雪明かりの一夜
雪深い温泉宿の帳場に、三十歳の沙也加が偶然訪ねた先で、八年前に別れた恋人の悟が仲居頭として立っていた。一夜だけの客として泊まる彼女を、悟は貸切の露天風呂へと誘い、八年分の距離を雪明かりの中で測り直していく。
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雪は昼過ぎから降り始め、夕方には宿の屋根を白く覆っていた。
三十歳になったばかりの沙也加は、仕事を辞めた足で、思いつくままに切符を買った。行き先は、学生時代に一度だけ訪れた東北の温泉宿。あの頃の記憶はもう色褪せていたはずなのに、雪の匂いを嗅いだ瞬間、体のどこかがそれを覚えていることに気づかされた。八年という歳月は、思い出をぼかすには十分でも、消し去るには足りなかったらしい。
チェックインの帳場に立っていたのは、記憶よりも少し肩幅の広くなった、三十一歳になったはずの男だった。
「……悟くん」
「沙也加」
八年ぶりに呼ばれた名前は、宿の暖かい空気の中で、驚くほど自然に馴染んだ。悟はこの宿の跡取り息子だった。大学を卒業してすぐに実家へ戻ると聞いたのが、二人が別れた理由のひとつだった。東京に残る沙也加と、雪国に帰る悟。どちらも譲らず、そのまま連絡が途絶えた。あの頃の沙也加には、雪国で暮らす自分がどうしても想像できなかったし、悟もまた、無理に引き止める言葉を持たなかった。
「今夜、部屋を担当するのが自分だとは思わなかった」
悟は帳場の奥で小さく笑った。仲居頭を任されているのだと、廊下を歩きながら教えてくれた。若旦那と呼ばれる立場になったこと、母親が体を悪くして厨房を退いたこと、八年分の近況が、雪見障子の並ぶ廊下の分だけ語られた。沙也加は相槌を打ちながら、自分がここに来た偶然を、まだうまく受け止められずにいた。
部屋に案内されると、悟は火鉢に炭を足し、茶を淹れた。所作のひとつひとつに、旅館の跡取りとしての年月が滲んでいた。沙也加はその手つきを、少し眩しいものを見るように眺めていた。
「露天、今夜は貸切にできる。誰も予約が入ってない」
「案内してくれるの」
「仲居の仕事だから」
その言い方に、昔と変わらない意地の張り方を見つけて、沙也加はつい笑ってしまった。
夕食の膳は、悟の母の代わりに悟自身が選んだのだと、給仕にきた若い仲居が教えてくれた。山菜と川魚と、沙也加が学生時代に好んでいた甘めの出汁巻き玉子。細かなことを覚えている律儀さに、胸の奥が少しだけ疼いた。膳を下げに来た悟に、沙也加はつい聞いてしまった。
「出汁巻き、覚えてたんだ」
「客の好みを覚えるのも、仕事のうち」
「それだけ?」
悟は答えず、盆を持ったまま部屋を出て行った。その背中を見送りながら、沙也加は八年前の自分たちが、まだこの宿のどこかに残っているような気がした。
膳を片付け終えた頃、悟はもう一度部屋に戻ってきた。今度は仕事用の絣ではなく、私服のセーターに着替えていた。
「休憩、もらった。少しだけなら」
「若旦那が抜け出していいの」
「抜け出すんじゃない。案内するだけだ」
そう言って悟が差し出したのは、宿の裏手にある展望台への鍵だった。冬の間だけ雪見のために開放される、小さな東屋がその先にあるのだという。沙也加は迷わず立ち上がり、借りた綿入れ半纏を羽織った。雪の積もった渡り廊下を、二人並んで歩いた。会話は途切れがちだったが、その沈黙は、八年前の気まずさとは違う、どこか穏やかなものだった。
東屋から見下ろす宿の灯りは、雪の中でにじんだように滲んでいた。悟は手すりに寄りかかり、白い息を吐きながら言った。
「東京での八年、どうだった」
「忙しかった。振り返る暇もないくらい」
「じゃあ、今夜は振り返る夜にすればいい」
「そういうこと言うところ、変わってないね」
「変わらない方が、たぶん、あんたには都合がいいんだろう」
沙也加は何も返せなかった。雪明かりに浮かぶ悟の横顔は、記憶の中よりも少しだけ大人びていて、それがかえって、八年という時間の実感を強くした。
