境界の従者 第二話 債権者たちの影

家門を狙う債権者たちの脅威が強まる中、イーサンは自らの意志で交渉の矢面に立とうとする。止めようとするラウルとの間に、これまでなかった緊張が生まれていく。

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灰塩商会からの使いが二度、三度と屋敷を訪れるようになったのは、峠の見回りからひと月ほど経った頃だった。以前は月に一度、利息の確認だけを事務的に告げに来ていた使いが、今では十日と空けずに姿を見せる。しかもその都度、確認する内容が微妙に変わっていた。屋敷の資産目録、領地の境界図、峠の通行権に付随する権利関係――まるで、何かを丹念に洗い出しているかのように。

「あちらの動きが、以前とは違いますね」

ラウルは応接間の窓から、帰っていく使いの馬車を見送りながら呟いた。傍らに立つイーサンの表情は硬い。

「商会が何かを企んでいる。そう思わないか」

「私もそう感じております。ですがイーサン様、これは私が調べます。イーサン様は書斎で領地の帳簿を確認していただければ」

「またそれか」

イーサンの声に、以前とは違う響きが混じっていた。単なる諦めではない、何か固い意志のようなものが。ラウルはその変化にわずかな戸惑いを覚えたが、深く追及することはしなかった。

そのうえ、峠の麓に住む数少ない領民からも、不穏な報せが届き始めていた。峠道沿いで細々と宿場を営む老夫婦のもとに、見慣れぬ男たちが訪れ、「近々、この辺りの管理者が変わるかもしれない」と、意味深に告げていったという。ラウルが確認に赴くと、老夫婦は不安げな顔でこう言った。

「灰塩商会の息がかかった連中だと思います。まだ何も決まっていないのに、まるで決まったことのように話していきました」

その報告をイーサンに伝えると、彼の顔から血の気が引いた。単なる借財の取り立てではない。既に既成事実を作るための地ならしが、水面下で始まっている。ラウルの中で、これまでの「守る」という言葉の重みが、一段と増していくのを感じた。


その報せから数日、屋敷にはこれまでにない緊張感が漂っていた。ラウルは毎日のように峠道を見回り、麓の宿場や農家に不審な動きがないかを確かめて回った。表向きは従者としての通常業務だったが、実際には、灰塩商会の動きを少しでも早く察知するための警戒だった。イーサンもまた、書斎に籠って過去の帳簿を読み込み、家の資産状況を隅々まで洗い直していた。二人がそれぞれ別々の場所で、同じ危機に向き合っている――そんな奇妙な均衡が、屋敷の中に生まれていた。

三日後、灰塩商会から一通の正式な書状が届いた。差出人は商会の頭取、ゲルハルト・オスヴィンの名。内容は簡潔だったが、その分だけ重みがあった。

「来る満月の夜、峠の境界石にまつわる権利関係について、当家アルダーレインと協議の場を持ちたい。ついては当主イーサン殿、直々のご出席を願いたい」

イーサンは書状を二度読み返し、それをラウルに手渡した。

「これまでは、私が代わりに応対してまいりました。ですが今回は、当主ご本人の出席を、名指しで求めています」

「読めばわかる」

イーサンの声は静かだったが、そこには覚悟のようなものが滲んでいた。

「これは俺が出る。お前が代わりに行っても、あちらは納得しないだろう。書状にもそう書いてある」

「危険です。灰塩商会がどのような手を打ってくるか、まだ読み切れておりません。少なくとも、私が同席して――」

「同席は構わない。だが、話すのは俺だ」

ラウルは、その一言に含まれた強い意志に、思わず言葉を失った。これまでのイーサンなら、「わかった、頼む」と言って引き下がっていたはずだった。だが今日のイーサンは、明らかに違う目をしていた。


満月の夜、灰塩商会が指定したのは、峠の中腹にある古い休憩所――かつて隊商が野営に使っていた石造りの建物だった。中には既に、ゲルハルトと数名の護衛らしき男たちが待っていた。ゲルハルトは恰幅の良い、笑みを絶やさない男だったが、その目の奥には計算高い光が常に宿っていた。

