境界の従者 第一話 守られすぎた当主
没落しかけた子爵家に仕える従者ラウルは、病弱な若き当主イーサンのために、これまで幾度となく危険な役目を身代わりで引き受けてきた。ある日イーサンから告げられた一言が、ラウルの献身の意味を揺るがす。
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アルダーレイン家の屋敷は、国境の山道――人々が「境界峠」と呼ぶ道の入り口に建っている。かつては峠を越える隊商から通行税を徴し、峠に組み込まれた古い結界石の管理を任される、由緒ある子爵家だった。だが先代が病で急逝してから三年、屋敷の羽振りはめっきり悪くなった。使用人の数は五分の一に減り、東棟は使われないまま埃を被り、玄関ホールの絨毯には隠しきれない継ぎ接ぎがある。それでも屋敷の朝は、変わらぬ静けさで始まった。
「イーサン様。お目覚めの時間です」
ラウルは低く抑えた声で告げ、寝室の重い緞帳を半分だけ開けた。朝の光が斜めに差し込み、寝台の上で身を起こしかけていた青年の輪郭を淡く縁取る。イーサン・アルダーレイン、この家の当主。今年で二十二になる。線の細い体つきと、色の薄い髪。幼い頃からの病――魔力の巡りが生まれつき乱れているという診断を、屋敷付きの医師から幾度となく聞かされてきた。激しい運動や長時間の外出のあとは決まって熱を出し、数日は寝込む。そういう体質だった。
「……起きてる。ずっと前から」
イーサンの声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。ラウルはそれに気づかない振りで、寝室の隅に用意していた着替えを寝台の脇へ運ぶ。ラウルは二十八歳。物心つく前にこの屋敷に引き取られた孤児で、先代子爵――イーサンの父――に育てられた。剣の稽古も、礼儀作法も、この家で教わった。だから彼にとってアルダーレイン家に仕えることは、雇用ではなく、恩そのものだった。
「今日は峠の見回りの日です。結界石の魔力残量を測り、必要なら術式を上塗りする作業になります」
「わかっている。予定表は自分で書いた」
イーサンはそう言いながら寝台を下り、寝間着の上から羽織を纏った。だが着替えを終える前に、ラウルが静かに口を挟んだ。
「見回りは私が参ります。イーサン様は屋敷でお待ちください」
「――また、それか」
イーサンの手が止まった。着替えの途中、片方の袖に腕を通しかけた姿勢のまま、彼はラウルを見た。責めるというより、疲れたような目だった。
「峠の見回りは当主の仕事だ。結界石は、アルダーレインの血にだけ応える術式で組まれている。俺が行かなければ意味がないと、お前だって知っているだろう」
「存じております。ですが石の反応を読むだけであれば、私の血でも代用できる術式が組んであります。先代様が、そのためだけに私にも儀式痕を刻んでくださいました」
ラウルは自分の左手首の内側をそっと押さえた。そこには、古い紋様が薄い傷跡のように残っている。先代子爵――ラウルにとっては命の恩人であり、育ての親でもあった人物――が、まだラウルが十五だった頃に施した術だった。「もしもの時に、この子がイーサンの代わりに立てるように」。当時は深く考えもせず、ただありがたく受け入れた印だった。今では、それがラウルの生き方そのものを規定している。
「代用できる、というのはわかっている。だが」イーサンは羽織の紐を結びながら、視線を落とした。「峠の道は険しい。先週も落石があったと聞いた。それに、結界石の反応が悪ければ、術式の反動を受けるのはお前の方だ」
「私は従者です。イーサン様の身に何かあれば、この家は終わります。私一人が怪我をする方が、まだましです」
その言葉を、ラウルは何百回と口にしてきた気がする。今日も同じように、迷いなく言った。だがイーサンは、それ以上何も言わなかった。ただ、諦めたように小さく息を吐き、窓の外――朝靄に霞む峠の稜線へ目をやっただけだった。
その横顔には、幼い頃から見慣れたはずの表情とは、少し違う色があった。かつてのイーサンは、体調を崩すたびに悔しがり、「今度こそ自分で行く」と言い張っては熱を出し、寝込む――そんな子どもらしい意地の張り方をしていた。だがここ一、二年は、その意地さえ見せなくなっていた。まるで、抗うことに疲れてしまったかのように。ラウルはその変化を、成長の証だと勝手に解釈していた。今にして思えば、それは諦めの静けさだったのかもしれない。