夕食の後、悟は本当に露天風呂へ案内した。雪はまだ降り続いていて、湯気の向こうに舞い落ちる白が、灯籠の明かりに照らされてゆっくりと沈んでいく。誰もいない湯殿の入り口で、悟は一度足を止めた。
「今夜だけ、客じゃなくていい」
その言葉の意味を、沙也加はすぐには聞き返さなかった。ただ、雪明かりの中に立つ悟の輪郭を見つめた。八年前、東京行きの夜行バスの窓越しに見た背中と、同じ角度で肩が落ちていた。
「あの時、ちゃんと引き止めてくれたら、違ったのかな」
「今さらそれを言うのは、卑怯だと思わないか」
「思う。だから言わない」
雪がひとひら、悟の肩に落ちて消えた。沙也加は手を伸ばし、それを払うふりをして、指先で肩に触れた。八年という時間の重さを、その一瞬で量ることはできなかったけれど、二人ともそれ以上言葉を探さなかった。
「湯、冷めるよ」
「冷めたら、また沸かせばいい。仲居さんの仕事でしょう」
悟は苦い顔で笑い、それから沙也加の手を取って、暖簾の内側へと促した。灯籠の火が雪に滲み、湯気が二人の輪郭をやわらかく溶かしていく。降り積もる雪の音のない静けさの中で、二人の間にあった八年分の距離が、少しずつ埋まっていくのが分かった。
「本当に、いいの」洗い場の前で、沙也加はふと足を止めて尋ねた。「悟くんは、ここで働いてるんだよ。私は今夜だけの客」
「今夜だけ、客じゃなくていいって言ったのは、俺の方だ」悟は沙也加の頬に手を添え、まっすぐに見つめた。「三十一にもなって、後悔するようなことはしない」
沙也加は小さく頷き、帯に手をかけた。浴衣が肩から滑り落ちると、湯気の向こうに白い肌が浮かび上がる。八年前より少しだけ大人びた体を、雪明かりの下に晒すのは、羞恥に似た震えを伴った。それでも、その震えを上回る想いのほうが、もう明らかに強かった。悟は自分の浴衣を脱ぎ捨てながら、沙也加の体をゆっくりと見つめた。
「変わった?」
「変わってない。八年前と、同じくらい綺麗だ」
悟は湯気の中で沙也加を抱き寄せ、その背に手を這わせた。触れられた場所から、じんわりと熱が広がっていく。降り積もる雪の冷たい空気と、湯の温かさの間で、沙也加の体は小さく震えた。仲居として働くようになった悟の手のひらは、記憶よりも少し硬くなっていて、その変化ひとつにも、離れていた八年の時間が滲んでいた。悟の唇が首筋に落ち、鎖骨をなぞり、沙也加は思わず声を漏らして、慌てて口を押さえた。
「声、我慢しなくていい。誰も来ない」
悟の言葉に、沙也加はそれでも一瞬だけ躊躇った。仲居として働く悟の宿で、こんな声を上げていいのだろうかという迷いが胸をよぎる。けれど悟の手が胸のふくらみを包み、先端に触れた瞬間、その迷いは呆気なく溶けて消えた。指の腹でゆっくりと形をなぞられるたび、体の奥から込み上げてくる熱に、沙也加は自分がどれだけこの手を待っていたかを思い知らされた。
悟は沙也加を露天の縁に座らせ、脚を開かせる。湯気の向こう、雪明かりに照らされた指先が、沙也加の中心にそっと触れた。そこはすでに、湯とは違う熱をもってしっとりと濡れていた。「悟くん」と名を呼ぶと、指がゆっくりと沈み、浅いところを探るように動く。沙也加の腰が小さく跳ね、こらえきれない声が雪の夜に溶けていった。
「沙也加、こんなに」
「八年分、って思ってくれていいから」
軽口を叩く余裕は、指を動かされるたびに薄れていった。沙也加も手を伸ばし、悟の昂ぶりに触れる。脈打つ熱と硬さを確かめると、悟が小さく息を詰めるのが分かった。互いの高まりを確かめ合ったあと、悟は沙也加の膝を持ち上げ、ゆっくりと腰を進めた。
先端が押し入った瞬間、沙也加は喉をのけぞらせて声を上げた。狭く、熱く、脈打つ場所が悟を奥へと飲み込んでいく感覚に、目の奥が白く滲む。「大丈夫か」と気遣う悟の声に、沙也加は言葉にならないまま何度も頷いた。すべてを収めきると、悟は動きを止め、額を沙也加の額に重ねて、震える呼吸をひとつ整えた。