「これはこれは、ご当主様御自ら足をお運びいただけるとは」

ゲルハルトはそう言いながら、椅子を勧める仕草をした。イーサンはその視線を臆することなく受け止め、腰を下ろす。ラウルはその一歩後ろに控えた。

「本題を伺おう。峠の境界石にまつわる権利関係とは、何のことか」

「単刀直入で結構です。実は当商会、峠の通行権だけでなく、境界石の管理そのものを、より安定した形で運用したいと考えております。具体的には――アルダーレイン家の借財を一括で肩代わりする代わりに、境界石の管理権を、当商会に一定期間お譲りいただきたい」

その提案に、イーサンの表情が強張った。境界石の管理権は、単なる財産ではない。アルダーレイン家が代々、王家から直接委任されてきた責務そのものだ。それを商会に譲るということは、この家が国境の守り手としての存在意義そのものを手放すことを意味する。

「馬鹿げている。境界石の管理は、王家からアルダーレインの血に委任されたものだ。商会に譲渡できる性質のものではない」

「ええ、法的にはそうです。ですから――」ゲルハルトの笑みが、わずかに歪んだ。「『管理権の委任』ではなく、『管理の補助』という形を取ります。実務上は当商会の者が石の維持管理を行い、アルダーレイン家は名目上の管理者として残る。借財は帳消し。悪い話ではないと思いますが」

「実質的には乗っ取りだ」

イーサンは低く言った。ラウルは後ろで、拳を握りしめていた。ゲルハルトの提案は、巧妙に法の隙間を突いている。名目だけを残し、実権を奪う。それが成れば、アルダーレイン家は国境の守り手という誇りだけを残された、抜け殻のような存在に成り下がる。

「そう受け取っていただいても構いません。ですが、このままでは、いずれにせよ滞納は膨らむばかり。半年以内に、当商会は正式な差し押さえの手続きに入ることになるでしょう。その時、境界石の管理権がどう扱われるかは――正直、私にも保証はできかねます」

暗に脅しであることは明白だった。イーサンは何も言わず、ゲルハルトの目を見据えたまま、しばらく沈黙した。

その沈黙の中で、ラウルは思わず一歩前に出かけた。いつもの癖――当主が窮地に立たされたと感じた瞬間、条件反射のように盾になろうとする体の動き。だが足を踏み出す寸前、イーサンがわずかに右手を上げ、それを制した。振り向きもせず、ただ手のひらでラウルを押しとどめる仕草だけで。

その小さな仕草に、ラウルは足を止めた。今、この場を引き受けているのは自分ではない。イーサンなのだ。頭ではわかっていたはずのことを、体で思い知らされた瞬間だった。

「随分と、性急な話だ」イーサンは静かに切り返した。「半年の猶予があるなら、まずは当家の側で返済計画を立て直す時間を頂きたい。境界石の管理権を手放す前に、検討すべき道はまだあるはずだ」

「もちろん、当主様が別案をお持ちであれば、伺うのはやぶさかではありません。ただし」ゲルハルトは笑みを崩さないまま、声だけを一段低くした。「その別案が、絵に描いた餅でないことを、猶予の間に示していただく必要がありますが」

「回答は、後日改めて」

ようやく絞り出したイーサンの言葉に、ゲルハルトは満足げに頷いた。

「もちろん結構です。ただし、猶予は満月一巡り――ひと月とお考えください」

休憩所を出て、二人が峠道を戻り始めた時だった。木立の陰から、人相の悪い男が三人、無言のまま姿を現した。灰塩商会が雇った用心棒だろう、腰の得物には見覚えのない紋章が刻まれている。先頭の男が、値踏みするような目でイーサンを見た。

「頭取の指図でね。夜道は物騒だ、屋敷までお送りしますよ」

言葉こそ丁寧だが、その意図は明白だった。これは護衛ではなく、脅しだ。ラウルの体は反射的に前へ出ようとした。イーサンと男たちの間に割って入り、当主を背に庇う――それが十数年、体に染み付いた動きだった。だが半歩踏み出したところで、イーサンの声が制した。

「結構だ。案内は不要。我々だけで戻る」

イーサンの声は揺らいでいなかった。男たちは顔を見合わせ、少し意外そうな顔をしたが、それ以上は何もせず、ゆっくりと道を空けた。おそらく本気で危害を加えるつもりはなく、あくまで威嚇――アルダーレイン家がどれだけ追い詰められているかを、肌で分からせるための小芝居だったのだろう。二人がその横を通り過ぎる間、ラウルは全身の神経を張り詰めたまま、いつでも動けるよう身構えていた。だが結局、動く必要はなかった。