その沈黙が、いつもより長く感じられたことに、ラウルは気づかなかった。
朝食の席でも、二人の間には奇妙な間があった。狭くなった食堂――かつては十人がけの長テーブルが置かれていたが、今は使用人の数に合わせて小さな丸テーブルに替えられている――で、イーサンは黙々と粥を口に運び、ラウルはその斜め後ろに控えて、次の予定を確認していた。
「本日は峠の見回りのあと、午後に灰塩商会の使いが参ります。先月分の利息の件で」
「……また、あの男か」
イーサンの箸が止まる。灰塩商会は、先代の代からアルダーレイン家が負っている借財の主な貸し手だった。もとは峠を通る隊商相手の小さな商会だったが、今では国境沿いの流通を握る大商会に成長し、逆にアルダーレイン家の弱みを握る立場になっている。使いの者は決まって慇懃な口ぶりで、返済期日の確認という名目のもと、屋敷の隅々にまで値踏みするような目を向けていく。
「私が応対いたします。イーサン様は書斎でお休みください」
「それも、いつもの台詞だな」
イーサンは小さく笑った。だがその笑みには、どこか諦めに似た色が混じっていた。ラウルはそれに気づいていたが、深く考えることをしなかった。今日という日が、これまでと少し違う一日になることを、この時はまだ知らなかった。
峠道は、思っていたよりも荒れていた。先週の落石で崩れた斜面が道を半分塞ぎ、ラウルは馬を降りて徒歩で迂回することになった。結界石は峠の頂上近く、古い石組みの祠のような場所に据えられている。近づくにつれ、空気の質が変わるのがわかった。乾いた冷たさの奥に、微かな異臭にも似た魔力の澱みが混じっている。石の状態が良くない証拠だった。
祠に着くと、結界石は思った以上に摩耗していた。表面に刻まれた紋様の三分の一ほどが、風化で読み取れなくなっている。ラウルは懐から測定用の小さな水晶球を取り出し、石に触れさせた。水晶が鈍い赤色に光る。魔力残量は、危険域の一歩手前だった。
「上塗りが必要か」
独り言をこぼしながら、ラウルは左手首の紋様を石に押し当てた。アルダーレインの血の代用術式――先代が遺した仕組みが、正しく起動するかどうかは、正直なところ毎回賭けだった。血の代用は、あくまで「本物ではない何か」でしかない。石は、その差を敏感に感じ取る。
紋様が熱を帯びた瞬間、ラウルの腕に鋭い痛みが走った。石の側からの反発――拒絶の反動だ。石は代用の血をわずかに受け入れながらも、完全な本人ではないことを見抜き、余剰の魔力をラウルの体に押し返してくる。歯を食いしばり、それでも術式を最後まで流し切る。数十秒後、結界石の紋様がわずかに明るさを取り戻し、水晶球の色が黄色に変わった。危険域は脱した。
ラウルは祠の壁に背を預け、荒い息を整えた。左腕は肘まで痺れ、指先の感覚が半分ない。これくらいはいつものことだ、と自分に言い聞かせる。イーサンが同じことをすれば、反動はもっと大きい。血が本物であるぶん、石が受け入れる魔力の量そのものが多くなるからだ。反発も比例して強くなる。イーサンの体では、下手をすれば数日は寝込む。だからこそ、自分がここに立つ意味がある――そう信じてきた。
屋敷への帰り道、痺れの残る左手を隠しながら、ラウルはふと考える。もし自分がいなければ、イーサンはどうしていたのだろう。おそらく歯を食いしばって峠を登り、反動に苦しみながらも、自分の手で石に触れていたはずだ。それを何年も、自分が肩代わりしてきた。当然のことだと思っていた。だが。
――当然、なのだろうか。
その問いは、屋敷の門をくぐるまで、ラウルの中でうまく形にならなかった。かわりに脳裏に浮かんだのは、十五の年、先代子爵に手首を差し出したときの記憶だった。
「お前には辛い役目を頼むことになる」
薄暗い書斎で、先代は静かにそう言った。孤児だったラウルを拾い、名も職も与えてくれた恩人。その人の頼みを断るという選択肢は、当時のラウルの中には存在しなかった。
「イーサンは体が弱い。この家の当主として立つには、あまりに危うい。だから、お前に頼みたい。あれの盾になってやってくれ。あれが自分の足で立てるようになるまででいい」
「あれが自分の足で立てるようになるまででいい」――その一言を、ラウルはいつからか都合よく忘れていた。永遠に盾であり続けることが、恩に報いる唯一の形だと思い込んでいた。先代が本当に望んでいたのは、いつか盾を必要としなくなる日だったはずなのに。