律動が始まると、雪の降る音のない静けさの中に、湯の跳ねる音と二人の呼吸だけが響いた。最初は確かめるように浅く、次第に深く。悟の背中には、宿の跡取りとしての年月に鍛えられた筋肉が張り詰め、動くたびに汗と湯が入り混じって光った。沙也加は声を殺そうとしたが、奥まで届くたびに、こらえていたものが吐息の形になって零れ落ちていった。悟の視線は一度も逸れず、雪明かりの下で沙也加の表情の変化をひとつひとつ確かめるように見つめ続けていた。その眼差しの熱さに、沙也加はまた一段、羞恥と快さの境目を見失っていく。
「待って、そこ——」
沙也加の言葉は最後まで続かなかった。悟は一度動きを止め、体位を変えた。沙也加を抱き上げ、湯の中で向かい合わせに座らせると、重みに導かれてさらに深いところで繋がった。沙也加は悟の肩に額を押しつけ、こらえきれない声を漏らし続けた。自分から腰を揺らす沙也加に、悟も下から突き上げるように応え、律動は次第に荒く、切迫したものへと変わっていく。
「沙也加、もう——」
「私も、もう」
沙也加の内側が痙攣するように締まり、悟が最後にひときわ深く突き入れた瞬間、沙也加は声にならない声を上げて全身を震わせた。同時に悟も低く呻き、沙也加の中で果てた。雪はまだ静かに降り続き、二人の荒い呼吸だけが、湯気の向こうに白く昇っていった。
しばらくして、悟は沙也加を抱いたまま湯から上がり、部屋の布団へと運んだ。障子越しの灯籠の灯りの下、汗と湯で湿った肌を手拭いで拭ってやりながら、悟は沙也加の額に幾度も唇を落とした。「寒くないか」と聞かれ、沙也加は首を振ったが、悟はそれでも布団を引き寄せ、二人分の体をくるむように包んだ。互いの心臓の音がまだ速いまま重なり合い、沙也加はその音を、いつまでも聞いていたいと思った。体の力が抜けきった沙也加は、その優しさに身を委ねるまま、もう一度だけ悟を求めて手を伸ばした。
——夜が深くなる。雪はやまず、宿の灯りがひとつ、またひとつと落ちていく中で、二人はもう一度、静かに体を重ねた。誰にも聞かれることのない声だけが、雪の音に混じっていった。障子越しの灯りは、明け方近くまで細く灯り続けていたという。
翌朝、沙也加が目を覚ますと、悟はすでに廊下の雪かきをしていた。窓を開けると、澄んだ冷気と一緒に、雪を踏む音が聞こえてくる。布団の温もりの中に、まだ昨夜の余韻が残っていて、沙也加はしばらく起き上がれなかった。
「今日、東京に戻るのか」
「まだ決めてない。次の仕事も、決めてないし」
「なら」悟は雪かきの手を止めずに言った。「もう少し、長逗留してもいいんじゃないか。宿代は、仲居割引にしてやる」
「昔からそういう、へたな誘い方するよね」
「上手い誘い方を知らないんだ、生憎」
沙也加は障子を閉め、火鉢の前に座り直した。窓の外では、雪はまだ、白鷺の里を静かに埋めていく。八年前とは違う理由で、今度はもう少し、ここに留まってみようと思った。仕事も、住む場所も、何も決まっていない今の自分になら、それができる気がした。
朝食の膳を運んできた悟に、沙也加は「もう三泊、延ばせる?」と聞いた。悟は帳場に確認するふりをして、わざと間を置いてから頷いた。その間の長さに、八年前と同じ悟の癖を見つけて、沙也加はまた笑ってしまった。
「延ばした分の宿代、ちゃんと払うから」
「割引の話は、なかったことにしたのか」
「仲居割引の意味、まだよく分かってないから。今夜、もう一度教えてもらう」
悟は苦笑いを浮かべたまま、盆を持って部屋を出て行こうとした。その袖を、沙也加はふと引き止めた。
「ねえ、悟くん。今度は、ちゃんと言葉にしてから、決めよう。八年前みたいに、黙って離れるんじゃなくて」
悟は振り返り、少しの間、雪の匂いのする窓の外を見ていた。それから、ようやく短く頷いた。
「ああ。今度は、ちゃんと言葉にする」
窓の外では、雪はまだ、白鷺の里を静かに埋めていく。八年前とは違う理由で、今度はもう少し、ここに留まってみようと思った。仕事も、住む場所も、何も決まっていない今の自分になら、それができる気がした。雪はまだ、当分やみそうになかった。
(了)
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