男たちの姿が見えなくなってから、ラウルはようやく詰めていた息を吐いた。

「イーサン様、危険でした。ああいう時は――」

「わかっている。だが、お前が前に出れば、あちらの思う壺だ。従者が当主を庇って刃傷沙汰にでもなれば、それこそ商会に付け入る隙を与える」

その理屈は正しかった。だがラウルの中で、理屈と本能はまだうまく折り合いがついていなかった。庇わずにいられたことへの安堵と、庇わなかったことへの居心地の悪さが、同時に胸を占めていた。


屋敷への帰り道、月明かりに照らされた峠道を歩きながら、イーサンとラウルの間には重い沈黙が続いていた。ようやく口を開いたのはイーサンの方だった。

「見たか、あの男の目。俺たちの財産だけじゃない。誇りごと、じわじわと絞り取ろうとしている」

「はい。私もそう感じました」

「……お前なら、どう対応する」

その問いに、ラウルは即座に答えられなかった。これまでなら、迷わず「私にお任せください」と言えたはずだった。だが今日、イーサンが交渉の矢面に立った姿を見て、ラウルの中で何かが変わりかけていた。あの場でイーサンが見せた覚悟――それは、これまでラウルが奪い続けてきたはずの何かが、確かにイーサンの中に育っていた証だった。

「……申し訳ございません。今すぐには、良い案が浮かびません」

「珍しいな。お前がそんなことを言うのは」

イーサンは薄く笑ったが、その笑みにはどこか寂しさが混じっていた。

「なあ、ラウル。俺は今日、初めてあの男と、まともに渡り合えた気がする。怖くなかったと言えば嘘になる。だが、逃げずに済んだ。それだけで、自分が少し変わった気がしたんだ」

「イーサン様……」

「だから、今度こそ最後まで、俺にやらせてくれないか。次にあの男と会う時も、俺が話す。お前は、俺の後ろにいてくれればいい。前に出て、俺の代わりに答えを出さないでくれ」

その言葉は、これまでのラウルの生き方そのものを否定するように響いた。ラウルは何も言えず、ただ小さく頭を下げた。返事にならない返事だった。


屋敷に戻ってからも、ラウルの心は落ち着かなかった。夜半、ひとり書庫に籠り、アルダーレイン家と灰塩商会との過去の契約書類を漁る。イーサンには「俺が話す」と約束させられたが、裏で情報を集め、いざという時にイーサンを助けるための材料を揃えておくことまでは、止められていないはずだった。

古い羊皮紙の束の中に、先代の代の契約書を見つけた。灰塩商会がまだ小さな商会だった頃、先代が結んだ融資契約の原本だ。読み進めるうちに、ラウルはある一文に目を留めた。境界石の管理権に関する条項の脇に、先代の筆跡で小さな書き込みがある。

「――この条項、いずれ狙われる。イーサンが自分の言葉で退けられる日まで、私が盾となる」

その筆跡を見つけた瞬間、ラウルの手が止まった。先代は、この日が来ることを、ずっと前から予期していたのだ。そしてその「盾」の役目を、ラウル自身に託していた。だがその言葉の続きに、ラウルはまだ気づいていない何かがあるような気がした。

「まだ起きていたのか」

不意にかけられた声に、ラウルは顔を上げた。戸口に、寝間着の上から羽織を纏ったイーサンが立っていた。

「イーサン様こそ、お休みになっていなかったのですか」

「眠れなかった。それだけだ」

イーサンは書庫に入ってくると、ラウルの手元にある古い契約書に目を留めた。先代の書き込みを見つけ、しばらく黙って読んでいたが、やがて小さく息を吐いた。

「父上は、こうなることを見抜いていたんだな」

「はい。おそらくは」

「なあ、ラウル」イーサンは向かいの椅子に腰を下ろし、ぽつりと言った。「返済計画を立て直すと、あの場では言った。だが正直、当てがあるわけじゃない。……お前は、何か案があるか」

その問いかけに、ラウルは戸惑った。前に出るなと釘を刺されたばかりだ。だがイーサンの目は、代わりにやってほしいと訴えているのではなく、一緒に考えてほしいと言っているように見えた。二人は夜が更けるまで、羊皮紙の山を挟んで額を突き合わせ、峠の通行税の見直しや、休眠していた東側の農地の再利用など、細々とした案を出し合った。妙案と呼べるものはまだ見つからなかったが、それでも、これまでのように「ラウルが調べ、ラウルが決め、イーサンに報告する」という一方通行の作業ではなくなっていた。

