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隣の席の交渉

営業事務の二十八歳、隣の席は寡黙な同僚。ある日を境に、付箋に一言だけ書いて渡し合う「交渉」が日課になった。休憩時間の争奪戦から始まったやり取りが、少しずつ言葉数を増やしていく。恋愛未満のオフィスラブコメ。

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月曜の朝、私のデスクには、黄色い付箋が一枚貼ってあった。

「今日の十二時、先に休憩取っていいですか」

差出人の名前はない。書いてあるのはそれだけ。けれど、隣の席の主が誰かなんて、考えるまでもなかった。私、朝比奈瑞穂、二十八歳、営業事務三年目。隣に座るのは、入社五年目の速水という男で、彼は私が知る限り、社内で最も口数の少ない人間だった。

会議で発言を求められれば必要最低限のことだけ話し、雑談には基本的に参加せず、ランチもたいてい一人で済ませる。それでいて仕事は丁寧で速く、頼まれた資料は締め切りより早く仕上がってくる。ミステリアスというより、単に「効率が悪いことをしない人」という印象を、私は彼に持っていた。

その速水が、私に付箋を貼ってきたのだ。理由はすぐにわかった。私たちの部署の昼休憩は交代制で、繁忙期にはよく、私と速水の休憩時間が重なりそうになる。今日は月末の請求書処理が立て込んでいて、どちらかが先に抜けないと電話番が手薄になる。それだけの、業務連絡といえば業務連絡だった。

私は付箋の裏に、ボールペンでさらさらと返事を書いた。

「いいですけど、十三時には戻ってきてくださいね」

貼り返すと、速水はちらりとそれを見て、小さく頷いた。会話はそれで終わり。声を発したのは、結局どちらも一言もなかった。

これが、私たちの「交渉」の始まりだった。

営業事務という仕事は、地味だが忙しい。営業部の面々が外回りに出ている間、私たちは見積書を作り、電話を取り、クレームの一次対応をし、細々とした事務作業を片づける。人手が足りない日は、隣の速水の存在がどれほど頼りになるか、私は身をもって知っていた。彼は無口な分、こちらが何かに困っている気配を察するのが早い。声をかけるより先に、必要な資料をすっと差し出してくることも一度や二度ではなかった。

正直に言えば、入社してしばらくの間、私は速水のことを少し苦手に思っていた。愛想がなく、何を考えているのかわからない。飲み会にも滅多に顔を出さない彼を、他の同僚たちは「話しかけづらい人」と評していたし、私もその評価に異論はなかった。それがいつの間にか、隣の席というだけの関係から、こんな小さな紙切れを介した交流へと変わっていったのは、自分でも不思議だった。

最初の頃は本当に、業務連絡の延長でしかなかった。「コピー機の紙、補充お願いできますか」「先にお願いします、今手が離せなくて」「了解です」。そんなやり取りが、口頭ではなく付箋で交わされる。不思議なもので、一度その形式が定着すると、私たちはどんな些細なことでも、いちいち付箋を使うようになっていった。

「そのボールペン、借りていいですか」 「どうぞ。インク切れそうなので早めに」 「新しいの、買ってきますね」

こういうやり取りに、他の同僚は最初、奇妙な顔をしていた。隣同士に座っているのに、なぜわざわざ紙に書くのか。声をかければ三秒で済むことを、なぜ律儀に付箋にするのか。

「二人とも、それ楽しいの?」

同期の香織が、給湯室で私にそう聞いてきたことがある。私は少し考えて、正直に答えた。

「楽しいっていうか……声かけるの、なんかちょっと照れくさくて」

自分で言って、自分でびっくりした。照れくさい、なんて感情を、あの無口な速水相手に抱いていることに、私自身が一番驚いていたのだ。

きっかけは思い出せない。最初はただの業務連絡だったはずのそれが、いつの間にか、内容に妙な色気を帯び始めていたことに、私は薄々気づいていた。

ある日、私が資料作成に苦戦していると、隣から一枚の付箋がすっと差し出された。

「その資料、フォーマット崩れてます。テンプレ送りましょうか」

「お願いします! 助かります」

数分後、私のパソコンに、綺麗に整ったテンプレートファイルが届いた。添付メールの本文は、これまた一言だけ。「どうぞ」。

その日の帰り際、私は付箋にこう書いた。

「今日はありがとうございました。おかげで定時で帰れそうです」

速水はそれを見て、珍しく口を開いた。

「それくらいで」

たったそれだけの返事だったが、彼の耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。ああ、この人も照れることがあるんだ、と思うと、なんだか胸のあたりがくすぐったくなった。

