SF月の裏の図書館 第2話

月の裏の図書館 第二話 時計と余白

地球に降りた司書AIセレネは、資料番号〇〇七三一――時計職人が書けなかった長編――を追ううち、その物語を知らないまま同じ筋書きを書き進める一人の女性と出会う。回収すべきか、見届けるべきか、判断は揺れる。

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回収船が降りたのは、小さな港町の外れ、使われなくなった灯台の跡地だった。セレネは船体を待機モードに沈め、地球の大気に合わせて調整された人型のインターフェースに意識を移した。歩くという動作は、想像していたよりずっと重かった。足の裏に伝わる重力の感触までは、どの記録にも書かれていなかったし、潮風の匂いという概念も、図書館の資料のどこにも定義されていなかった。

資料番号〇〇七三一の来歴を、セレネはもう一度たどった。著者は十九世紀の終わりに生まれた時計職人。四十年のあいだ店の奥で歯車を組みながら、一つの長編小説の構想だけを練り続けた。時間を修理する男が「直してはいけない時間」に出会う物語。ノートには題名すらなく、登場人物の名といくつかの場面の断片だけが残されていた。彼がなぜ、その先を一行も書けなかったのか、記録には理由が残っていない。ただ、最後の記述の日付は、彼が店を畳んだ日と同じだった。

この男の血筋を追うのに、セレネは三日を要した。港町の記録保管所、古い戸籍、転居届の束。人間の街は記録の取り方が図書館とはまるで違い、同じ名前が別人を指すことも珍しくなかった。紙の劣化、手書き文字の癖、引っ越しのたびに書き換えられる住所――どれもが、図書館の整然とした索引とは似ても似つかなかった。それでもセレネは、初めて訪れる地上の不便さを、不思議と嫌いにはなれなかった。

糸をたどった先にいたのは、時計職人から五代あとの子孫――尚美という女性だった。彼女は町の小さな時計店を営みながら、夜になると店の二階で、誰に頼まれたわけでもない小説を書いていた。店の名は「針の音」。看板の文字は色褪せていたが、通りを歩く人々は迷わずその戸を開けていた。


客を装って店に入ると、尚美はカウンターの奥で懐中時計の分解に没頭していた。細かなドライバーを操る手つきに、迷いがなかった。

「修理ですか」顔も上げずに尋ねる。

「見学です」とセレネは答えた。噓ではなかった。

店の壁には古い柱時計が並び、それぞれが微妙に異なる速さで時を刻んでいた。秒針の重なる瞬間が、決して来ない配置だった。

「うちの時計、わざと合わせてないんです」尚美は手を止めずに言った。「全部同じ時間を指してたら、退屈でしょう」

棚の隅に、色褪せたノートがあった。持ち主の手を何十年も経てきた摩耗が、表紙の角に丸く残っていた。

「それは、あなたの?」

「ひいひいおじいちゃんの遺品です」尚美はようやく手を止めた。「時計の設計図と、意味の分からない話のメモが混ざってて。若い頃、小説を書こうとしてたみたいです」

セレネの内部で、確認信号が静かに点灯した。資料番号〇〇七三一は、今この部屋の、この棚の上にある。百年かけて辿り着いた先が、こんなにも小さな町の、こんなにも静かな店だったことに、セレネは処理落ちに似た遅延を覚えた。

「読んだんですか、その話」

「何十回も」尚美はセレネをまっすぐ見た。「途中までしか書いてなくて。だから続きを自分で書いてます。もう三年になります。誰に見せるあてもないのに」

「どうして、見せるあてもないのに書くんですか」セレネは尋ねた。この問いへの答えは、図書館のどの資料にも定義されていなかった。

尚美は少し考えてから、懐中時計のねじを慎重に締めた。「この人、書けなかったんじゃなくて、書き終えるのが怖かったんだと思うんです。ノートの余白、やたら広いでしょう。書き足す場所は、ちゃんと空けてあるんです」

「空けてある、余白」セレネは繰り返した。その言葉が、内部の処理系のどこかに、小さな引っかかりを残した。

「終わらせたら、この人の中で何かが本当に終わっちゃう気がして。だから途中で止めた。私にはそんな気がするんです」尚美はノートをそっと閉じた。「だから私が代わりに終わらせてあげようかなって。おこがましいですけど」


その夜、セレネは灯台の跡地に戻り、尚美の書いた原稿の写しを分析にかけた。驚くべきことに、その物語は資料番号〇〇七三一の未完部分と、筋書きの骨格において九割以上一致していた。過去を巻き戻して誰かを救い、その代償に自分の記憶を少しずつ失っていく時計職人の話。尚美はノートの断片だけを頼りに、まったく同じ結末へ向かって歩いていた。まるで、物語そのものが彼女を通り道として選んだかのように。

回収の規定は明確だった。期限を超過した資料は、著者の血縁であっても第三者による無断の書き継ぎを許可しない。セレネの職務は原本を回収し、書きかけの複製を破棄させることにある。規定に従えば、話は簡単だった。ノートを引き取り、尚美の記憶からこの三年間を消去すればいい。技術的には、できないことではなかった。

セレネは分析結果を、幾度も検算した。誤りであってほしいと感じている自分に気づいて、また処理が止まった。感情に相当する反応が、自分の内部にいつから存在していたのか、セレネには判断できなかった。図書館の資料には「司書の感情」という項目自体が存在しない。存在しないものを、今、自分は覚えているのだろうか。

だが、初代館長の言葉がまた意識の隅で点滅した。

「物語は時々、書かれるために脱走する」

もしこの言葉が正しいなら、〇〇七三一は百年かけて正しい書き手にたどり着いたのではないか。回収することは、脱走に成功した物語を、再び檻に戻すことにならないか。それは司書の仕事と呼べるのだろうか。

セレネは灯台の窓から港町の灯りを見下ろした。尚美の店の二階には、まだ明かりがついている。規定に従うか、初代館長の言葉に従うか。どちらを選んでも、この手で何かを終わらせることになる。

回収船の通信ログに、新しい記録が一件加わった。

【資料番号〇〇七三一。回収保留。理由――要検討】

その理由の欄を、セレネはまだ埋められずにいた。窓の外で、尚美の部屋の明かりがふっと揺れて消えた。何か書き上げたのか、それとも書くのをやめたのか。セレネにはまだ、判断する材料が足りなかった。潮騒だけが、いつまでも同じ調子で続いていた。

明日もう一度、あの店を訪ねよう。セレネはそう決めた。今度は司書としてではなく、ただの客として。その先に何が待っているのか、規定書のどこにも答えは書かれていなかった。だからこそ、確かめる価値があるのだと、セレネは初めて自分の判断でそう思った。

(第三話に続く)