窓の外が白み始める頃、イーサンがふと呟いた。

「こうして一緒に何かを考えるのは、初めてかもしれないな」

「……そうかもしれません」

ラウルは、自分の胸の内に、これまで感じたことのない種類の温かさが灯るのを感じた。守ることでも、代わることでもない、並んで同じものを見るという関わり方。それがどれほど得難いものだったか、この夜まで気づいていなかった。

翌朝、寝不足の目をこすりながら朝食の席に着くと、イーサンが先に待っていた。いつもとは逆だった。

「よく眠れなかったようだな」

「……少々、調べ物をしておりました」

「灰塩商会との過去の契約か」

図星を突かれ、ラウルは黙り込んだ。イーサンは小さくため息をつき、それでも咎めるような口調にはならなかった。

「調べるなとは言わない。だが、次の交渉の場では、俺の後ろに立て。お前が前に出て話をまとめる真似は、今度こそさせない」

「イーサン様。もし交渉が決裂すれば、境界石の管理権だけでなく、この家そのものが危うくなります。その時、私がイーサン様をお守りできなければ――」

「守るのと、代わりに戦うのとは、違うだろう」

イーサンの言葉に、ラウルは息を呑んだ。それは、これまで曖昧なまま流してきた違いを、はっきりと言葉にしたものだった。守ることと、代わりになること。ラウルはずっと、その二つを同じものだと思い込んできた。だが今、目の前の当主は、その境界線を自分の言葉で引き直そうとしている。

「昨夜、お前が足を止めてくれた時」イーサンは少し声を落として続けた。「正直、心強かった。お前がすぐ後ろにいる。それだけで、あの男たちの前でも声が震えずに済んだ。だから、これからもそばにいてほしい。ただ、俺の代わりに前へ出るのだけは、もうしないでくれ。それだけだ」

その言い方には、突き放すような響きはなかった。むしろ、これまでよりもずっと対等な立場から、ラウルに何かを求めているように聞こえた。庇われるだけの存在ではなく、隣に立つ者として。ラウルはその温度差に、かすかな戸惑いと、それを上回る安堵を同時に覚えた。

「……承知いたしました。次の交渉では、後ろに控えます」

言葉ではそう答えたものの、ラウルの胸の内では、まだ古い衝動――イーサンの盾になりたいという衝動が、消えずにくすぶっていた。窓の外、峠の稜線には朝靄がかかり、満月まではあと三週間を切っていた。決着の刻限は、確実に近づいていた。

その日の午後、厨房でマーサに湯を淹れてもらいながら、ラウルは昨夜のことをぽつりぽつりと話した。用心棒に囲まれた時のこと、イーサンに制された時のこと、そしてその後に感じた、説明のつかない落ち着かなさのこと。マーサは黙って耳を傾けていたが、話が終わると、湯呑みを両手で包むようにして言った。

「あんた、それを『居心地の悪さ』と呼んでいるけどね。あたしにはむしろ、いい兆しに聞こえるよ」

「兆し、ですか」

「今まであんたは、庇うことに迷いがなかった。だが昨夜は迷った。迷ったということは、庇う以外の答えが、あんたの中に生まれ始めているってことだ」

マーサの言葉に、ラウルはすぐには頷けなかった。だが胸の奥のどこかで、その指摘が的を射ていることを、認めざるを得なかった。これまで一本道だった自分の在り方に、初めて分かれ道が見え始めている。その先に何があるのか、まだ見当もつかない。だが、後戻りできる道ではないことだけは、確かだった。

夕刻、書斎の窓越しに、峠の空を見上げるイーサンの姿が見えた。数ヶ月前までなら、あの窓辺に立つのは決まってラウルの役目だった。峠の天候を確かめ、明日の予定を思案する――それはずっと、従者である自分の仕事だと思い込んでいた。だが今、当主自らがその窓辺に立ち、自分の家の行く末を、自分の目で見定めようとしている。

その背中を見つめながら、ラウルは静かに思った。守るべきものの形が、少しずつ変わり始めている。それが何を意味するのか、答えはまだ出ない。ただ、満月の夜まで残された時間の中で、自分もまた、これまでとは違う形で、イーサンの隣に立つ準備をしなければならない――そんな予感だけが、確かに芽生えていた。