峠を下りながら、ラウルは久しぶりにその記憶をなぞり返し、なぜか落ち着かない気持ちになった。答えの出ない自問を抱えたまま、屋敷の門をくぐった。
「――怪我をしているな」
玄関ホールに入るなり、イーサンが真っ先に言った。ラウルは咄嗟に左腕を袖の中に引っ込めようとしたが、遅かった。イーサンはずかずかと歩み寄り、無理やりラウルの袖をまくり上げた。肘から手首にかけて、うっすらと紫色の痣が広がっている。
「反動を受けたのか。石の状態は」
「危険域は脱しました。上塗りも済んでおります」
「聞いているのはそれじゃない」
イーサンの声が、珍しく鋭くなった。ラウルは戸惑いながら顔を上げる。当主のこんな表情を見るのは久しぶりだった。怒っている、というのとも違う。もっと切実な、追い詰められたような目だった。
「お前は、これで何度目だ。峠の見回り、債権者の使いとの応対、去年の火事の消火――全部、俺の代わりにお前がやった。俺は屋敷で待っているだけだった」
「それが従者の役目です」
「違う」
イーサンは短くそう言い切ると、ラウルの腕を離し、一歩下がった。何かをこらえるような沈黙のあと、彼はゆっくりと言葉を継いだ。
「俺は、当主だ。父上が遺したこの家を、いつかは自分の手で立て直さなければならない立場だ。なのに、危険なことはいつもお前が先に潰してしまう。おかげで俺は、痛い思いも、怖い思いも、失敗する経験さえ、一度もしたことがない」
「イーサン様のお体を思えばこそです。石の反動一つで、何日も寝込まれる。それでは領地の政務にも障ります」
「体のことを言っているんじゃない」
イーサンの声が、少しだけ震えた。
「俺は、いつまでもこのままなのか。自分の役目まで、お前に奪われたまま、当主でいるふりを続けるのか。……そう思ったら、急に怖くなった」
ラウルは、何も言い返せなかった。
言い返せるだけの理由が、自分の中に見つからなかったからだ。今までは、迷わず「私が代わりに」と言えた。それが正しいと信じて疑わなかった。だが今、イーサンの目に浮かんでいるのは感謝ではなく、もっと複雑な――苦しみに近い何かだった。
「……申し訳ございません」
やっとの思いで、ラウルはそれだけを口にした。イーサンは何かを言いかけて、結局は首を振り、疲れたような足取りで自室へと歩いていった。その背中を、ラウルは長い間、見送ることしかできなかった。
午後になり、予定通り灰塩商会の使いが訪れた。応対に出たのは、やはりラウルだった。イーサンには「体調を整えてください」とだけ告げ、書斎に留まってもらった。
使いの男は、痩せぎすで神経質な目つきをした中年の事務方だった。応接間の椅子に浅く腰掛け、革張りの帳簿を広げながら、抑揚のない声で利息の再計算を告げる。
「先月分の利息、規定の期日までにお支払いいただけておりません。滞納が続くようであれば、担保に入っている峠の通行権について、商会としても対応を検討せざるを得ません」
「担保はあくまで通行権の一部であり、結界石の管理権までは含まれていないはずです」
ラウルは記憶している契約の条項を、努めて冷静に指摘した。使いの男は帳簿から目を上げ、初めてラウルの顔をまじまじと見た。
「従者殿にしては、ずいぶんと契約にお詳しい」
「主に代わってお答えする以上、詳しくあるのは当然のことです」
その受け答えに、使いの男はふん、と鼻を鳴らしただけで、それ以上は追及しなかった。だが帰り際、玄関先で靴を履きながら、独り言のように付け加えた。
「まあ、いつまでもご当主様が表に出てこられないようでは、こちらとしても、いろいろと考えざるを得ませんがね」
その言葉の意味を、ラウルはこの時まだ深く考えなかった。だが後になって、それが単なる嫌味ではなく、灰塩商会が水面下で何かを進めている予兆だったことを知ることになる。
使いを見送ったあと、ラウルは応接間の窓辺にしばらく立ち尽くしていた。峠の稜線が、夕日を浴びて赤く染まり始めている。今日一日で、二度も「お前が前に出るな」と暗に告げられたような気がした。一度はイーサンから。もう一度は、今しがたの使いの態度から。
――俺が前に出ることは、この家にとって、本当に正しいことなのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、ラウルは厨房へと足を向けた。
