。政略結婚を主導した宰相派が、ジークハルトを謀反の疑いで失脚させ、辺境の領地ごと接収しようとしているというのだ。証拠となる偽の書状が、すでに王宮へ届けられているらしい。宴で恥をかかされたあの貴族が、密かに糸を引いているという噂も添えられていた。
その報せを持ってきた父の使者を前に、シャーロットは震える手で手紙を握りしめた。ジークハルトが謀反人として裁かれれば、彼女もまた同罪に問われる。だが、シャーロットの頭にあったのは、自分の身の安全よりも、隣で眠るあの不器用な男のことだった。
「私が王都へ行きます。父の名代として、宰相に直接抗弁します」
ジークハルトに告げると、彼は珍しく声を荒らげた。
「危険すぎる。奴らが本当に狙っているのは、貴女かもしれない。俺の妻を人質に取れば、辺境の兵を動かさずとも、俺を屈服させられる」
「だからこそ、私が行かなくてはなりません」
シャーロットはジークハルトの手を取った。初夜に彼がそうしたように、両手でそっと包み込む。
「閣下は、いつも私を守ろうとする。……今度は、私に守らせてください。それが、この結婚を、契約以上のものにする方法だと思うのです」
ジークハルトは長い沈黙の後、シャーロットの手を強く握り返した。
「一人では行かせない。俺も共に行く。……たとえ謀反の疑いをかけられていても、俺が兵を率いて動けば、それこそ奴らの思う壺だ。だから、剣を持たずに行く。貴女の隣に、ただの夫として立つ」
冷徹と恐れられた辺境伯が、剣を置いて王都へ向かうという決断は、家臣たちを驚かせた。王都までの道中、馬車の中でジークハルトはほとんど口を開かなかったが、時折シャーロットの手をきつく握り、放そうとしなかった。その手の熱さだけが、彼の内側で渦巻く不安を物語っていた。
王宮の謁見の間には、居並ぶ貴族たちの好奇の目が集まっていた。宰相は勝ち誇った顔で偽の書状を突きつけ、ジークハルトに反逆の意ありと断じた。あの宴で恥をかかされた貴族が、宰相の傍らで薄笑いを浮かべているのが見えた。広間の空気が凍りつく中、進み出たのはシャーロットだった。
「その書状の日付は、辺境が大雪に閉ざされていた日のもの。伝令の馬すら通えぬ日に、どうして書状が届けられましょう」
冷静な指摘に、宰相の顔色が変わった。続いて証言に立ったのは、古参の家臣と、あの雪道で助けられた若い兵だった。二人の口から語られたのは、噂とはまるで違う、部下を気遣い、民を守り続けてきた辺境伯の姿だった。証言はひとつ、またひとつと積み重なり、宰相派の偽書状はあっけなく崩れ去っていった。宰相はなおも食い下がろうとしたが、国王が静かに一言、「もうよい」と告げると、それ以上は誰も何も言えなくなった。あの薄笑いを浮かべていた貴族は、青ざめた顔で人垣の後ろへと退いていった。
「氷の辺境伯などと、誰が言い出したのか」
事の顛末を見届けた国王は、そう言って苦笑したという。
グラウシュタインへ戻る馬車の中で、ジークハルトはシャーロットの肩に、そっと外套をかけた。かつて彼女が繕った、あの外套だった。
「怖くなかったか」
「怖かったです。……でも、閣下が隣にいてくださったので」
「俺こそ、貴女がいなければ、あの場で何も言えなかった」
窓の外を、解け始めた雪の名残が流れていく。ジークハルトはしばらく口を噤んだあと、シャーロットの手を取り、その甲に額を寄せた。初夜のときと同じ仕草だったが、そこにはもう、怯えの震えはなかった。
「シャーロット。……今夜、貴女に触れたい」
その声には、これまでの遠慮とは違う、静かな確かさがあった。
グラウシュタインへ戻った夜、寝所には久しぶりに、穏やかな空気が満ちていた。窓の外では、遅い春の気配を告げる雪解け水が、屋根の端からぽたりと落ちる音がしている。暖炉の火は控えめに焚かれ、寝台にはいつもの毛布が、今夜は一枚だけ、丁寧にかけられていた。
「三枚は、もういらないだろう」
ジークハルトがそう言って苦笑したとき、シャーロットは初めて、彼の笑顔をまともに見た気がした。硬い輪郭が、ふっとほどけるような笑い方だった。
寝台の端に並んで座ると、ジークハルトはシャーロットの頬に、そっと手を伸ばした。指先はもう震えていなかったが、その分、触れる速度はどこまでも慎重だった。彼の手のひらが頬を包む温もりに、シャーロットは目を閉じた。剣を握るための手だと彼は言ったけれど、今そこにあるのは、何かを壊す力ではなく、何かを確かめるための優しさだけだった。
「怖がらせたくない」
耳元で囁かれた声に、シャーロットは首を横に振った。
「怖くありません。……もう、ずっと前から」
その言葉に押されるように、ジークハルトの唇が、シャーロットの額に、それから頬に、静かに落ちてきた。触れるたびに、彼は小さく息を止め、それからようやく吐き出す。まるで自分の呼吸すら、彼女を傷つけはしないかと確かめているようだった。シャーロットはその不器用な慎重さに、かえって強く胸を締め付けられた。
「もし、痛かったら」
「言います。だから、閣下も」
