雨音の旅館
雨で足止めされた温泉旅館で、五年前に別れた恋人同士が偶然の再会を果たす。雨音だけが響く貸切露天風呂で、消えたはずの熱がふたたび灯っていく、大人の再会と再生を描く官能短編。
山あいの温泉旅館「柊屋」は、創業百年を超える老舗で、渓流沿いに離れが点在する造りになっている。チェックインを済ませた美織が、部屋までの渡り廊下を歩いていたとき、向こうから歩いてくる人影に、思わず足を止めた。
深夜の廊下で、美織(みおり)はその背中を見た瞬間、五年前の記憶がまるごと呼び覚まされるのを感じた。
「……隆平?」
振り返った男の顔は、記憶より少し痩せて、目元に大人の陰影が増えていた。三十五歳になった隆平(りゅうへい)は、驚いた表情のまま立ち尽くしている。美織は三十三歳、雑誌の取材でこの温泉旅館「柊屋」を訪れていた。彼もまた、写真の仕事でここに来ていたらしい。
その夜、上流の橋が増水で通行止めになり、下山するはずだった最終バスが運休になった。宿の女将は、足止めされた数名の客のために、急遽ひと部屋分の夕食を広間にまとめて用意した。偶然にも隣り合わせに座らされた二人は、五年ぶりに、同じ卓を囲むことになった。
「元気そうだね」
「そっちこそ」
会話は続かなかった。別れた理由は、今思えば取るに足らないことだった気がする。すれ違う仕事、伸びる距離、疲れて交わされなくなった言葉。それだけのことで、二人は互いを手放した。
五年前、二人は同じ編集プロダクションで働いていた。美織はライター、隆平はカメラマン。取材で全国を飛び回るうちに恋人同士になり、二年ほど付き合った。だが仕事の忙しさに紛れて連絡は間遠になり、気づけば互いの部屋の合鍵を、どちらからともなく返し合っていた。別れ話らしい別れ話もなかった。ただ、静かに終わっただけの関係だった。
雨は夜を通して降り続いた。屋根を叩く音、庭の池に落ちる水音、それらが会話の代わりに広間を満たしていく。食事が終わり、他の客が部屋に戻っていく中、美織と隆平だけが縁側に残った。
女将が気を利かせて置いていった熱燗の徳利が、二人の間で静かに湯気を立てていた。美織はそれを一杯だけ隆平の杯に注ぎ、自分の杯にも注いだ。手が触れそうで触れない距離を保ちながら、五年ぶりの沈黙を、二人はどう扱えばいいのか測りかねていた。
「あの時、ちゃんと話せばよかった」
隆平がぽつりと言った。
「今更でしょう」
「うん。今更だ」彼は杯の酒を一口だけ含んだ。「それでも、言わせてほしい。あのとき手放さなければよかったって、この五年、何度も思った」
美織は何も答えず、ただ雨音に耳を澄ませた。答えを急かさない静けさが、かえって彼女の胸を締めつけた。
彼は笑って、それでも視線を逸らさなかった。雨に濡れた庭の緑が、灯籠の光を受けて滲んでいる。美織は自分の湯呑みを両手で包みながら、彼の横顔を盗み見た。五年間、忘れたつもりでいた輪郭が、こんなにも鮮明に胸を締めつけてくることに戸惑っていた。
「露天、入る?」
女将が用意してくれた貸切風呂の札を、隆平が指差した。断る理由を、美織は見つけられなかった。荷物を部屋に置き、用意されていた浴衣に着替えるあいだ、鏡に映る自分の顔が、少しだけ昔の顔に戻っているような気がした。仕事に追われる毎日の中で失っていた何かが、この宿の空気の中で少しずつ蘇ってくる。
貸切風呂へ続く廊下は、渓流の音と雨音が重なり合って、まるで別の時間が流れているようだった。すりガラスの引き戸を開けると、湯気が頬に触れた。隆平はすでに先に来て、湯に浸かりながら夜空を見上げていた。雨で星は見えない。それでも彼の視線は、何かを探すように上を向いていた。
湯気の向こうで、雨はまだ降っている。屋根のない露天風呂の縁に並んで座り、二人はしばらく無言だった。肩が触れそうな距離。湯の温度よりも、隣に感じる体温のほうが、ずっと熱く感じられた。
