境界の従者 第三話 盾を置く日
最後の交渉の場で、ラウルはこれまでのように身代わりになることをやめる。自己犠牲ではなく、対等な信頼として結ばれ直す主従の物語の決着編。
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満月まで、残り三日。屋敷の書斎には、連日の作業でくたびれた羊皮紙が山と積まれていた。ラウルとイーサンは、この一月というもの、ほとんど毎晩そこに籠り、返済計画の練り直しに時間を費やしていた。
峠の通行税の見直し、休眠していた東側の農地を隊商向けの中継地として貸し出す案、そして――先代の遺した契約書の書き込みを手がかりに掘り起こした、ある事実。灰塩商会がイーサンの父の代に結んだ融資契約の一項には、「境界石の管理に関する権利は、いかなる形であれ第三者へ委任・譲渡してはならない」という一文が、当時の王家監督官の署名付きで明記されていた。ゲルハルトが持ちかけた「管理の補助」という言い回しは、この条項に真っ向から抵触する可能性が高い。
「これがあれば、あの男の提案そのものが、そもそも成立しない話だとわかる」
イーサンは古い契約書を手に、疲れた声の中にも確かな手応えを滲ませていた。ラウルは頷きながらも、慎重に言葉を返す。
「ええ。ですが、ゲルハルトほどの男です。この条項を承知の上で、別の抜け道を用意している可能性もあります」
「だろうな。だから、これだけで安心はできない。……お前は、どう見る」
かつてなら、ラウルはここで「私にお任せください」と言い切っていただろう。だが今は違う。イーサンが求めているのは、代わりに答えを出すことではなく、共に考える相手としての意見だった。
「私が見る限り、ゲルハルトの狙いは金そのものより、境界石の管理という『名誉』にあります。あの男は成り上がりの商人です。国境の守り手という肩書きが、喉から手が出るほど欲しいのでしょう。だとすれば、こちらが金銭面でどれほど譲歩しても、あの男は管理権への固執を崩さない可能性があります」
「つまり、金の話し合いだけでは終わらない、ということか」
「はい。おそらく、満月の夜、あの男は何か別の手段を用意してくるはずです」
その予感は、後に的中することになる。
満月を迎える前日、ラウルは久しぶりに一人で峠を登った。境界石の様子を確かめるためというのは半分は口実で、本当は、この一月の変化を、自分の中で整理する時間が欲しかったのだと思う。
祠に着き、水晶球を石に近づける。反応は安定していた。先月自分が受けた反動の影響も、今はほとんど残っていない。ラウルは石の前にしゃがみ込み、風化した紋様をそっと指でなぞった。
十三年前、先代に手首へ紋様を刻まれたあの日から、自分はずっと、この石と同じような存在であろうとしてきたのかもしれない。イーサンという当主を守るための道具。反動を引き受け、痛みを引き受け、その代わりに存在意義を得る道具。だが道具には、道具なりの限界がある。石が風化し、いずれ役目を果たせなくなるように、自分もまた、いつまでも同じやり方で盾であり続けることはできない。
明日の交渉が、どちらに転ぶかはわからない。だがどんな結果になろうと、自分はもう、これまでのようにイーサンの前に立って全てを引き受けるつもりはなかった。隣に立つ。その決意だけを固めて、ラウルは山を下りた。
屋敷に戻ると、書斎の窓に灯りが点いていた。イーサンもまた、明日に備えて、遅くまで書類を見直しているのだろう。その灯りを見上げながら、ラウルは静かに思った。この灯りを、自分が消させることは、もうない。イーサン自身が、自分の意志でその灯りを灯し、自分の意志でそれを消す。それでいい。それがいい。
満月の夜。今度の交渉の場は、屋敷の応接間に設定された。灰塩商会の本拠に呼びつけられるのではなく、こちら側の場に招く――それ自体が、イーサンなりの意思表示だった。ゲルハルトは護衛を三人従え、上機嫌な足取りで屋敷に現れた。
「さて、ご当主様。返済計画とやら、拝見いたしましょうか」
その口調には、余裕を装いながらも、どこか値踏みするような響きがあった。イーサンは臆することなく、机の上に書類を並べていく。
