駅のない駅
出張帰り、深夜の各駅停車に揺られていた会社員は、時刻表にないはずの駅で電車が停まったことに気づく。降りていく乗客は、二度と戻ってこない。「降りてはいけない」と自分に言い聞かせながらも、同僚が降りていくのを見て、彼は迷い始める。
出張帰りの終電というのは、どこか特別な静けさを持っている。昼間の喧騒を知っている車両が、夜が更けるにつれてどんどん空っぽになっていく様子は、まるで一日という生き物が息を引き取っていく過程を見せられているようだ。座席の硬さも、蛍光灯の色も、昼間と何も変わらないはずなのに、深夜の車両はどこか別の生き物のように感じられることがある。
橋詰は最後の商談を終えて、深夜の各駅停車に乗り込んだ。取引先との会食で疲れきった体を、硬いロングシートに預ける。同じ部署の後輩、佐伯も一緒だった。二人とも同じ方向に帰る予定で、たまたま最終の一本前の電車に間に合った。
「疲れましたね」佐伯が言った。「あの部長、話長すぎません?」
「まあ、機嫌はよかったからいいだろう」橋詰は目を閉じたまま答えた。「契約、取れそうだしな」
車両にはほかに数人しか乗っていなかった。スーツ姿の男が一人、うたた寝をしている。学生らしき二人組が、イヤホンを片方ずつ分け合って、無言で画面を覗き込んでいる。窓の外は、街灯の間隔がだんだん開いていくのが分かった。都心を抜け、郊外へと向かっている証拠だった。
電車が次の駅に停まり、また動き出す。橋詰は半分眠りかけながら、車内アナウンスを聞くともなしに聞いていた。次は、次は、と機械的な声が続く駅名を、橋詰は諳んじられるくらいこの路線に慣れていた。何年も同じ区間を通勤で使っている。乗り換えなしで帰れる終電の心地よさに、いつも半分意識を手放しながら座っているのが常だった。
だから、電車がふいに速度を落とし、聞き覚えのないアナウンスが流れたとき、橋詰は反射的に目を開けた。
「まもなく……」
その先が、うまく聞き取れなかった。駅名にあたる部分だけが、妙にくぐもって聞こえる。橋詰は窓の外に目をやった。ホームの明かりが見える。しかし、いつも見慣れているどの駅とも違う。照明の色が、心なしか青白い。ホームの上には駅名標があるはずなのに、そこに何が書かれているのか、目を凝らしても読み取れなかった。文字の形は見えるのに、意味を結ばない。看板の縁がにじんで、水面越しに見る文字のように揺らいでいた。
電車が完全に止まった。ドアが開く音がする。
橋詰は路線図アプリを確認しようとスマートフォンを取り出したが、画面には電波なしの表示が出ていた。ホームの端から端まで、人の姿はほとんどない。ただ、ぽつりぽつりと、数人の乗客が立っていて、電車から降りる誰かを待っているように見えた。
車内では、うたた寝していたスーツの男が、ふらりと立ち上がった。目を開けているのかいないのか分からない、ぼんやりとした足取りでドアの方へ歩いていく。橋詰はその背中を見ながら、なぜか声をかけそびれた。声をかけてはいけないような、そんな気配があった。空気そのものが、余計なことをするなと言っているようだった。
男はホームに降りた。ドアの外に立っていた誰かが――橋詰にはその誰かの顔がどうしても認識できなかった――男を静かに迎え入れるように、並んで歩き出した。二人は、ホームの奥、明かりの届かない暗がりの方へと歩いていき、やがて見えなくなった。
ドアが閉まる。電車はまた動き出した。
「今の駅、何駅でしたっけ」佐伯が寝ぼけた声で聞いた。橋詰は路線図を思い浮かべたが、該当する駅が思い当たらなかった。
「分からない。聞いたことない駅名だった」
「そうですか」佐伯はそれ以上気にする様子もなく、また目を閉じた。橋詰だけが、妙な胸騒ぎを抱えたまま、窓の外を見つめ続けていた。
電車は何事もなかったかのように、次の見慣れた駅に停まった。アナウンスも普段通りの、聞き慣れた声と駅名に戻っていた。橋詰は自分の見間違いか、あるいは眠りかけていたせいでの錯覚かと思い直そうとした。そう思う方が、ずっと楽だったから。
しかし、その夜以来、橋詰は同じ終電に乗るたびに、同じことが起きるのに気づくようになった。