私たちの「交渉」には、いつしか暗黙のルールができていた。一つの付箋には一言だけ。長い説明は書かない。要件は簡潔に、けれど無愛想にはならない程度に。まるで俳句か何かのように、限られた言葉数の中で、いかに要件と気持ちを両方伝えるか、私たちは競い合うようになっていた。

「今日のランチ、何にしますか」 「迷い中。おすすめありますか」 「新しくできた定食屋、悪くないですよ」 「じゃあそこにします。一緒にどうですか」

そう書いた付箋を貼った瞬間、私は自分の心臓がどきどきと鳴っているのに気づいた。これまでのやり取りは、あくまで業務の延長線上にあるものだった。けれど「一緒にどうですか」は、明らかにそれを一歩踏み出す提案だった。

速水はしばらく、その付箋を見つめていた。会社にいる速水がそんなに長く一枚の付箋を見つめているのを、私は見たことがなかった。やがて彼は、新しい付箋を取り出して、何かを書き始めた。

私は自分のパソコン画面を見つめるふりをしながら、耳だけを隣の気配に集中させていた。ペンの音、紙をめくる小さな音、そして、付箋を私のデスクに置く、かすかな音。

「いいですね。十二時に行きましょう」

たったそれだけの言葉に、私はその日一日、仕事が全く手につかなくなった。

定食屋での昼食は、拍子抜けするほど普通の時間だった。速水は相変わらず口数が少なく、私が話しかけたことに、短く相槌を打つだけ。それでも、二人で並んで定食を食べているという事実だけで、私の胸はずっとそわそわしていた。

「速水さんって、休みの日は何してるんですか」

「特に何も。本を読んだり」

「本、好きなんですね」

「まあ」

これだけの会話でも、私にとっては大きな進歩だった。オフィスでは付箋でしか語らなかった彼が、こうして声を使って、私と言葉を交わしている。それが何だか、特別な出来事のように感じられた。

その日を境に、私たちの付箋交渉には、少しずつ業務以外の内容が混ざるようになった。

「今日、外は寒いです。上着忘れないでください」 「ありがとうございます。速水さんも」 「今日の会議、長引きそうな予感」 「同感です。逃げたい」 「逃げましょう。無理ですけど」

くだらないやり取りだった。けれど、そのくだらなさが、私にはたまらなく愛おしかった。

ある日、部長が私たちのデスクを通りかかり、付箋の山を見て、笑いながら言った。

「お前ら、隣同士でチャットアプリでも使えばいいのに」

私はどきりとして、速水の顔を見た。速水は珍しく、はっきりとした声で答えた。

「これがいいんです」

部長は不思議そうな顔をしながらも、それ以上は突っ込まずに去っていった。私は速水の横顔を見つめた。彼が「これがいい」と言った理由を、私は勝手に想像して、一人で顔が熱くなるのを感じていた。

夏の終わり、営業部主催の懇親会があった。滅多に顔を出さない速水が、その日は珍しく参加していた。私は少し離れた席から、彼が上司に無難な相槌を打ちながら、それでもどこか居心地悪そうにしているのを見ていた。

「瑞穂、あんた最近、速水さんと仲良いよね」

隣に座った香織が、ビールのグラスを傾けながら、からかうような口調で言った。

「仲良いって言うか……付箋のやり取りが、なんとなく続いてるだけ」

「そのなんとなくが怪しいんだって。他部署の子が言ってたよ。速水さん、営業の女の子に誘われても、いつもやんわり断ってるって。そういう人が瑞穂の付箋にはちゃんと返事するの、すごいことじゃない?」

私は何も言えずに、グラスの中の炭酸が消えていくのを眺めていた。香織の言葉が、じわじわと胸の中で存在感を増していくのを感じながら。

懇親会の帰り道、駅までの道を偶然、速水と二人で歩くことになった。会話らしい会話はなかったが、隣を歩く速水の歩調が、いつの間にか私に合わせてゆっくりになっていることに、私は気づいていた。改札の前で別れる際、速水は珍しく、こう言った。

