小説の場面と描写の書き方:視点の選び方と、説明と描写の切り分け
プロットと人物が決まっても、実際に打つのは一文ずつである。ここでつまずく人は多い。誰の目で書けばいいのか分からない、会話ばかりになる、風景を書こうとすると止まる。原因の多くは、視点の決め方と、説明と描写の区別の付け方にある。
この記事では、視点を選ぶところから、一場面を書き切るところまでを順に扱う。プロットの組み方と人物の作り方は別の記事にある。
視点は「誰が語るか」と「誰が見るか」に分かれる
日本語の創作論では、一人称・三人称・神視点という言い方をする。この三つは便利だが、二つの別々の問いが混ざっている。物語論の側では、この二つを分けて考える。
関西大学『外国語学部紀要』所収の李春喜「物語理論と翻訳」は、ジュネットの枠組みを紹介しながら、「誰が語っているのか」という問いと「誰が見ているのか」という問いは別だと述べている。前者が語り手の問題、後者が焦点化の問題である。焦点化には三種類あり、内的焦点化では登場人物の感じたこと・考えたこと・知覚したことしか言語化されない。外的焦点化はカメラが写すことのできる出来事だけを言語化した言説で、人物の内面は書かれない。ゼロ焦点化では、物語られるものが場所を特定できない位置から提示される。
語り手の側も二つに分かれる。東京経済大学の論文は、作中人物として登場する「物語に等質な語り手」と、作中に姿を持たない「物語に異質な語り手」を区別している。
日本語の慣用語をこれに当てはめると、輪郭がはっきりする。一人称は、作中人物である語り手が、自分に内的焦点化して語る形。いわゆる三人称一元(三人称限定)は、語り手は作中にいないが、特定の一人にだけ内的焦点化する形。神視点は、作中にいない語り手がゼロ焦点化で全体を見渡す形である。「三人称なのに主人公の心が読める」ことは矛盾ではない。 語り手と焦点は別物だからである。
最初の一本でどれを選ぶか
推奨は、一人称か三人称一元のどちらかである。理由は一つで、統一が守りやすいからである。焦点を当てる人物が一人に固定されていれば、「これは書いてよいのか」の判定が常に同じ問いになる。その人物が知覚できるか、それだけである。
一人称の利点は、人物の思考をそのまま地の文に書けること。難点は、その人物のいない場所で起きたことを書けないこと、そして本人が自分を描写しにくいことである。三人称一元は、この二つが少しだけ緩む。神視点は、複数の人物の内面を自由に行き来できるが、書き手が焦点を管理し続ける必要があるので、最初の一本には勧めない。読者が誰に感情移入すればよいか分からなくなりやすい。
なお、一人称で書くことと、作者自身の体験を書くことは別である。辞典によれば、日本の私小説は作者自身を主人公として自己の生活体験や心境を書いていく小説形態だが、必ずしも一人称で記述されるとは限らず、三人称であっても主人公は作者だという観点が作品の基底にある、とされる。人称の選択と、書く内容が実体験かどうかは、独立した問題である。
視点のぶれと、その直し方
初心者の原稿でもっとも多い不備が視点のぶれである。典型は三つある。
一つ、一つの段落の中に二人の内面が入る。「彼女は不安だった。彼もまた、どう切り出すか迷っていた」。焦点人物が一段落で入れ替わっている。二つ、焦点人物が知り得ない情報が地の文に混じる。一人称なのに、自分の背後で起きていることが書かれている。三つ、俯瞰の説明が突然入る。「この街は三百年前に築かれた」という一文が、街を初めて訪れた人物の視点の中に置かれる。
どれも「読者に伝えたい情報がある」という善意から起きる。書き手には全部見えているので、見えている情報を出したくなる。だが読者にとっては、さっきまで一人の頭の中にいたのに、断りなく別の場所へ連れて行かれたことになる。読みにくさの正体はここにある。
直し方は同じである。場面の頭で焦点人物を一人決め、その場面が終わるまで変えない。切り替えるときは、空行や記号で場面を区切ってから切り替える。書き上げた原稿を点検するときは、地の文を一文ずつ見て「これは焦点人物が知覚できるか」だけを判定していく。この作業は機械的にできるので、推敲の一周分をこれに充てるとよい。
地の文と会話の比率
地の文とは、辞典の定義では「文章や語り物などで、会話以外の説明や叙述の部分」を指す。会話文との比率に唯一の正解はないが、極端に寄ったときの症状ははっきりしている。
会話に寄りすぎると、誰がどこにいて何をしているのかが消える。台詞の応酬が続き、読者は情報を受け取るが場面を想像できない。地の文に寄りすぎると、進行が止まる。人物が動かないまま説明が積み上がる。