「まず、峠の通行税だ。これまで隊商への課税は旧来の一律料金だったが、荷の量と種別に応じた段階制に改める。試算では、年間の税収が二割ほど増える見込みだ」
一枚目の書類を示しながら、イーサンは淡々と説明を続けた。二枚目には、休眠していた東側農地の活用案。隊商向けの中継地として整備し、宿泊と倉庫の使用料を新たな収入源とする計画だった。ゲルハルトは眉一つ動かさずに聞いていたが、内心では意外そうな色を隠しきれていなかった。数ヶ月前まで、この当主は交渉の場に一度も自ら顔を出さなかった人物だ。
イーサンは用意した書類を差し出した。峠の通行税の見直し案、東側農地の貸与案、そして――先代の代の契約書の写し。ゲルハルトはそれらに目を通し、最後の一枚で表情をわずかに硬くした。
「なるほど。この条項をお持ちでしたか」
「境界石の管理に関わる権利は、いかなる形であれ第三者へ委任・譲渡してはならない。王家監督官の署名付きだ。貴殿の提案する『管理の補助』は、この一文に抵触するのではないか」
イーサンの声は落ち着いていた。ラウルは一歩後ろに控えたまま、口を挟まずに見守った。以前なら、この瞬間、たまらず前に出て自分が言葉を継いでいただろう。だが今は、イーサン自身の言葉が、確かにゲルハルトを押していくのを、静かに見届けていた。
ゲルハルトは書類をテーブルに置き、しばらく黙っていたが、やがて笑みを浮かべ直した。
「よく調べられましたね。ですが、この条項があるからといって、当商会が引き下がる理由にはなりません。滞納は事実。半年以内の差し押さえは、法的に何ら問題のない手続きです」
「返済計画を示した。滞納そのものを解消できる目算が立っている」
「目算はあくまで目算。実行できる保証はどこにも」
そこまで言いかけたゲルハルトの言葉を、外からの物音が遮った。屋敷の外、峠に続く道の方角から、複数の足音と、馬のいななきが響いてくる。護衛の一人が窓の外を確認し、ゲルハルトに耳打ちした。ゲルハルトの表情が、初めてわずかに焦りに似た色を帯びた。
「――少々、手違いがあったようです」
外に出ると、松明を掲げた一団が、屋敷の門の前に集まっていた。灰塩商会の紋章を掲げた男たち――だが、ゲルハルトが連れてきた護衛とは別動隊だ。先頭に立つ男が声を張り上げる。
「灰塩商会の命により、峠の境界石を、担保物件として仮差し押さえに参った!」
ラウルは瞬時に状況を悟った。ゲルハルトは表向きの交渉と並行して、既に実力行使の手筈を進めていたのだ。交渉が決裂した場合、あるいは何らかの理由をつけて、既成事実として境界石を実力で押さえてしまうつもりだったのだろう。ゲルハルト自身がこのタイミングを完全に制御していたわけではなさそうな慌てぶりから見て、部下が独断で先走ったか、あるいは交渉の場で足止めしている間に事を進める算段だったのが、単純に段取りが狂っただけかもしれない。
「これは越権行為だ。差し押さえの正式な手続きは、まだ何一つ完了していない」
イーサンが門の前に進み出て、声を張った。ラウルはその隣に並んだ。今までのように、前に出て庇うのではなく、横に並ぶ。それだけの違いが、自分でも驚くほど自然に体を動かしていた。
「ご当主様が何と仰ろうと、こちらは頭取の指図で動いております。境界石まで、通していただきましょうか」
男の一人が、峠へと続く道を塞ぐラウルとイーサンに向けて、じりじりと距離を詰めてきた。緊迫した空気が満ちる。屋敷の使用人たちも、物音に気づいて次々と門の内側に集まり始めていた。マーサもその中にいて、青ざめた顔で二人を見つめている。
「頭取の指図と言うが、この場に頭取本人の書面はあるのか」
イーサンが静かに問うた。男は一瞬言葉に詰まったが、すぐに強気な調子を取り戻す。
「口頭での指示で十分です。差し押さえの実行に、いちいち書面など――」
「必要だ。少なくとも、王家から委任された境界石の管理に手を出すのであれば」
イーサンの声は、震えてはいなかった。だが、その拳が固く握られていることに、隣に立つラウルは気づいていた。恐怖がないわけではない。それでも、逃げずに言葉を継いでいる。その姿を、ラウルは黙って見守った。