「今日、お疲れさまでした」

たった一言だったが、付箋越しではない、生の声で聞くその言葉は、私の胸に思いのほか深く響いた。私は電車に揺られながら、しばらくの間、頬の熱が引かなかった。

秋が深まる頃、社内で異動の噂が流れ始めた。営業事務のチームが再編されるらしく、私たちのどちらかが、別のフロアに移る可能性があるという話だった。誰がどこに行くのか、正式な発表はまだだったが、噂話は瞬く間に部署内を駆け巡った。

その週の水曜日、ちょっとした事件があった。営業の若手社員が、資料を届けに私たちのデスクへやってきて、速水に向かって親しげに話しかけたのだ。同期入社らしいその男性社員は、速水の肩を軽く叩きながら、「今度飲みにでも行こうよ、たまには」と誘っていた。速水は例によって「考えておきます」とだけ答えていたが、私はなぜか、その何気ないやり取りが妙に気にかかって、仕事に集中できなくなった。

昼休み、私は付箋にこう書いた。

「さっきの人、仲良いんですか」

我ながら、意味のわからない質問だと思った。書いてしまってから後悔したが、貼ってしまったものは仕方がない。速水はその付箋を見て、少し不思議そうな顔をしてから、返事を書いてよこした。

「同期です。それが何か」

「別に、何でもないです」

「気になるなら、聞いてもいいですよ」

私は返事に詰まった。何が気になるのか、自分でもうまく説明できなかったからだ。ただ、速水が自分以外の誰かと親しくしているところを見て、胸の奥がちくりとした。それがどういう感情なのか、認めてしまうのが少し怖かった。

結局、私はその話題をそれ以上追わずに、仕事に戻った。けれどその日の帰り際、速水は珍しく、自分から付箋を差し出してきた。

「さっきの同期とは、ただの同期です。飲みには、たぶん行きません」

書いていないことまで説明してくるその不器用さに、私は思わず笑ってしまった。ああ、この人も、こんなふうに気を回すことがあるんだ、と思うと、胸のつかえがすっと軽くなった。

その話を聞いた日、私は仕事終わりに、いつもより長い付箋を書いた。ルール違反だとわかっていたが、書かずにはいられなかった。

「異動の話、聞きました? もし離れたら、この交渉、どうなるんでしょうね」

速水はその付箋を、いつもより長く見つめていた。返事が来るまで、私は何度も時計を見た。心臓が痛いくらいに鳴っていた。

やがて速水は、一枚の付箋を私のデスクに置いた。そこにはこう書かれていた。

「離れても、続けます。メールでも、付箋でも」

私はその言葉を、何度も読み返した。素っ気ないようでいて、その裏に確かな決意のようなものが滲んでいる気がした。

「フロアが違っても、届けに来てくれるんですか」

私がそう書いて渡すと、速水は少し困ったような、それでいてどこか楽しそうな表情を浮かべた。彼が今の会社で見せた中で、一番人間らしい表情だった。

「毎日は無理かもしれませんけど」

「毎日じゃなくていいです。たまにでいいから」

「わかりました」

その日の帰り道、私は電車の中で、鞄の中の使いかけの付箋の束を取り出して眺めた。数か月分の、私と速水のやり取りが、そこには詰まっていた。業務連絡から始まって、少しずつ、少しずつ、言葉数と気持ちが増えていったやり取り。それを見返しながら、私は自分の頬が緩むのを止められなかった。

異動の発表は、それから二週間後にあった。結果として、私たちの部署の再編は小規模なもので、私も速水も、今のデスクに残ることになった。発表を聞いた瞬間、私は思わず速水の方を見た。速水も、珍しく私の方を見ていた。目が合って、どちらからともなく、小さく笑ってしまった。

「残ってよかったですね」

私が付箋にそう書くと、速水はすぐに返事を書いてよこした。

「そうですね。まだ交渉が終わってないので」

「交渉? 何の交渉ですか」

私がそう聞き返すと、速水は初めて、少し長い時間、言葉を選ぶように黙り込んだ。それから、いつもより丁寧な字で、一枚の付箋に何かを書き始めた。

その付箋が私のデスクに置かれるまでの数十秒間、私はまるで判決を待つ被告人のような気持ちで、じっと自分の手元を見つめていた。

貼られた付箋には、こう書いてあった。

「今度の土曜、休憩時間じゃないところで、会えませんか」

私は思わず、隣の席を見た。速水は珍しく耳まで赤くして、パソコン画面に視線を固定していた。いつもは冷静な彼が、今は明らかに、私の返事を待って緊張している。

私はしばらく、その付箋を見つめていた。これまでの何十枚もの付箋のやり取りが、頭の中を駆け巡った。休憩時間の奪い合いから始まった、ちっぽけな交渉。それが、ここまで来た。