目安として、会話が三往復続いたら地の文を一つ入れて、動作か気配を挟む。逆に、地の文が画面で五、六行続いたら、そこで人物に何か言わせるか動かすかを検討する。Web小説は画面上で縦にスクロールしながら読まれるので、紙の本より段落を短く切るほうが読みやすいという判断は、多くの書き手が採っている。ここは作品の調子によるので、自分の作品を投稿画面のプレビューで一度読んでから決めるのが確実である。
説明と描写を切り分ける
説明は時間を圧縮する。「三年が過ぎた」「彼は毎朝、川沿いを歩いていた」。描写は時間をほぼ等速で流す。「川面に朝の光が落ちて、足の下で霜柱が鳴った」。どちらが上ということはなく、使い分けの問題である。
判定の基準を一つ持っておくと迷わない。その情報が結末に効くなら描写し、効かないなら説明で済ませる。 結末で主人公が川に飛び込むなら、川の描写には尺を使う価値がある。使わないなら一行で流す。この基準を持たずに書くと、思い入れのある設定にだけ描写が集中し、物語の重心と描写の重心がずれる。
初心者の原稿でよく起きるのは、冒頭に世界設定の説明を置いてしまうことである。読者はまだ誰にも関心を持っていないので、その説明を受け取る動機がない。設定は、それを知らないと場面が理解できなくなる直前に出す。順番を入れ替えるだけで、同じ文章がずっと読みやすくなる。
五感の使い方
描写というと風景を思い浮かべるが、実際に効くのは視覚以外の感覚である。視覚情報は誰でも書けるので、読者にとって既視感がある。音、匂い、触覚、温度、痛み。とくに匂いは記憶に結びつきやすく、一語で場面の空気を決められる。
とはいえ、五感を全部入れると文章が渋滞する。一場面につき、視覚以外の感覚を一つか二つ差し込むくらいでよい。差し込む位置は、場面に入った直後がよい。読者がその場所に立ったと感じたところで、あとは会話と動作で進められる。
制約が一つある。書ける感覚は、焦点人物が実際に感じ取れるものに限られる。厨房の隣にいる人物が、二階の部屋の埃の匂いを書くことはできない。感覚の描写は、視点の統一と直結している。
描写でつまずく場所
風景を書こうとすると手が止まる場合。何を書くか決まっていないまま「描写しなければ」と思っているために起きる。焦点人物がその場所で最初に目を留めるものを一つだけ選ぶ、と決めると動く。疲れている人物なら椅子、警戒している人物なら出口。何に目を留めるかが、そのまま人物の状態の描写になる。
比喩が浮かばない場合。無理に作らなくてよい。比喩は、その人物が知っている世界の中から取れるときだけ効く。鍛冶を生業とする人物が夕焼けを「熱した鉄の色」と見るのは自然だが、同じ比喩を都会育ちの人物に使うと嘘になる。浮かばないなら、そのまま言い切ったほうが読みやすい。
同じ語を繰り返してしまう場合。「見た」「思った」「〜ような」が数行おきに出る。これは推敲で潰す種類の問題なので、書いている最中は気にしない。ただし「思った」「感じた」は、焦点人物の内面をわざわざ外から報告する言い方なので、一人称や三人称一元では大半を削れる。「寒いと思った」は「寒い」で足りる。
台詞に説明を詰め込んでしまう場合。人物同士が、互いに知っているはずのことを読者のために言い合う状態になる。読者に伝えたい情報があるなら、片方が本当に知らない状況を作るか、地の文で一行書いて済ませるほうが自然である。
場面の切り方と、記法の道具
場面は、一つの場所・一続きの時間・一つの目的で数えるとよい。場所が変わる、時間が飛ぶ、目的が達成されるか失敗する。このどれかが起きたら場面の終わりである。
入り方は遅く、出るのは早く、が原則になる。用件が始まる直前から書き始め、用件が済んだらすぐ切る。挨拶や移動を丁寧に書くと、場面の輪郭がぼやける。Web小説の一話を二千字前後で切るなら、収まる場面は一つか二つになる。
最後に道具の話をしておく。ルビや傍点は投稿サイトごとに書き方が決まっている。小説家になろうでは、ルビを振る文字の始点に縦線、終点に二重山括弧を置く形が基本で、漢字にひらがなやカタカナのルビを振る場合は縦線を省略できる。括弧を使う書き方も用意されている。ルビは一から十文字のフレーズに最大十文字まで、記号の一部は正しく機能しないことがある、といった制限も公式に書かれているので、使う前に読んでおくとよい。
傍点にも各サイトで記法が用意されているので、書き方はそれぞれのヘルプで確かめること。強調したい語に点を打つと、その一語だけ読む速度が落ちる。だから場面の中で最も重い一語に使う。同じ場面で三か所も四か所も使うと、どれが重いのか分からなくなる。記法は投稿サイトごとに違うため、別のサイトへ同じ原稿を出すときは、記号がそのまま本文に出ていないかを必ず確認する。
ルビは強力だが、多用すると読む速度が落ちる。読み方が分からない固有名詞の初出と、二重の意味を持たせたい語に限る、くらいの節度が扱いやすい。