「変わってないね、美織は」
「変わったよ。いろいろ」
「じゃあ、知らないことだらけだ」
隆平は湯を掬い、肩にかけた。白い湯気が、彼の輪郭をぼんやりと霞ませる。美織は視線を庭の暗がりに逃がしながら、心臓の音が雨音に紛れてくれることを願っていた。五年前も、こうして黙り込む夜が何度もあった。だが今夜の沈黙には、あの頃とは違う質量があった。気まずさではなく、次の言葉を選ぶための、慎重な間だった。
隆平の指先が、湯の中で美織の指に触れた。逃げなかったのは、美織のほうだった。雨粒が肌に落ちる冷たさと、湯の温かさと、触れた指先の熱が、境界を失って溶け合っていく。
「知りたい?」
「うん」
「全部は、教えない。今夜だけは」
美織は湯から上がる湯気の向こうで、彼の頬に手を伸ばした。五年前より深くなった目尻の皺に、指先が触れる。隆平はその手を捉え、掌に唇を寄せた。
「ずっと、後悔してた」隆平が言った。雨音に紛れそうなほど小さな声だった。「あの頃の俺は、大事なものを大事にする方法を知らなかった」
「私も同じ。仕事を言い訳にして、あなたを見なくなってた」
美織は目を伏せた。五年という歳月は、互いを知らない他人にするには十分な長さのはずだった。それなのに、こうして隣に座っているだけで、五年前の続きを生きているような感覚に包まれる。
「今夜だけでいいから」隆平が美織の肩を抱き寄せた。「もう一度、ちゃんと触れさせてほしい」
美織は答える代わりに、彼の胸に頬を寄せた。雨に濡れた前髪から、水滴が一つ、美織の頬に落ちた。それが涙なのか雨なのか、どちらでもよかった。
——雨音だけが、二人の間に残された唯一の言葉になった。浴衣の帯がほどける音、濡れた髪から滴る雫、それらすべてが雨の音に紛れて、誰にも知られることのない夜の中に沈んでいった。灯籠の灯りが、二つの影を庭石の上でひとつに重ねる。美織は、五年間閉じ込めていた何かが、雨とともに溶け出していくのを感じていた。
部屋に戻ってからも、雨の音は途切れなかった。障子を透かして届く灯籠の淡い光の中、隆平は美織の髪を一房すくい、そこに眠っていた水滴に唇を寄せた。五年という時間が二人の間に積もらせた遠慮は、触れ合う肌の熱の前では、あまりにも脆いものだった。肌に触れる指先はどこまでも慎重で、そのくせ止まらなかった。互いの体温を確かめるように、幾度も呼び合う名前だけが、雨の隙間を縫って響いていた。長い沈黙のあとにようやく交わされる熱は、五年分の言葉より雄弁だった。
夜が明ける頃、雨はようやく小降りになっていた。
美織が目を覚ますと、隆平はすでに縁側に座り、庭を眺めていた。振り返った彼の顔には、五年前には見たことのない穏やかさがあった。
「バス、動くって」
「うん」
「……また、会える?」
美織は少し考えて、鞄から名刺を取り出した。連絡先はとうに変わっている。渡す手が、少しだけ震えた。
「今度は、ちゃんと。すれ違わないように」
隆平はその名刺を、大切そうに胸ポケットに収めた。雨上がりの庭に、朝の光が差し込み始めている。
「バスの時間まで、まだ少しある」隆平が言った。「朝の露天、覗いてみないか。今度は、雨じゃなく朝日を眺めに」
美織は頷いて、彼の差し出した手を取った。渡り廊下を並んで歩きながら、五年前にはなかった安心感が、指先から伝わってくるのを感じていた。急ぐ必要はもうない。互いのペースで、もう一度歩き出せばいい。
二人が過ごした一夜を、宿の誰も知らない。ただ、女将だけが、朝食の膳を運びながら、二つ並んだ座布団の跡に、小さく微笑んだ。窓の外では、洗われたばかりの緑が、雨上がりの光を受けてひときわ鮮やかに輝いていた。
(了)