私はペンを取り、いつもより少しだけ丁寧な字で、返事を書いた。

「いいですよ。今度は付箋なしで」

貼り返すと、速水はそれを見て、初めて声を出して、小さく笑った。低くて、少し照れくさそうな笑い声だった。オフィスで彼のそんな声を聞いたのは、これが初めてだった。

「じゃあ、土曜、駅前で。十時でどうですか」

その言葉は、付箋ではなく、直接、私に向けて発せられたものだった。私は頷いて、同じように声で答えた。

「わかりました。十時に」

隣同士のデスクの上には、まだ何十枚もの付箋が、束になって残っていた。これからも私たちは、きっとこの小さな紙切れをやり取りし続けるのだろう。けれど、その意味は、もう最初とは違うものになっていた。業務連絡から始まった交渉が、今、少しだけ違う場所へ向かおうとしている。

土曜日、私は待ち合わせの三十分も前に駅前に着いてしまい、近くのカフェで時間を潰すはめになった。会社では毎日顔を合わせているはずなのに、私服で会うというだけで、こんなにも緊張するものかと自分でも呆れた。鏡代わりのスマートフォンの画面で、何度も前髪を確認した。

速水は約束の五分前に現れた。休日の彼は、オフィスで見るスーツ姿とはまるで違って見えた。シンプルな紺のシャツに、少し着崩したジャケット。私が「お疲れさまです」と言いかけて、休日なのだからおかしいと気づき、慌てて言い直すと、速水は珍しく声を出して笑った。

「休日なんだから、お疲れさまはいらないですよ」

「じゃあ、なんて言えばいいんですか」

「おはよう、とか。普通でいいと思います」

「おはようございます、速水さん」

「おはよう。今日はよろしく」

たったそれだけのやり取りに、私は付箋越しの何十回分もの会話より、ずっと大きな何かを受け取った気がした。

私たちは特に目的も決めず、駅の近くを歩き、古本屋に寄り、遅めのランチをとった。会話の速度は相変わらずゆっくりで、間には何度も沈黙が挟まったが、その沈黙すら、以前のようにぎこちないものではなくなっていた。付箋の交渉で鍛えられた私たちは、言葉にしなくても伝わることの多さを、もうよく知っていた。

古本屋の店先で、速水が一冊の文庫本を手に取り、長い間立ち止まっていた。私が横から覗き込むと、それは翻訳ミステリーの古い版で、彼が学生の頃に何度も読み返した本らしかった。

「好きな本なんですか」

「昔、よく読んでました。実家の本棚にあったんですけど、引っ越しのときに手放しちゃって」

「じゃあ、それ、買えばいいじゃないですか」

「そうですね」

速水はそう言いながらも、しばらく本を棚に戻さずにいた。何かをためらっているような、その横顔を見ていて、私はふと思いついたことを口にした。

「私が買います。誕生日でもないですけど、記念に」

「記念、ですか」

「初めて、付箋なしで会えた記念です」

速水は少し驚いたような顔をしてから、珍しく声を上げて笑った。結局、その本は私が買って、彼に渡した。レジ袋を受け取りながら、速水は「ありがとうございます」と、いつもよりずっと柔らかい声で言った。その一言だけで、私はその日一日、ずっと機嫌がよかった。

「これからも、社内では付箋、続けますか」

古本屋で見つけた文庫本を鞄にしまいながら、私は聞いてみた。速水は少し考えてから、答えた。

「続けます。あれは、あれで、貴重な時間だったので」

「貴重な時間、ですか」

「声に出すより、書いた方が、素直になれることもあるので」

その言葉に、私は深く頷いた。会社のデスクの上で交わしてきた何十枚もの付箋のことを、私も同じように大切に思っていたからだ。

窓の外では、秋の午後の光が、オフィスの床にやわらかく差し込んでいた。週が明けた月曜、私のデスクには、いつものように黄色い付箋が一枚貼ってあった。

「土曜、楽しかったです。また誘ってもいいですか」

私は隣の席をちらりと見て、速水がまた何か書こうとしているのに気づいた。今度は、どんな一言が届くのだろう。そう思うと、月曜からの一週間が、少しだけ待ち遠しくなった。

(了)

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