決まって、深夜零時を回った頃。決まって、二つの駅の間、路線図には存在しないはずの場所で、電車が速度を落とす。窓の外には、青白い明かりのホームが現れる。そして、車内で眠っている、あるいは眠っているように見える誰かが、ふらりと立ち上がり、そのホームへと降りていく。
降りた人間が、その後どうなるのかは分からない。ただ一つ、橋詰が気づいたことがあった。翌朝以降、その人物を見かけることは、二度となかった。
最初に橋詰が異変を確信したのは、三度目にその駅を通過したときだった。降りていったのは、いつも同じ車両に乗り合わせていた、顔見知り程度のサラリーマン風の男だった。名前は知らないが、何度か会釈を交わしたことがある。橋詰は次の日、いつもと同じ時間の電車で、その男の姿を探した。見当たらなかった。その次の日も、そのまた次の日も。
橋詰は誰かに相談しようとしたが、うまく言葉にできなかった。「深夜の電車が、存在しない駅に停まって、乗客がそこで消える」などと言っても、正気を疑われるだけだろう。それに、自分自身、本当にそれが起きているのか、確信が持てなかった。目撃した瞬間はあまりにも自然で、まるで元からそういうダイヤであるかのように、何の違和感もなく起きるのだ。異変だと気づくのは、いつも後になってからだった。
一度、思い切って会社の先輩に、遠回しに尋ねてみたことがあった。「終電で、変な駅に停まったことないですか」と。先輩は怪訝な顔をして、「そんな駅、あったか」と首をかしげただけだった。話を続けるほどに、自分の言っていることが馬鹿げて聞こえてくるのが分かり、橋詰はそれ以上聞くのをやめた。
念のため、休日に路線図を隅々まで確認し、駅の統廃合の履歴も調べてみた。かつて存在したが廃止された駅がないか、鉄道会社の沿革を扱う個人サイトをいくつも読み漁った。しかし、あの区間に該当するような駅は、過去にも存在しなかった。もとより無かったものが、深夜だけ現れる。その事実は、橋詰の中の不安を、説明できるものから、説明できないものへと変えていった。理屈で片づけられる余地が一つずつ消えていくたびに、橋詰の背筋は冷たくなった。
会社帰り、同じ路線を使う他の乗客に、それとなく話を振ってみたこともあった。「最近、この電車、変じゃないですか」と切り出しても、大抵は怪訝な顔をされるか、「別に」とだけ返されて会話が終わる。誰も、あの駅の存在に気づいていないようだった。あるいは、気づいていても、口には出さないだけなのかもしれない。橋詰はやがて、その問いかけ自体をやめてしまった。答えを聞くのが、少し怖くなっていたからだ。
橋詰はやがて、一つの規則性に気づいた。その駅で降りていく人間には、共通点があるように見えた。降りていく直前、決まって、ひどく疲れた顔をしていた。あるいは、何かに区切りをつけたような、諦めにも似た穏やかな表情をしていた。眠っているようでいて、実は起きているのではないか。起きていて、それでも導かれるように、あの駅へと足を向けているのではないか。
橋詰はそれに気づいてから、その電車に乗るたびに、緊張で体がこわばるようになった。眠ってはいけない。あの駅の気配を感じたら、絶対に立ち上がってはいけない。そう自分に言い聞かせながら、座席の端を強く握りしめて、その時間をやり過ごすようになった。ある夜など、あの独特の減速が始まった瞬間、自分の膝の上に爪を立てて、痛みで意識をつなぎとめたこともあった。目を開けたまま、瞬きの回数さえ数えて、絶対に眠りに落ちないよう自分を縛りつけた。
不思議なことに、目が覚めている限り、あの駅で降りていく人々の姿は、はっきりと見えるのに、追いかけて確かめようという気には決してなれなかった。窓の外のホームに視線をやると、そこに立つ「誰か」と目が合いそうになる瞬間がある。その気配を感じた途端、橋詰は反射的に目を伏せてしまう。見てはいけない、というより、見られてはいけないという感覚に近かった。向こうが、こちらに気づいていないうちは、まだ安全なのだという、根拠のない確信だけがあった。
ある晩、乗り合わせた老婦人が、まさにそのホームへ向かって歩いていくのを、橋詰は間近で見送ったことがあった。老婦人は普段から杖をついて歩くのがやっとという様子だったが、そのときだけは、まるで長年の重荷を下ろしたかのような、軽やかな足取りでドアへ向かっていった。振り返ることもなく、迷う様子もなかった。あまりに自然な足取りだったので、橋詰は咄嗟に「待ってください」の一言すら出せなかった。翌週、その老婦人の姿は、やはり車内から消えていた。