その夜、屋敷の使用人頭を長年務めてきた老婦人マーサが、厨房でラウルに白湯を差し出しながら言った。
「イーサン様がお怒りだったと聞いたよ」
「怒っていた、というより……何か、別のことを言おうとしていたように見えました」
ラウルは白湯を受け取りながら、正直に答えた。マーサは小さく笑い、椅子に腰を下ろす。
「あんたは先代様の恩に報いようと必死だ。それは立派なことさ。だがね、ラウル。恩に報いる相手を、間違えちゃいないかい」
「間違える、とは」
「先代様が守りたかったのは、坊ちゃんの体だけじゃない。坊ちゃんがいつか、自分の足でこの家を背負って立つことだよ。あんたがずっと先回りして危ないことを引き受けていたら、坊ちゃんはいつまで経っても、自分の足で立つ機会を貰えないままだ」
マーサは湯気の立つ白湯を一口すすり、遠い目をした。
「あたしはね、先代様がお亡くなりになった夜のことを、今でもよく覚えている。あんたは葬儀の間じゅう、坊ちゃんの後ろに黙って立っていた。誰よりも辛いだろうに、涙一つ見せずにね。あの時からずっと、あんたは坊ちゃんの盾になることだけを、自分の生きる意味にしてきたんだろう」
「……他に、何ができたでしょうか」
「さあね。だが盾ってのは、いつまでも構え続けるものじゃないよ、ラウル。剣を持つ者が己の足で立てるようになったら、盾はいずれ下ろすものだ。下ろし時を見誤ると、盾は守るための道具じゃなく、相手の成長を塞ぐ壁になっちまう」
マーサの言葉は容赦がなかったが、悪意はどこにもなかった。長年この家に仕えてきた者だけが持つ、率直な優しさだった。ラウルは白湯の湯気を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「私は、盾を下ろす日など、来ないと思っていました」
「思っていた、ね」マーサは小さく笑った。「今日、坊ちゃんの顔を見て、少しは違う考えが浮かんだんじゃないのかい」
図星だった。ラウルは答えの代わりに、白湯を静かに飲み干した。
その言葉は、ラウルの胸の奥に、静かに、しかし深く刺さった。峠からの帰り道に感じた、あの形にならなかった問いが、ようやく輪郭を持ち始める。
――当然、なのだろうか。
自分が身代わりになることは、本当にイーサンのためだったのか。それとも、恩を返しているという実感の中に、自分自身の心地よさを見つけていただけなのではないか。答えはまだ出ない。だがその晩、ラウルは久しぶりに、左手首の紋様を長い時間見つめていた。
窓の外では、峠の稜線に薄い月が昇っていた。境界石はまた静かに、次の反動を待っている。そして屋敷の中でも、主従の間に生まれた小さな亀裂が、まだ誰にも気づかれないまま、静かに広がり始めていた。
寝室に戻る前に、ラウルはイーサンの部屋の扉の前で足を止めた。灯りは、まだ点いている。声をかけようとして、手を上げかけ――結局、何も言わずに下ろした。今の自分がどんな言葉をかけても、それはきっと、また「代わりに何かをしてやろう」とする言葉になってしまう。そんな気がしたからだ。
扉の向こうで、椅子を引く音がした。イーサンもまた、眠れずにいるのかもしれない。二人を隔てているのは、板一枚の薄い扉だった。それなのに、今夜はその距離が、峠を隔てる国境よりも遠く感じられた。
ラウルは踵を返し、自分の部屋へと向かった。灰塩商会の使いが残した最後の一言が、頭の中で何度も繰り返される。「ご当主様が表に出てこられないようでは」――その言葉の裏に潜む何かを、まだこの時のラウルは正確な形として捉えられていなかった。だがそれが、ただの言いがかりでは済まない何かの前触れであることだけは、経験から嗅ぎ取っていた。
自室のベッドに横たわり、ラウルは左手首の紋様にもう一度触れた。反動の痺れは、まだ完全には引いていない。この痛みこそが、自分の存在意義を証明するものだと、これまでずっと信じてきた。だが今夜だけは、その痛みが、何か別のものを――イーサンから奪い続けてきた何かを――示しているように思えてならなかった。
窓の外で、夜風が峠の木々を揺らす音がした。境界の向こうから、何かが少しずつ、この屋敷に近づいてきている。そんな予感を抱いたまま、ラウルはゆっくりと目を閉じた。
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