ラウルの中で、古い衝動が再び頭をもたげた。イーサンを下がらせ、自分が前に立ち、身を挺してでもこの男たちを押しとどめる――それが一番、確実で、自分に慣れたやり方だった。
だが、その衝動に体を委ねかけた瞬間、隣でイーサンが動いた。前でも後ろでもなく、ラウルと肩を並べたまま、一歩も引かずに男たちの前に立ちはだかったのだ。
「境界石は、アルダーレインの血に応える術式で守られている。無理に触れれば、お前たちの誰かが、その反動で命を落とすことになるぞ」
はったりではなかった。事実として、正当な権原を持たない者が力ずくで石に触れれば、術式は強い拒絶反応を返す。男たちも、その噂を耳にしたことがあるのだろう、明らかに動きが鈍った。
「――退け」
ラウルが低く、しかし静かに告げた。これまでのように、剣を抜いて割って入るのではない。ただ、イーサンの隣に立ち、揺るがない声で告げただけだった。二人分の意志が、一つの拒絶として男たちの前に立ちはだかる。それは、ラウル一人が体を張るよりも、遥かに重い圧力を持っていた。
膠着状態が続く中、屋敷の中からゲルハルトが慌てた様子で駆けてきた。
「待て、待ちなさい! これは私の指示ではない――」
その言い訳が、部下の暴走を示すものなのか、単なる保身の言葉なのか、真偽は定かではなかった。だがこの場に、王家監督官への通報も辞さないというイーサンの毅然とした態度と、越権行為の証人となる複数の使用人の目が揃ったことで、ゲルハルトはこれ以上の実力行使を続けるだけの正当性を、完全に失っていた。
「……今宵のところは、退かせていただきます」
苦々しい顔で、ゲルハルトは部下たちを下がらせた。
騒動が収まった後の応接間で、イーサンとゲルハルトは、改めて机を挟んで向き合った。今夜の越権行為は、灰塩商会にとって明確な弱みとなった。イーサンはそれを冷静に交渉材料に変えた。
「今夜のことは、王家監督官への正式な報告に値する。だが、返済計画を誠実に受け入れ、境界石の管理権への固執を今後一切取り下げるというのであれば、この件を穏便に収める用意がある」
ゲルハルトは長い沈黙の末、深く息を吐いた。
「……承知いたしました。ご提案いただいた返済計画で、結構です。境界石の管理については、二度と申し上げません」
交渉は、こうして決着した。完全な勝利とは言えないかもしれない。借財そのものは、まだ完済には程遠い。だが、アルダーレイン家の誇りである境界石の管理権は守られ、返済のための現実的な道筋も立った。何より、この一夜を通じて、イーサンは自分の言葉と意志で、家を守り抜いたのだった。
門の外で成り行きを見守っていたマーサや他の使用人たちは、ゲルハルトの馬車が去っていくのを見届けると、誰からともなく小さな歓声を上げた。長年、この家の没落を間近で見てきた者たちにとって、それは久しぶりに感じる、確かな希望の兆しだった。マーサはラウルに歩み寄り、その肩をぽんと叩いた。
「見たよ、あんたが一歩も前に出ずに、坊ちゃんの隣に立っていたところを」
「……柄にもなく、緊張しました」
「上出来さ。柄にもないことができるようになったってことは、あんたが変わった証だ」
マーサはそう言うと、満足げに笑って、他の使用人たちの後片付けの指図に戻っていった。ラウルはその背中を見送りながら、自分の中で何かが確かに区切りを迎えたことを感じていた。
ゲルハルトたちを見送った後、二人は峠の見える裏庭に出た。満月が、境界峠の稜線をくっきりと照らしている。
「今夜、お前が前に出ようとした瞬間があった」
イーサンが静かに言った。ラウルは頷いた。
「はい。長年の癖です。すぐには消えないかもしれません」
「それでいい。だが今夜、お前は結局、俺の隣に立った。前にではなく」
「イーサン様が、私を前に行かせなかったからです」
「いや」イーサンは首を振った。「お前自身が、選んだんだ。俺にはわかる」
ラウルは、その言葉の意味を、しばらく噛みしめていた。確かに、あの瞬間、自分の中で何かが切り替わった感覚があった。庇うという一方通行の動きではなく、並び立つという、まったく違う形の関わり方へ。