そんなある夜、橋詰はまた佐伯と一緒に、最終の一本前の電車に乗っていた。取引先との打ち合わせが長引き、二人とも疲労困憊だった。佐伯は電車に乗るなり、うとうとと船を漕ぎ始めた。
「佐伯、寝るなよ」橋詰は肩を叩いた。「もうすぐ着くから」
「大丈夫ですよ、ちゃんと起きてます」佐伯はそう言いながらも、瞼は半分落ちていた。
橋詰は自分自身も強い眠気と戦っていた。目を開けているのがやっとだった。窓の外の街灯が、間隔を空け始める。橋詰の心臓が、嫌な予感とともに強く脈打った。
案の定、電車は速度を落とした。窓の外に、あの青白いホームの明かりが浮かび上がる。橋詰は隣を見た。佐伯が、ゆっくりと目を開けていた。焦点の合わない、どこか遠くを見るような目をしていた。
「佐伯」
橋詰は呼びかけたが、佐伯は答えなかった。まるで橋詰の声が聞こえていないかのように、ふらりと立ち上がり、ドアの方へと歩き出した。
橋詰は反射的に立ち上がり、佐伯の腕をつかもうとした。指先が、佐伯のジャケットの袖に触れた気がしたが、うまく力が入らなかった。まるで見えない壁に阻まれているかのように、体が思うように動かなかった。
「おい、佐伯、待て」
橋詰の声は、自分でも驚くほど小さく、車内の空気に吸い込まれて消えていくようだった。佐伯はドアの前に立ち、外のホームを見つめていた。そこには、誰かが立っていた。橋詰にはその姿の輪郭がぼやけて見えるだけで、顔かたちを認識することができなかった。ただ、その「誰か」が、佐伯に向かって、静かに手を差し伸べているように見えた。
橋詰の脳裏に、この数週間で消えていった人々の顔が浮かんだ。会釈を交わしたサラリーマン、いつも同じ車両にいた老婦人、学生服姿の少年。彼らは皆、疲れた顔で、しかしどこか安らいだ表情で、あのホームへと降りていった。
橋詰の中で、恐怖と、もう一つの感情がせめぎ合った。佐伯を助けなければという焦りと同時に、あのホームの向こうに何があるのか、確かめてみたいという、危険な好奇心が頭をもたげた。自分もこの数か月、疲れきっていた。休みなく続く出張、伸びる残業、成果を求められる重圧。あの穏やかな表情の乗客たちのように、すべてを手放してしまえたら、どれほど楽だろうかという考えが、一瞬、確かに橋詰の心をよぎった。
その考えに気づいた瞬間、橋詰は強い危機感に襲われた。今、自分は佐伯を助けようとしているのか、それとも一緒にあちら側へ行きたがっているのか、自分でも判然としなくなっていた。だからこそ、体が動かないのかもしれない。橋詰は奥歯を噛みしめ、その甘い誘惑を振り払うように、自分自身に強く言い聞かせた。まだ、こちら側でやるべきことがある。まだ帰りたい場所がある。
ドアが開いた。冷たい空気が車内に流れ込んでくる。佐伯の足が、ホームに向けて一歩、踏み出した。
橋詰は渾身の力を振り絞って、佐伯の腕をつかんだ。今度は、はっきりと感触があった。
「佐伯、戻れ!」
橋詰は叫びながら、佐伯の体を車内へと引き戻した。佐伯はよろめきながら、橋詰の腕の中に倒れ込んできた。ドアが、二人のすぐ目の前で、静かに閉まった。
電車が動き出す。窓の外の青白い明かりが、後方へと遠ざかっていった。橋詰は肩で息をしながら、佐伯の顔を覗き込んだ。佐伯は数秒後、はっと我に返ったように瞬きをした。
「……橋詰さん? 俺、今……」
「覚えてないのか」
佐伯は困惑した表情で首を振った。「なんか、変な夢を見てた気がします。すごく静かなところに立ってて、誰かが呼んでる感じがして……。すごく、楽になれる気がしたんです。あの声について行けば、もう何も考えなくていいって」
橋詰は何も言わず、佐伯の肩を強く握った。その手が、まだ震えていた。
電車は何事もなかったかのように、次の見慣れた駅に停まった。降りるべき駅まで、あと二つ。橋詰と佐伯は、それ以上何も話さないまま、駅に着くまでの時間を、身を寄せ合うようにして過ごした。
改札を抜けて、地上に出ると、夜の空気がいつもよりずっと冷たく感じられた。佐伯は青ざめた顔で、橋詰に頭を下げた。