「……ジークハルトと呼んでくれ、こんなときくらいは」
「……ジークハルト」
名を呼ぶと、彼の肩からわずかに力が抜けるのが分かった。暖炉の火が、二人の輪郭を淡く照らしていた。ジークハルトの手が、シャーロットの髪をそっと梳き、うなじに触れる。冷たい指先はもう、震える代わりに、確かめるようにゆっくりと動いていた。シャーロットは彼の胸に頬を寄せ、そこに刻まれた鼓動の速さを聞いた。氷の辺境伯と呼ばれた男の心臓が、自分と同じくらい、忙しなく音を立てている。それが、たまらなく愛おしかった。
「シャーロット」
名を呼ぶ声は、掠れて、けれど確かな熱を帯びていた。シャーロットは頷く代わりに、彼の背に腕を回した。触れる肌はどちらも、雪国の夜の冷気を吸ってひどく冷たいはずなのに、重なるところから、じんわりと熱が生まれていく。ジークハルトは何度も、確かめるように動きを止めては、シャーロットの表情を窺った。そのたびにシャーロットは小さく頷き、彼の頬に手を添えて、大丈夫だと伝えた。
灯りを絞った部屋の中で、影だけが二人の輪郭をなぞっていた。シャーロットの耳元に落ちる吐息は、彼が自分に許した、ほとんど唯一の性急さだった。それすらも、彼はすぐに悔いるように緩め、額を合わせて、また確かめる。壊れやすいものを扱うときのような、その執拗なまでの優しさに、シャーロットは幾度も声を殺した。
言葉はもう、ほとんど要らなかった。息づかいと、かすかな声と、時折もれる互いの名前だけが、暖炉の炎の音に混じって、寝所の静けさを満たしていく。窓の外では雪解け水が屋根を伝い、遠い春を告げる音を絶え間なく落とし続けていた。ジークハルトの体温がシャーロットを包み、初夜に重ねられた三枚の毛布よりも、ずっと確かな温もりが、二人を隔てる最後の距離を溶かしていった。
夜が更けても、暖炉の火は絶えることなく、二人の影を寝所の壁にゆっくりと揺らし続けていた。
翌朝、シャーロットが目を覚ますと、窓の外には久しぶりの晴天が広がっていた。屋根の雪が朝日を弾いて眩しい。隣で眠るジークハルトの寝顔は、政務の場では決して見せない、ただ穏やかなだけの顔をしていた。シャーロットはその頬に、そっと指先で触れてみる。彼が初夜にそうしたように、慎重に、けれど今はもう、迷いなく。
「……くすぐったい」
ジークハルトが目を開け、少し照れたように笑った。その笑顔を見るたび、シャーロットは自分の中の氷がすべて溶けきったことを、あらためて実感する。
季節はやがて本格的な春を迎え、グラウシュタインの城壁からも、白い雪はほとんど姿を消した。政略結婚という言葉で始まった二人の関係は、いつしか誰の目にも、ただの夫婦のものへと変わっていた。城下の民は、辺境伯夫妻が並んで畑の見回りをする姿を見かけるたび、噂に聞いていた「氷の辺境伯」の異名を、少しずつ忘れていった。あの狼の仔は、いつしか城の庭で飼われるようになり、ジークハルトの足元にまとわりついて離れなくなっていた。
「閣下は、動物にも好かれるお方だったのですね」
侍女頭がそう漏らすのを、シャーロットは廊下で聞いて、こっそり笑った。
夜、寝所の寝台には、今も一枚の毛布がかけられている。あの日重ねられた三枚のうち、シャーロットが選んでそのまま残した一枚だった。
「これだけは、捨てないでください」
「……なぜ」
「閣下が、初めて私に触れる勇気をくれた毛布だからです」
ジークハルトは少し困ったように笑い、それからシャーロットの手を握った。もう震えることのない、けれど今もどこまでも慎重な仕草で。
「なら、一生このままにしておこう。貴女が寒くないように、俺がちゃんと、隣にいる限り」
シャーロットは実家の父に宛てて、一通の手紙をしたためた。「辺境伯は、噂に聞くような冷たい方ではありませんでした。私は、この地で幸せに暮らしております」と。書き終えた手紙を封じながら、シャーロットは窓の外を見た。雪解けの水を吸った大地から、小さな春の花が顔を出し始めている。
季節はめぐり、輿入れからちょうど一年が経った日、グラウシュタインには今年も最初の雪が降った。シャーロットが窓辺で白い息を吐いていると、背後からジークハルトがそっと肩に外套をかけた。あの日、彼女が繕った外套だった。
「一年前の今日、貴女はその窓から、初めての雪をどんな顔で見ていたんだろうな」
「怯えていました。……冷たい方に嫁いだのだと、思い込んでいましたから」
「今は?」
シャーロットは振り返り、彼の頬に手を添えた。もう震えることのない、けれど今もどこまでも慎重なその指先に、自分の指先を重ねる。
「今は、この城の誰よりも、あなたが温かい方だと知っています」
ジークハルトは目を細め、彼女の手を包み込んだ。窓の外では雪が音もなく降り積もり、寝台の上では、あの日から変わらぬ一枚の毛布が、二人の帰りを待っていた。冷徹と噂された辺境伯の心は、政略結婚という契約の果てに、誰よりも深い場所で、確かな温もりを得ていた。
(了)
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