「私は、ずっと考えていました。先代様が私に託されたのは、いつまでもイーサン様の盾であり続けることだと。ですが違ったのかもしれません。あなたが自分の足で立てる日まで、支えることだったのだと、今夜ようやく分かった気がします」
「その日は、もう来たと思うか」
イーサンの問いに、ラウルは少し考えてから、静かに答えた。
「完全に、とは申し上げられません。ですがイーサン様は、少なくとも今夜、自分の言葉で自分の家を守られました。それは、紛れもなく、あなた自身の足で立った証です」
「そうか」イーサンは、月を見上げたまま、しばらく黙っていた。「俺は、ずっとお前に守られてきた。それを恨めしく思ったことも、正直あった。だが今夜わかったよ。お前が守ろうとしてくれたのは、俺の体だけじゃなかったんだな」
「はい。父君との約束もありましたが……それ以上に、私自身が、あなたを失いたくなかったのだと思います。理由を並べればいくらでも並びますが、突き詰めれば、それだけのことです」
その正直な告白に、イーサンは少し驚いたような顔をした。ラウルがこれほどはっきりと、自分の内側にある感情を言葉にするのは、珍しいことだった。
「なら」イーサンは、これまで見せたことのない、晴れやかな笑みを浮かべた。「これからは、盾としてじゃなく、隣にいてくれ。従者としてでなく、そばにいる者として」
その言葉に、ラウルは一瞬、返事に詰まった。長年、従者という立場だけを拠り所にしてきた自分に、それ以外の在り方を提示されたことに、戸惑いがなかったと言えば嘘になる。だがそれ以上に、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。
「……畏まりました。ですが、肩書きだけは、従者のままで構いません。ただその中身が、これからは少し変わる、ということで」
「屁理屈だな」
イーサンは声を上げて笑った。ラウルも、久しぶりに、心から自然な笑みを浮かべることができた。
翌朝、ラウルは自室で、左手首の紋様をもう一度見つめた。この印は、これからも自分がイーサンのために動く証として、消えることはないだろう。だがその意味は、確かに変わった。もう、代わりになるための印ではない。並び立つための、二人だけの約束の印だった。
朝食の席で、イーサンは早速、今後の返済計画の実行について話し始めた。峠の通行税の見直しをいつから始めるか、東側農地の貸与先をどう探すか――具体的な話に、ラウルも自然と加わった。以前のように、ラウルが調べてイーサンに報告するのではなく、二人で意見を出し合い、時にはイーサンの案をラウルが指摘し、ラウルの提案をイーサンが修正する。そんなやり取りが、当たり前のように交わされていく。
「そういえば」粥をすくう手を止めて、イーサンがふと言った。「お前、次の峠の見回りはどうする気だ」
「もちろん、参ります。ですが」ラウルは少し間を置いて続けた。「今度は、イーサン様もご一緒にいかがでしょうか。石の反応を、共に確かめておくのも、悪くないかと」
イーサンは一瞬目を丸くしたが、すぐに小さく笑った。
「悪くないな。そうするか」
その何気ないやり取りの中に、これまでとは違う関係の形が、確かに芽生え始めていた。
朝食を終え、二人並んで屋敷の玄関を出ると、峠に続く道には、まだ朝靄が薄く残っていた。数ヶ月前、同じ道をラウル一人で歩いた時とは、見える景色が違って感じられた。あの時は、この道の先にある危険を、自分一人で引き受けるべきものだと思い込んでいた。今は違う。隣にイーサンがいる。それだけで、峠道の険しさも、これから先に待ち受けるであろう困難も、以前ほど重くは感じられなかった。
「行くか」
イーサンが軽く言い、先に一歩を踏み出した。ラウルはその横に並び、同じ歩幅で峠道を登り始めた。
峠の結界石は、今日もアルダーレインの血に応え、静かに国境を守り続けている。そしてその麓の屋敷でも、一つの主従の形が、自己犠牲ではなく、対等な信頼という、新しい姿へと生まれ変わっていた。境界の従者は、もう一人で盾を構え続けることをやめた。代わりに、隣に立つ者として、これからの日々を歩み始めていた。
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