SF月の裏の図書館 第1話

月の裏の図書館 第一話 貸出期限は百年

月の裏側に、地球のあらゆる「書かれなかった物語」を収蔵する図書館がある。司書AIのセレネが管理するのは、人類が書こうとして書けなかった小説たち。ある日、百年前に貸し出されたきりの一冊の返却通知が届く。

文字サイズ

月の裏側には、地球からは決して見えない場所に、一つの図書館が建っている。正式名称は「未筆記文書保存機構」。もっとも、この呼び名を使う者はいない。数少ない利用者たちは、ただ「月の裏の図書館」と呼ぶ。

収蔵されているのは、書かれなかった物語だ。

人類が書こうとして、ついに書けなかった小説。夭折した作家が構想だけ残した長編。戦火で失われた叙事詩の、失われる前の姿。誰にも打ち明けられないまま持ち主とともに眠った、無数の物語たち。それらは書かれなかったにもかかわらず、確かに存在した。存在したものは、どこかに保存されなければならない。それがこの図書館の設立理念である。

司書は一人。というより、一基。セレネと名付けられたその司書AIは、開館以来三百年、この静かの海ならぬ静かの館を管理してきた。

その朝——月の裏に朝はないが、セレネは地球の標準時に合わせて業務を区切っていた——一通の通知が、彼女の意識の端で点灯した。

【返却期限超過のお知らせ。資料番号〇〇七三一。貸出日より百年が経過しました】

セレネは記録を検索した。資料番号〇〇七三一。題名未定。著者、地球の北半球に住んでいた無名の時計職人。彼が四十年の生涯をかけて構想し、一行も書かなかった長編小説。貸出先は——ここでセレネの処理が、〇・三秒だけ停止した。

貸出先の欄には、こう記されていた。「地球」。

個人ではなく、惑星への貸出。そんな記録は他に一件もない。承認者の署名は、三百年前に引退した初代館長のものだった。備考欄には、古い書体でただ一行。

「物語は時々、書かれるために脱走する」

セレネは館内の長い廊下を、思考だけで歩いた。書かれなかった物語たちの棚は、どれも仄かに青く光っている。〇〇七三一の棚だけが、空っぽのまま、百年間そこにあった。

規定では、期限超過の資料は回収しなければならない。回収担当も、セレネである。彼女は三百年で初めて、図書館の外に出る許可を自分自身に申請し、自分自身で承認した。

回収船の窓から、青い惑星が昇ってくる。あの星のどこかで、時計職人の書かなかった物語が、百年かけて誰かに書かれようとしている。回収すべきか。それとも、書き上がるのを待つべきか。

セレネの判断基準の中に、答えはなかった。ただ、初代館長の残した備考欄の一行だけが、航路のあいだじゅう、意識の隅で点灯し続けていた。

物語は時々、書かれるために脱走する。

だとすれば司書の仕事は、連れ戻すことだろうか。それとも、見届けることだろうか。

回収船は静かに、青い星へ降りてゆく。

(第二話に続く)