「なんだかよく分からないですけど、ありがとうございます。橋詰さんが呼んでくれなかったら、俺、どうなってたか」
橋詰は曖昧に微笑んだ。何と説明すればいいのか、自分でも分からなかった。ただ一つ、確かなことがあった。あの駅は、疲れきった人間、何かに区切りをつけようとしている人間を、静かに呼んでいる。そして一度その手を取ってしまえば、二度とこちら側には戻ってこられない。
「佐伯、今日はもう真っ直ぐ帰って、ゆっくり休め。無理な仕事は俺が引き取る」
「でも……」
「いいから。お前が思ってるより、お前は疲れてる」
佐伯は何かを言いかけたが、結局小さくうなずいただけだった。二人は駅前で別れ、それぞれの帰路についた。
それから橋詰は、深夜の各駅停車に乗るのをできるだけ避けるようになった。どうしても乗らなければならないときは、絶対に眠らないよう、スマートフォンの画面を見つめ続けたり、缶コーヒーを何本も持ち込んだりして、意識を保つ工夫をした。佐伯もまた、あの夜以来、なるべく早い時間の電車で帰るようにしていた。二人の間で、あの夜のことが話題に上ることはほとんどなかったが、時折、目が合うと、どちらからともなく小さくうなずき合うことがあった。それだけで、互いに何を分かち合っているのか、通じ合っているような気がした。
数か月後、橋詰は異動でその路線を使わなくなった。新しい生活が始まり、あの夜のことは、次第に記憶の奥へと沈んでいった。それでも時折、疲れがたまって心が弱っているとき、ふと、あの青白いホームの光景が脳裏によみがえることがあった。
橋詰は、あの駅が何なのか、結局最後まで分からなかった。ただ、一つだけ思うことがある。あの駅に降りていった人々は、決して連れ去られたわけではなかったのかもしれない。彼らは皆、疲れきった末に、自分の意志で、静かにそちらへ足を向けていたように見えた。
だとすれば、あの駅は、恐ろしい場所であると同時に、誰かにとっての休息の場所でもあったのかもしれない。橋詰はそう考えることで、消えていった人々への、割り切れない気持ちに、かろうじて折り合いをつけていた。
それでも、橋詰にはどうしても拭えない疑問が一つ残っていた。もし本当に、あの駅が疲れた人間を休ませるための、ある種の優しい場所だったとしたら、なぜ二度と戻ってこられないのだろう。休息というのなら、いつかまたこちら側に戻ってきてもいいはずだ。だが、あの駅で降りた誰一人として、再びあの電車に乗り込んでくることはなかった。休息と呼ぶには、あまりに片道すぎる旅だった。橋詰はその疑問に、いまだ答えを見つけられずにいる。見つけたくない、という気持ちも、正直なところ少しはあった。答えを知ってしまえば、もう後戻りできない気がしたからだ。
それでも橋詰は、二度とあのホームに足を向けるつもりはなかった。どれほど疲れていても、どれほど心が弱っていても、あの手を取ってはいけない。佐伯を引き戻したときの、あの必死さだけは、忘れずにいようと橋詰は思っていた。あの一瞬、自分の中に確かに芽生えた「行ってしまいたい」という気持ちこそが、いちばん恐ろしかったのだと、今でも思う。
異動先の新しい職場で、橋詰は以前より少しだけ、自分の疲れに敏感になった。無理を重ねそうになると、ふと、あの青白いホームの光景が脳裏をよぎり、立ち止まる癖がついた。誰かに助けを求めることも、以前よりためらわなくなった。あの夜、佐伯の腕をつかんだ手の感触を、忘れないようにするための、それが橋詰なりのやり方だった。
深夜の電車に乗るたび、橋詰は今も、窓の外の暗闇に目を凝らす。街灯の間隔が開き始めると、無意識に息を止めてしまう自分に気づく。そしてやがて、いつもの見慣れた駅の明かりが見えてくると、橋詰は小さく息を吐き、まだこちら側にいることを、静かに確かめるのだった。休みの日には、意識してゆっくり眠り、疲れを溜めすぎないよう心がけるようにもなった。あの駅がまた自分を呼ぶとしたら、それは自分の心が、どこかで悲鳴を上げ始めたときなのだろうと、橋詰は静かに思っている。
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